禁断の花
――匂う優婉、浮かぶ透明さ、艶やかな玉肌、たおやかな身体つき、しっとりとしたぬばたまの髪、くっきりとした目鼻立ち。
衣を纏っても薫り立つその色香に、男たちは彼女を「衣通姫」といった。
しなやかな艶媚を宿す括れた腰付きに手を添え、なだらかな丘陵を思う存分なぞりたいと思う男たちはどれ程いるだろう。
彼らは幸せだ。望み、愛されさえすれば、その希求を叶えることができるのだから。
だが、わたしにはその幸福がもたらされることは、未来永劫ない。
否、その肢体を愛で、愛を確かめあったわたしは、幸せなのかもしれない。が、それは不幸せと紙一重の至福なのだ。
――わたしは、彼女・軽大郎女の同母兄なのだから。
互いに乳母のもとで育てられたわたし達は顔を合わせる機会を持つことが少なく、倒れた父の見舞いに久方ぶりに行き合った妹は、神さびた美麗さをかもしていた。まだ幼い姿の妹しか知らなかったわたしは、一瞬で魂を奪われた。
相手は実の妹、手を出すことは倫理に背く行為。
が、わたしの身のうちには妹を求める想いが焔となって巻き上がり、四肢の隅々を廻りどうにもならない愛欲となって湧き立っていた。
今まで体感したことのない異常な疼きと熱。止める事が出来ず、渦巻く血の滾りを吐き出す場所を探し始めた。
悲しいことに、他の女の裸身を目の前にしても、わたしの肉欲はそれを捌け口として見做さない。
身を滅ぼす情欲に追い詰められ、絶望の淵にわたしは立たされた。
父の命が病に尽きるのを見守る他ない状況で、次なる大王よ、と臣下に目されているにも拘らず、わたしは驚倒する妹を草深い自然の床に押し拉いだ。
ただ、妹が愛しかった。玉の緒が擦り切れんばかりに焦がれた。理性よりも慕情の欲求が強かった。
今まで保っていた太子としてのあり方が突き崩される。清廉で聡明な第一王子の面影は消滅し、ひとりの女に焦がれ、胴欲にすべてを貪り痴戯に耽る愚者と化してしまった。
が、覚悟はできていた。それは妹に恋焦がれたため。妹を愛してしまったときから、既に運命は決まってしまっていた。
肉体を繋げた瞬間、咲き綻ぶ禁断の花を手折った罪悪感と、絶後の美を征服した歪んだ悦楽に、全身に強い痺れが走った。
一度乗り越えてはならない壁を突き崩してしまうと、止まらなくなる。
わたしは心身ともに喜悦に染まりながら、怖れ戦く妹と密かに戯け続けた。
蕩ける白脂の肌、なまめく媚態、散る香気――妹のすべてがわたしを堪らなくさせ、溺れさせる。他の女など、目に入らない――妹しか、愛せない。
あしひきの 山田をつくり 山高み 下樋を走せ 下問ひに 我が問ふ妻を 下泣きに 我が泣く妻を今夜こそは 安く肌触れ
身体を重ねる度に、泣き濡れる我妹。
誰よりも愛しき妻よ、そのように泣くな。ほとばしる我らの恋慕を、誰が咎めようか。神でさえも、我らの強い絆には太刀打ちできない。今宵こそは、安らかに互いの肌に触れ合おう――。
妹の朱に染まる耳に、願いを籠め囁き、やわやわとした肢体を抱き竦め想いを遂げる。
罪を犯す畏れに、妹は言葉も出ないようだが、隙間なく肌を重ねると、激しく乱れながらわたしの背にしがみ付き、高まる瞬間、爪を立てる。痛みさえも甘美で、愛おしい。
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば
わたしたちは乱れるまま、断ち切れぬほどに絡み付き、想いを溢れさせている。この愛を知られて人が離れてしまったとしても、もうどうでもよい。我らの仲を乱せるのなら乱してみよ、それが出来るのなら――。
それは世にたいする挑戦なのか、或いは神に対する反抗なのか。世間の風当たりに怯え虚勢を張りながら、声高に叫ぶ。
が、許されぬ恋は、容易く刈り取られる。
父の崩御後、殯のなか同母弟・穴穂が物部大前小前兄弟と組み、彼らの私邸に立てこもったわたしを攻め捕らえた。
父や臣に認められ、太子と見做されていたが、妹と通じたことが公然の噂として広がり、わたしの進退は窮まった。なんとか挽回しようと挙兵する算段を立てていたわたしに、物部大前が手を貸すと進言してきた。それに乗ったのが、運の尽きだった。
が、穴穂に捕らえられるのは納得がいかない。
穴穂は同じ穴のむじなだった。
彼はわたしのすぐ下の同母妹・長田大郎女と密通していたのだから。
穴穂は大王位が欲しかったのか、それともすでに人のものであり子まで生している長田を犯した罪を隠すために、自らわたしを隠れ蓑にしたのか、わたしには推し量ることはできない。。
為す術もなく縄に掛けられたわたしがただひたすら案じていたのは、離れた屋敷に籠められている愛する我妹のことだった。
わたしは咎められ命を断たれるか、大和にいられなくなるだろう。
完全に妹と引き離され、隔てられる。美しい妹は、わたしとの忌まわしい罪を薄めるため、または政の具として、他の男と閨をともにさせられるだろう。
違う男に夜毎抱かれ、わたしを忘れてしまうのか? わたしとの夜の記憶は、消されてしまうのか? 妹との愛は、なかったことになるのか?
――嫌だ、絶対に嫌だ!!
伊予国に引き立てられながら、わたしは声の限りに、魂が枯れるまで、歌い続ける。
風よ、妹に伝えてほしい。どこにあろうと、おまえの夫は、わたしだけなのだと――。
大君を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳ゆめ 言をこそ 畳とは言はめ 我が妻はゆめ
船上にありながら、わたしは涙に暮れる。止まらない涙と妹の涙を重ね、哀しみにこころは千々に張り裂けそうになる。
おまえも、泣いているのか。遠く離れた夫を想い、涙を流しているのか。柔らかな素肌を慰める者のいない現況に、身悶えているのか。
泣くのなら、密やかに泣いてほしい。これ以上わたし達の間を、引き裂かれないために――。
天飛む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く
伊予国に足を付けたとき、大和とのあまりの空気の違いに、かけ離れた距離と時間を感じる。
――もう既に、愛するひとは、他の男のものになっているかもしれない。
恐怖が足元からはい上がってくる。
切羽詰まって、わたしは天を見上げる。
――穹を渡る鶴よ、愛する妻がもしわたしを忘れそうになったら、わたしの名を告げてほしい。
愛する我妹よ、どこにいても、遠く隔てられても、わたしはおまえの傍にいる。ほら、あの鳥が、わたしなのだから。
天飛ぶ 鳥も使ぞ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね
‡ † ‡
ただ徒に時を刻む。
伊予温湯の附近に粗略な小家を建て、住み着いて久しい。侘しく暮らしながら、唯一思い出されるのは我が妻のことだった。
わたしのなかの時間は、妹と引き離されたときから変わらず、肉体の時間だけが留まらない。食を採るのも厭わしく虚無のなかに生きているというのに、髪は伸び放題に伸び、髭や爪を切ることも忘れた。
もう何も、どうでもいい。妹がいないわたしは、生きているとはいえないのだから。
ふと目をあげると、見慣れた影が。勢いづいて、まろびながらわたし目がけて走ってくる。豊かな黒髪を風に流し、裂けて乱れた下裳が足にまとわり付く。
「兄上様ァッ――!!」
喜びの涙が滲む叫び声。もう離れぬと力一杯駆けてくる。
わたしを求めて胸のうちに飛び込んでくる、柔らかな肢体。
あぁ、ただ一途に、ひたすら求めていたもの。この腕がたったひとつだけ触れたかったもの――。
「――――軽ッ……」
夢にまで見た我妹の顔が、溢れてきた涙で歪む。
手に馴染む腕の中の柔らかな質感。懐かしく、いじらしい。見えない引力で互いの身体が惹きつけ合い、熟れた接吻を交わす。
心の儘に口付けたあと、愛するひとの涙でしとどに濡れた頬に、手を添えた。
妹は確かな意志で力強く煌めく瞳を、ひたとわたしに充てた。
君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ
「引き離されてから月日が経って、寂しくて堪りませんでした。
一瞬でも離れられないと解り、待てなくなったのです。だから、わたくし自らお迎えに上がりました――」
鶴に託したわたしの想いを、妹は確かに受け取っていたのだ。
わたしの哀しみ、不安に、愛する妻は初めて雄弁に愛を示してくれた。
せりあがる激情に、わたしは妹の身体を力の限り抱き締めた。
求めあい、素肌を寄せあいながら、深く激しく唇を重ねる。
湧き出でる愛。止まらない衝動。離れられない身体。思うままに繋がり、悦楽を貪る。
窓の外から桜が降り注ぎ、わたしの背と妹の薄紅に染まった肢体をはかなく飾る。
三日月だけが光る瞑闇。
わたし達はこれ以上離されることがないよう、互いのいのちを結びあったまま、桜のごとく散りしいてしまおうと、言葉に出さず決意した。
長く糸をひく、けだるい一体感を止めつつ、わたしは身体の芯を合わせたまま妹と己の首筋を懐刀で掻き切った。
隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡を掛け 真杙には 真玉を掛け 真玉なす 吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妻 有りと 言はばこそよ 家にも行かめ 国をも偲はめ
国を偲ぶのも、家を護るのも、すべておまえがいなければ出来なかったことなのだ。
おまえとの生を積み重ねることが出来ないこの世に、わたしのいる場所はない。
ふたり手を取り、黄泉を下ろう――。