運命の誘い(2)



(3)


 後宮に上がってから二月。
 なんとかここの雰囲気にも馴染み、煌びやかな装いにも不自然な感覚を覚えなくなった。
 皇太弟さまのお通いにも、身体を接することは問題なくできるようになった。が、深く愛でられると端々まで緊張してしまう。
 素肌を重ねるとき、どのように対応すればよいのか解らないのだ。
 数人お妃を持っておられる皇太弟さまは慣れておられるから、あの方の手つきを見習って同じようにすればいいのかもしれない。
 けれど、こころが拒否してしまう。手を触れようとしても、何故か重く、ぴくりとも動かなくなってしまう。

「そなたが、そのように気を使うことはないのだ。
 そなたは巫女であり、尼僧になろうとしていた。その清らかさゆえに、普通の女子のようには振舞えぬのだろう。
 わたしはそれでかまわぬよ」

 ぎこちないわたくしを宥めるように、皇太弟さまはそうおっしゃる。
 が、浄界から出たけじめとして、妾妃としての本分を果たそうと思っていたものだから、わたくしは皇太弟さまのお言葉にこころから頷くことができなかった。



「お妃さまは、構えすぎなのです。そう難しく考えることはないと思うのですが。
 皇太弟さまは、房事の上手いお妃さまを求めてはいらっしゃらないでしょう?」

 如意輪さまにお供えするための香に火を点け、和知(わち)――朋子が言う。正式に女房として仕えると決まった後に、我が故郷・丹後の地名を取って、わたくしがそう名づけた。異母妹の比那子は加悦(かや)と名乗るようになった。
 わたくしは桔梗の茎に花鋏を入れながら、彼女が如意輪さまの厨子に香を手向けるのを見る。
 和知と加悦の姉妹は、わたくしの宿直をよくしてくれる。勿論、皇太弟さまが通われる夜も、である。わたくしの夜の態度がつつぬけなのだろう、しっかり者の和知は歯に衣着せぬ性質なのか、率直にそう告げた。

「和知……御仏の御前で話す事柄ではないわ」

 気恥ずかしくなり、わたくしは袖で顔を覆う。水瓶を持っていた加悦も顔を真っ赤にしていた。

「そうですか、ならば先にお勤めを済ませてしまいましょう」

 言って、和知は加悦に指図し、佛飯と水器を乗せた膳を運ばせる。自身は干菓子と果物を盛った高杯を捧げ持ってきた。
 すべてを供え終わると、三人で額づいて如意輪観音像に礼拝し、真言を唱える。
 如意輪さまの陀羅尼を朝夕唱え、数珠を弄るのを、今でも日課にしている。こうすることで、俗世の匂いの漂う後宮でも平静にこころを保っていられた。

 朝の勤行を終えると、仏間から出て先程の会話を再開する。心に掛かっていたことだから、わたくしも気になっていた。
 上座にわたくしを座らせ、和知はずいと膝を進める。彼女の横で、興味ありげに加悦が聞き耳を立てている。

「わたくしは皇太弟さまにお仕えするため、出家する道を捨てこちらに参ったのです。
 宮中に入ったからには、お仕えする方に誠を尽くすのみです。
 ですが、その誠の尽くし方が、解らぬのです……。
 わたくしを枕席に召すことをお望みならば、わたくしはその一時にこころを尽くさねばならぬでしょう。
 でなければ、わたくしは何のために来たのか解りませぬ……」

 わたくしは朱華(はねず)色の領巾を掴んで、呟く。
 袖の縁を揉みつつ、和知は利発そうに言い放つ。

「ですから、皇太弟さまは、閨のうちにあるお妃さまだけを望んでいらっしゃるのですか?
 閨のことに然程拘らずとも、よろしいのではありませんか」
「そう……? ならば……」

 わたくしがほっとして口を開いたそのとき、

「まぁ、新しいお妃さまは、床のなかではお人形さまなのですか! あぁ、そうですの」

 ほほほ、と驕慢に高笑いし、殊更華美に飾り立てた女人が入ってこられた。後ろには、同じく権高に微笑む女人が付いている。
 わたくしは呆気にとられ、女人をじっと見てしまう。

「失礼ではございませんか、緒継女王(おつぐのおおきみ)さま!」

 きっ、と二人を睨みつけ、和知が牽制する。

 ――この御方が、緒継女王殿……?
 では、ご一緒にいらっしゃるのは、永原原姫(ながはらのもとひめ)殿?

 緒継女王殿は、官女であり皇太弟さまの非妻の寵姫である。永原原姫殿は、緒継女王殿に仕える女房であったが、皇太弟さまのお目に止まり、寵を受けるようになったお方だ。
 お二方とも、五ヶ月くらい前……つまり、皇太弟さまが頂法寺でわたくしにお会いになる前までは、殊寵を受けておられたという。
 女人たちは和知の眼差しには構わず、わたくしの前に座った。
 お席を用意しようとする加悦に、高笑いした女人が

「構いませんわ、ご挨拶が済み次第、すぐに帰らせていただきますから」

 と告げる。
 何をいわれるのかと、わたくしは構える。
 女人は手にしていた翳を畳の上に置き、跪拝する。

「ご挨拶が遅くなって、あいすみませぬ。
 わたくし、緒継と申します。一応、皇族の末席におりまする。
 こちらは、永原原姫殿です。
 以後、お見知りおきを」

 わたくしも手を付き、礼をとる。

「わたくしは、海部厳子と申します」
「知っておりますわ。今の後宮で最も美しいのは、真井御前さまと持て囃されておりますもの。ほんに、肖(あやか)りたいものですわ」

 心なしか、そう言った時の緒継殿の目が、きつく窄められた。
 翳を手に取られると、優雅な立ち居振る舞いで、緒継殿と原姫は席を立たれる。

「では、ごきげんよう」

 来たときと同じように、緒継殿は口元を団扇で覆って微笑まれる。
 わたくしはぞくり、と背筋が寒くなるが、隠して笑顔でお見送りする。

「なんて嫌な方なのでしょう。皇太弟さまのご寵愛を奪られたからといって、あのように宣戦布告なさらなくともよいでしょうに!」

 総て御簾を下ろし、和知は渡廊に向かって毒づく。

「お妃さま、お加減が悪いのですか……?」

 小刻みに震えるわたくしに案じて、加悦が問うてくる。
 わたくしは力なく首を横に振った。

「……大丈夫よ、なんともないわ」

 そうですか? と不安げに加悦はわたくしを見る。
 説明をつけられぬことだろう。わたくしには巫女気があるから、緒継殿や原姫殿が放っている禍々しい気――嫉妬と殺気の籠もった靈氣が見えた、などと。空海さまなど、もともと巫女気を持っている人間でなければ、わたくしが見たものを理解できないのだ。
 わたくしは秘かに、あの方たちが放った気を祓うために神の気を呼ぶ。

 ――わたくしは、やはり巫女としての能力を切り離すことが出来ないかもしれない。

 もう仏弟子ではないのだから、拘る必要はないのかもしれないが、長い間の癖なので、どうしようもない。

 ――やはり、後宮は恐ろしい場所。

 女がひとりの男を巡り争う修羅場。女の怨念が澱んで、瘴気までも生んでいる場所に、望んでではないが流されてしまった己は、よくよく業が深いのかもしれない。
 或いは、これも如意輪さまの課した試練なのかもしれないが。

 ――あぁ、頂法寺に帰りたい。空海さまにお会いしたい。

 入内した今、それは許されぬこと。お籠もりとして宿坊に何日か泊まることなら許されるかもしれぬが、後宮を退くことが出来ねば、ずっとそこに居ることは出来ない。
 そして、空海さまともお会いすることは出来ない。あの方は先だって高野の山に伽藍を開くためにお山に参られたのだから。
 わたくしは静かに、涙を零す。

 そんなわたくしを元気付けようと、加悦が手を握ってきた。

「お妃さま、お嘆きなさいますな。
 こういうときこそ、如意輪さまに跪けばよろしいのです。
 きっと、こころの平安を得られます」

 そう言って、加悦は水晶の数珠を取り寄せ、わたくしに触れさせた。
 姉のような気強さはないが、しっとり染み入るような優しさが、加悦の取り得である。

「ありがとう……」

 わたくしはそう言って、空海さまが彫られた如意輪さまの像に振り返る。
 数珠を弄り、深く祈りの中に入っていく。

 背後から、和知と加悦の安堵の吐息が聞こえてきた。









 夜も更け、床が几帳に覆われた頃。
 今宵は皇太弟さまが参られぬので、仏間の燭台に火を点け、わたくしは観音経を読み耽っていた。
 ふと、紙面のうえに人影が挿し、わたくしは振り返る。

「……皇太弟さま……今宵は緒継殿のもとに参られるのではありませんでしたか?」

 驚くわたくしを背後から抱きしめ、皇太弟さまは下ろした髪に鼻腔を埋められる。

「……緒継が、そなたを愚弄した」
「……緒継殿が?」

 鎖骨のあたりに絡められた腕に触れ、わたくしはありそうなこと、と思う。
 いかにも挑戦的な緒継殿のあの様子ならば、わたくしを侮ることを皇太弟さまに言いそうだった。

「そなたを抱き人形だとか、冷たい女だとか言いおった。それはあれが決めることではなく、わたしが決めることだろう」
「皇太弟さまは、違うと思ってくださっているのですか?」

 そう言うわたくしを、皇太弟さまが覗き込んでこられる。
 顔が近づいてきたかと思うと、唇が重なった。啄ばむようなものから、段々深くなる接吻に、おずおずとだが応える。

「わたしはそなたのなかに、わたしに阿(おもね)る可愛い女子を求めているわけではないのだ。
 わたしの夢の中に出てきたそなたは、まさに如意輪観音菩薩であった。巫女であり天女であった。
 崇めるべき神聖な女神の像を、わたしはそなたに求めている。
 勿論、わたしの愛に咲き零れるそなたも見てみたいが、今の性質を崩してまで愛して欲しくはないのだ」

 わたくしの頬を撫で、皇太弟さまはおっしゃる。

「皇太弟さま……」

 皇太弟さまはわたくしを抱き上げ、寝間に運ばれる。わたくしを床に押し拉ぎながら、皇太弟さまはもう一度口づけされた。

「そのままのそなたのまま、わたしを愛してくれ。
 女神のように、巫女のように、如意輪観音菩薩のように……わたしを慈愛で包み込んで欲しい」

 わたくしは、目を見開く。

 ――後宮にある間も、如意輪観音と弁才天女の慈悲のこころを忘れずに。
 あなたは如意輪観音となって、弁才天女となって、皇太弟を愛されれば良い――

 空海さまの御文が、頭を掠める。
 わたくしは、目が覚めたような気がした。
 物欲や権性欲ではなく、慈悲と慈愛でもって愛してくれる女人がほしい。皇太弟さまが、俗世にいなかったわたくしを求められた理由は、そこにあったのかもしれない。
 嫉妬と瘴気で歪む女人方を愛でねばならぬ苦しい立場の中で、皇太弟さまはわたくしに清らかな空気を求められたのだ。――わたくしは、そのままでいいのだ。

 わたくしは、初めて自ら皇太弟さまの背に腕を廻した。

「皇太弟さまも、ご自身が求められるように、為さりたい様に、わたくしを愛してくださいませ。 
 わたくしは、それをすべて受け止めさせていただきます――」

 じっと見つめるわたくしに、皇太弟さまは歓喜を現された。

 水を求める魚のように、皇太弟さまはわたくしを愛される。わたくしは皇太弟さまの動きを逃さず受け止め、為すがままに身体を開いた。
 初めて身体に走る悦びに、おのずと声が漏れる。皇太弟さまの背に、思わず爪を立ててしまう。いつの間にか、わたくしのなかで泳ぐ皇太弟さまに、全身で応えていた。

 ――思うように、願うように、わたくしを求めなさい。さすれば、そなたの乾きを癒せよう――

 わたくしはこの時、女神になっていた。祖神である弁才天女が、わたくしの上に乗り移っていた。
 これぞ、巫女の為す術。女神の依代となり、恩恵を願う男に慈愛を注ぐ。
 わたしの泉に胤を注ぎ、皇太弟さまは身を崩される。わたくしは溢れる愛のまま、皇太弟さまを胸に抱きしめた。
 今度は、如意輪さまの慈悲がわたくしと皇太弟さまの上に垂れる。奈落を這うものに救いを与えるよう、仁慈の霊威を授けてくださる。
 聖なるものの恩寵のなか、わたくしは皇太弟さまとともに眠りに落ちた。



 朝、皇太弟さまが退出されるのをお見送りしながら、わたくしは初めて切なさを胸に抱いた。
 わたくしは皇太弟さまに恋慕の情を抱いているわけではない。が、ひたすらに慕われ、肌を交わしたからか、情愛がふつふつと湧き出てくる。わたくしに依り来られた女神の名残が、残っているのかもしれなかった。
 何故か清々しく、心地よい後朝である。

 わたくしは軽いこころのまま、御仏にお供えするため、庭に出て季節の花は摘み取る。
 大輪の菊の花を加悦の持つ篭に入れているとき、しずしずと女人が近づいてこられた。大人しそうな風貌の、可愛らしい方だった。

「わたくしは、藤原潔子と申します。以後、お見知りおき下さいませ」

 こちらこそ、と礼をするわたくしに、ほぅ、と見惚れたような声を出して潔子殿は微笑まれた。

「真井御前さまは清らかで、美しい方なのですね。なんだか、わたくしも清められていくような心持がします。
 どうか、仲良くさせてくださいませ」

 そう言って、潔子殿はわたくしの手を握られた。
 ほんのりと、こころが暖かくなる。


 後宮にも、優しい風はあるのだ。
 それを見つけられただけで、とても幸せな気持ちになれた。  







 わたくしは、いつもの夢を見る。



 木々深い山に、若い僧が分け入っていく。
 天女は小高い杉の枝に寄りかかり、僧が修行に明け暮れるのを見ていた。
 ある時、僧は滝に打たれ、震えながらも張りのある声で般若心経を読み上げる。
 ある時、僧は険しい崖をよじ登り、頂上で真言を唱える。
 ある時、僧は岩屋のなかで瞑想している。
 僧衣は厳しい修行のためか、擦り切れ、ぼろぼろに破れている。綻んだ生地の間から見える、肋骨が浮き出た最小限の肉付きに、垣間見ていた天女は憂慮の念を抱く。
 一枚布の襤褸切れと化してしまった衣を無造作に纏う僧の、野人のごとき有様に、天女は不安げに目を細める。
 彼は必要最低限の糒(ほしいい)や味噌などを笈に入れ、山に入っていた。無くなった食料は托鉢で請うているが、里の人間は薄汚れたみすぼらしい姿見の彼を怪しみ、何も与えないのはおろか、石持て投げつける者もあった。
 が、それが僧の望んだ道なのである。天女にはどうすることもできない。

 天女は己を祀っている社に戻り、しばらく僧を見張るのを止めようと思った。神と人は同じ空間にいてはならず、神である己が人に焦がれるのは不毛な気がしていた。
 ふと、聞き覚えのある声で、彼女を讃える陀羅尼が唱詠される。

「オン ソラソバテイエイ ソワカ
 オン ソラソバテイエイ ソワカ
 オン ソラソバテイエイ ソワカ――」

 見ると、己を祀る祭壇に向かい、件の僧が熱心に真言を唱していた。
 思わず、天女は社の影に隠れてしまう。

「なにも、隠れられずともよかろうに。弁才天女」

 びくりとして、天女は柱ごしに僧を見る。
 恐れ気もなく、僧が彼女を直視していた。
 仕方なく、天女は僧の前に出る。地面から浮かんでいる彼女の姿を見ても、僧は驚きもしなかった。

『そなた、わたくしが見えるのですか』
「無論、だからこのように話しかけているのです」

 天女は激しく驚いた。
 彼女が神になっていままで、その姿を見ることが出来たのは、心眼を鍛えた役小角(えんのおづぬ)など、限られた者しかいなかった。
 否、かの人の生まれ変わりである彼ならば、己の姿が見えても、至極当たり前、と天女は思う。

「あなたは、わたしが七歳のとき、崖から身を投げたわたしを助けられたな?
 それから何度か、あなたの姿を見ている。あなたは隠れているつもりのようだったが、よく見えていましたよ」


 彼は、己がずっと彼を見ていたことを知っていたのだ――天女は、改めて驚嘆する。滝行などを見ていたことを知られていると思うと、とても恥ずかしい気持ちがあるが、衝撃のほうが勝った。
 天女は問う。

『わたくしが弁才天女だと、どうして解ったのですか』
「この天川郷は、弁才天女に所縁の場所。そして、吉野大峯自体も天女が支配している。だから、この場で神さびているあなたは、弁才天女だ」

 弁才天女は驚異的な僧の洞察力に、舌を巻いた。

「いつもあなたはわたしを見てくださっている。だから、あなたはわたしを守護してくださっているものだと思っていた。
 これからも、それは変わられぬのだろうと信じております」
『如空(にょくう)――』

 弁才天女は微笑み、彼――如空の手を取った。

『わたくしは、神としてある間は、そなたを加護します。
 いつも、見ております――』

 天女の慈愛に満ちた面に、如空は力強く笑った。









「あっ……!」

 わたくしは声を洩らして飛び起きる。
 辺りを見てみると、燈台の焼けた油の香りが微かに残っている。まだ薄暗く、おそらく寅四つ(午前四時)頃だろう。わたくしは胸に手を当て、額の汗を拭う。

「……どうしたのだ、悪い夢でも見たのか?」
「あ……起こしてしまいましたか」

 隣で眠りについていらっしゃった皇太弟さまが、目覚められ、後ろからわたくしの身体をやんわり抱き締められる。

「何でもありませんわ。大した夢ではありません」
「そうか? ならば今一度夢路のうちに入ろう」

 そう言って、皇太弟さまはわたくしを衾のうちに引き入れられる。ぴたりとわたくしの背中に密着し、剥き出しの肩に吸い付かれた。

「皇太弟さま……?」
「わたしの手で、そなたが見た夢を拭い去ってやろう」

 耳のなかを舐めながら、皇太弟さまはそっと乳房を手で覆われる。先端を弄びながら、そろそろと下腹部に手を運ばれた。
 わたくしは皇太弟さまの手に自身の手を重ね、振り返って自ら口づけする。
 入内して三年、わたくしは変わらず皇太弟さまの細やかな寵遇を受けている。わたくしも余裕が出来、この方の愛を自然に受け入れている。恋してはいないが、わたくしなりに愛していた。

「あぁ……っ、皇太弟さま……っ」

 奥処の中で自侭に動かれている皇太弟さまが、わたくしに接吻しながら囁かれる。

「……我が子を生んでくれ……厳子……」

 切なげなお言葉に、わたくしは皇太弟さまの背に腕を廻すことで応えた。
 皇太弟さまの寵愛を受けるようになって三年経つ。が、未だに懐妊の兆候はなかった。
 十二年前にお亡くなりになられた正妃・高志内親王(こしないしんのう)さまがお生みになられた四人の御子さま方以外、女房方に手をつけ生された御子である。わたくしも御子を生んで差し上げたいが、こればかりは神の御意志によるものなので、どうにもならない。
 皇太弟さまの想いを我が身に受け止めつつ、わたくしは無力感に苛まれた。


 朝の身支度のため、盥に溜めた水で顔を漱いでいると、苦い顔の和知が裙と針を手にわたくしの前に来た。

「お妃さま、またですわ。
 本当に、誰がこんな陰険なことをするのでしょうか。衣に針を仕込んで、お妃さまに刺さるようにするなんて」

 わたくしは眉を潜める。
 衣装をすべて纏い終わり、朝の勤行を終えると、朝餉の支度をしに行った加悦が、困惑した面持ちで膳を運んでくる。

「あの……お妃さま。
 羹の御椀に、剃刀が……」

 和知が柳眉を逆立てる。

「まぁっ、なんて嫌らしいこと! お妃さまに知らずにお食事をさせて、口の中に怪我をしろということですのね!
 こんなことをするのは、緒継女王さまや永原のお妃さまくらいしかおりませんわ!」

 激高して叫ぶ和知を、わたくしは窘める。

「おやめなさい、和知。皆に聞かれたらどうするの」

 あっ、と和知は口を押さえる。
 醜いやり口でわたくしを苛もうとする方々は、わたくしが表立って何もしないのをしっているのだ。知っていて、わたくしを甚振ろうとしている。そして、わたくしが嫌気が挿して後宮を退くのを待っている。
 どれだけの女人が、わたくしがここからいなくなるのを待っているのだろう。方々には悪いが、わたくしもそう簡単にここから出る訳には行かないのだ。
 もともと、わたくしとて望んで来たのではない。出られるのならすぐにでも出たいと思っている。が、皇太弟さまがわたくしをひたすらに求められるから、わたくしは出られない。膿みきったこの後宮での息継ぎの場をわたくしに求めて訪なわれる皇太弟さまが、御労しくてならない。
 皇太弟さまをお助けできるのならば、喜んでこの身を差し出そう――わたくしはそう思って、この三年を生きてきた。もし、皇太弟さまに安らぎを与えられる女人が現れたのなら、わたくしはいつでもこの後宮を退去しようと思っている。

「わたくしは大丈夫よ、負けたりはしません」

 微笑んでそういうわたくしに、和知と加悦は気遣わしく見ている。が、わたくしの意志が硬いと解ると、ふたりは観念するように笑った。









 涼やかな初夏の風を感じるため、わたくしは和知を伴い庭に出る。紫陽花が雨を待って鮮やかな青色を見せている。薫り高い姫百合が、酔いを含んだようにつややかに咲いている。
 わたくしは誘われるように花に触れようとする。
 と、木々の影から、宮女たちの噂話が聞こえてくる。
 わたくしと和知は草葉の陰に隠れ、密かに聞き耳を立てる

「お聞きになられましたか。密教の清僧であられる空海さまが、讃岐国の満濃池の検分に参られたそうな。
 先だって、后宮(きさいのみや)が内々に空海さま密教の講義を受けられたと聞きます。
 人望のあられるお方だから、きっと人員が集まり、無事に修築が行われるでしょう」
「まぁ、そんなすごいお方なのですか?」
「何でも、修法をなされると、かならず病魔を調伏し、御仏とのありがたい御縁を結んでいただけるそうですもの」
「すごい方ですのね〜〜」

 ――空海さまが、満濃池の修築を受け持たれる?
 わたくしは疑問に思い、和知を振り返る。
 満濃池は讃岐国にある灌漑用の溜池で、日本一の規模を誇る。文武の帝の時代に築かれて以来、何度か決壊していた。
 最大の被害を蒙った弘仁九年(818年)からは、修築は難航を極め、それから今まで讃岐国司は頭を悩ませていた。
 その満濃池の修築を、空海さまがなさるというのである。

「そなたは、空海さまからそのことを聞いていた?」

 和知は頷く。

「はい。叔父はわたくしのもとに、細やかに消息の文を送ってまいります。
 叔父は三ヶ月ほどで済ませてみせる、と豪語しておりますが……」
「まぁ、すごいことね」

 いいつつ、わたくしは夜中に見た夢を思い出す。

 ――若くて、名前が違ったけれど……あの方は、間違いなく空海さまだった。
 空海さまと……弁才天女? わたくしの祖である弁才天女が、大和の天川で空海さまと会っていたというの?

 断片であるから、あの場の雰囲気だけでは、どうなのかは解らない。弁才天女は慕う男を見るように、空海さまを見つめていた。
 巫女の術のなかで、夢見は重要視されている。わたくしはあの夢が霊夢の類だということが解っていた。が、どうして己が空海さまに纏わる夢を見るのか、検当がつかない。
 にしても、満濃池修築の大任に、空海さまが付かれる。

 ――対する相手は水……。

 水を司るのは弁才天女。弁才天女が齎した……玉。
 或いは、あの夢はこの事態に対する、弁才天女の啓示であったのかもしれない。
 考え込んでいたわたくしは、顔を上げて和知に振り返る。

「おいでなさい。頼みたいことがあるの」

 そう言いおいて、わたくしは先んじて殿舎のなかに入った。



「何でしょうか、わたくしに頼みたいことというのは」

 わたくしは仏間に入り、厨子の裏側を探る。目的のものを恭しく持ち上げ、和知の前に座る。
 眼をぱちくりさせる彼女に、蓋を開けて中身を見せた。

「……なんと……神掛かった宝玉でございますこと……。
 これは、水晶ですか? 透明ですけれど、乳色掛かっておりますね。それに……片方は銀色で、もう片方は金色?」

 わたくしは和知に微笑み、言う。

「これは、我が家が仕える籠宮に伝わる神宝。潮満玉と潮干玉といいます。
 我が祖・彦天火明命が女祖神である市杵島姫――弁才天女より授かった、水を自在に操る呪力を持つ玉です。
 満濃池の修築するには、水を御さねばならぬでしょう。
 これを、空海さまに渡してください」

 和知は驚いてわたくしを凝視する。

「えっ、でもこれは籠宮の神宝なのでしょう。叔父が使ってもよいのですか」
「いいのです。父・雄豊はわたくしが巫女の術を為すときに助けになるよう、この玉を持たせてくれました。それ以来、わたくしの持ち物になっています」

 そういうわたくしを、和知がまじまじと見る。

「あ、あの……ということは、巫女の力の源になるものなのですね。
 市井にいる巫女は、夫となるべき人に呪具を渡し、相手に支配されていることを証すといいます。
 お妃さまは……」

 わたくしは慌てて、誤解を解こうとした。

「そういうわけではないのよ。満濃池の修築は、水に関わること。
 修復の最中に、水に邪魔をされることもあるでしょう。そのときに、この玉でもって水を抑えればよいと思ったのです」

 我ながら、苦しい言い訳のような気がする。
 確かに、古来より巫女は服従の証として、主人や夫に己の呪物を手渡す習いになっている。古代、まつろわぬ民を征服したとき、朝廷は巫女の力を奪うため呪具を召集し、巫女そのものを召し出し大王の妻妾とした。海部氏の巫女姫のなかにも、そうやって朝廷に拉し去られたものがいる。
 黙り込んだわたくしに、やがて和知は真剣な頷いた。

「……解りました。必ずや、叔父に宝玉を手渡しいたします」

 わたくしは頷き、仏間を出る和知を見送った。



 予告に違わず、空海さまは三ヶ月の期間でもって、満濃池修築を完了された。
 話によると、讃岐に着いた途端、人民が一気に集まり途轍もない勢いで修復が進んだという。
 更に凄いのは、唐に留学したときに得た土木工事の知識でもって、完全なる方法でもって溜池を構築してみせたという。

 改めて、空海さまの万能さが世に広まった一件である。
 そのことが、あの方にもっと大きな幸運を運んでくることになるのである。




幽愁の椒庭(1)へつづく
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