(4)
望まずして出来た、弁才天女との交合。が、それが確実に如空を変えていく。
一度快楽に喘いでしまうと、引き返せなくなる。彼はいつも以上に己に厳しく生きねばならなくなった。
――情欲に負けてはならぬ。己の舵取りは、己がせねばならぬのだ。
と思いつつも、天女との交わりを絶つことができぬ。女神の素肌を見ると身体に火がつき、己を止められなくなる。如空は際どい橋を渡りつつ、女神との情交を交わした。
弁才天女は彼に対する信頼を表す透明な眼でもって、いつも如空を見る。彼なら堕落への誘惑を乗り越えて悟りに至ると信じている。
やがて性の交わりに慣れ、如空はいつもの己を取り戻した。澄み切ったこころのまま、天女と媾交した。
余裕をもった面差しで己に挑む如空に、天女は安心し、和らいだこころで己の身体のすべてを彼に預けた。
「わたしは、もう何があっても動じはしない。
が、生半可なものが誘惑に負けると、陥落したまま登って来れなくなるだろう。
わたしの底力を見せてくれたあなたに、感謝する」
天女を腕に抱きながら、如空はこころを籠めてそういう。そこには、ひとりの女性に対する愛情が溢れていた。
女神は微笑み、彼の頬を撫でた。
『あなたはあなたが思っている以上に、強いのです。
自分自身を抑えるのではなく、思うが侭に、為すがままに生きていけばいいのです。
あなたは自分で自分を切り開いていける人だもの』
そういう天女を、如空は愛しげに抱きしめた。
「いやっ……!」
夜中、わたくしは夢を見てうなされ、飛び起きる。
夢というには余りにも生々しい、空海さま――如空と弁才天女の交合。愛するひとが他の女人と睦みあい、四肢を絡ませ合う姿を、まざまざと見せ付けられる。
余りに残酷な夢に、苦しくて堪らない。――が、中途で覚醒することもままならず、見せられる一方で、夢を止めることなど出来ない。
――愚かだわ……わたくしは、女祖神である弁才天女に嫉妬している。
今まで一度も味わったことがなかった醜い想い。それだけ、抜き差しならぬほど空海さまを愛しているのだ。
結ばれる前までは、ただ想っていられるだけで幸せだと思っていた。が、人間は欲深で、相手を独占せねば気が済まぬようになるのだ。
――この想いは……畜生並みだ。高尚な空海さまに我執を向けてしまうなど、してはならない。
わたくしは今まで以上に、己を律せねばならぬと感じた。
‡
「厳子さまも、尼姿が板についてこられましたね」
墨色の法衣を纏い、髪をひとつの髷に纏めて花帽子を被ると、朋子が感心したように言った。
「そうね。姿を変えただけでも、御仏の道に深く入り込んだような気になるわ」
わたくしは袖を合わせて、はにかむ。
女らしい華やかさのない色合いが、俗世と隔絶したと感じさせてくれる。まだ受戒していないが、姿見を変えたことにより、気が引き締まり出家したように錯覚させてくれる。
主上の御使者として頻繁に摩尼峰に参られる美志真王殿も、わたくしの尼姿を見て絶句された。
その様子を御使者から伝えられた主上は、わたくしをひどくお怨みになられた。が、諦められたわけではなく、未だに御文は続いている。
――そなたが丈成(たけな)す射干玉(ぬばたま)の髪を断ったときは恨めしかったが、そなたが姿を変えても恋しいのは変わらず、強まる一方だ。
わたしはそなたが尼になっても諦められぬ。
髪がなくともよい、法体に変わってしまってもよい、わたしはそなたを愛している。
だから、今一度考え直して、わたしの下に戻ってきてくれ。――
出家したとお聞きになっても、尼のままでよいからとおっしゃる主上の愛の強さに、わたくしは揺らぎそうになる。
空海さまという愛する御方がいらっしゃっても、わたくしの主上への想いは変わらないのだ。
同時に二人の殿方を愛することが出来る女子のこころの不思議に、わたくしは戦く。
が、摩尼峰での生活を変えることなく、わたくしは読経三昧の日々を送り、大日経と金剛頂経を読み耽り、山内で欠かさず瞑想をしている。
朝のお勤めが終わり、食事を採ると、わたくしはお山の頂上に向かうことにした。
近ごろ外の空気に春の温みが加わり、桜の蕾が今にも咲きそうに膨らんでいる。芳しい桜の根元で瑜伽行を行えるなんて、最高に贅沢なことだ。
わたくしはこころ浮かれて外に出た。
廻りでは空海さまの指揮のもと、着々と堂宇が建てられつつある。わたくし達が住んでいた庵もつい一月前に増築され、僧坊に変化し、仏間を大きくし部屋数が増えた。
空海さまのお心遣いは、涙が出るほど有り難い。わたくしはそのおこころにお応えするため、自身の仏性を研いて拡大し、見事即身成仏せねばと感じる。
わたくしが山道に向かおうとすると、工人らしき出で立ちをした者が帳簿を手に僧坊に駆け込んでくる。
何かと思い見ていると、朋子が彼の相談を受け、様々な差配をしている。時折、会話のなかに「西の峰の……御堂は……」と聞こえてきた。
――西の峰……? 御堂とは……。
はっとして、わたくしは思い出す。
――まさか、麁乱荒神が何か?!
わたくしは西の峰の磐座に、麁乱荒神を封じた。あの事は忸怩たる一件である。空海さまは麁乱神に肉体を乗っ取られ、わたくしはいいように蹂躙されてしまったのだ。
が、疑念は残っている。
空海さまほどの御方が、何故麁乱神に肉体を奪われなさったのか。みすみす肉体を預けたまま、その支配権を取り戻そうとなさらなかったのか……余りにも、空海さまらしくない。
わたくしが物思いしている間にふたりの用件は終わったらしく、工人は帰っていった。
近寄ってきたわたくしに少し驚き、朋子は目を見張る。
「厳子さま……お山に行かれたのではなかったのですか?」
「朋子、先程のことはどういうこと?」
ついつい詰問口調になるわたくしに、朋子は肩を竦める。
「失敗してしまいましたわね――…。
厳子さまはあの一件に拭いがたい傷を持っていらっしゃるかもしれないから、絶対にお話しするなと叔父に言われたのに、気付かれてしまいました」
「では、やはり……麁乱神の?」
朋子は頷く。
「荒神を封じたあの場所に、荒神を祀る場所を造ろうと、叔父が。
今回ばかりは厳子さまにお頼みできないので、わたくしが叔父から堂宇建立の監督を命じられています」
「そう……」
確かに、注連縄を強固にしただけでは心許ない。祭祀場を造って、より堅固に封印したほうがいいかもしれない。
わたくしは朋子に頷き、同意する。
「そうね、そのほうがいいかもしれないわ。
大変だけど、お願いね」
動じることなく言うわたくしに、朋子は安堵したようだった。
わたくしは毎日桜のもとに通い、今か今かと咲くのを待った。
桜の幹にもたれ蓮華座を組み、なかに流れる樹液と意識を同化させる。わたくしは桜になる。
春の優しさに誘われ、蕾を綻ばせる。いのちを次代に受け渡すため、甘美な香を薫らせ、蜂や蝶を呼ぶ。天に向かい枝を延ばし、宇宙の英気を獲ようとする。根を張らせ地から大地の豊かさを貰う。
父なる宇宙の混沌から生まれた大地は、すべての生物にいのちを与える母。桜は地母の子。海や川、木々はその兄弟。わたくしとて、例外ではない。
わたくしは桜に同化したまま、自身の輪郭をなくす。意識を拡散させ、空に溶け込ませる。
自由で無限なる宇宙。過去・現在・未来を曖昧にさせ、拘りを無意味なものにする。
この宇宙にあって、わたくしという個に執着するのは無意味だ。いのちは、有限で無限だから――。
輪郭が消失した今、意識までも薄まってゆく。
わたくしは暫し無のまま、桜に添っていた。
ふと、覚えのある香を聞き、わたくしは目を開ける。
幹を隔てた後方を覗き込むと、思わぬ方がいらっしゃった。わたくしは吃驚する。
「空海さま……?!
まぁ、どうして、今日はお約束しておりませんでしたのに」
いつもは、わたくしが後宮から脱出した日を記念して、十八日に空海さまとお会いする約束を取り付けていた。が、今日は約束もなく、突然に摩尼峰に参られた。
当惑したわたくしの声に、にっと微笑まれ、空海さまは立ち上がられる。
「師が側におらぬのでは、しかるべき修行が出来ぬのではと思ったのでな」
「でも、お忙しいのでは」
空海さまは桜の幹に手を添えられ、語られる。
「思索や文筆ならば、どこででも出来ることだろう」
「はぁ、確かに」
よく状況が飲み込めぬわたくしを尻目に、空海さまは感じ入ったように申される。
「しかし、よい場を見つけたな。見事な桜だ。樹木としての波動が高いので、容易に瞑想状態に導いてくれるだろう。
長い間そなたが瞑目していたので、わたしも短い間だが瑜伽行を行っていた」
わたくしは顔を上げ、桜を見る。
――先程は咲いていなかったのに、桜が疎らに花開いていた。
「まぁ……何時の間に咲いたのかしら」
いささか間の抜けた反応に、空海さまは面白がられる。
「何だ、そなたは知らなかったのか?」
「えぇ、もうすぐ咲きそうだとは思っていたのですが」
「では、桜がそなたの靈氣に反応したのだな」
腕組みされる空海さまに、わたくしは振り返る。
「そんな、わたくしはただ瞑想していただけで、何もしていませんわ」
「だが、わたしがここに来たとき、確かにそなたは靈氣を放っていたぞ」
わたくしは口元を手で覆う。
わたくしは瞑想し桜と同化していたのだ。靈氣を発していたとしたら、無意識にだろう。
巫はその力でもって、人の内部に干渉し、操ることが出来る。無意識でもその力を発していたとしたら、危ういことになる。
僅かに動揺するわたくしの肩に、空海さまは手を置かれる。
「何も、そんなに悩むことはない。
深い瞑想状態に入ると、わたしでも勝手に靈氣が漏れ出ていることはよくある。
そなたには欲がないので、靈氣を発したとしても無害だろう」
優しい空海さまの労りが、言葉とともに手を通じて染み入る。
空海さまはわたくしの夫であり、密教の師であるが、巫としても先達である。その御方に勇気付けられると、有りの儘の状態を受け入れてもいいような気がする。
――でも、無欲というわけではない。もしかすると、わたくしは質の悪い魔物をうちに秘めているのかもしれない。
空海さまご当人に確認したわけではないので事実かは計り知れないが、空海さまはお若い頃に弁才天女と愛し合っておられたのだ。
わたくしは弁才天女に嫉妬している。女神はわたくしのいわば母神である。わたくしのいのちを生み出した母神を妬むなどあってはならぬことで、愚の骨頂である。
その上、我欲を持つことは、無明のなかを這い回っていることに他ならないのだ。それは、密教の――空海さまの教えに反していることになる。
俄かに曇ったわたくしの顔に、空海さまは片眉を上げられる。
「どうしたのだ?」
わたくしは俯き、言う。
「……わたくしは、無欲なわけではありません。
わたくしとて、愚かな女子に過ぎぬのです」
「厳子……?」
躊躇いはあった。が、どうにもならず、言うべきではない言葉が、口から零れ落ちる。
「夢で見ました。……あなた様が天川郷で弁才天女と契られていたのを」
空海さまは瞠目され、わたくしを見入られる。
「わたくしは、ただの夢だと思いたいのです。
ですが、幼い頃からずっとあなた様と弁才天女の夢を見続け、これが霊夢だと確信しておりました。
だから、夢を受け止めねばならぬのですが、わたくしの我欲が反抗するのです。
我欲に捕われるわたくしは、凡愚なる女子に相違ありませぬ……」
わたくしの告白に、空海さまは嘆息される。
空海さまはわたくしの資質を見込んでいらっしゃった。だから、わたくしの本質を知られ落胆なされていらっしゃるのだろうか。そうなっても、致し方ないことだ。
が、空海さまは思いがけないことを仰られた。
「……確かに、わたしは若い頃に弁才天女と契りを交わした。
女神はわたしに、顕教にはなかった真理を指し示してくれた。
が、それをそなたが辛く思うことはないのだ。
そなたがわたしと弁才天女の夢を見たのは、縁で結ばれているからなのだ」
「縁……?」
訳が解らず、わたくしは首を傾げて鸚鵡返しする。
空海さまは幾重もの情感が籠もった眼差しで、わたしを見ておられる。それが、わたくしにとって、なにやら居心地が悪い。
もう一言、空海さまは付け足された。
「……因ともいう」
因……そういえば、麁乱神が空海さまと己自身の因がどうのと言っていた。
そして、わたくしはその因と縁で結ばれていると……。
どちらにしても、今一判然としない。
不審なわたくしの面持ちに、空海さまはふっと笑われる。
「そなたは己を我欲に捕らわれた者という。
が、この世に生きて、それから逃れられた者がいるだろうか?
そなたは己が我欲に捕らわれていると悟り、それから逃れようとする。それは、何も知らぬより遥かによいことだ。
無明の闇から、仏性は育まれるのだ」
「無明の闇のなかから……」
それはすなわち、無明の闇を経ずして、即身成仏などできない、ということだ。
因とはわたくしのもと。わたくしを構成するもの。つまり、わたくしの一部なのだ。
弁才天女は我が母神。わたくしの因をわたくしが嫉妬するなど、おかしなことなのだ。
そして、女神は空海さまを教え導いた存在なのだとしたら、わたくしはふたりの繋がりを、謙虚に受け止めるべきなのかもしれない。
「……解りました。
もう、意味のない嫉妬などするのはよします」
そう言い、わたくしは微笑む。何だか、本当に素直に事実を飲み込めたような気がした。
すんなりと理解してしまったわたくしに、空海さまは少しばかり目を見開かれる。
「……物分りが好過ぎて、つまらぬな」
「えっ?」
「いや、何でもない」
意味深なことを申され、空海さまは桜から離れ山道を降りていかれる。
わたくしは慌てて後を付いて行った。
‡
どうやら朋子達にも空海さまが来られる連絡がなかったようで、皆、面食らい間誤付(まごつ)いていた。
が、それも束の間のことで、空海さまには新しく設えられた部屋に入っていただくことになった。寝具などはすぐさま山人が用意してくれた。
「あの、今回は幾日ここに留まられるのですか?」
わたくしは白湯を用意し、笈から荷を出される空海さまに、どういうおつもりでこちらに参られたのか解らなかったので、尋ねる。
「そうだな、そなたに密教の教えを口伝し終えるまでか」
余りに曖昧なお答えに、わたくしは目を丸くする。
わたくしに密教の教えをすべて口伝なされると仰るが、それを為すにはどれほどの時間が掛かるのだろう。
空海さまはお忙しい御方。だというのに、期限を区切ろうとなさらないのは、正気の沙汰ではないだろう。
「く、空海さま、それでは御身をわたくしが束縛してしまいましょう。
誰か、お弟子さまを寄越してくだされば済みましたのに……」
わたくしの言葉に、空海さまは厳しい眼を向けられる。
どきりとし、わたくしは何かまずいことを言ったのだと感じる。
「密教の教えは、戒師が授けるものである。
そなたを授戒させるのは、わたししかおるまい?
遠慮深いのはよいが、肝心なことを忘れては困る」
「はぁ……申し訳ございませぬ」
密教は基本的に口伝を専らにし、師弟関係を重視する。
空海さまはわたくしを直弟子とし、他の方には任せぬとお思いなのだ。
それはとても忝(かたじけな)いことだ。が、摩尼峰から出られぬわたくしひとりのために、わざわざご足労いただくと、空海さまの尊い時間を占有してしまうことになる。他のお弟子さま方にとっても偉大なる師である空海さまを独り占めするのは、何だか悪いような気がした。
俯き考え込んでしまったわたくしに、仕方がないというように空海さまは笑われた。
「そなたは、細やかなことに気を遣い過ぎるな。
それは長所であるが、付き合うものとしては面白みに欠けるぞ」
「そうですか?」
困惑するわたくしに、空海さまは複雑な微笑を浮かべられる。
「そなたは己が我欲に捉われているというが、わたしからすれば一欠片もそのような部分は見受けられず、何とも寂しいものだ。
もう少し、わたしを必要とはしてくれぬのか?」
「はぁ……自分で出来ることは自分でしたいと思いますし、空海さまの御手を欲しているのは、わたくしだけではありませんでしょう?
もっと、空海さまの助けを逼迫して求めている者もいるような気がするのです」
きょとんとして言うわたくしに、空海さまは大きく歎息を吐かれた。
わたくしはどうして空海さまがこんなに落胆なされているのか、理解できずにいる。
「やはり、そなたは根底からの巫女なのだな。
苦しむ者には惜しみなくその手を差し伸べるが、自身から手を差し伸べようとはしない。
確かに、そなたに教えることは少ないかもしれぬ。
が、それでも教授するためここに留まることを欲しているわたしを理解できぬのか?」
わたくしは首を傾げる。
師である空海さまが、教えることは少ないかもしれないけれど、わたくしに教えを授けるため、摩尼峰に留まることを欲される……?
それはつまり……ここに留まるための口実?
わたくしは思わず、眉を潜めてしまう。
仮にも密教の伝燈阿闍梨であられる空海さまが、そんなことをなさってよいのだろうか……?
が、そんなことは御当人を前にしては言えず、わたくしは押し黙った。
空海さまはそんなわたくしの様子に、呆れたような顔をなされた。
「……度し難いな、そなたは芯から巫女すぎる。
女子らしい色気や、駆け引きの「か」の字もない。男女の機微に疎く、まったく融通がきかぬ。
よい。意趣返しは今夜たっぷりとさせてもらう」
「え、えっ?!」
今までの話から、何故こう結論付けられるのか合点がいかず、わたくしは目を白黒させる。
にやりと口元に笑みを作られる空海さまの目が何やら怖かったのは、気のせいではないようだった。
深更の時になり、わたくしが自室に引き込むと、時間をあけて空海さまがひっそりと忍んで来られた。
わたくしは昼間の空海さまに、こもごも恥ずかしいことが起こりそうな空恐ろしい予感を抱いていたが、面には出さないように努める。
ふと、空海さまは床に備え付けられた盆に目を留められる。
盆の上には、小豆を混ぜた屯食(とんじき。握り飯のこと)と筍の木の芽和え、そして御酒が乗っていた。
「……これは、どうしたのだ?」
わたくしは肩を竦める。
「朋子が、変に気を利かせたのです。
高野のお山では御酒を許されているので、こちらでお出ししても大丈夫だと言っていたのですが……」
わたくしも、朋子の妙な気の遣い方に戸惑っている。
ここまで仰々しくされると、なんとも遣り辛い。
空海さまは苦笑いされ、酒盃を手に取られた。
「よいではないか、一献願おう」
屈託なく笑われる空海さまに、わたくしは頷き、御酒を注ぐ。
一息に干されたあと、空海さまはわたくしに盃を差し出された。
「そなたも」
頷き、わたくしも空海さまから御酒を受ける。
わたくし達は盃を差し交わし肴を摘みつつ、宵のときを過ごす。
思っていたよりも穏やかな空海さまに、わたくしはほっとする。
やがて酔いを深められたのか、空海さまはわたくしに凭れ掛かられた。
「空海さま……?」
「離れて寂しいのは……わたしだけか……?」
耳元に囁かれた言葉にどきりとし、わたくしは空海さまの横顔を見る。
酔いを含んだ瞳が、真っ直ぐにわたくしを見つめていた。
「こうして……抱擁を交わしたいと思うのは……愛すれば当然のことではないのか?
そなたは……そう思わぬのか?」
わたくしは空海さまの背に腕を廻す。
寂しくなかったわけではない。ただ己を抑えていただけだ。空海さまは何人にも求められる尊い御方だから、わたくしだけが専有していいものではない、と思っていただけだ。
そして、足手まといになりたくなかっただけだ。
本当は、離れていた月日に、侘しさを噛んでいたのだ。
「そんなことはございませぬ……ずっと、ずっとお逢いしとうございました……」
御酒のため身体の制御が利かぬのか、空海さまは全体重を掛けてわたくしをその場に横たえられる。
あとは、言葉はいらなかった。身体で、仕草で確かめるだけでよかった。
わたくしは愛する方の熱情を一身に受け止め、全身で喜びを露にした。
今ここにあるわたくしは、隠れもない事実。この一時が至福であった。
妙適の時を過ごした後、わたくし達は暫く眠りに落ちていた。
不意に素肌を弄られ、わたくしは薄く目を開ける。
目の前に、空海さまのお顔がある。酔いなど微塵も感じられない、どこか妖しい眼。空海さまはわたくしに圧し掛かり、乳房や奥処を愛撫していらっしゃる。
二度目の交歓に応じようと、わたくしは身体を開く。
『随分と積極的になったな、海部の巫女姫』
びくりとし、わたくしは瞠然とする。
この呼び方は……空海さまのものではない。
――まさか! ちゃんと封じたはずなのに!
この呼び方をするのは――まさしく麁乱荒神だ。
空海さまから取り除いたはずなのに……何故?
わたくしは力を絞って麁乱神の――空海さまの手から逃れようとする。が、強い力で床に押し付けられ、果たせない。
もがくわたくしを差し置き、麁乱神の指の動きは濃厚になっていく。わたくしの息も、悦楽に乱れる。
『この者の胤を受けた後だから、さすがに火が点きやすいな。
もうわたしを受け入れる準備が整っている』
言って、麁乱神はわたくしのなかに分け入ってくる。わたくしは背を弓なりに反らした。
「ど…して、……封じた、はずなのに……!」
容赦のない蠢きに、わたくしの声が掠れる。
――嫌だ! 身体は空海さまでも、中身はそうではない。わたくしは空海さま以外の男子に抱かれたくない!
こころとは裏腹に、わたくしの身体は乱れ狂う。このままでは意識が飛びそうなので、目の前にあるもの――麁乱神の肉体に無意識に縋る。
『そなたが封じたのは、わたしに取り付いていた雑多なもの。
わたし自身はそなたぐらいの靈氣では弾かれぬ』
では、空海さまは、今までずっと麁乱神にとり憑かれて……?!
信じられない事態に、わたくしの頭は真っ白になる。
否、動揺だけでそうなったのではない。麁乱神の動きに導かれて絶頂が近かったのだ。
「く、空海さま……ッ! 起きて、起きてェッ――!!」
わたくしは必死で麁乱神の背を揺すぶり、空海さまの覚醒を促す。
が、返ってきたのは麁乱神の非情な言葉だった。
『無駄だ…ッ、この者は、以前とは違い……深い眠りのなかに……入っている……!』
わたくしは頂点を突破する寸前、大きく震えた。
激しい衝撃に、涙が溢れ、零れる。
わたくしの奥に熱いものが叩き付けられたのを、朧げながら感じていた。
――以前とは違う……? それは、どういうこと……? まさか……空海さま?
あの日の麁乱神との情事は、荒神と空海さまによって仕組まれたものなの……?
為す術もなく犯され、放たれたものを受け止めてしまい、わたくしは打ちひしがれる。
抜け殻のように、意思なく身体を横たえるわたくしを、麁乱神は朝まで犯し続けた。