回帰するいにしえ(4)へ



(5)




 合一した饒速日尊と瀬織津姫を廣田社に遷した翌日、空海さまは完成間際の西の峰の御寺に入られることになった。
 その前段階として、予告されていたとおり、空海さまは工人に命じて、神の宿った桜の木を切り出し、二等分なされた。
 そのひとつをわたくしの御寺の本堂となる建物に安置され、もう一方を西の峰に運び込まれた。
 わたくしはその様を茫然と見ていた。
 空海さまはその夜から不眠不休で、御寺の御本尊となる御仏をお彫りになる。そのためにわたくしの寺を離れられたのだ。
 それを淋しいと思いつつも、わたくしにはどうすることもできない。

 ――これでいいのだ。
 空海さまのお側に居れば、あの方を苦しめてしまうことになるのだもの。

 わたくしは自らそう言い聞かせ、空海さま恋しさに崩れてしまいそうになる己を納得させようとしていた。









 空海さまが西の峰の御寺に移られてから一週間が経った。
 わたくしが未だ俗体でいることを美志真王殿に知られてしまったが、それに関する主上の音沙汰はない。
 主上を欺いたわたくしだというのに、主上は何もお感じになってはいらっしゃらないのだろうか……。
 わたくしは不安を抱えつつも、御仏を彫るのに一身を投じていらっしゃる空海さまに何も言うこともできず、本堂に置かれた桜の切り株を時間を忘れて見入っていた。

 ――瀬織津姫よ、あなたは饒速日尊ではない殿方に囚われていたとき、どのようにして安息を得られたのですか。

 桜の木に宿る瀬織津姫に語り掛けつつも、わたくしは自身の記憶を遡る。
 何度かの生で、わたくしは愛するひとがありながらも、他の男に抱かれる生活を送っていた。
 その時々に仕える神への忠誠と信仰の証として、自らの肉体でもって、我が身の清澄さを求める男たちに神の慈愛を施していた――愛するひとが傍にあったとしても。
 苦しまなかったわけではない、でも、そうしなければ仕方がなかった。
 ふと、わたくしはあるひとの面影を思い浮べ、苦く微笑む。

 ――そういえば、今の状況とよく似た現象が起こったことがあったわ。
 あの時も相手は王で、あの方は司祭だった。
 王の妃が権力の持ち主で、わたくしを王専属の神聖娼婦にしようとしたのだった。

 当時は遥か海の彼方、古い文明を持つ王国に生まれていた。
 あの方とわたくしは豊饒の男女神に額ずき、神の化身として信者たちに身体を与えていた。
 わたくしたちは互いに神聖娼婦たちの長の任に就いており、それ故に王や王妃と接触する機会が多かった。
 わたくしたちは互いを欲しつつも、王と王妃の欲望に曝され、王妃の策謀でわたくしは王のものになろうとしていた。
 が、王妃の願望が実る前に、異教との争いによってわたくしは落命したのだ。
 王妃の策略はどうであれ、王は本当にわたくしを愛して下さっていた。あの方を愛しながら、わたくしも王を憎からず想っていた――今のわたくしが主上に向ける想いと同じように。
 あの時の王は勇ましくも、とても優しかった。だから、あの方と逢えない淋しさを、王に抱かれることで慰められていた。
 主上も、とてもお優しい。登極なされてからは様々な困難に阻まれてしまったが、主上が皇太弟であられたころには温々とした幸せに苦を抱くことなどなかった。
 わたくしは――確かに、主上を愛しんでいた。空海さまに向ける想いほどの激しさはないが、主上を愛していた。
 いつかのわたくしもまた、彼の王や女神の慈愛を乞う者をそのように愛していた。

 ――愛とは様々な形を持つものなのかもしれない。

 主上に嘘偽りない今のわたくしの想いを伝えるのは難しい。ただ主上の御心を乱さず、毎日を平穏無事に過ごせることを祈る他ない。
 わたくしは袖深くに忍ばせていた数珠をまさぐった。

 ――大日如来さま、どうかわたくしと空海さま、そして主上に静穏なる日々をお与えください。
 如意輪さま、どうか我々にご慈悲を。

 わたくしは目を瞑り、天に向かって祈った。




 空海さまが御仏をお彫りになっている間、我が寺から空海さまの衣類やお食事などを差し入れさせていただいた。
 とはいえ、わたくし自身が持参するわけではなく、朋子と比那子が交替で務めを果たしていた。
 わたくしは、空海さまにお会いするのが怖かった。
 あの方とお会いしなくなって半月経過し、やっと空海さまのいらっしゃらない環境に慣れていたのだ。
 長の月日、肌を重ね合わせたことによって、わたくしは空海さまが傍にいらっしゃるのを当たり前のように思うようになってしまっていた。
 睦んだ期間が長ければ長いほど、離れがたくなってしまう。わたくしたちは離れなくてはならない運命、馴れ合ってはならないのだ。
 わたくしはこれをよい折だと思い、毎日時を気にすることなく、安置された桜の前で瑜伽行を行っていた。

「厳子さまは、お強くていらっしゃいますのね」

 昼時、厨に顔を見せたわたくしに、朋子が表情を伺うように言ってきた。

「強い? わたくしが?」

 山菜の煮染めの味を整えているわたくしに、朋子は頷いた。

「伯父に逢えずとも、平気でいらっしゃる」

 朋子の言葉に、わたくしは苦笑いする。

「わたくしは主上の妃だもの。
 後宮から抜け出たとはいえ、そのことを弁えていなければならなかったの。
 ――主上にわたくしが俗体であることを知られてしまった今は、なるべく身を慎まねばならない。
 わたくしと空海さまの身の潔白が掛かっているのですもの」

 つらつらと出るわたくしの語りを、朋子は黙って聞いていたが、やがて溜め息を吐いて口を開いた。

「ご立派なことですわね。
 後宮にあって、厳子さまや比那子がどれだけひどい目に遭ったかご存じでない主上であらせられるのに」

 そこまで言って何か思い当たったように言葉を止め、朋子は再び口を開く。

「――もしかすると、主上は知っていて黙っていらっしゃったのかもしれない。
 お妃さま方――正子皇后さまと、その背後にいらっしゃる嘉智子皇太后さまや藤原良房殿との間に、波風を立てないための、主上の苦肉の策かも」
「朋子ッ!」

 わたくしは咄嗟に朋子の言葉を制止した。
 至上の君を詮索するなぞ、僭越であり非礼なことだ。
 眉をしかめたわたくしに、朋子は肩を竦めた。

「……厳子さまは、主上のことばかり慮って、伯父の気持ちを忘れていらっしゃいます。
 伯父も厳子さまと同じ――互いのためと思って山を下りる決意をしました。
 でもそれは、本意なことではないのです。
 互いに立場ある身に仕方がないと思いつつ、厳子さまへの離れ難さを噛み締め、伯父は鏨を振るい続けています。
 厳子さまがいらっしゃらないことを理解しつつも、隠しきれない苦しみを伯父はわたくしたちに見せています」
「朋子……」

 切々と訴える朋子に、わたくしは俯き唇を噛み締める。
 だからといって、行ってどうなるのだろう。行って、逢って――再び苦しむだけではないのか。
 この世では添えない宿命。立場に縛られる互いの身。こころだけが自由を得ても、どうにもならないのだ。
 袖で涙を隠すわたくしに、言い過ぎたと朋子は肩を落とした。

「……理屈ではどうとでも言えても、思うようにならぬのがこの世なのですね。
 本当に不条理ですわ」

 朋子の慰めの言葉に、わたくしは静かに頷いた。









 夜中、衾のなかから抜け出たわたくしは、本堂の桜の前に座り込んでいた。
 まんじりともできず、朋子の言葉が頭のなかを絶えず巡る。――眠れるはずなかった。

 ――空海さま……本当はお逢いしたい。
 他の誰も空海さまの代わりにはならない。
 主上の優しさに慰められても、後宮にあった頃、ずっと空海さまの面影を求めていた。
 異教との争いで死なねばならなかったときも、王のものになりたくなかったわたくしは、死を甘受していた。
 たとえあの方を哀しませることになっても、わたくしは死によって運命から逃れたかったのよ。

 わたくしは嘘つきだ。
 本当はただ強がっているだけで、こんなにもこころは脆い。
 逢いたい、お逢いしたい……!

 わたくしは板張りの床に突っ伏し、泣きだした。

『……何とも、脆いものだな』

 聞き覚えのある声にはっとし、わたくしは顔を上げる。
 桜の前に、身体の透けた饒速日尊がいた。
 わたくしは驚き、身体を起こす。

『そなたの脆さも、わたしには愛しいものだが……情に脆いのはいただけぬな。
 そなたは、愛と博愛を吐き違えている』

 突然の手厳しい言葉に、わたくしは片眉を上げた。

「何を仰るのですか、わたくしは……!」
『そなたは、この国の主に焦がれているのか?
 激しく身悶えるほど、相手と一体になることを欲したか?』

 ぐっと詰まり、わたくしはようよう声を出す。

「……いいえ」
『だろうな。
 そなたの魂は、同じ間違いを犯しやすい。
 愛を得られぬ者の狂乱の様を、そなたはいずれの世でも見てきたはずだ』

 確かに、わたくしが初めて地上に生を受けた時代――失われた大陸で巫女をしていた頃、わたくしを得ることの適わなかった男が、恋敵たちを殺めるという悲劇があった。
 大陸が沈んでもこの業は終わらず、彼らのわたくしへの怨嗟は時を超えて持ち越され、古い文明に生きていたときにも彼らと遭遇した。
 わたくしは神聖娼婦として別け隔てなく彼らを愛した。が、彼らがどうなったかは、わたくしが先に死んでしまったので知ってはいない。
 ――饒速日尊の指摘は、的を得ている。

「……えぇ」

 腕組みしつつ告げる饒速日尊に、わたくしはただ頷くほかなかった。

『そなたは狭依相手に語り掛けていたのかもしれぬが、わたしにも丸聞こえだ。
 このわたしの前で、ぬけぬけと他の男のことを考えおって……』

 わたくしは少しく目を見開く。
 そうだった。桜の木に宿っているのは瀬織津姫だけではない。姫と合一した饒速日尊も居るのだ。
 迂闊にも、わたくしは饒速日尊に主上への物思いを語っていたのだ。
 しゅんとするわたくしに、饒速日尊はにっと笑い、座るわたくしの前に跪いた。

『だが……空海への想いを吐露するそなたは、愛しくもあり、見ていて辛いものだった。
 朋子が語ったとおり、空海は精神的に相当無理をしている。
 そなた、行って慰めてやれ』

 笑み含みな饒速日尊の言葉に、わたくしは目を丸くする。

「え……でも……行くのは、憚られます」

 弱々しく言い、わたくしは目を伏せる。
 呆れたように嘆息し、饒速日尊はわたくしの眼を覗き込んだ。

『その身体を以て行かずとも、いくらでも方法はあろう』
「……え?」

 仰っている意味が解らない。
 合点しないわたくしは、困惑したまま饒速日尊を凝視する。
 今度こそ本当に呆れたように息を吐くと、饒速日尊は軽くわたくしの肩を突いた。
 身体と魂が、ぶれる。

『まったく、手の掛かる……意地を張るのも、大概にせよ』

 遠くなる饒速日尊の言葉を耳にしながら、わたくしの魂は強い力に突かれ、御寺を抜け夜空に吹っ飛ばされた。




 誰かに軽く頬を叩かれ、わたしくは目覚める。
 目前に、見覚えのあるお顔があった。

『――空海さま!?』

 わたしくは空海さまの腕から起き上がり、小暗い屋内をぐるりと見回す。
 そして、眼を大きく開ける――ほぼ彫りあがっている観音菩薩の像が、空海さまの正面に鎮座していた。
 観音菩薩は宝冠に十一面のお顔があり、十一面観音菩薩だと解る。未だそれぞれのお顔の細部は彫られてはおらず、あと少しで完成、という趣だった。

『この御寺のご本尊は、十一面観音菩薩さまなのですね』

 わたしくは造られつつあるご本尊に手を合わせる。
 空海さまは腕組みしてわたくしの様子を見守っていらっしゃった。

「幾日ぶりかの再会であるのに、そなたはわたしより御仏に関心が向くのだな」

 空海さまのお言葉に、わたくしは我に返った。

『――そういえば、どうしてわたくしはここに居るのですか』

 わたくしのいささか間抜けな言葉に、空海さまはやれやれといったように笑われる。

「饒速日尊がそなたをここに霊駆けさせた。
 何日か前から、自身の前でうじうじと過ごすそなたを見ていられぬと、饒速日尊は本尊を彫るわたしに語りかけていたのだ。
 ならば、魂だけでもこちらに寄越すようわたしが饒速日尊に持ち掛けた」

 そう言って、空海さまはにっと笑まれた。
 わたくしは呆れ返ってしまう。
 何のことはない、空海さまと饒速日尊が示し合わせて、わたくしの魂をこちらに運んだのだ。

『ま…ぁ……あなた樣方は……』

 困惑するわたくしの腕を引いて、空海さまは抱き寄せられた。
 わたくしの実体はないというのに、空海さまはわたくしを抱いていらっしゃる。神泉苑での請雨経法での雨乞いをなさったとき、霊駆けしていたわたくしの腕を空海さまは掴まれたことがあった。不思議なことだが、空海さまは肉体のないわたくしでも触れることがお出来になるのだ。 
 少し迷ったが、わたくしは空海さまの腕のなかで身じろぎした。主上のこともある、前のように触れ合うことは躊躇われた。
 が、空海さまの力はお強く、わたくしは逃れられない。

『お放しくださいませ……もう止めませんと……』
「帝に憚りがある、か?」

 わたくしは顏を上げ、空海さまを凝視する。
 強い光の漲った空海さまの御眼が、わたくしをじっと見ていらっしゃる。
 わたくしは顏を伏せた。

「確かに、肉体を交わせば不貞となろう。
 が、今のそなたは霊体だ。霊を重ねるのになんの差し障りがあろう?」

 はっとして、わたくしは自身の身体を見る。
 透けた身体を通して、空海さまの鈍色の法衣が覗いている。
 そうだ、今、わたくしは霊駆けしているのだ。身体を合わせるのは罪だが、御魂を合わせるのは誰にも見えない分、罪ではない。
 が、ここは西の峰の御寺の本堂にあたる場所。眼前には十一面観音菩薩もいらっしゃる。そこで交歓するのは不味かろう。
 わたくしは再度抗う態を見せた。

『ここでは、いけませんわ。御仏の前でなど……!』
「帝に強引に抱かれたときも、わたしが贈った如意輪観音菩薩の前でことを為したのだろう?」

 ぎくり、としてわたくしは空海さまは見上げる。
 したり顔の空海さまに、わたくしは悔しくなった。

『あ、あの時は仕方がなかったのです。
 咄嗟のことで場所など構っていられませんでした』

 何とか言い返すが、空海さまの人を喰った笑みは消えない。
 そればかりか、こんな面憎いことも仰る。

「そなたはこの本尊を畏れるが、まだ完成していない上に、開眼もしていない。
 この本尊のもととなっている桜の木には、饒速日尊と瀬織津姫が宿っているのだぞ。
 彼のふたりが我等の行いに否を言うわけなかろう?」

 わたくしは開いた口が塞がらなくなり、ただぱくぱく口を開くのみだった。

『お、大人気のうございます……』
「そうだな、そなたに関わると、わたしは大人気なくなるな」

 そう言いつつ、空海さまは胡坐され、わたくしをその上に跨るように座らせられた。
 太いお首に腕を廻すように指示され、そのようにしたわたくしは、空海さまの為さりたい事を理解できず首を傾げていた。

『あの、空海さま……』

 言い掛けた時、わたくしはぞくりとして上肢を反らせた。

『く、空海さまッ……!』

 互いを混じり合わせているわけではないのに、何かがわたくしのなかに入ってきている。空海さまは衣を着崩されてはいない。というのに、交わりが起こっていた。

「そなたが御魂の状態であるゆえ、わたしも波動で交わろう。
 いっそのこと、そなたの御魂を我が体内に取り込むのも面白いかもしれぬな」

 空海さまがそう仰ったとき、わたくしの霊体が空海さまのお身体に吸い寄せられていった。
 細胞――否、御魂が溶け合っていく。それぞれの輪郭が崩れ、蕩けていく。
 それなのに、意識ははっきりしており、わたくしは今まで感じたことのない悦楽に御魂を震わせていた。

『あ、ぁ……! 蕩けそうッ……!』

 肉体の交わりのように、互いの身体を蠢かせているわけではない。が、確かに激しい愉悦があった。
 始終震わされながら、わたくしは感覚が失われるのを感じていた。


 身体を交えるのとは違い、はっきりと交わりが終わるのを自覚できなかった。
 が、震えが鎮まったとき、溶け合っていた御魂ははっきりと互いに別れ、わたくしは最初と同じように空海さまに跨ったまま座っていた。
 何が起こったのか解らず、わたくしはきょとんと空海さまを見る。

『え……あの……?』

 物問いたげなわたくしに、空海さまはふっと笑われる。

「何が起こったか解らぬか? 解らぬなら御魂に聞いてみるといい」

 わたくしは眉を潜めたまま、御魂に残る感覚を感じ取る。
 確かに、肉体の交わりと同じような気怠るさがある。身体の芯が熱を持ち、疼きを残している。――肉体の交わりを行ったときと変わらない反応が、わたくしの御魂に起きていた。
 空海さまはと見ると、薄らと額に汗を浮かべていらっしゃるが、情事後のように息を荒げられていらっしゃるわけでもなく、衣に異変もあらず、いつもと大して変わらない素振りでいらっしゃる。
 わたくしはまじまじと空海さまを見つめてしまった。

「いつか、帝が稲荷社の木の祟りに遭ったことがあっただろう。
 あのとき、わたしとそなたは靈氣を混じり合わせ、稲荷社の木の御魂を調伏した。
 そのとき、そなたは交わりと同じような快さを味わったはずだ。違うか?」

 わたくしは思い出す。
 主上が御不豫に見舞われなさったとき、わたくしは主上に憑いているよからぬものを外そうとした。わたくしは主上の御魂を護るだけで精一杯だったが、その時強大な霊波が送られてきてわたくしを飲み込んだのだ。後々それが空海さまの霊波だと知ったのだが、身体に残る快感を訝しんでいた。
 わたくしはひとまず頷く。

『えぇ……確かに、あのとき身体が妙な疼きを残していましたわ。
 では、あのときと同じことが、今起こっていたのですか?』

 そして、ふと思い出す。

『そういえば、皇后院での御修法のあと、わたくしのもとに霊波を送ってくださっていたのは、空海さまだったのでしょう?
 そのときにも、似たようなことがありましたわ』

 勢い込んで言うわたくしに、空海さまはにやりと笑われた。

「そうだ。あのときも、そなたの霊波にわたしの霊波を寄り添い合わせ、そなたを癒しつつ御魂の交わりを行っていたのだ」
『そんな……』

 まさか、後宮に居た頃から、空海さまと魂の交わりを行っていたなんて。
 知らずのことながら、わたくしの御魂は既に空海さまの御魂に抱かれていたのだ。
 あの頃、後宮に居る事への苦しみを紛らわされ、かつ不可思議な悦楽を感じたことも、これならば理解できる。
 が、あまりといえばあまりのことだ。空海さまはわたくしに何も知らせず、わたくしの断りもなくわたくしの御魂を抱かれたのか。――それは、わたくしを犯したことと同じではないのか。
 わたくしはつい空海さまを上目遣いに睨んでしまう。

『酷うございます……何の断りもなく、わたくしの御魂を凌辱されるような真似をなさるなんて……!』

 わたくしの責め言葉に、空海さまは明らかにたじろいだ樣を見せられた。

「た、確かに……何の断りもなくそなたの御魂に触れたことは謝る。
 が、それも如意宝珠の呪があったればこそ可能だったのだ。
 そなた程の高き力を持つ巫女が、他の力の干渉を許すはずがあるまい?」

 今度は、わたくしが言葉を失う。
 そう、わたくしは靈氣や波動に敏感だ。徒し者の波動が触れようものなら、意図せずとも撥ね退けてしまう。
 空海さまの霊波を易々と受け入れたのは、やはり潮満・潮干玉に課せられた呪――玉を渡す者を主・夫と為し、受け取った男に我が身を捧げる呪術が効いたからに他ならない。
 ましてや、空海さまは幾代も情を交し合った深い間柄なのである。わたくしがそれを自覚せずとも、潜在的にあるわたくしの願いが空海さまを夫と求めたともいえる。
 そして、後宮にあるわたくしは、送られてきた波動を快いものと受け止め、女としての歓びも感じていたのだ。――どうして、空海さまを責められよう。
 わたくしは拗ねて、ぷいと空海さまから顔を背けた。
 空海さまはわたくしを宥めるように抱き締められ、耳元で囁かれた。

「現身を交えずとも、こうして愛を交わすことも出来る。
 そなたの霊波に触れるだけで、我が霊波は回復するのだ。
 この方法なら、例え肉体が離れた所にあろうとも、また見える事ができる」

 空海さまのお言葉に、間を置いてわたくしは頷いた。

『わたくしの許しがないのに触れられたことは、到底許せぬことですが、特別に許して差し上げます。
 あなた様はわたくしに関わる事になると、理性を無くされがちですので』

 わたくしは軽く息を吐くと、微笑み、空海さまの懐深く顔を埋めた。

『現実に愛し合うことが叶わずとも、霊駆けることによってあなた様にお逢いできる。
 もう……苦しまずとよいのですね』
「そうだ。あと少しでわたしは山を下りることになるが、そなたとはいつでも逢える。
 そなたも、それを忘れるな」

 わたくしの身体を放されると、空海さまはわたくしに接吻なされた。
 肉体が無いのに、確かに何かが流れ込んでくる。それは情に他ならなかった。
 軽い口吸いが終わると、空海さまはわたくしを見入られ、告げられた。

「長く身体を空けていてはだめだ。もう戻るがよい」

 わたくしは頷き、再度空海さまの身体に身を寄せる。
 暫しの抱擁のあと、静かにわたくしから一歩下がられた空海さまは、饒速日尊がなされたのと同じようにわたくしの肩を軽く突かれた。
 わたくしの霊体は舞い上がり、小さくなる空海さまを天空から見つめていた。




 それから一週間強で、西の峰の御寺の本尊・十一面観音菩薩像が完成した。
 細々と行われた落慶法要にはわたくしも参加し、燦然と輝く御本尊を数珠を手繰りながら眺めていた。

 その翌日、空海さまは如意輪摩尼峰を下山される事になった。
 鷲林寺(じゅうりんじ)と名付けられた御寺の管理は、暫くの間わたくしや朋子がすることになった。
 鷲林寺建立の初期から関わっていた朋子は、空海さまの許可を得て、摩尼峰の西北にある廃寺の再建にも手を掛け始めている。
 わたくしの御寺も完成が間近い。落慶した暁には、両寺が摩尼峰の陰陽の均衡を取る要となるだろう。

「空海さま、次は来年の二月十八日ですね。
 それまでの間、わたくしは修行に励んでおきます」

 笈を背に負われ、旅支度を済ませられた空海さまは、力強い顏で頷かれた。

「そうだな。そなたが男子であれば、大峯での修行を勧めるところだが、女子ゆえそうはゆかぬ」

 微笑みもって言われた空海さまのお言葉に、わたくしの何かが閃く。

「……そういえば、天川郷は大峯の山々の麓にあるのですね」
「そうだ、正確には弥山の麓になるが」

 少しく思案し、わたくしは言い出した。

「この年のうちに、天川郷に参ろうと思います。
 天川郷は今生のわたくしの始まりの地。一度足を踏みしめたく存じます」

 わたくしの思いつきに、空海さまは破顔なされた。

「そうか、それもよいな。
 麓の集落に、高野を開く足がかりにわたしが建立した琵琶山妙音院がある。
 宿を取るなら、連絡しておくから使うがよい」
「ありがとうございます」

 頭を下げたわたくしに笑みを残し、空海さまは下りの道に歩みを進められた。


 空海さまの後姿を見ながら、わたくしは寂寥と愛しさを噛み締めていた。
 たとえどうなろうと、どんなことをなさろうと、この御方だけが真実愛おしい。
 いつでも逢えるのだ、だから、離れる事を悲しまずにいよう、わたくしはそうこころに決めた。





愛するがゆえ(1)へつづく
トップへ