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木蓮の涙(2)



(3)




 冬の澄み切った宵闇を、綺羅と輝く幾多の星が飾っていく。柔らかな風が、馬上の高澄の頬に触れた。
 すでに、夜半を超え、あたりは静謐とした空間に支配されている。路を通う人の姿もまばらである。第の近くまで来て、高澄は軽く吐息した。
 彼の妻、公主・瑠璃はいつも彼が帰ってくるまで寝ずに起きている。彼女自身は、起きていたいから起きているだけらしいからそれでいいのだが、彼女に付き従っている乳母・橦瑳(しゅさ)は、瑠璃が高澄を待っている言い張る。何事も、橦瑳にとっては瑠璃が中心なのだ。たとえ、高澄が橦瑳の主人・瑠璃の夫であったとしても、関係がないらしい。
 今宵も機嫌が悪いであろう橦瑳のことを考えると、高澄は頭が痛い。
 ふと、彼は第を囲む漆喰の壁の向こうにある蝋梅の花枝を見る。彼の第の内に植えられている、梅とよく似た黄色の花弁をもつ花である。
 花の明るさが蒼黒に溶け込み、燭を灯したような趣を醸す。幽冥を和ませる。

「ほう……夜の闇のなかにあると、花もまた趣きが違うものだな」

 馬の手綱を引いていた従者が、なにか? と顔をあげる。丁度よいと、高澄は従者に言い付けた。

「第のうちに入ったら、あの蝋梅の枝を切ってまいれ」

 高澄が蝋梅の花枝を手に第に入ると、案の定、すこぶる虫の居所が悪い橦瑳がいた。傲然とした面持ちのまま、彼を迎える。

「これはこれは、遅いお帰りで、今宵はどちらの女人の肌に休まれたのでございましょう?」

 にっこりと造り笑顔で、橦瑳は言う。面倒くさそうに、高澄は橦瑳に蝋梅の枝を渡す。

「これを瓶に挿して、姫の部屋に運んでくれ」

 それだけ言うと、年若い侍女に外套を手渡す。

「お待ち下さい! はぐらかそうとしても、そうはいきませぬ!」

 橦瑳は引き下がらない。が、高澄も聞く気などもともとない。乳母の引き止める声も構わず、奥堂に歩を進めた。
 彼の寝室では、すでに寝衣に着替えた瑠璃が待っていた。茶褐色の髪を下ろし、侍女に髪をすかさせている。鏡に映った夫の姿に、振り返った。瑠璃の飴色の瞳が、無心に高澄を見つめる。

「ただ今、帰りました」

 公主である瑠璃に、丁重に言葉をかける。瑠璃は立ち上がった。

「今宵も、長いことお仕事がありましたのかえ?」
「はい、少し、手こずらされました」
「ま。陛下には、もう少し考えていただかねば。殿がくたびれてしまう」
「そんなことはございません」

 他人行儀な言葉を、ふたりは重ねる。
 実は、今まで仕事だったというのは大嘘で、本当はいつものとおり、妓楼で女と戯れていたのである。
 まったく、瑠璃は高澄の嘘に気付いていない。可憐な微笑みと、無邪気な瞳で夫を見ている。
 高澄は、瑠璃のこういう眼に弱かったりする。しばらくすると、自分から視線を外してしまう。

 ――可愛いとは、思うのだがなぁ……。可愛すぎて、こう、気持ちが盛り上がらん……。

 普通の女が相手なら、いくらでも歯の浮く言葉と場の雰囲気で女の気持ちを盛り上げ、疑わせる余地もなく落としてみせる彼である。が、瑠璃はそんな彼の邪心を跳ね返してしまうような純真さで、彼の気持ちをへこませてしまうのである。
 そうしていると、橦瑳が蝋梅を挿した花瓶を持って寝室に入ってきた。すました面持ちで、言葉もなく花瓶を寝台に横付けされた台に置くと、その横に用意されている高澄の寝衣を手に取り、彼を着替えさせた。先ほどの嫌味さなど少しも出さず、黙々と作業を終え、出口で頭を下げ出ていった。高澄は心の内で毒づいた。

 ――くそっ、あのばばぁが姫を箱入りに育てたから、俺が迂闊に手を出せぬのだ。

 魏の皇族の娘として生まれ、大切にかしずかれて育てられた姫が、箱入りにならぬわけがないのだが、そんなことはお構いなしに高澄は乳母を恨む。

「――殿、これは、庭に咲いている蝋梅の枝ではないのかえ?」
「ああ、そうですが?」

 問われて、高澄も蝋梅を見る。
 そして、違和感も感じてしまう。闇のなかにあったときの麗しさや妖しさが、すっかり消えてしまっている。
 部屋の中は外より明るく、蝋梅の明るい色身が霞んでしまうのだ。

「……どうか?」

 蝋梅の花枝を凝視する高澄に、瑠璃は訝しげな声をかける。

「あ……いや、外にあったときは、また違う趣があったのですがねぇ」

 瑠璃のもの問いたげな目に、高澄は首を振る。
 姫の疑念を振り切るため、彼は寝台に手招いた。

「――さて、床に入りますか」

 言いながら、高澄は瑠璃を盗み見る。
 手入れされた真直ぐな髪は豊かに背を被い、身体を包む白絹は薄手で柔らかな身体の線を隠さず現わしている。妙齢の乙女特有の肢体に、高澄は目を奪われる。が、周りの雰囲気や彼の意など少しも介しない瑠璃の微笑みに、すぐに気持ちが萎えてしまう。

 ――我ながら……損な性分だな。

 どうしてか、こういう時に限って思うとおりにできない自分に、彼は少し腹立ちを覚える。
 結局、ただ瑠璃のとなりで眠った高澄だった。


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 夕刻、姚花を助けた時から、高洋の兄を見る目が険しい。
 朝廷ですれ違う時も、高洋は高澄を憤然と睨んでいる。

 ――よほど、気に触ったのか? そんなに怒ることでもあるまいに。

 高澄は弟が些細なことで立腹しているのだと思っている。
 が、高澄にとっては些細なことでも、高洋にとってはそうではない。
 彼は、高澄が母・婁妃に姚花を預けた当初から彼女に恋していた。おそらくは、初めての恋だった。彼女の笑顔を見たくて、鈿や季節の花を送ったりしていた。
 それでも、彼女は一度も笑顔を見せたことがなかった。一年半もの間、高洋はただひたすら姚花の笑顔が見たくて欠かさず両親の第に日参している。できるのなら、己が彼女の記憶を取り戻してやりたいと思っている。彼女を――幸せにしたいと思っている。毎日、彼女を見つめていれば、きっと彼女も自分を見つめてくれる。そうして希望を繋いできた。

 ――なのに……どうして、兄上が!?

 姚花は、自分ではなく、兄・高澄に笑顔を見せた。彼には一度も見せたことのない笑顔を。
 それだけならまだしも、姚花は――兄に、潤んだ瞳を向けている。
 高洋には、それが我慢できない。

 ――どうして……どうして、兄上なのだ!?

 姚花の兄に向ける想いが恋だとしたら、これほど絶望的なことはない。
 正妻の馮翊公主以外に妾を数人持ち、子まで生ませている兄・高澄に恋い焦がれても、姚花は絶対に幸せになれない。高洋はそう思っている。
 今の高洋は、兄と姚花のことで頭がいっぱいで仕事に身が入らない。失敗ばかりしている。高洋のそんな姿は朝堂の人々の耳目を通い、やがて、彼の父・高歓のもとまで届いた。息子の不始末を知った高歓の苛立ちは、人々の目でも解るほどはっきり現れた。

「丞相殿は、近頃御機嫌ななめですね」

 政務の最中、崔季舒が斜め向かいに座る高澄に告げる。
 京師にいる間は、高澄のしている仕事の詰を、丞相である高歓が見ている。高澄だけでは権限的に決済できない分を、高歓は京師に居る短期間の日数でこなしていた。

「ああ……洋のことだろう?」

 崔季舒は頷く。

「確かに、近頃の太原公はそれらしくない振る舞いが多いように見受けられます」
「あいつはな、失恋の痛手から立ち直れないだけだ」

 書類を探りながら、高澄はこともなげに言ってのける。
 崔季舒は唖然とした。

「……どうして、あなたはそれを解ってらっしゃるのですか」
「それは、一枚噛んでいるからに決まっているだろう」

 しらっと、聞き捨てならないことを高澄は言った。

「い、一枚噛んで、とは……」

 言いかけて、崔季舒は詰まってしまう。高洋の失恋に、兄である彼が一枚噛んでいるとすると、考えられることはひとつしかない。崔季舒は頭を抱え込んだ。

「あ……あなたというかたは、やはり酷い人だと思います」

 やっとのことで、それだけ言うと、高澄はそうか? とまったく解っていない応えを返した。

「本ッ当に酷い人ですよ、なにも、弟の恋人を奪わなくとも……」

 など、崔季舒が言っているのを無視し、高澄は書類をまとめあげると、崔季舒の手許にある残りの書類を求めた。溜め息を吐きつつ、崔季舒は書類を手渡す。

「さて、これを父上のもとに持っていってくる」

 高澄は椅子から立ち上がった。


 渤海王・高歓の嫡子である高澄は、京畿大都督・尚書令(しょうしょれい)として、丞相である父が居ないときは、朝廷の実権を一手に握っている。父の後押しにより、若くして知者として見られている彼は、皆からも一目置かれている。彼自身、自分のそんな立場は当然だと思っている。
 今日も、裁決の書類を先に目を通して振り分け、父のもとに持っていく作業をしていた。父がいる部屋の前まで来た時、父と誰かが言い争っている声が聞こえてきた。誰か? と思う間もなく高澄は隣の空き部屋に入り聞き耳を立てる。

「近ごろのおまえは弛んでいる! おまえは、渤海王家の次子だと自覚しているのか!?」
「それは、重々解っています。わたしは、それに恥じない行いをしてきたつもりですが、今は……どうにもなりません」

 父と対話している相手は弟・高洋だった。低く落とした高洋の声が、重苦しく響く。高澄はさらに耳を澄ませる。

「今は、なぜどうにもならぬというのじゃ?」

 父の問い。が、高洋は何も言わない。沈黙だけが辺りを支配している。
 高澄が焦れてきた頃、同じなのか高歓が先に口を開いた。

「洋、おまえは、渤海王家にとって澄の次に大事な存在じゃ。おまえは、わしの亡き後、澄や弟達とこの家を引き立てていかねばならぬ。それに、万が一、澄になにかがあれば、この家を継ぐのは――おまえじゃ。おまえの、際立った判断力、わしは頼りにしている」

 一瞬、高澄は耳を疑った。
 父が、弟・洋をこれほどに評価しているとは、思いもよらなかった。父は、明らかに高洋を跡取りの候補として見ている。自分が死ぬようなことがあれば、渤海王家は……弟のものになるのだ。
 高澄の思考は暫時、凍結していた。それを溶かしたのは、切羽詰まった弟の声だった。

「父上は……俺を、認めて下さっているのですね?」
「そうじゃ。おまえは、渤海王家にとって大事な者じゃ」
「……では、俺に、姚花を下さい!」

 またも、間。どうやら、高歓は考え倦ねているようだ。高澄は茫然と聞いていた。

「――おまえは、まだ妻を娶ってはおらぬ。姚花を妻に望むのは、間違いじゃ。渤海王家の次子の妻として相応しくない」
「それでも、俺はどうしても、姚花が欲しいのです」
「姚花は、昭君が澄から預かったのじゃぞ。本来は、澄の持ち物のはずじゃ」

 父の言葉に、高洋は詰まったようだ。何も言えず、時だけが過ぎ去っていく。やっとのことで高洋の口をついて出た言葉は、叫びだった。

「お――俺は、姚花のことしか考えられないッ!
 父上、お願いですから、姚花を下さいッ!」

 忙しく、動く音。何かが、強く地面を叩く。もしかすると、高洋が土下座したのかもしれない。父は、しばし無言だった。が、高洋の必死の訴えは、確かに父に届いた。

「……女に溺れこむとは、男としてあまり勧められたことではない。それでも、どうしても、姚花がいなければやっていけぬか?」
「はいっ!」
「――では、側付きの侍女として召し使うがよい。昭君と澄は、わしが言い含める」
「……父上」

 高洋の声が、喜びで震える。
「失礼します!」と高らかな声音で告げられ、隣室の扉が勢いよく開けられる。高澄は信じられぬ思いで聞いていた。

 ――父上は……洋をいつもの状態に戻すために、姚花をわざわざくれてやるというのか……。
 それほど、洋が大事だというのか。

 思えば、父・高歓の弟に対する評価は、いつも高かった。
 幼少の時分、自分達を試すために、父が麻の紐を幾重にも括り付けて自分達に差し出したことがあった。高澄達は紐を解くことに心を砕いた。が、高洋は違った。刀を抜くと、何も言わずに紐を断ち切ってのけたのだ。高歓はそれを見て、満足そうに頷いていた。父は高洋の瞬時の果断さを誉め讃えた。それだけではない、幼い頃から落ち着き払って取り乱さない弟を、父は目に掛けていた。
 姚花に恋い焦がれ、いつもの冷静さを失っている高洋に苛立ちを露にしたのも、弟に期待してのことなのだろう。今まで、見下してきた弟が、初めて巨大な敵として高澄の目に映った。

 ――俺が死ねば、洋が家を継ぐだと……? ばかな、俺が死ぬわけがない。そんなありもしないことを、どうして父上は大真面目に話したのだ? 父上は……洋に、跡を、継がせたいのか?

 己の考えを打ち消すため、高澄は強く首を振る。
 そんなことはありはしない。鄭夫人の一件で廃嫡されかけたものの、ちゃんと彼を跡継ぎと認めてくれた。まかり間違っても、自分が死ぬことはない。死んで、弟が跡を継ぐようなことは絶対にありはしない。高澄はそうやって納得しようとした。
 が、一旦芽生えた黒い疑惑は、易々とは消えてはくれない。政務にもどったあとも、高澄の脳裏は父と弟の会話に支配されていた。疑念の芽が、消えぬなら、潰すのみ――。

 ――ふ……今の洋は、完全に姚花に心を奪われている。姚花さえ洋のものにならなければ、洋は今の状況を引き摺り続けることになる。

 どうせなら、完膚なきまでに、叩きのめすのがよい、起き上がってこれぬまでに――。ならば、相手の隙を突いて、抉ればよい。

「どうか、なさいましたか?」

 いつもは口数の多い高澄が黙り込んでしまい、崔季舒は怪訝な面持ちで見入る。高澄は顔を上げると席を立ち、崔季舒の前にくる。

「おまえ、使われていない俺の別宅があるのを知っているな?」
「はぁ、確かに知っていますが……」

 相手が何を言おうとしているのか解らず、崔季舒は眉を潜める。

「急ぎ、別宅に使人と侍女・奴や婢を集めるのだ。金ならいくらかかってもかまわぬ。
 刻限は、今日、日が落ちるまで」

「……えっ!? そんな、無理ですよ! 今から動いても人数が集まるかどうか……!」
「つべこべ言わず、動け!」

 鋭い気迫で、高澄は言い放つ。否とは言わせぬという高澄の態度に、崔季舒は顔を引き締め、頭を下げる。

「では、行ってまいります」

 告げて、崔季舒は背を向ける。高澄はその後ろ姿を満足そうに見守っている。
 歪んだ笑みを浮かべながら――。


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 公務を早々に切り上げ、高澄が父の第に向かうと、すでに、父の手回しが行っているあとだった。
 第内は慌しく、倉から若い女物の衣装や、鏡台・大小の棚・大きめの寝台など、備蓄してあった家具が持ち出され、台車に積まれ運び出されている。
 彼を出迎えた母・婁妃は言いにくそうに切り出した。

「澄……言い難いことだが、そなたに言わねばならぬことがある……。
 ――姚花のことじゃが、改めて、妾にくりゃれ。無茶なことだとは承知じゃ。どうか、妾の願いを聞いてたもれ」

 いつもは気丈で何ものにも動じない婁妃だが、今度の事では、かなり動揺していた。
 姚花は高澄の預かり人であり、こころと体に傷を残す身である。そのこころが癒えぬうちに、彼女を高洋に渡すのは、色々な意味で心配なことであるのだ。
 高澄は何も知らないような表情で聞いている。

「いきなり、どうなさったのです。そんなに困り詰めておいでで。訳をお話くださいませんか」

 丁寧に、母を落ち着けるように言う。

「……殿が、姚花を、洋の側付きにすると申されての……。姚花は、洋の第に今宵行くことになった。そなたには、姚花を諦めてもらわねばならぬ。頼む、姚花を妾にくりゃれ」

 縋ってくる母を宥め、高澄は母を椅子に座らせた。

「そうだったのですか。ならば、よろしいですよ。姚花を、母上に差し上げます。母上から、姚花を洋に手渡して下さい」

 聞き分けよく、柔和に言う。婁妃はすまなそうに、息子を見た。

「姚花は、今はどこにいるのですか? 孝瑜達と一緒ですか?」

 婁妃は弱く首を振る。

「殿の使いが用件を伝えてから、自分の室に引き蘢ってしもうた……。あの娘にとっても、衝撃じゃろう……」
「では、わたしが説得してまいりましょう。姚花も、わたしの言うことなら聞くでしょう」

 安心するように婁妃に言うと、高澄は母屋をあとにした。


 姚花のいる室は、奥堂のさらに奥まった一角にある。小さな部屋で、簡素な寝台と小さな卓子が置かれているだけというささやかなものだった。
 高澄が扉を開けると、寝台に凭れたまま、しどけない面持ちで彼を見た。彼女の視線に妖しさが加わり、高澄は瞬時、どきりとする。高澄の姿を認めると、姚花はまたも下を向いた。

「姚花、洋のもとに行くことになったそうだな」

 構わず室内に入り、至る所に置かれている花の瓶を見た。水仙など、今、栽培されていたり、路辺で咲き誇っている花々である。

「これはすべて、洋が?」

 姚花は小さく頷く。

「これらを、洋が手ずから持ってきたと思うと、何故かおかしみがあるな……」

 言いながら、高澄は姚花の前に立ち、敷物の上に直に座る。そのときになって、ようやく姚花は彼を見た。

「どうした? 洋のもとに行くのが嫌なのか?」

 高澄が彼女を覗き込むと、みるみるうちに彼女の瞳に涙が浮かんでくる。
 ぽろぽろと涙を零し、姚花は袖で口元を押さえつつ話し始めた。

「わ――わたしは、あのとき、はっきりと自分の心を告げ、子進さまの求愛をお断りしました。
 だというのに、こんな仕打ち、あんまりでございます。こんな、物のような扱い、あの頃とまったく変わらない……」

 そう言って、姚花ははっとする。高澄は片眉を上げた。

「――あの頃とは? おまえ、記憶をなくしているのだろう?」

「え、ええ……そう……です…が」

 姚花は瞠目し、震えている。

「どうしてか……今と同じように失望したことが、あったような気がするのです……自分のなかが、虚ろで……あの頃なんて……わたし、解らない」

 首を何度も振り、狂乱の態を見せる。
 涙が、小さな真珠のように、辺に舞う。哀しみにいたたまれず、胸を掻きむしってしまいそうな手を、高澄が掴んだ。

「――洋の所に行きたくないのだな?」

 姚花は何度も頷く。

「わたしは、物ではありません。わたしは、生きている人間です。こんな……嫌っ!」

 今にも崩れ落ちてしまいそうな姚花の身体を、咄嗟に高澄は抱き締めた。柔らかく、豊かな温もりが、彼の腕のなかに納まる。姚花は縋り付き、嗚咽を漏らしている。

「――おまえを、逃がしてやろうか?」

 耳元に小さく囁かれた声に、姚花は顔を上げる。高澄の強い瞳が、彼女を見下ろしていた。
 躊躇いもなく、姚花は頷いていた。



 抜け出すのは、至極簡単だった。
 姚花の身体をすっぽりと外套で被い、人目がない隙に親の第を駆け抜けた。今、高澄は姚花を乗せて馬を走らせている。馬に乗るのが初めてなのか、姚花は彼の胸にしがみ付いて震えていた。大路を駆け、街から離れる。草が生い茂った原を通り抜け、畦を過ぎる。風と一体化したような快さに、高澄はさらに馬を飛ばした。

「……どこまでいくのでございますか?」

 目深に被った外套ごしに、姚花は尋ねる。高澄は微笑みで応えた。
 どれくらい馬を走らせたのか、森を抜けると、広い野原に出る。吹き抜けの空間が、爽やかな風を運んでくる。夕暮れ間近な空が茜に染まり、足元を冷やす。
 やがて、高澄は自生した木々に馬を寄せ、小さくなっている彼女を馬から下ろした。
 おぼつかない足取りで姚花は歩を拾う。後ろから高澄が支えていた。

「――ここは?」

 不安を顔に浮かべる姚花に、彼は手招きした。

「ここはな、京師に入ってから暫くした頃に遠駆けで見つけたのだ。
 まだ誰にも言っていない。見せたのは、おまえが初めてだ。
 こんなわたしでも、たまには京師での事を忘れたくなるものだ。そういうとき、ここに来る。
 そこにある木は、春になれば美しい花を咲かすのだが、今は冬だから無理だな」

 はは、と笑い、高澄は姚花の手を引く。
 姚花は目を細めて辺を見る。そして、目に入った。冬枯れた木々の群れが。

「…………!」

 目の前には無いのに、何故か、花のある景色が浮かぶ。
 大きな花弁を重ね、しっとりと咲く花。白のものもあれば、紫のものも。桃や杏のような可憐さはないが、婉美に花弁を開いている。

「……あ」
「また、春になれば連れて来てやろう。色とりどりに咲いて、面白いぞ。
 なかなか色気のある花でな、しっとりとした趣がある。
 ……そうだな、おまえの雰囲気と似ているかもしれぬな」

 滔々と話す高澄の言葉を、しかし姚花は聞いていない。頭が酷く痛み、しきりになにかが木霊していた。

 ――ほら、美しいだろう? おまえの名はな、この花から取ったのだぞ。
 ――わしらは、おまえが無事に育ってくれればそれだけで嬉しいのだよ。
 ――すまぬ、わしらが生きていくには、これしかなかったのだよ。じゃが、おまえが美しく育ってくれて、本当によかった。

 感謝に咽び泣く声。己を優しく抱いてくれた、かいな。大きく嗄れた手……。懐かしくて、何故か哀しい。
 姚花の手は、いつの間にか冷えきっていた。

「この木に咲く名はな――」
「知っています……」

 黙り込んでいた姚花が、急に話したので、驚いて高澄は姚花を見る。

 ――姚花の面は、血の気が引いたように、真っ青になっていた。

「姚花?!」

 高澄は明らかに異変が出来している姚花に手を差し伸べる。

「この花の名は……木蓮……」

 言うなり、姚花は昏倒した。


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 ――木蓮、木蓮……生きていれば、きっと幸せになることもあろう、だから、なにがあろうとも、生きているのだよ……。

『いいえ、父さん。わたしは……どんなに願っても、幸せにはなれませんでした。ですから、わたしはお屋敷から逃げ出したの……。でも……やはり幸せにはなれなかった……』

 夢の中で、姚花は遠い昔に生き別れた父に語りかける。涙が、知らずのうち頬を濡らしているのが解る。
 なにか、優しい感触が、彼女の頬に触れる。姚花は瞼を開けた。
 彼女は、高澄に抱き抱えられていた。高澄の指が、彼女の涙を拭っていた。驚愕して姚花は身を起こす。

「し……子恵さま……」
「どうしたのだ? いきなり倒れこんだのだぞ」
「あ……そういえば……」

 姚花は、混乱の余り、気絶してしまったのだ。

「木蓮を見て、倒れてしまうなど、意外だな。この花に、何かあるのか?」

 頷くと、姚花は落ち着いた目で高澄を見つめた。

「この花は……わたしと同じ名なのです」
「!? ……姚花、思い出したのか!?」

 驚く高澄に、姚花は美しく微笑む。
 姚花は、確かに過去に木蓮の花を見ていた。先程見えたあるはずのない花の景色は、彼女の記憶に他ならなかった。

「わたしは……貧しい農家の家に生まれ、育ちました。
 わたしの家は子だくさんで、わたしの他に、兄や弟・妹がいたのです。父や母は畑を耕すのに精一杯で……そう、農作物の実りがある間は大丈夫でした」

 嫋々と、姚花――木蓮は自分と同じ名を持つ花を眺めながら、自分の過去を語り出す。
 数年前、彼女が生活していた地帯は酷い不作に陥った。作物の実りがない農家は大きな打撃を受け、姚花の家も例外ではなかった。生活に困り、米も、底を尽きた。
 その上、動乱期のあおりもある。魏が分裂し、物価は安定をなくした。
 育ち盛りの子供が大勢いる姚花の家は、生きていくために、選択を迫られた。苦渋の果、彼女の両親が選んだ道は……美しく成長した姚花を、人買いに売ることだった。

『父さんや母さん、弟達の役に立つなら、わたし、この身なんて惜しくはありません』

 そう言って、姚花は生家から永別した。
 人買いの手に渡った彼女の身柄は、仲介人の手に渡り、商人・揚に買われることとなった。
 揚が彼女に望んだことは、ただ厨などで働くことではなく、主人の性に奉仕すること――性奴としての道だった。
 その頃・姚花は十歳をやっと超えたところで、女の徴もまだ見えていない頃だった。
 まだ、青い果実のような硬い身体を、揚は容赦なく陵辱した。彼女の身体を辱めるだけではなく、鞭打ち、己の快楽のために様々な無体な仕打ちを行った。
 痛めつけられ、触れられていないところなどないほど嬲られ尽くされ、姚花の身体とこころは壊れてゆく。

『これが……生きているということ?』

 自分が売られたことで、親や兄妹が生きていけるのなら、それで満足だった。
 低い身分ゆえ、主のすることに異存があってはならぬと、姚花なりに納得していたつもりだった。
 だというのに、彼女を苛む手のおぞましさに、彼女は逃げ出したくなった。昼となく夜となく繰り返される苦しみが、彼女の心を痛めつけ、理性のぎりぎりまで追い込んだ。

 ――そうして、逃げ出したのだ。

 屋敷の見張りの隙をつき、抜け出したものの、衛兵に見つかり捕らえられかけた、そこを、高澄に助けられたのだ。

「わたしにとって過去は、おぞましく、厭わしいものでしかなかったのです。
 わたしは愚かにも、自分が自由など許されない身分だと、弁えていなかったのです。
 だから――記憶を失っても、思い出したくなかった。記憶を失ったあとも、わたしはきっと穢れきった自分から逃げ出したかったのですわ。
 やっと、自由になれたと思っていたのに……やはり、わたしには自由など許されないのかもしれません」

 泣きながら、呟く姚花はなよやかで、なまめかしい。

「子恵さま……わたしを、子進さまのもとに連れていって下さいませ。これ以上お側にいると、あなた様に御迷惑をかけてしまう」

 聞き取れるか聞き取れないかのかそけさで、姚花は高澄にそれだけ言った。

「本当に、それでよいのか」

 何も言わず、姚花は頷く。

「きっと、大丈夫です。
 前の主とは違い、子進さまはわたしを大事にして下さる。少なくとも、わたしを人として扱って下さいます」

 姚花は、諦めるつもりなのだ。諦めて、逃げ出す前のごとく、高洋に抱かれるつもりなのだ。
 堪えきれず、彼女の側に寄ると、高澄は彼女の細い身体を抱き締め、口づけた。暫時、温もりを確かめるように重ね、すぐに離れる。

「子……恵さま?」

 信じられないように、姚花は問う。

「姚花……いや、木蓮。
 このまま洋のもとに行ったのでは、逃げ出した意味がない。木蓮は、無理矢理抱かれるのが嫌で逃げ出したのだろう。自分の心を偽るな」

 衝撃的な高澄の行動に、暫し呆然としていた姚花だったが、真剣そのものの彼の眼差しに、姚花は頭を振る。

「わたしは愚かで、卑しい女だったのです。
 卑しい自分から逃げ出して、姚花という別の女になっていたかっただけなのです。所詮は卑しい女、他の者になるなど、出来やしなかったのです。
 幸せになりたいなど……大それた望みだったのです」
「幸せになりたいというのが、大それた望みなのか? 万人が望む、幸せを?
 違う! 他人のことはどうでもいい! おまえ自身の幸せを望んでみろ!
 俺が……叶えてやる!」

 姚花は目を見開く。
 高澄の真摯な瞳に、姚花は、木蓮は顔を手で被って泣き崩れた。

「もしも……叶うのなら、木蓮は、あなた様のお側にいたい……。あなた様のお側にいて、お仕えしたい……。でも……木蓮は、穢れているから……」

 崩れ落ちている姚花の身体を抱き起こすと、高澄はまた彼女の唇を吸った。今度は深く、長く。頑だった少女の身体がほどけるように緩み、青年の背に腕が廻される。
 身も心も預け切っおうた姚花を抱え上げると、高澄は馬に騎乗し、都に向け駆け出した。



 あたりにあるのは、深い闇。静閑として、時が過ぎるのも解らない。
 真夜中の玄さに浮かび上がるのは、少女の肌の白い輝き。少女は恥じらい、手で身体を隠そうとするが、青年の手の止められる。
 男という生き物の手に慣れ親しんだ少女の身体は、青年の掌の感触に身体を震わせた。

「いや……見ないで、わたしの身体は、穢れています……」
「そんなことはない」
「いいえ……前につけられた傷のあとが、醜くて……」

 少女は、自分の身体のそこかしこに引きつれて残る傷跡を恥じている。

「それなら、俺が浄めていってやる」

 青年は唇で少女の傷跡をなぞる。少女は息を詰めて、震える吐息を押さえる。
 あとは、息遣いだけが、闇の中に漂った――。






 ――あの方の腕に抱かれ、わたしは生まれ変わっていくようだったの。もしかすると、本当に、違う生き方ができるかもしれないと思った。
 あの方のお側にいられて、あの方に情けをかけていただけて、わたしは幸せだった。

 でも、幸せは……長くは続かないものなのね……。

 
 

(4)へつづく


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