麁乱荒神(5)へ



第四章 回帰するいにしえ



(1)




 満開の桜が、華やかに咲き誇っている。
 わたくしは両手を広げて太い幹に抱きつき、身体一杯に桜の波動を感じる。父のように暖かな、優しい靈氣が、わたくしのうちに浸透してくる。
 空海さまが摩尼峰にいらっしゃってからも、わたくしは朝のうちに桜の根元で瞑想を行っていた。今日も桜の下に座し、根を伝って大地のなかに意識を潜り込ませる。
 魂が懐深い母のごとき大地の温みに包まれる。意識が生まれる前の胎児のように丸まって、羊水のような暗闇を漂う。
 地母がもたらす一方ならぬ安心感に、わたくしは知らず知らずに吐息を洩らしていた。
 何もかもを受け入れ、生物を生み出す地母は、宇宙の父とともに、ときに災いも起こす。人間は、優しいだけではない自然の営みの縮図であり、定まりない感情を持つ。
 が、よりよく生きるためには、生のままの感情だけでいてはならず、成長し、こころの階段を昇らねばならぬ。
 だから――わたくしも、現在の状況を受け止めねばならぬのだ。受け止めたならば、より良いように変転させることも可能だ。
 わたくしは細く息を吐きだし、ゆっくりと目を開けた。



 わたくしと空海さま、そして麁乱神との奇妙な関係は、現在も途絶えることはない。
 空海さまとの閨事のあと、眠られた空海さまのうえに現われた麁乱神とも情事が続く。空海さまがわたくしの部屋にお寄りにならない夜も、空海さまが寝入られたあとに麁乱神がその身体の主導権を握り、わたくしを抱きにやってくる。
 初めは嫌々ながらの情交だったが、幾日も夜を重ねるうちに慣れ、軟らいだ心持ちで応じている。
 時間の経過は、麁乱神のうえにも変化を生じさせている。
 初めての出会いのとき、不浄に塗れ傍若無人さを示していた荒神だったが、不浄が祓われ、威厳や峻烈さという本来持っていたであろう性質を取り戻してきた。
 それだけではない。麁乱神は男らしい魅力や優しさまで現しはじめている。それがまた、空海さまから感じられるものと同質で、肌を接していることも理由であるが、わたくしは惹きつけられてしまう。
 わたくしは自身の、麁乱神に対して抱いている感情が何なのか、解らなくなる。
 空海さまに愛され、麁乱神に愛でられる。同じようで違い、違うようで同じである殿方に情を掛けられ、わたくしは混乱しながらも、濃密な愛に酔った。



 夜の複雑な生活はこのようであるが、昼は師と弟子として、密教の奥義を受けている。
 経典による教授が終わったあと、密教独特の瞑想法である、ゆっくりと息を数えることにより静寂の境地に自身を持ってゆく「数息観」や、月輪のなかの宇宙仏・大日如来を表す梵字「阿」を観想することにより、自身のうちに宇宙の広がりを体得する「阿字観」を身につける。
 瞑想のなかに祈念する本尊を観想する術を鍛えたあと、仏間の須弥壇に不動明王さまを描いた掛け軸を掛け、護摩壇を設けて護摩法を伝授していただいた。
 修行の基本となる十八道の法の数々や、その印契の組み方を教わったりした。
 梵字によって曼陀羅を描く修行を行ったりした。
 わたくしにとって、そのどれもが楽しく、時間が経つのも忘れてしまう程集中した。
 幼い頃の依遅ケ尾山での修行でも同様で、どうやらわたくしは自身を研く術を身につけることに、好奇心を覚えてしまう性質のようだった。
 空海さまも、わたくしのそういう部分に感心していらっしゃる。

「そなたは前向きに学ぼうとするので、密教の行法を吸収するのが早い。
 もとから霊力を持っているので、加持の現われ方も素早く効果がある。
 まったく、そなたは楽な弟子だな」

 師にお褒めいただくと嬉しくなり、さらに励まねばと思う。
 教えられたことを素早く身につけてしまうわたくしに、空海さまは苦笑いなさる。
 仏間にて占いの術である宿曜法の講義を受けているとき、空海さまはぽつりと洩らされた。

「そなたは教えたことを一度で覚えてしまうので、そなたが密教の修法をすべて就達してしまうまでここにいるという目的が、すぐに成されてしまう。
 このままでは、一月もしないうちに山を降りねばならなくなる」

 そうおっしゃって、空海さまはひどく落胆なされる。
 その様が余りに可笑しく、こう言っては失礼だがとてつもなくお可愛らしくて、わたくしはくすくす笑ってしまう。
 が、笑ってばかりはいられない。
 まだ、麁乱神の一件が解決していないので、空海さまはお戻りになることが出来ないのだ――。

「空海さま、わたくしはもう、麁乱神を受け入れております。荒神も、以前のように害を為すことはないでしょう。
 ですが、このまま空海さまのなかに麁乱神を留めてもよいものか……。
 いかが為せばよいでしょう?」

 空海さまがお山を下られるまえに、何とかしなくてはならない。ずっと懸念していたことだった。麁乱神を受け入れることは苦ではない。が、このような半端な状態でいてはいけないのだ。
 空海さまは頷かれ、「来よ」とわたくしを僧坊の外に導かれた。



 わたくしは空海さまに誘われ、摩尼峰の頂上に登る。
 下界を見遥かすと、いつもと変わらず空間に歪みを感じられる。対岸の山の頂きには毒気を撒く大蛾、中腹では大気が虹色の光輝を纏う。
 空海さまも同じものを感じていらっしゃるのか、腕を組み眉を潜めていらっしゃる。

「天地の均衡が崩れている。
 ――そなた、何故だか解るか?」

 空海さまに問われ、わたくしは感覚を研ぎ澄ませる。
 ――天地に満ちる聖霊は活気に満ちている。大蛾は風精の帯びる陽気が強まった姿。何もかもが、陽気に傾いている。
 麁乱神を野放しにしていた頃に比べれば、幾分かましになっている。が、まだ地場の狂いは収まらない。
 はっとして、わたくしは目を見張る。

「陰陽の波動が……釣り合っていない?」

 本来、天地には偏りなく陰陽の気が交じりあっている。陰気は陽気の激しさを押さえ、陽気は陰気の冥さを照らす。それぞれが働くことにより、この世の生物は健やかさを保つことが出来るのだ。
 空海さまは首肯される。

「ある時、この地の陰陽の気は引き裂かれた。
 片割れを失った陽気は、荒み障碍となって、天地に仇を為した。
 ――何故か解るか?」

 何気ないような言質だが、空海さまの眼差しに戯れの色はない。
 胸に真っすぐ突き付けられた疑問に、わたくしは軽々しく答えられない。
 わたくしの沈黙に、空海さまはふっと笑われる。

「天地に起こっている事象と、麁乱神の怒りは繋がっている。
 ――この山は、はじめはどこのものだった?」

 この山は、どこに所属していたか……それは、廣田の社だ。
 そこまで考えて、わたくしは瞠目する。

「廣田の社は表向きは天照大神の荒御魂をお祭りしていますが、本来のご祭神は弁才天女です……!
 はじめは、いまわたくし達が住まいしている中腹に祭司の場がありました。
 我が祖である古の海部族が、祭具と共に出雲の神を祭ったのが始まりです。
 弁才天女は、我が女祖神でもあります」

 表情の揺らぎなく、空海さまは頷かれる。
 弁才天女は我が女祖神……では、麁乱神は?
 海部族の古伝に、またの名を天狭手依比売(あめのさでよりひめ)と申される弁才天女は、海部族の太祖神・国常立大神の妃であったと伝えている。
 わたくしの家である御社・籠宮は元伊勢で、直接の祖神である彦天火明神とともに天照大神を祭っている。
 また、外宮の元宮でもあり、比沼の真名井に降り立った天女・豊受大神を天照大神の託宣により我が宮から伊勢へ送り出している。
 そして、我が社で内密に祭っているのは、彦天火明神が祭司してきた国常立大神と弁才天女である。
 古来より、海部族の巫女姫は弁才天女の依代として国常立大神にお仕えしている。彦火明神の妃である天道日女は、高き霊力を持つ海部族の巫女姫であり、長じて弁才天女の再来と讃えられている。
 女神の依代である巫女姫を娶ることが出来るのは国常立大神だけである。後々にはその意が転じて、巫女姫を妻にしたものが、天地を統べる国常立大神の依代に――つまり、大丹波王国の大王となった。
 古代に大丹波王国を征服した大和の大王は、巫女姫を奪い取って我がものにし、大丹波王国の覇者となった。それでも、巫女姫はなんとか弁才天女由来の潮満・潮干の玉を大王に手渡さぬように努めたという。
 海部族に出雲の主神である国常立大神を祭司することを止めさせ、天照大神を祭るよう強いたのは、大和朝廷の巫女姫である豊鍬入姫である。
 そして、大丹波王国が大和に蹂躙されるまえに海部族が祭った、廣田社……。そして、天照大神荒御魂と名を偽る、弁才天女……。本来なら、国常立大神も祭られているべきであろう。

「空海さま……今も、廣田社に国常立大神はお祭りされているのでしょうか。
 本来、この大神と弁才天女は、一緒に祭られておらねばならぬはずですが……」

 わたくしは空海さまに問う。
 空海さまは意味ありげに笑われる。

「さぁ、どうだろうな?
 知りたければ、麁乱神に聞いてみればどうだ?
 あの者は毎夜、そなたを愛でているのだろう? たまに麁乱神が現われているときに目覚めるが、そなたはすっかりあの者にまいっているようだな」

 揶揄するようなお言葉に、わたくしはかっとする。

「何という仰りようですか!
 わたくしは望んでこうなったわけではありませんのに。
 こころがないわけではありませんもの、情も移りますわ。
 わたくしが麁乱神に抱かれるように仕向けられましたのは、空海さまですのに……!」

 余りに情けなく悲しい仰りように、涙が出そうになる。
 望んでそうなったのではない。が、確かにわたくしは麁乱神に惹かれている。荒神の本質は大層魅惑的で、わたくしの女子が疼いてしまう。
 それも、麁乱神が空海さまに繋がる者だから、惹かれても仕方がない、と思い込もうとしていた。が、空海さまは違うのだろうか?
 ――空海さまの御眼には、わたくしが多情な女に映るのだろうか……?
 そう思われても仕方がない。わたくしは主上に未練を抱き、空海さまの腕にありながら麁乱神を思い出すのだから……。
 わたくしという女の業なのか、密の教えに深く入り込みながらも、煩悩に囚われ続けている。
 袖で涙を押さえるわたくしに、空海さまはお声に後悔を滲ませられる。

「……すまぬ、暴言だった。
 麁乱神に惹かれてゆくそなたの様に、思わず嫉妬してしまったのだ」
「空海さま……?」

 わたくしは涙を拭い、空海さまを見入る。
 密教の覚者であられる空海さまが、麁乱神に嫉妬……?
 目を丸くするわたくしに居心地が悪いのか、空海さまは目を背けられる。

「……密の教えを説く者でも、ひとりの人間なのだ。
 密教は、どのような情でも、大日如来からもたらされたものとして受け入れ、否定することはない。
 どのように行い澄ましていても、人として生きるかぎり迷いの淵に陥ることがある。
 一度の間違いで道を外れたという囚われの思いが、最も危険であるのだ。
 迷いの淵からはい上がり、大日如来の境地に高飛びすることが、肝要なのだ。
 ……何やら、言い訳のようになってしまったな」

 わたくしは目元を朱に染め、重ねて仰られる空海さまに、深くてどうにもならぬ苦悶を見いだす。
 ――あぁ、わたくしが弁才天女に嫉妬したのと同じ。
 空海さまとて、お迷いになられるのだ。

 わたくしは微笑む。

「そんなにお悩みなさいますな。
 わたくしは麁乱神に空海さまと同質のものを感じたから、惹かれたのです。
 空海さまも、わたくしと弁才天女に重なるものを感じていらっしゃるのでしょう?」

 わたくしの問いに、ややあって空海さまは頷かれる。

「……そなたに接すれば接するほど、弁才天女と似たものを感じる。
 が、そなたという個は、何者にも重ねずとも際立っており、魅了される」

 空海さまの過剰なお褒めのお言葉に、わたくしは真っ赤になる。

「ほ、本当に……あなた様は、お口が巧うございます……」

 もとから弁舌の達者なお方であるが、殺し文句もお上手でいらっしゃる。
 が、素早い切り替えで、空海さまは真摯な面をされた。

「冗談はともかく、過ぎた示唆はせぬ。何事も自分で考え、答えを導き出すがよい。
 それも、修行だ」
「そうですね」

 もとより、わたくしも空海さまに頼りきりになろうとは思ってはいない。何事も、自分で出来ることは自分でしたい。

 ――きっと、わたくしのなかに、結論があるのだ。
 もう少し、海部族や武庫の歴史を洗いなおしてみよう。

 わたくしはきっと何とかしてみせると、麓を見下ろした。



 今宵は空海さまがいらっしゃらないので、わたくしは結跏趺坐し、意識の深層に潜り込んで、魂の奥に存在している弁才天女との接触を試みる。
 が、何の反応もなく、わたくしはそのまま瞑想状態に入ってゆく。
 意識を無の状態に返し、微動だにせず座し続ける。
 その時、襖の開く音が微かにし、わたくしは目を開けた。
 振り返ると、空海さまがいらっしゃる。が、今夜はこちらに参られないと、既に空海さま御自身から伺っていた。

「麁乱神……」

 静かな足取りでわたくしの前に座ると、麁乱神は面白そうにわたくしを見た。

『……わたしの正体を、探ろうとしているようだな』

 麁乱神の問いかけに、無言で返す。

『探ってどうする? わたしを、この者の肉体から除こうとしているのか?』

 聞く荒神の目に、強い光が宿る。わたくしが何かの行動を起こすなら、無理にでも止めようと考えているのだろう。
 わたくしは居住まいを正し、頭を振る。

「……武庫の地の磁場の狂いと、あなた様の怒りが相関しているような気がするのです。
 わたくしは仏の道を歩む者として、また巫女として、黙って見ている訳にはいかないのです。
 ……あなた様は、何かご存知ですか?」

 真っ直ぐに見つめるわたくしに、麁乱神は尊大に座位を崩した。

『知ったところでどうする。今のそなたに何が出来ようか。
 折角我が腕に取り戻したそなたを、わたしがみすみす手放すと思うのか?』
「わたくしは、どこにも参りませぬ。
 あなた様に抱かれることを嫌とは思いませぬし、……お側に居ることに、心地良ささえ感じます」

 言ってしまった、あられもない言葉。
 わたくしは袖で顔を隠し、俯く。
 が、麁乱神は素早くわたくしの手を取り、顔を上げさせた。

『……ついに、我がものになったな。
 いつか、そなたがそう告げると思い、辛抱強く待っていた』
「……いや、恥ずかしい……」

 わたくしは荒神から目を反らす。羞恥に真っ赤に染めた面をまともに見られるなど、堪らない。
 麁乱神はわたくしの両の頬を手で押さえ、わたくしにその顔を直視させようとする。

 ――麁乱神が、嬉しそうに、和やかに微笑んでいた。

 わたくしは胸を疼かせ、思わず目を瞑る。
 重なる唇。身体に廻される熱い腕。――どうして、こんなにも愛しく思えるのだろう。
 わたくしのなかの弁才天女が、愛する殿方に抱かれて喜んでいるのだろうか。それとも、わたくし自身が、麁乱神に恋慕しているのだろうか……。重なるようでいて、違う想い。
 わたくしは麁乱神に抱き締められて秘戯を受け、女としての歓びを訴える。
 本当は、どうでもいい――このまま、麁乱神と離れたくないような気がする。が、それではいけないと強く自らに言い聞かせ、天地のために働こうと決めた。
 しかし、きっとそれは、麁乱神との別れに繋がるのだ――。
 涙を流し、わたくしは一体となった男神に縋る。

『……泣いているのか……?』

 涙を拭う指に、わたくしは手を重ねる。

「お別れしたくて……困らせるようなことを……申したわけではありませぬ……。
 身を切るように……悲しくて……涙が止まりませぬ……」

 次から次へと溢れる涙を、麁乱神はその口で吸い取った。
 男神が思いを遂げた後も、わたくしはずっと泣き続ける。
 わたくしを腕に巻いた麁乱神は、遠く天井の彼方を見つめ、呟き出した。

『そなたは、本当に我が妻と似ているな……』

 わたくしは目を上げ、麁乱神を見る。

「それは、弁才天女……?」

 真剣なわたくしの眼差しに、麁乱神は頷く。

『そなたらの時代では、そう申すのかもしれぬな。
 我が妻は情の細やかな女子で、誰にでも愛を注ぐ。わたしは何度も妬かされたものだ。
 だがそれが、堪らなく魅惑的だった。我が妻のいのちを受け継ぐそなたは、我が妻の性質を色濃く現している。
 ……我が妻は、わたしにとって失えぬ恋女房だった』
「それがどうして、引き裂かれてしまったのですか……?」

 わたくしの問いに、男神の眼に悲哀が浮かんだ。

『我らの存在を快く思わぬ輩が、わたしと妻を引き裂いた。
 妻は麓にひとりで祀られ、わたしは放置されたままこの山に留め置かれた。
 わたしと妻は強固に封印され、互いに交流することも叶わなかった。
 が、いま少し前、我が封をこの者が解いた』
「空海さまが……?」

 荒神は思い出すように告げる。

『新しき神を祀るためこの山に登ったこの者は、封じられている我を目にし哀れみを覚えたようだ。
 或いは、己に繋がるものの不甲斐なさを眼にし、嘆かわしかったのやもしれぬ』
「そんな……空海さまは、非情なお方ではありませぬ!
 それに、空海さまはわたくしに直接哀れだとおっしゃいました」
『そうか……。
 だがこの者は現れたわたしの、不浄を纏い荒み切った姿を目の当たりにし、周りに危険を及ぼさぬためすぐさまわたしを縛にした。
 それを、そなたがこの山に入ってから再び封を解いたのだ。
 我が望みはただひとつ、妻を取り戻すことだけ。
 この者は我が望みを叶えると約してくれた』
「そうだったのですか……」

 麁乱神はわたくしの頬を撫で、愛しそうに呟く。

『そなたが我が妻当人でないことは、既に知っていた。
 が、そなたは我が妻の魂を受け継ぐ者。
 見た途端にどうしても欲しくなった。
 我が欲によってそなたを拘束してしまった……許してくれ』

 荒神とは思えぬ愁傷な物言いに、わたくしは切なくなる。
 それは男神がもとの姿に戻った証拠であるが、男神との別れの近さを思わせ、無性に辛くなる。

「何も……仰らないで下さいませ。
 わたくしは、あなた様のお側に居られて幸せでした。
 辛くなど……ございませんでした」

 涙を流すわたくしに接吻し、麁乱神は耳元に囁いた。

『我が手で、そなたを記憶の奥底に導こう。
 そなたは自身のなかに答えがあることを知れ。
 そして……記憶の中のわたしに、辿り着くがよい』

 え……と面を上げたそのとき、麁乱神はわたくしの額に手を翳した。男神の掌からとてつもない光量の靈氣が注がれる。

『奥津鏡……辺津鏡……八握剣……生玉……死反玉……足玉……道反玉……蛇比礼……蜂比礼……品物比礼……。
 ひと、ふた、みよ、いつ、むゆ、ななや、ここのたり……ふるへゆらゆらとふるへ……』

 倍音の揺らぎを伴う祝詞が、わたくしの身に注がれる。
 そのまま、わたくしは意識の迷路に飛ばされた。









 わたくしは自身の記憶の欠片――弁才天女を夢に呼び起こす。
 記憶の中の彼女は、神秘的な空間のなか、雲霞の厚い地表のうえで、光彩に包まれる存在に願いを乞うていた。


『わたくしは、どうしてもあの方のお側に居たいのです。
 どうかわたくしにも人としての生をお与えくださいませ――!』

 光に紛れて見えぬ存在は、感情の籠もらぬ声で弁才天女に告げる。

『今生でのあの者は、ただひとり厳しい生を歩む。
 そなたとて、その生に添う事は出来ぬのだ。
 もし転生するとしても、そなたもそれ相応の苦しみを味わねばならぬ』

 毅然として、天女は訴える。

『それでも、構いませぬ!
 あの方と同じ地上に生きられるのならば、どんな苦も大楽となりましょう』 
『そなたに、強い覚悟があるか?』

 存在は天女の翻意を促す。
 が、天女の意志は、至上なる存在でも変えることが出来なかった。


『――ございます。わたくしは人として生きます』



 弁才天女は例えどうなっても、如空と――空海さまと共に生きることを選んだ。
 が、それは現在での如空との繋がりの終わりでもあった。




 如空は精神統一のため、不動明王の真言を百万遍唱える。
 その間、岩屋に籠もり切りで、外界には出てこない。昼夜不眠不休で、陀羅尼を唱え続ける。
 神呪独唱を完遂し終えた後、彼は外に出、弁才天女の社に行く。

「弁才天――?」

 いつも居るはずの天女が、いない。
 普段、彼の側にいるのが常である彼女の姿が見えないことに、如空は焦る。

『焦ることはありません。わたくしはここにいます』

 頭に響いた声に、如空は振り返る。が、そこにある天女の姿に、彼は狼狽した。
 女神の姿が、透けていた。背後の木々が彼女の身体を通して見える。女神は力なく微笑んだ。

「弁才天……その身体は」

 如空の愕然とした声に、天女は口を開く。

『もう、この世にいられなくなったのです』
「何故?! わたしと通じた故か?!」

 彼が天女の腕を掴む。まだ微かに感触と温もりが残っていた。

『わたくしは人の世に、あなたのいる世に生まれ変わることになったのです。
 別に驚くことではないのですよ。わたくしも元々は人だったのですから』
「では……」
『もうあなたに逢うことも、見守ることもできなくなりますね。
 でも、安心してください。わたくしの大元の波動は、ここや他所のわたくしを祀る場所に残っていますから。
 願えば、あなたのもとにわたくしの靈氣が齎されましょう』

 如空は女神を抱きしめ、問う。

「あなたの大元とは?」

 天女は笑みを浮かべ、応える。

『天上……仮に宇宙といえばよいでしょうか。
 人は宇宙より命と知恵を授かります。
 人は宇宙の縮図。生きながらにして大元に繋がっているのです』
「宇宙……」
『女子の胎は宇宙への入り口。だから、あなたに体感していただきたかったのです。あなたならば、それの吸引力に耐えられるだろうと思ったから』

 女神を横たえながら、如空は涙を流した。
 天女は彼の眼から零れるものを、指で拭う。

『……泣かないでください。縁があれば、生まれ変わった後も会えましょう。
 わたくしはわたくしの宿命によって転生しますが、同じ世に生きるのです。会うことを望めば、きっと会えます』

 弁才天女の慰めに、彼は頷き、女子の芯を求めるように彼女の身体を弄った。豊かな乳房に吸い付き、熱く震える窪を探った。
 己の欲求に従い、如空は天女のなかに分け入る。 
 天女に抱かれながら、彼は生命の源に帰っていく。母なる命の根を通り越し、大いなる宇宙に流れ込んでいく。
 広大無辺なる宇内(うだい)のなかに生命の種があり、生きとし生ける物を命づかせる。宇宙より種を齎された人は母なる胎のなかより出でる。
 我はどこから来たのか、この意識はどこからくるのか――その真理が、解ったような気がする。
 すべて、母の腹からなのだ。宇宙は女子の胎と同じ。女と交わることにより、宇宙に回帰する。欲望は宇宙の摂理、逃れるものではないのだ。情欲をあるがままに受け止め、呑み込み、己のものにする。

 ――宇宙より齎された我らが命は、すべからく縁によって繋がっている。きっと、目の前の女性の生まれ変わりを繋ぐ糸を、我が手の内に手繰り寄せることが出来るだろう。

 起きたとき、目の前に女神が居ないことを解りながら、如空は弁才天女との再びの邂逅を切に願い、疲れきった意識を神なる次元に飛ばした。





『雄豊殿、この姫が新たな巫女姫ですか?』

 丹後・吉佐海を臨む砂浜。目を彼方に遣ると天橋立が見える。
 太陽の光を受けわたくしを見下ろす僧に、わたくしは驚く。
 ある日突然訪ねて来た、若々しさと自負に溢れるその僧は、父が応えるのを待たずにわたくしを抱き上げる。
 その手の感触は、今まで会ったことがないのに、何故か覚えがあった。
 僧は聞き取れるか聞き取れないかの声で、わたくしに語り掛ける。

『――やっとお会いできた……弁才天女』

 びくり、とわたくしの身体が震える。
 わたくしの全てが、僧に惹きつけられて行くのを、幼いながらに感じていた。



 ――弁才天女の願いは叶い、女神は海部氏の娘として生を受けたのだ。
 帰国して程ない空海さまは、秘かに筑紫から丹後に向かわれ、四歳になるわたくしにお会いになられたのだ。

 空海さまとの縁の深さに胸が震えるが、それ以上にわたくしを見つけ出された空海さまの熱意に、こころを打たれた。




 記憶は更に遡る。

 海の底に沈む愛する母国。ある生で、わたくしは愛する方が水底に沈むのを、船の上から見守る他なかった。
 愛する方は共に沈む同胞を導くため、自らその終焉を選ばれたのだ。
 わたくしは哀しみに暮れたが、生きる人々を導くという愛する方から与えられた使命を果たすため、生きねばならなかった。



 またある生では、神への敬虔さが失われてゆくのを食い止め、堕落した人々を破滅から救うため、わたくしは自ら犠牲になることを選んだ。
 わたくしと同じ道を選んだ同志が、預言者の扇動により崖から突き落とされてゆく。
 愛する方の悲痛な叫びが、胸を裂く。
 死に行くわたくしは、愛する方に希望の光が齎されることを願った。光ある者を東方の島国へ導くという、愛する方の天命が果たされるのを祈った。



 そして――麁乱神である男神と、記憶のなかで出会った。
 その方は出雲の血と韓の血を半分づつ受け継ぐ方だった。
 いわば人質として出雲に留められた愛する方は、我らが大神の霊統を受け継ぐ者と、我が国の者に見做されていた。
 大神の巫女姫であるわたくしは、初恋の方と結ばれるが、神祀りする者として、愛する方が大神の霊継ぎであるかどうか確かめるため、この手で生と死の儀式に掛けねばならなくなった。
 愛する方は密儀を潜り抜け、大神の正統なる転生として認められた。
 が、愛する方の一族と外国が手を組み、母国である出雲を滅ぼした。抗議のため海の底に沈んだ愛する兄。捕らえられ穴倉のなかで餓死させられた父母達。
 わたくしと愛する方は、遠き丹波の地から、悲しい知らせを受けた。逃げ延びた者を大和や熊野の山のなかに隠し、愛する方は絶対的な霊力を示して外敵を退けた。
 平和を取り戻し、愛する方は大丹波王国の始祖となられた――。




 次々と開示される真実。わたくしと空海さまの魂の大本。
 長き時を経て哀しみを味わい、再び巡りあった。
 麁乱神と空海さまが、わたくしのなかでひとつに重なる。


 使命のため、重ならぬ運命を生きることになろうとも、悲しむ必要はないのだ。また再び見(まみ)えることが出来るのだから。


 わたくしは夢のなかで魂の歴史を辿りつつ、涙を流した。 






回帰するいにしえ(2)へつづく
トップへ