麁乱荒神(4)へ



(5)




 封印したと思っていた麁乱荒神に凌辱された朝。
 互いに疲れて眠ったあと、目覚められた空海さまの肉体にあった御魂は、空海さま御当人のものだった。
 わたくしは安堵したが、こころに掛かることがあったので、胸のうちの靄が取れなかった。

「なんとしたことだ……すっかり日が高くなっているではないか。
 余り飲み過ぎるものではないな」

 いつもは朝が明けぬうちにわたくしの部屋から出られるので、自身の犯した失態に気付き、空海さまは頭を抱えられる。
 そして、既に身仕度を済ませ、傍らに端座しているわたくしを認められ、目を見張られる。

「どうしたのだ? そんなに恐い顔をして」

 わたくしは、自らの顔が強ばっていることを知っていた。が、昨夜の今朝で、穏やかな顔をしろというほうが無理というものだ。
 思い切って、わたくしは口を開いた。自身のためにも、知らぬ存ぜぬで済ましていい問題ではないと思っていた。

「空海さま……昨夜、眠り込まれてから、あなた様の上に麁乱荒神が現われました」
「!……」

 空海さまは瞠目され、わたくしを凝視なされる。

「それで、朝までわたくしを……。
 最中に、麁乱神に聞き捨てならぬことを言われました」

 みるみるうちに、空海さまの面が険しくなってゆく。衾を手で強く握り締め、恐る恐るわたくしをうかがわれる。

「して……麁乱神は何と言ったのだ?」

 わたくしは唇を噛み締め、空海さまに厳しい眼差しを注ぐ。

「あの日……空海さまが麁乱神に捕われなさったのが、すべて空海さまと麁乱神の策であったと……。
 わたくしが麁乱神を封じようと、こころを押し殺して抱かれたとき、空海さまの意識はあったのですか?
 わたくしの苦しみを知りながら……知らぬふりをなさったのですか?
 空海さまは麁乱神が封じられていないのを……知っていらっしゃったのですか?」

 悔しく、悲しすぎる内容に、わたくしの声が震える。
 唾を飲み込まれ、空海さまは声を出される。

「………………あぁ」

 暫しの、間。
 頭が重い。眩暈がする。
 それでは、何か?
 わたくしは二人に……嵌められてしまった?
 つまりは……騙された?

 それは、わたくし自身、思いもしない行動だった。

 ――パシンッ!

 乾いた音が、部屋のなかに響く。
 空海さまは避けることなく、わたくしの殴打をまともに受けられた。
 手が痛い。愛する方の頬を打った掌が、摩擦に痺れている。
 何よりこころが――痛い。

「ふっ……!」

 わたくしの口から、嗚咽が漏れる。
 わたくしはそのまま空海さまを置き去りにし、部屋を飛び出し僧坊から出る。
 山を駆け上がり、三分咲きになった桜の幹に身体をぶつける。
 わたくしは声を上げて泣いた。涙がとめどなく流れる。顔を桜に押しつけ、幹に縋って泣き続けた。枯れることなく、涙が零れ続けた。
 どれくらい泣いただろう、わたくしは桜にもたれたまま、眠り込んでしまった。


 いつのまにか、わたくしは誰かの、優しい腕に抱かれている。
 柔和な手が、わたくしの頭を撫でている。わたくしは相手に抱きついた。
 頬にあたる感触が、弾力があり柔らかい。相手は女性なのだ。

『そうよね、悲しいわよね?
 でも、悲しいのはあなただけじゃないのよ。
 あなたが哀しみ泣くことを、悲しむひとがいるのよ。
 あなたを苛んでいると、あなた自身が思っているひとが、本当にあなたを苛んでいるのか、もっと感じて、真実を知ってごらんなさい。
 ひとつのものに捕われると、真実を見る目が盲いて、いわれのない目線でしか見られなくなるの。
 本当のあなたは、どう? 疑心暗鬼になって、愛する人を失ってしまうの?
 本当に、それでいいの?』

 わたくしは胸に顔を埋めたまま、否、と首を振る。

『そうよ、勇気を出してごらんなさい。
 そして……わたくしの愛する方を救って。
 身の置場を無くし、不浄を一身に背負ってしまったあの方を。
 そして……隠されていた真実を知ったとき、わたくしを呼んで』

 女人がわたくしのおとがいを取り、顔を上げさせる。
 わたくしは目を見張る。

「……弁才天女……」

 目の前にいる弁才天女は、何故かわたくしに瓜二つだった。衣の違いがなければ、鏡を見ていると捉えたかもしれない。が、天女の身に纏っている衣は、いつも夢に見ているものだった。
 天女は美しく微笑む。

『わたくしは過去に、あなたの愛しいひとを愛しんだわ。
 今度は、あなたがわたくしの愛しいひとを愛しんで頂戴。
 そして、あの方を愛で満たしてあげて』

 そう言い残し、わたくしの頬を一撫でしたあと、弁才天女は目の前から掻き消えた。
 同時に、切迫した声が徐々に大きくなって耳に届いた。


「厳子、厳子……ッ!」

 わたくしの肩を揺すり、軽く頬を叩きながら、空海さまが必死に呼び掛けていらっしゃる。
 わたくしは薄く目を開け、愛する方の姿を眼に捕らえた。

「……空海さま……」

 ほっと吐息され、空海さまは安堵される。

「目覚めたか……」

 わたくしの身体を強く抱き締められる空海さまの腕が、微かに震えている。
 空海さまの腕に手を添え、わたくしは見上げる。
 いつも沈着な空海さまに似合わぬ、ひどく狼狽したお顔に、胸が痛む。

「居ても立ってもいられぬと思い、追い掛けてきたが、桜にもたれて眠り込んでいる姿を見付け、焦ったぞ」
「すみませぬ……もう大丈夫ですから……」

 そう言って空海さまの腕から抜け出ようとするが、強固な腕のなかに閉じ込められ、身動きできない。それだけ、眠るわたくしに不安を抱かれたのかもしれない。
 仕方なく、そのまま空海さまの胸に頬を寄せる。

「夢を見ました……弁才天女の」
「弁才天女の……?」

 空海さまの問いに、わたくしは頷く。

「疑心暗鬼になってはいけない、勇気を出して、真実に触れてごらんなさい、と……。
 麁乱神は……空海さまの何なのです?」

 わたくしは、もう逃れぬという意味を籠め、真摯に空海さまを見つめる。
 暫時目を伏せられたが、空海さまは明瞭な声で仰られた。

「…………因だ」
「因……確か、麁乱神自身が以前に言っておりましたわ」

 わたくしの応えに、空海さまは首肯なされる。

「因とは、霊魂のもとを成すもの。
 宇宙の……大日如来から分かたれた、いわば分霊である御魂は、何度も大元である宇宙に帰りながらも、また人界に生まれ直す。
 何度も生を得て蓄積される記憶は、封じられながらも御魂に留まる。
 我らが御魂は、今の生だけではなく、過去生からも構成されるのだ」

 わたくしは息を詰めて、空海さまのお言葉を聞く。
 宇宙と御魂の関わりは、わたくしも知っている。輪廻転生を繰り返した御魂の記憶がどうなるかも、教えを受けている。

「では、因とは過去生の記憶のことを申すのですか?」
「そうであるともいえるし、違うともいえる。
 少なくとも、わたしの麁乱神やそなたの弁才天女は、記憶という生易しいものではない。
 だから、厄介なのだ……自身の御魂の欠片ゆえに、無下に放置できぬ。
 関わると面倒なことになると知りつつも、自身の御魂のことは己がよく解る」
「だから……空海さまは、麁乱神を身に受けられたのですか?」

 空海さまは、苦笑いされ、わたくしを放される。
 立ち上がられると、空海さまは麗らかな桜を見上げられた。

「……この地に残っていた麁乱神の御魂は、正確にはわたしの一部ではない。が、わたしのなかには、麁乱神の記憶が確かに存在する。
 不浄に塗れながらも、ここに留まり続けた麁乱神の想いが一番解るのは、わたしなのだ。
 だから……醜い姿になりながらも、番いを求め、探し続けた麁乱神が……哀れだった。
 それと同時に、麁乱神とわたしの想いが共鳴した。
 ゆえに、麁乱神の番いの欠片を持つそなたを呼び寄せ、想いを遂げさせてやった。
 が……誤算だったのは、麁乱神の想いに刺激されたわたし自身の想いが、どうにもならなくなるほど膨れ上がってしまったこと。
 そして、麁乱神が昇華されず、わたしの欠片と統合されてしまったことだ」

 途方も無い空海さまのお話に、わたくしは固唾を飲んで聞き入る。
 それよりも、聞き逃せない内容があったような気がする。

 ――わたくしのなかに弁才天女の記憶があるですって?
 つまり……弁才天女は、わたくしの過去?

 そう、それならば、絡まりあった謎のすべてが、するすると溶けてゆく。
 請雨経法による雨乞いのとき、どうして空海さまは霊駆けしていたわたくしを弁才天女の真言で呼ばれたのか。
 何故、麁乱神がわたくしに執着するのか。
 先程夢で見た弁才天女が「愛するひと」と言っていたのは……きっと麁乱神のことなのだ。
 理屈では、理解できる。
 が、実際はどうかといえば、夢には見るが弁才天女の記憶はなく、実感がまったくない。
 そして、わたくしを強引に犯してくる麁乱神を愛せよといわれても、到底無理だ。
 じっとりと眉を寄せるわたくしに、空海さまは微妙な笑みを浮かべられる。

「……まぁ、納得せよというほうが、無理な話だな」
「当たり前ですわ!
 では何ですか?
 空海さまが何時か意識を手放されたとき、また麁乱神が現われるということですか?」
「そういうことになるな」

 腕組みされる空海さまを、思わず睨み付ける。

「そうなれば、わたくしは再び麁乱神に犯されるということになりますわね。
 麁乱神の霊力には、わたくしでは太刀打ちできませんもの。
 空海さまは、それでよろしいのですか?」

 憤るわたくしに、空海さまは哀しげなお顔をなされる。
 わたくしはどきりとし、今までの勢いを腹に収めた。

「麁乱神はわたしを構成する一部。
 発露の仕方は違えど、魂は同じなのだ」
「あ…………」

 わたくし達は、それきり黙り込む。
 わたくしを犯してくる麁乱神は、違うように見えて、実は空海さまと同じなのだ。
 雰囲気が、態度が違うからとはいえ、同じ御魂を持つひとを、拒んでいいのだろうか……?
 それは、性質やかたちに惑わされているだけではないのか?
 当惑しているわたくしに、空海さまは優しい眼差しで声を掛けられた。

「……そう急いで答えを出さずとも、よいだろう。
 そなたは今、様々な事実を知らされ、混乱しているのだから」

 のろのろと顔を上げ、わたくしは頷く。
 空海さまは、表情を引き締められる。

「ただ、これだけは確認しておきたい。
 麁乱神をうちに秘めているわたしでも、今までと変わらず接してくれるのだな?」

 空海さまの眼のなかにある、翳り。
 麁乱神のした行いに、空海さまご自身、後ろめたさがあられるのかもしれない。
 ――ここは、迂闊な答え方をしてはいけない。
 わたくしは、しっかりと頷く。

「……多分、空海さまのお話を聞いて、多少は麁乱神に対する見方は変わったと思います。確かに、今すぐにこころの内を変えることは無理ですが、努力は出来ます。
 努力……すべきなのだと思います。
 後ろ向きなままでいては、いけないのですわ」

 目を反らすことなく空海さまを見据え、わたくしは告げる。
 空海さまはやっと口元に笑みを結ばれる。

「そなたならば、どのような状況でも、受け入れられると思っていた。
 意の副わぬ入内でも、そなたは運命を受け入れ、帝を愛した。
 そなたの柔軟さは、賛美してしかるべきものだ。
 だから……麁乱神のことも、受け入れてくれると、信じている」

 空海さまの過剰なお言葉に、わたくしは何とか笑みを作る。
 ふと見ると、わたくしが張った空海さまの頬に、赤味が走っていた。
 あの時は感情に任せ、力の加減もせずに打ってしまった。
 わたくしは懺悔し、朱の入った頬に触れる。掌に靈氣を乗せ、愛する方を癒すよう祈る。

「お許しください……向こう見ずにも、狼藉を働いてしまいました」

 空海さまは自身の頬を押さえるわたくしの手に掌を重ねられ、仰る。

「なんの、麁乱神やわたしのした行いに比べれば、こんなもの痛くはない。
 そなたを酷く傷つけてしまい、本当にすまなかった」

 わたくしは首を振る。

「もう、悩むのはよします。
 なるように、こころが感じるままに、わたくしはすべてを受け止めます」

 わたくしは空海さまのお為にも、徒に憤らず、粛々と成り行きに身を任せることに決めた。
 悲憤することによって、本当に大切なものを失うなど、愚昧であり絶対に避けるべきことであるのだ。




 わたくしはこころを切り替え、山頂から降りたあとに空海さまから真言の教えを受けた。
 ふたつの文机を間に差し挟み、向かい合う形でご教示を受ける。「大日経」を双方の文机に広げているが、多くを口述によってご教授いただいた。

「人は根本から闇の種――利己の精神・煩悩を持っている。
 大日如来は、理なき無明の世界、欲望だけに捕らわれた世界を這いずる者を救うため、悟りの切っ掛けになる様々な教えを人界に据え置かれた。
 人は種々の教えに触れ、理を身に着けながらも、教えが未完全なため、それだけでは不安になる。
 そして、新たな教え身に受け、幼子が成長するように御魂を研ぎ澄ませていく」

 密教の教えを説かれるとき、空海さまの口調に一層の熱が籠もる。それは、この方が全生命を掛けたどり着かれた、未来に受け継がれるご尊慮。衆生を救うため、無明の海を泳ぐ者に誰でも手を差し伸べられるため整えられた教理。
 わたくしは一縷に教えを重く受け、空海さまが発される一言も洩らさず聞く。
 そんなわたくしの様子に、空海さまは苦笑なされた。

「……といったところで、そなたは経験でそれらすべてを知りえていような。
 帝の後宮に居た頃、そなたは自身のこころを差し置き帝に慈愛を注いでいた。あの頃のそなたは、如意輪観音の慈悲と弁才天女の神性を体現していたといえる。が、それは憑依が行われ成り切っていたといえる。
 師であるわたしとしては、物分りよいそなたは楽な弟子であるが、良人としては出来すぎていてつまらぬ。
 何というか……女子としての情趣が足りぬというか……。確かに見目や立ち居振る舞いは、淑徳さとえもいわれぬ手弱女ぶりを示しているが、中身が相反して中性的なのだ。悪く言えば、女傑のようで、女子の妙味に欠ける。付け入る隙がまったくない。
 神に仕える巫女に婀娜さはいらぬので、致し方ないのかもしれぬが」

 煮えきらぬ笑みを浮かべ、もぞもぞと仰るお言葉の情けなさに、わたくしは眉を吊り上げる。

「まぁ、何てことを仰るのですか! 仮にも密教の先達でいらっしゃる御方が、色気づいたことを仰るなんて……!」

 賢しらに意見するわたくしに、空海さまは面白そうに指し示される。

「そういうところが女子らしくないのだ。
 何事も強気で、平気で男子に意見する気丈さを持っている。
 だから、麁乱神に酷い目に遭わされても、しおしおと潰れてしまわぬのだろうが。
 巫女としては、必要な部分かもしれぬな」

 わたくしは頬を膨らせる。

「巫女は場合によっては、邪霊や災い為すものと戦わねばならぬのです。
 ひ弱なようでは、敵と渡り合えませんわ。これくらいが丁度よいのです」

 空海さまは納得したように頷かれる。

「そう、巫女としての力を与えられたそなたは、巫女として相応しい気性を持って生まれた。
 それもすべて、大日如来の偉大な働きなのだ。宇宙の織り成す仕組みに、そなたという巫女も組み込まれているということだ。
 そして、密教を為す者としても、相応しいといえる。
 密教の仕組みの中に、修験の行も含まれているが、山行はもとはといえば山を神とする巫女が行なっていたものだ。山々や自然と一体になれる巫女は、いわば我らの先駆者でもある」

 一変して真面目な表情におなりになられた空海さまに、わたくしも神妙に首肯する。

「が、霊魂を言向け和(やわ)す巫女が豪気過ぎては、とてもでないが鎮めて昇華することなど出来ぬだろう。
 帝を受け止めていたそなたは、荒ぶるものを和す巫女そのものであったので、その点では心配することはないのかもしれぬ。
 が、おそらく今わたしに見せているそなたが、本当のそなたなのだ。
 心当たりはないか?」

 空海さまの鋭い指摘に、わたくしはぐぅの字も出ない。多分、今、空海さまに見せているわたくしが、本当のわたくしなのだ。
 ふっと息を吐かれ、空海さまは言葉を繋げられる。

「そなたは迷える者、困窮する者、愚なる者に伸べるべき手の種類を知っている。それらは、使い分けてこそ意味があるものだ。
 大日如来が様々な教えを人界に置かれたのも、同じ意味だ。
 人それぞれ合った方法で悟りへ導く。それを方便という。
 ところで、そなた麁乱神にはどう接すればよいと思う?」
「えっ……」

 突然麁乱神の話題を出され、わたくしは困惑する。

「麁乱神にとって、大人しく従う女子がよいのか。
 それとも、わたしに相対するように、聞かん気な態度で臨むのがよいのか。
 ……どれがよいと思う?」

 わたくしは手に汗を握っているのを感じた。
 急に答えをお返しできる問題ではない。
 何より、麁乱神との接触は二回しかなく、荒神がどのような嗜好を持っているかなど、解らない。
 言葉に詰まったわたくしに、空海さまは微笑まれた。

「麁乱神との関わりは、そなたが即身成仏する道筋になるのかもしれぬな。
 確かに、わたしは麁乱神がどういう人物か、かの者と弁才天女との関わりがどういうものであったのか、その正体も含め知っている。
 が、それをそなたに教えてはやらぬ。
 何事も自分で考え、答えを導きだすがよい」
「……はい」

 何もいう言葉を見つけられず、わたくしは相槌を打つだけだった。
 空海さまはそんなわたくしを、暖かく見つめていらっしゃった。




 密教の講義が終わった後、空海さまは何も言わずに、ぶらりと外に出られた。
 わたくしは詮索せずに、自身も桜の木の許に行く。
 朝に行えなかった瞑想を、遅くなったがしようと思った。
 桜の幹にぴたりと背を合わせ、呼吸を数えて意識を鎮めてゆく。
 わたくしは背を通じて桜と交感しようとする。
 ふるり、と桜が喜びに震えた。そして甘美な、春めいた波動が伝わってくる。
 ――桜も、春の予感を感じて嬉しいのね。
 わたくしは桜が伝えてきた感情を、そう捉える。

 が、本当は違っていたのだ。
 桜が何を思っていたのか――それは、後日知らされることになる。




 夜更けになり、自室で眠いのを堪えながら髪を梳かしていると、密やかに空海さまが入ってこられた。
 振り向くと、空海さまのお顔が妙に硬直していらっしゃる。
 首を傾げ、わたくしはその訳をお尋ねする。

「どうかなさったのですか?」

 無心なわたくしの問いに、空海さまは頬を緊張に引き攣られる。

「……今宵も、構わぬか?」
「まぁ、どうしてですの? いつものように望むように為されればよろしいではありませんか」

 空海さまの仰りようが可笑しくなり、わたくしは思わず笑ってしまう。
 が、空海さまにきつく睨みつけられ、わたくしは笑いを止める。

「昨日の今日で……嫌ではないのか?
 その……わたしが、怖くはないのか?」

 わたくしはきょとんと目を見開いてしまう。
 空海さまが……遠慮していらっしゃる?
 いつもとは違い、いやに行儀よくわたくしの前にお座りになられる空海さまに、わたくしは思い当たる。

 ――もしや、空海さま御自身、御自らを怖れていらっしゃる?

 昨夜の麁乱神の暴挙は、空海さまにとっても予想外のことで、驚愕をもって受け止められたのかもしれない。
 そして、寝入っている間に、またも麁乱神が現れわたくしを乱暴するかもしれない、と案じていらっしゃるのかもしれない。
 そう思うと、何だか空海さまが御労しくなる。
 わたくしは手を差し伸べ、空海さまのお手を取った。

「わたくしは、空海さまを怖れてはおりませぬ。
 麁乱神のことも、現れれば現れたで、それまでのことです。
 何とでもなりましょう。
 それよりも、こうして覇気のない空海さまをお見受けするほうが、わたくしは辛うございます」

 自ら空海さまににじり寄り、わたくしは愛する方の胸に頬を寄せる。
 とくん、とくんと聞こえる心音に、手放してはならない大切なものを感じる。

「……お慕い申しております……」

 恥ずかしくてたまらないが、自然に漏れ出た言葉。恥ずかしいが、嫌な感覚は受けない。
 そのまま空海さまに抱き締められ、わたくしは床に押し拉がれる。
 嵐のような激しい情夜に、わたくしのこころは震え、熱く痺れる。
 嬉しくて愛(かな)しい温もりに、昨夜の怖ろしいことも癒され、わたくしは眠りに落ちた。



 昨夜は一睡もしていなかったわたくしは、深い眠りのなかにいた。
 それを揺り起こしたのは、力強い腕で抱き起こす感触である。
 強く接吻され、わたくしは否応なく起こされる。
 相手が誰か――既に判っていた。
 舌を絡め合い唾液を啜る濃厚な口づけに、わたくしは息が止まりそうになる。
 素肌を接しあい施される容赦ない愛撫に、わたくしは喘ぎを洩らした。

「もっと……優しく、して下さい……麁乱神……!」

 ぴたり、と手の動きが止まる。
 目を開いてみると、いつもの空海さまより猛々しい面があった。それは、既に何度か見ていたものだ。

『ほう……今宵は、拒まぬのだな』

 麁乱神が微笑み、わたくしの乳房を鷲掴みにする。胸の先端を指先で抉り、曝け出された項に絶妙な密着の仕方で口づけする。
 わたくしは与えられる濃厚な愛技に、堪らなくなり悶え続ける。
 拒絶の意思のないわたくしに手を止め、麁乱神は汗に塗れて赤く上気するわたくしの顔を覗き込む。
 わたくしは麁乱神を真っ直ぐに見返す。

「拒んでも無駄なことは……知っています……。そして、愛する方と、あなたの関係も……。
 わたくしは、ただ真実が知りたいだけ……。知るためには……あなたを受け入れるしかない……」
『愁傷な心がけだな……』

 わたくしの言葉に、麁乱神は眼光を緩め、優しげな眼差しを送ってくる。
 どきり、とわたくしは胸が勝手に疼くのを感じた。
 口元を自然に笑ませたその面と目線は、空海さまと同質のものだった。 
 忽ち麁乱神は悦楽でわたくし自身を吹き飛ばすような愛撫の仕方を変え、恋人を優しく慈しむような仕草を見せる。それがまた、空海さまのものとよく似ていて、わたくしは混乱した。
 潤み続けるわたくしの内部に入り込み、麁乱神は自身の情を刻み付けるように動き続ける。
 いつしかわたくしは麁乱神の背に腕を廻し、荒神の接吻に自ら返していた。
 終始一貫して愛しむような態度に、わたくしの精神の鎧が外されていく。諸身(もろみ)になったわたくしのこころは、麁乱神の情を直接に受け止めてしまう。

『もう……わたしを拒むな。わたしを、愛してくれ……』




 意識を失いかけたわたくしの耳に、麁乱神の熱い囁きが注がれた。
 わたくしはそれを、何故か愛しいと思っていた――。






回帰するいにしえ(1)へつづく
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