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木蓮の涙(1)


 ――自分が一体、誰なのか解らない。それは、苦痛なことなのかしら?
 自分の名はおろか、親や兄弟、家など、自分に関する確たることをなくして、真っ白な自分になる。不安がなかったわけじゃないの。それでも、苦しいだけの『自分』から逃れて、楽になれた。わたしを迎えて下さった方々はみな優しくて、わたしは安らかさに浸っていられた。

 でもそれは、逃げていただけだったのよ。向き合わなければいけない『本当の自分自身』から。





(2)




 渤海王の第では、菊が盛りと咲いている。
 使人とともに両親の第を訪れた高澄は、風に乗って運ばれてくる菊の香気を聞きながら、馬を門前に止めた。厩舎番に手綱を渡し、澄は片眉を上げる。
 見慣れた黒馬が、厩舎のなかでたてがみを手入れされていた。色つやのよい去勢前の馬で、この家でこの馬に乗っているのはひとりしかいない。

「もうすでに、父上はお帰りか」
「はい、半刻前にお帰りです」

 厩舎番にそうか、とだけ言い、第の内に入る。
 彼の父・高歓は新たに宮城が建ち上がったのを賀するため、今日鄴に入ると高澄に連絡を入れていた。
 今回の滞在は、約二ヶ月強ということらしい。皇后となったばかりの愛娘・澪(れい)の様子を見るため、というのもあるだろう。
 高歓と婁妃の次女・澪は、天平四年から皇帝・元善見に皇后にと望まれていた。
 が、高歓は愛娘を後宮に入れることにあまり乗り気ではなく、その上沙苑の戦いで大敗してしまった負い目もあり、丞相位を返上していた彼は「未だ娘は幼いゆえ」と皇帝の申し出を断り続けていた。
 しかし、皇帝の意志も強かった。どんなに高歓に断られ続けても諦めずに、澪を后にと長い間申し出続け、三年後の興和元年(538年)、ついには根負けする形で高歓は娘を皇帝の后として差し出すことに決めた。
 澪を皇后にすることが決まり、昨年は芒山(ぼうざん)の戦いにおいて勝利を収めていた事もあって、改めて皇帝は高歓を丞相に戻した。
 京師から晋陽に遣わされた豪華な車駕に乗り、皇帝が派遣した使者や従者の長い行列を引き連れて、澪は東魏皇帝の後宮に入内した。
 この年五月に澪は立后し、孝武帝皇后だった姉・涛(とう)に次いで二人目の渤海王家出身の皇后となったのである。
 澪の立后にともない、宮城を新しく建て直すことになり、つい先だって新宮が竣工したのである。

 ――面倒くさいな。父上が帰ってこられたからといって、わざわざ出向かなくてはならぬとは。

 京師の在り様と宮廷の運営に関する報告は、書簡を往復させて行っていたので、改めて知らせるべきことは何もない。が、久しぶりの親子水入らずだというので、婁妃から必ず第に来なさいと言われ、彼は父に顔を見せに行った。
 正直、父上と顔を合わせるのは憂鬱だな、などと考えながら歩いていると、大柄な男児が高澄目掛けて回廊を走ってきた。その勢いに、ぎくりとした彼は歩みを止め、身構えてしまう。

「兄上っ!」

 突進してきたので、激突するかと思われたが、男児は高澄の目の前で急停止した。
 高澄は男児の余りの元気のよさに脱力すると、眉間を押え言う。

「騒がしいぞ、演(えん)。頭に響く」
「兄上、その包みって、お土産っ?」
「……違う、これは、母上への預かりものだ」

 同腹の弟・演の期待の声に、高澄は大きく溜め息を吐いた。
 高澄の第には、妻である東魏馮翊公主(ひょうよくこうしゅ)・瑠璃(りゅうり)の縁で、宮城から珍奇なものが届けられることがある。たまにお裾分け程度にそれらを両親の第に持ち込むことがあるが、彼がそういうことをするのは、頼みごとがあるときや、両親の機嫌を取るときくらいである。
 が、演は『美味しいお裾分け』に味をしめてしまい、兄が来るごとに期待の目を輝かせてくるのだ。

 ――まったく、だから図体だけでかくなるのだ。

 高澄は心の中でひとりごち、弟を置いて回廊を渡る。
 彼は演を木偶の坊で少しばかり利口な奴、と思っているだけだったが、婁妃は演を目に入れても痛くないくらい可愛がっていた。
 すたすたと早足で歩く高澄にめげず、演は嬉しそうに兄のあとを追った。


 明日には雪が振るかもというくらい寒いのに、第内は明るい。渤海王家に使える者たちは、高澄とすれ違うたびに立ち止まり、朗らかな面持ちで頭を下げた。すれ違う者が若い女であれば、高澄は思わず目で追ってしまう。
 権勢を誇る家だけあって、そこに使える者も容姿の秀でた者が多い。女も、美形の数が目立っている。
 回廊の対岸で、はにかんで頭を下げる数人の若い侍女に、高澄は笑顔で手を振った。すると、女達は色めき立って、黄色い悲鳴をあげた。

 ――ふふ、可愛いじゃないか。

 満足そうに、澄は内心頷く。
 端整な顔立ちをしており、男としての魅力を増してきている高澄に陶酔の眼差しを投げかける第内の侍女は結構多かったりする。が、それらの女もこの第に仕えているかぎり『父の女』であり、手を出すと必ず痛い目にあう。――というより、実際、何度か味見をしてその都度父の鉄拳を食らっている高澄である。

「お姉さんたち、きれいだね」

 演の言葉に、ぎょっとして彼は弟を見る。演はきょとんとしていた。余り言葉の意味を解っていないようだ。

「でもね、姚花(ようか)が一番きれいなの」
「――がきがませた口をきくな」

 めっ、と演を叱る。えへっと、演は舌を出した。

「僕、姚花と遊びたいんだ。でもね、湛と孝瑜がだめって言うんだ」

 演は少し拗ねる。

「そうか、孝瑜も湛も、姚花によく懐いているようだな」

 高澄は呟いた。
 姚花――一年半前の夏、彼が市場で助けた女は、婁妃の手厚い看病によって命を取りとめた。
 ところが、彼女は仕えていた豪商の邸宅から逃げ出すまでの記憶の一切を失っていた。何もなければ、傷が癒え次第市井に還すつもりでいたのだが、記憶の抜け落ちた女を放逐することもできず、今に至っている。
 彼女の身柄を高澄から託された婁妃は、苦肉の策として彼女を幼い子供達の侍女とした。身元不明の女を幼児の侍女とするのは危ういことだが、幸い、子供達にはつねに乳母がついているので、乳母に見はらせることにしたのだ。姚花は婁妃の期待に応え、精一杯勤めにはげんでいる。
 高澄が母屋に入ると、父・高歓を中心として家族が団欒を楽しんでいた。大きな卓子には鳥の焼き物や饅頭、季節の菜が並んでいる。
 高歓の膝には、見目麗しい女児と見違うばかりの弟・淯(いく)と、淯の双子の妹・洸(こう)が座っており、ふたりとも兄を認めるとはにかんで笑んだ。父は高澄の入室に気付くと、酒杯を運ぶ手を止める。

「おう、来たか」

 高澄は小さく頭を下げる。演は母親のもとに駆け寄り、抱きついた。

「母上、宋妃(そうひ)から孝瑜の早春の衣装を預かってまいりました」

 主人の言葉を合図として、使人は婁妃の侍女に包みを手渡す。

「おお、宋妃はお元気だったかえ?」
「はい、母上によろしくとのことでした」

 母と息子は、孝瑜と離れて暮らしている生母・宋馨麗(そうきょうれい)を思う。
 宋馨麗は、東魏の前身・北魏の皇族の妃となっていたが、北魏が高氏と宇文氏によって東魏と西魏に分かれる混乱の最中に、夫と生き別れた。
 宋妃はその後、兄弟の邸に身を寄せたが、あるとき高澄に見初められ、彼女の親族の仲立ちにより、彼の寵を受け孝瑜を生んだ。
 高澄の背後にいる高歓の力を見込んだ宋氏の、再度漢族の力を取り戻そうという思惑の絡み合いと、未だ夫と離婚していない身が起こした不貞の事実に苦しんだ宋妃は、高澄を愛するが故に身を憚り、孝瑜を高澄の母・婁妃に託した。
 宋妃は高澄の通いを拒絶しているが、年に数度、孝瑜に会いに来たり、季節ごとに衣類を届けたりしている。
 高澄にとって宋妃は、すでに懐かしい人の部類に入っている。彼よりも年上で、恋よりも色濃い情趣を教えてくれたが、彼自身は、所詮はかりそめの情熱だったと解している。宋妃も、それが解っているからこそ、身を引いたのかもしれないと思っている。
 彼が思い出に浸っていると、父親が水を注してきた。

「おまえ、馮翊公主との間はどうなっているのじゃ? 跡継ぎはまだなのか?」

 一瞬、高澄は口を噤むが、父の鋭い目つきに、仕方なく口を開いた。

「……いえ、まだ、その兆しもありません」

 高歓は大儀そうに嘆息する。

「はやく、馮翊公主との間に男児をつくれ。他の女との子ではだめじゃ。
 なんのために、跡継ぎのおまえに公主を娶らせたと思っている。おまえの跡継ぎは公主の子でないと意味がないのじゃぞ」
「……はぁ」

 内心うんざりしながら、高澄は父の説教を聞き流す。すると、雲行きが怪しくなってきた。

「それに、おまえ、薛眞度(せつしんど)の細君に手を出そうとしたそうじゃな。廷尉(ていい)の陸操(りくそう)から報告を受けたぞ。
 他にも、高愼(こうしん)が『大丞相の世子に妻を寝取られた』と言い触らしていると、噂に聞き及んでおる」

 ぎくり、と高澄はたじろぐ。
 つい先日、彼は美貌の誉れの高い薛眞度の妻・元氏を我が物にしようとして、崔季舒に命じて彼女を別宅に攫ってきた。
 が、元氏は激しく泣きながら固辞し、その声は館の外まで聞こえるほどだった。
 恥を掻かされた高澄は元氏を廷尉である陸操に突き出し、罪を着せようとしたが、陸操は元氏に咎なく、逆に高澄にこそ罪があると詰ってきた。高澄が刀剣類をちらつかせてどんなに脅しても、陸操は従おうとしなかった。
 ついには、高澄は元氏をものにすることもできず、逆に彼女と陸操から拭いがたい恥辱を味わされた。彼は、いつか陸操に復讐しようと企んでいる。

 高澄は人妻を略奪するのを好みとしているふしがあった。
 高歓が爾朱氏に反旗を翻したときからの同志であった高乾(こうけん)の兄弟・高愼の後妻である李氏を見初めた高澄は、元象元年の初め頃、高愼の友人であり、かつ高澄の腹心でもある崔暹(さいせん)を使って高愼を彼の第から離れさせ、その隙に高澄は李夫人に夜這いを仕掛けた。
 趙郡李氏(ちょうぐんりし)の令嬢である李夫人は貞節を重んじ、高澄を拒み続けた。が、怒り狂った高澄は李夫人の衣を完膚なきまでに引き裂き、精神的打撃を受けている李夫人に構わず彼女を犯した。
 李夫人は高澄に乱暴されたことを後日高愼に告げ、彼は恨みの余り常軌を逸した行動を取るようになった。高澄は高愼の行動を苦々しく思いながら見ているが、彼の友であり、高愼の第に忍び込むため手を貸してくれた崔暹から目を瞑ってくれと懇願され、ままならずいる。
 高歓はぎろり、と息子を睨み付けた。

「何を考えておる!!
 おまえが本能のままに考えなしな行動を取る故、わしの面目丸潰れではないか!!
 それを自覚せず、高家の胤を無駄に使いおって……。
 あまり、わしの顔を潰すでないっ!」
「は、はい……」

 父の余りの迫力に、高澄は言い返す気力が出てこない。が、言いたいことはある。

 ――高家の胤とは……あまりに赤裸々すぎないか? 父上とて、人のことをとやかく言う資格はあるまいに……。

 父・高歓には母・婁妃以外にも妾が大勢いる。それらには、彼の弟が何人か生まれていたりもする。
 誰よりも色にかけて放縦なのは、父上ではありませんか? と高澄は言いたくて仕方がなかった。
 形勢不利な高澄に、思わぬところから助け舟が現れた。

「まぁ、そう申されずに。
 あなた、今宵は鄭夫人が待っておられるのでございましょう? はやく行って差し上げねば……」

 やんわりと、婁妃が仲立ちする。高歓の顔色が変わった。
 今回の京師入りには、大爾朱夫人と鄭夫人が同行している。
 高歓が京師に行くと聞いて、鄭夫人は一緒に行きたいとせがんだ。 それを聞いた大爾朱夫人も黙っていられぬと、「妾も連れてゆけ」と高歓に命令した。
 故に、京師に到着した高歓は、第の離れに大爾朱夫人を、奥向きの最上の部屋に鄭夫人を留めた。
 今夜、父は旅に疲れた鄭夫人を慰労するつもりなのだ。すると、明日は鄭夫人に先を越された大爾朱夫人のご機嫌を取りに行くのではないだろうか。

『妾のことは、お気になさいますな。もう若くもございませんし』

 と突っ撥ねる、素直でない母にちょっかいを出すのが趣味な父は、必ず母にも手を出すだろう。
 何ともご苦労さまなことです、と高澄は父の夜の多忙さを感心しつつ呆れた。

「おお、そうじゃ。こんなことをしておれぬわ。大車(だいしゃ)が待ちくたびれておる」

 重い腰を上げると、侍女に手伝わせ、いそいそと支度を始める。高澄はやれやれ、と溜め息を吐く。
 
「まぁ、あなた、その衣にはこの帯のほうが合いましょう」

 婁妃も一緒になって夫の衣装選びを始める。弟たちは、こんなに早くに父が行ってしまうので、少し不満顔である。

「父上、鄭夫人はお元気ですか」

 お追従とばかりに高澄が言うと、高歓は恐ろしい目で凝視した。それ以上言うのは許さぬ、と暗に意味が込められているようだ。高澄は苦笑するしかなかった。

 ――あのときの後遺症を、父上は未だに引き摺っておられる……。

 鄭夫人・大車は濃艶な美女で、北魏分裂のどさくさに紛れて高歓が隠匿した女だった。
 彼女が父のものになってからしばらく経った頃、高澄は父がまつろわぬ山胡を討伐に出ているとき、鄭夫人に誘惑された。
 その頃、既に馮翊公主と結婚していたが、実は高澄は女性体験が少なかった。公主との結婚の前に、高歓と婁妃は相談しあい、信用のおける妓女を数人選んで、彼の性教育を施させた。
 それぐらいが、高澄の女性関係の初期の履歴である。結婚してからは、悲しい事に、宋妃と契り、王夫人と知り合うまで女日照りという状態であった。
 もちろんそこには、馮翊公主に対する遠慮も含まれている。
 高澄は刺激的な誘いに、自分の手管をどれだけ試せるか試み、鄭夫人と父のいない隙に情を交わした。
 少しばかり、過激な火遊びのつもりだったのだが、それが父に知れるところとなり、結果、外野を巻き込んでの大騒ぎとなった。かなり痛い目に遭った高澄は、父の、鄭夫人に対するのめり込みようを改めて知ったのだった。
 それ以来、父が怖くて鄭夫人には触れていないが、高澄からすれば、泣いていいのか笑っていいのか解らない類の思い出である。

 ――なんというか……父上は、まだまだお若いよな。

 すでに、高歓は中年も半ばを過ぎている。体力の衰えが出始めても、おかしくはない。
 が、母・婁妃を含め、次々に女を孕ませている父は、まだまだ御立派といえる。

「では、行ってくる」

 気負い充分に、力を込めて高歓は告げる。とはいえ、鄭夫人のいる場所はこの第の中であり、母屋であるこの棟と回廊で繋げてあるのだ。目と鼻の先なので、そこまで気合いをいれなくてもよいはずなのだが。ある意味、妻の婁妃に対する見栄とも取れる。
 解っているのか、婁妃はにっこりと笑った。

「いってらっしゃいませ」
「う……うむ」

 父の目許が赤く染まっていく。隠すようにして、父は室を出ていった。
 母は笑顔を絶やさず、夫の後ろ姿を見守っている。

「本当に、母上は父上の手綱の裁き方が上手ですね。こういう風にすると、父上も戻ってこざるをえない。
 母上は本当に夫婦円満の秘訣を弁えておられますね」

 したり顔で言う高澄に、婁妃の頬がひくり、と引き攣る。

「人聞きの悪いことを言うではないぞえ」

 ふふん、と高澄は鼻で笑う。先ほど母に助けられたのに、である。

「おまえも、あまり際どい遊びをするものではないのだよ。また、進退が極まってしまうようなことをやらかしたのでは、母が参ってしまう」

 あの一件では、婁妃もとばっちりを受けた。「息子の監督不行き届き」として、今後一切婁妃とは会わぬ、と高歓は妻に八つ当たりした。
 が、婁妃も負けていなかった。自身の故郷である平城に帰る、と梃子でも動かず言い張り、夫婦関係は捩れに捩れた。
 第三者の仲介が入って、やっとふたりは仲直りしたのである。
 が、高澄は周りに迷惑を掛けたと解っていない。

「そんなに酷いことをした覚えはないのですがねぇ。父上も大袈裟すぎる」

 婁妃は真剣な顔で向き直る。

「おまえ、本当に公主さまとうまくやっているのかえ?」
「母上まで、同じようなことを申さずともよいではありませんか。こればかりは、わたし達ではどうしようもありませんよ」
「まぁ、それはそうだがね……、ちゃんと、公主さまと夜を共にしているのだね?」
「くどいですよ!」

 赤面しながら、高澄は叫んだ。
 が、彼は公主・瑠璃に触れることが少ないのは確かだったりする。というより、瑠璃があまりにも可憐すぎて、触れるのをためらってしまうのだ。瑠璃は高澄と同い年なのだが、見た目や雰囲気はまだ乙女のようなのだ。比べてみれば、本当の少女、姚花よりも子供に見えてしまう。純真無垢で、清楚に愛らしい。高澄でなくとも、そんな相手には臆してしまうというものだ。
 とはいえ、それは高澄だけの都合である。

「妾も言うぞえ、はやく、公主さまとの男の子を生みなされ」
「孝瑜のところに行ってまいります!」

 即座に、高澄は母のもとから逃げ出した。


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 ――まったく……人事だと思って、父上も母上も簡単に言い過ぎる!

 不満たらたら、高澄は子供達のいる部屋に足を運ぶ。

 ――子供というものは、欲しいと思った時に出来るものではあるまい!? かえって、この女との間には出来てほしくないというときにぽっこり出来るものだっ!

 文句は止まらない。
 孝瑜のいる部屋の前につくと、呼吸を落ち着け必至で笑顔を造り、勢いよく扉を開けた。

「孝瑜、湛、元気にしているか――!?」

 部屋の内にあったのは、こじんまりと設えられて調度に、子供達の遊び道具である。人の気配はない。

「……誰もいないのか?」

 返ってきたのは、静寂である。
 高澄は頭をがしがしと掻くと、引き返そうとした。そのとき、

 ――ぼんっ!

 と、両足の脛に柔らかいものがぶつかった。何かと思った高澄は足下を見下ろす。

「ちちえ〜〜っ!」

 足にへばりついた固まりの片方が呼び掛ける。言うまでもなく、彼の長子・孝瑜である。高澄が見下ろすと、孝瑜は輝く笑顔を見せた。
 孝瑜の隣には、同じくにこにこ笑う孝瑜と同い年の弟・湛がいる。

「こ、孝瑜に湛、おまえら何やってんだ?」

 ふたりの子供は、ちょろちょろと高澄の足元を動き回り、前に来て屈みこんだ高澄の手を引っ張る。

「な、なんだ??」

 高澄は子供達に引っ張られて、桐で出来た小さな机の前に座らされる。
 机の上には、正方形のからくり箱のような物体があった。

「あにえっ、見てみてっ!」

 座り込んだ高澄の背中によじ登ってきた湛の重さに、前のめりに倒れそうになった高澄は、息子が差し出す正方形の箱を見る。
 高澄が見ているのを確認すると、孝瑜は箱のフタを開けた。勢いよく、なにかが飛び出した。高澄は腰を抜かしてしまう。
 出てきたのは、ねずみだった。ずっと閉じ込められて、自由を得たねずみは部屋の隅に逃げようとする。それを、ちょこまか追いかけた湛が押さえ付けた。

「だめ! 入るの! 孝珩に見せるのっ!」

 嬉しそうに湛はねずみを箱に戻した。どうやら、ふたりはからくりねずみ箱を孝珩に見せるつもりらしい。
 高澄は笑顔にならない笑顔を作っている。
 子供達は、からくり箱を見た孝珩が、高澄と同じ反応をするものと思っているのだろう。
 だが、多分、孝珩は驚かないに違いない。動き回るものが大好きな孝珩は、例によって、走り回るねずみを興味津々に見ているだけだと予想できる。孝珩は、動いているものを観察するのが好きなのだ。
 そんなことを言えば、子供達をがっかりさせてしまうので、高澄はあえて言わない。
 高澄が溜め息を吐きそうになったとき、背後から軽やかな衣擦れの音が聞こえた。

「湛さま、孝瑜さま、おいたはそれくらいにあそばしませ。子恵さまが困っていらっしゃいます」

 振り向くと、あでやかな少女が立っていた。彼を見て、少女は頭を下げる。

「いらせられませ、子恵さま」
「あ、あぁ、姚花……」

 少女――姚花は、華やかな笑みを浮かべた。
 豊かに波打つ黒髪。卵型の輪郭に紅をひかずとも赤く色付いた唇。衣の下に隠れた、徐々に女として実りゆく身体。少女とも女ともつかず、それなのにはっきりとなまめいて見える、不思議な娘だ。
 高澄は、妙に緊張していた。

「もうすぐ乳母さまがお菓子を持っていらっしゃいます。ですから、お待ち下さいね」

 姚花は子供達にそう言うと、子供達は飛び跳ねて喜んだ。

「子恵さまも、なにかお持ちいたしましょうか?」

 小首を傾げて、高澄にも聞いてくる。

「いや、俺はすぐに帰るからよい」
「そうですか――…。一緒にいらして下されば、孝瑜さまが喜ばれますのに」

 残念そうに、姚花は呟く。

「ぼく、しゃみしくない。ようかいるもん!」

 孝瑜は姚花の上衣の袖の片方を引っ張る。もう片方は、湛が掴む。姚花は困ったように微笑んだ。

「まぁ、そんなに引っ張らずとも、姚花はいつもおりますわ」
「ようか、つよいもん。ねずみ、だいじょぶ」

 自慢するように、湛が高澄に話し掛けてきた。
 へぇ、と感心して高澄は姚花を見る。姚花は気恥ずかしそうに俯いた。普通、大抵の女はねずみを見ると悲鳴をあげて逃げ出すものなのに、彼女は平気なのだ。記憶を失っているから平気なのだろうか。

「そうか、おまえ達は姚花がいれば寂しくないんだな。では、俺は帰るとしよう」

 意地悪く立ち上がり、高澄は出口に向かいかけた。子供達の不満の大合唱を、彼は背中でほくそ笑みながら聞く。

「やだやだ〜〜っ!」
「あにえ!」

 駄々をこねる子供達。
 高澄は聞かないフリをして、なおも出口を目指す。と、突然扉が開けられた。

「げっ、母上……!」

 目の前に、腕組みした婁妃がいる。

「お〜〜や、子供達にようがあったのではなかったのかえ? もう帰るのだね?」

 婁妃はちらり、と勝ち誇った目を高澄にあてた。高澄は眉間を押さえる。

 様子を見ていた姚花は、子供達の前に跪き、ふたつの手を取った。

「子恵さまは婁妃さまとお話があるようですわ。ですから、おふたりはわたしと遊びましょうか」

 少し、残念そうに高澄を見ながらも、うん、と子供達は頷く。
 子供達は積み木などを手にとって遊び出す。はしゃぐ子供達を、姚花は見守っている。

「本当に……ここまで回復して、よかったこと」

 婁妃は笑顔を見せる姚花を眺め、呟く。

「あの娘は助けた当初、ほとんど笑顔を見せなかった。いつも暗い顔をして、何かに怯え……。だから子供達の傍に置いたのだが、やはり、子供達が癒してくれたとみえる」

 高澄は目覚めた姚花と始めて会った日のことを回想する。
 寝台に起き上がった少女は、無表情な瞳で、彼を見つめてきた。婁妃が、彼女を助けた者だと言うと、彼女は虚ろな面で頭を下げた。記憶を喪失しているというはあとから知ったのだが、それ以上に、少女は心を蝕まれていると悟った。
 今は、くったくのない笑顔を浮かべ、記憶がないことさえ乗り越えているように見える姚花に、高澄は軽く笑む。

「それで、姚花はどれくらい思い出したのですか」

 息子の言葉に、虚を突かれたようになりながらも、婁妃はゆっくり首を振った。

「思い出そうとすると、頭が痛むそうなのだよ。
 回復した今は、記憶さえ戻れば、あの娘の好きなように生きさせてやれるのだがね……」

 哀しそうに、婁妃は嘆息する。

「どうしても戻さなくてはならないのですか」

 高澄は何気なく言う。意外そうに、婁妃は息子を凝視した。

「記憶が戻らねば、生きていくのに必要な情報が足りない。そんな状態で、あの娘がこれから生きていけるとお思いかい? それは危険過ぎる」
「わたしが見る限りでは、あの娘は記憶を取り戻したくないと思いますが。思い出そうとすると、頭が痛む。それは、彼女の身体が、思い出すのを拒否しているのでしょう。
 思い出すのが嫌なら、思い出す必要もないと思いますがね」

 簡単に告げる息子に、婁妃は唸った。

「そうは言うがの……そう単純にはいきそうにないのだよ。
 これは、丁度一年まえの夜なのだが、殿が、あの娘を幸しようとなさったのだよ」

 思い掛けない言葉に、高澄は色めき立つ。

「え……えぇっ!? 父上は、姚花にまで手を出そうとなさったのですかっ! 姚花は、まだ子供ではありませんかっ!」

 顔色を変えた高澄に、婁妃は呆れて言い放つ。

「いいから、最後までお聞き。結局は何もなかったのだよ……姚花が拒んだからの」
「……? 拒めたのですか? というより、父上がよく諦められましたね」

 呆気にとられ、高澄は肩の力を抜いた。実際、この国の実力者である父が望めば、叶わぬものはないはずなのである。女のことならなおさらである。女の意思など、まったく介されない。

「姚花の様子がただならなかったからね。叫び声が、叫びではなかった。魂の軋みというか……。
 あんな悲鳴は、もう二度と聞きたくないよ。その声でみんな起き出してしまってね。さすがに、殿であっても何も出来ようがなかったのだよ。
 妾は、あの娘を落ち着けるのに力を絞らなければならなかったゆえ、あの娘の恐怖と痛みを直視することが出来たのだよ。
 そんな状況の娘を、どうしてこのまま市井に放り出すことができよう?」

 真摯な眼差しで婁妃は息子を見る。高澄は困惑しつつ、言葉を選んだ。

「……そ、そうだったのですか……。まぁ、父上にはお気の毒というか……」

 心にもないことを、高澄は口にのせる。ふふ、と婁妃は小さく笑った。

「ま、殿にはいい薬だとは言えようよ。そのせいで、湛と孝瑜には酷く嫌われたからの。
『ようかをいじめた!』とか、『じいちゃ、きらい!』など言われてねね……。
 殿は『何でわしがこんな目に遭わねばならん!』と拗ねておられたよ」
「だから、今日父上の傍に湛と孝瑜がいなかったのですね。ずいぶん長いこと嫌われて……。ぷ、ぷぷっ」

 高澄は、最後には噴き出し、大きく笑い出す。吃驚して、部屋の内で遊ぶ三人が出口のふたりを見る。婁妃は肩を竦めた。
 父・高歓は婁妃が生んだ一番下の息子・湛を甚だしく鍾愛していた。つまり、父は自分の子のなかの誰よりも湛が愛しいのである。
 そういえば、湛の顔は母・婁妃似で、同じく父に溺愛されていた、皇后であり妹である澪も、婁妃とそっくりな顔立ちをしている。
 父は姚花に手を出そうとしたために、大好きな湛から黙殺されてしまう羽目になってしまったのだ。とはいえ、高澄は父のことを『お気の毒』などさらさら思わないが。
 先ほど己の女遊びのことを叱った父の、女に対する失態が、高澄には可笑しくて仕方がなかった。


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 黄金色に空が染まるころ、高澄は姚花とともに回廊を渡っていた。
 自分の第に帰ろうとする高澄を、姚花が見送りに出ると言い出したのだ。ふたりは回廊を踏みながら話している。

「本当に、もっと長く居て下されば、孝瑜さまもお喜びになられますのに……。ああは申されましても、孝瑜さまはきっとお寂しいはずですわ」
「……そうだな。あれは早くに母親と離されて、可哀想だとは思うのだがな……」
「だったら、もっとこちらにいらして下さいませ! 姚花も、子恵さまがいらっしゃれば……」

 言いかけて、姚花は口元を押さえた。聞き逃さず、高澄は先を促す。

「子恵さまがいらっしゃれば……なんだ?」

 甘い瞳で、高澄は姚花を見つめる。姚花はかっと耳まで紅潮し、上目遣いで彼を見た。赤く染まりながらも、訥々と姚花は言い出す。

「わ、わたし……子恵さまにああいう風に言っていただけて、すごく嬉しかったのです」
「? 何のことだ?」

 高澄は彼女が何を言おうとしているのか解らない。姚花は少し俯き、潤んだ瞳を上げた。

「わたしが目覚めたとき……苦しいところはないか、とおっしゃいましたので、何も思い出せない、と言いました。そうしたら、あなたさまは、『それは楽だな、前のことで悩まなくて済む』……とおっしゃって下さいました」
「あ……そんなことを言ったか?」

 彼はまったく覚えていない。姚花は暫時、目を見開いていたが、やがてくすり、と笑った。

「ええ、おっしゃいました。わたし、あの時、思い出さなくてはいけないのかと思っていましたが、あなたさまの言葉で思い出さなくてもいいのだと安心したのです」

 高澄はふと立ち止まり、顎に手を当てる。

「おまえは、思い出さないと不安にならないのか?」

 姚花の顔から笑顔が消えた。両の眼が曇り、小さな声音で呟き出す。

「わたし、今でも思い出そうとすると頭が痛むのです。それに、泣きそうになるのです。特に、自分の身体に残る傷跡を見ると、悲鳴を挙げそうになって……。
 できるなら、本当は、このまま思い出したくないのです。記憶のないわたしは、何も持っていないのと同じですが、それではいけないのですか?」

 言う少女の姿は、必死だった。混迷のなかに彷徨いこんでいる、そんな顔つきで、出口を求めて好調に詰め寄る。
 高澄は狼狽えた。こんな様子で言われると、生半可に答えることは、できない。
 大きく息を吸い、姚花を真直ぐに見据える。

「これから生きていくのに邪魔な記憶ならば、無理に思い出さずともよい。これから生きていくことが、大事なのだから」

 これでいいのか……? そう思いながら高澄は姚花を見る。彼女は俯き、そして美しい笑みを見せた。
 彼はホッとする。

 ――まったく……こういう真面目な話をするのは、俺の柄ではないのだがな……。女が困っているのだから、しょうがないか。

 にしても、と高澄は思う。彼が関わってきた女の中で、こんなに手のかかる女は他にはいなかった。宋妃はもともと大人の女なので、どちらかというと彼の方が甘えていた。孝コウの母・王夫人は利発なので、こちらが気を使わなくとも、言いたいことを察してくれる。瑠璃は清純で、聞き分けがよい。
 姚花は、こちらの考えの外のことを突き付けてくる。

 ――なんというか、女と付き合うのは、もっと楽なほうがいいのだがな。確かに、少しは手応えのある女のほうがいいのだが、考えさせられるのは、正直、疲れる。

 高澄はひとりで考え込んでいる。そんな彼を、姚花は熱い瞳で真摯に見つめていた。彼女の視線に、高澄は気づいていない。
 そのとき、前方から回廊を歩いてくる者が。ふたりを見つけると、小走りにやってきた。
 あっ、と姚花が小さく声を漏らす。

「子進(ししん)さま……」

 姚花の声に、高澄も他の人の存在を知る。
 幼さが抜けない面ざしでありながら、立派な筋肉をつけ、顔立ちも体つきも精悍になりつつある少年が、徐々にふたりに近付きつつあった。

「おう、洋。おまえも来たのか。残念だが、父上はすでに鄭夫人のもとに参られた」

 子進――高澄の同母弟・高洋(こうよう)は、父親に会うのが目的でここに来たのではないらしい。兄を一瞥すると、俯く姚花の前で止まった。

「姚花……。兄上を、見送りにきていたのか」
「はい……」

 増々声が小さくなる姚花と、彼女をじっと見つめる高洋を、高澄は面白そうに見比べていた。
 もしかすると、弟は、目の前の少女に会うためにここに来たのかもしれない――高澄はそう結論していた。
 高洋の姚花を見る瞳の色は、相当に熱い。明らかに、弟は、目の前の少女に恋をしている。かなり、真剣に。
 ――齢十一のガキが、ませたことをしている、と高澄は弟の様子を冷ややかに見る。
 が、姚花は少年を想ってはいないらしい。その証拠に、姚花は高洋の瞳をあえて無視するように下を向いている。その差は歴然としていた。
 実に、解りやすい。高澄は唇を釣り上げた。

「ふん……? そうか、そういう訳なのか。だったら、姚花が俺を見送るのは酷だよな? 
 姚花、いいから、洋を案内してやれ。門はすぐそこだから、俺はいい」

 激しい目で高洋は兄を睨み付ける。兄弟という情など少しも通わぬ、険しい目で。
 血相を変えて、姚花は高澄を見た。不安だけを写した瞳に、高澄は微笑み、少女の細い肩に手を置いた。言葉に慰めを乗せる。

「また、来る。孝瑜にそう言っておいてくれ」
「子恵さま、本当でございますね?」

 頷くと、高澄は手を離し、姚花に背を向ける。姚花は今にも追い掛けかねない眼差しで、高澄を見つめた。そんな姚花を、高洋は切なそうに眺めていた。

「……姚花。おまえ、兄上のことが好きなのか?」

 高洋の問いに、弾かれたように姚花は彼を見る。

「い……いえっ。わたしは、あの方に、恩義を感じているだけです……本当に……」

 姚花はまたも俯く。語尾は段々と掠れ、終いには消えてしまう。
 高洋はまた一歩相手に近付き、触れあうすれすれまで寄った。思わず、姚花は身構えてしまう。が、彼女の身体は易々と少年の腕の中に閉じ込められてしまう。堅く抱き締められ、姚花は喘いだ。

「い、いやぁッ!」
「俺は、不安なんだ――おまえを他の男にとられてしまわないかと」

 高洋は熱く囁きかけ、姚花の唇に己の唇を重ねた。


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 帰ったように見せかけて、実は帰っていない高澄は、少し離れた柱の影から、重なっている男女の陰を見ていた。

 ――せっかちだな、やり方が不味すぎる。あれでは、女は逃げ出すぞ。

 腕組みしながら、高澄は他人の決定的瞬間を覗き見して楽しんでいる。多少はけちを付けながら。
 少年の腕のなかにいる姚花が、必死に身じろぎしはじめる。精一杯の力で暴れた姚花は、やっとのことで高洋の腕から逃れた。

「な、なにをなさるのですかっ! お、お戯れは、およし下さいませ!」

 姚花は唇を何度も拭っていた。高洋はそんな姚花を傷ついた面持ちで見ている。

「俺……おまえは知っていると思っていた。俺がおまえを好きだと。毎日、髪飾りや花枝を持ってきていたから、いくらなんでも気付いているかと……。なのに、おまえは全然俺の気持ちに気付いていないっ! おまえは、他の男が好きなんだッ!」

 ――あ〜〜あ。一番最低な告白の仕方だな。相手が自分のことを何とも思っていないと、一目で解りそうなものだというのに……。ふられるのがオチだ。

 にしても、姚花に好きな男がいるというのは、本当なのか? 高澄がそう思っていると、姚花が泣き始めた。高澄は身を乗り出した。

「わ、わたしは……あなたのことをなんとも思っていません……。わたしがお世話になっているお屋敷に連なるお方だと……。それだけです……」

 姚花の言葉は涙を含ませ、はっきりと空に響いた。
 高洋は表情を歪ませ、荒んだ眼が姚花を凝視する。手が、足が、身体が小刻みに震え始めた。

「ほ、本当に……まったく、欠片も?」

 荒涼とした、行き場のない熱情が、高洋の声を掠れさせる。姚花は無言で頷いた。

「……そう、簡単に言われても、すぐには、諦め……きれないっ!」

 高洋の言葉の語尾が跳ね上がり、凶暴な絶叫と化す。姚花はひっ、と引き攣った声を上げた。

 ――まずい!

 高洋が姚花の腕を掴んだそのとき、高澄はふたりの前に飛び出した。

「……そこまで!」

 帰ったはずの高澄が現れ、ふたりは驚いて彼を見た。姚花は、はっきりと喜びを現わしている。
 驚きに固まってしまった弟を見て、高澄はふっ、と笑う。

「折角の告白だがな、格好が悪すぎやしないか? 普通はもっと器用に、女に嫌われないようにするものだぞ。あれでは、女に恐怖を与えてしまうだけだ。そうだろう? 姚花」

 姚花は何度も頷く。なおも、高洋は姚花の腕を掴んでいた。高澄はその手に目を止める。

「おい、洋、男と女っていうのはな、引き際が肝心なんだぞ。それ以上嫌われたくなければな、その手を離したほうが利口だ」

 言われて、はずみで高洋は姚花から手を離した。
 高澄に目で促され、姚花は第内に駆け込む。残ったのは、兄弟ふたりだけだ。高澄は、弟を余裕の目線で見ている。

「まだまだ子供だと思っていたのだがなぁ、一人前に女に惚れたか。ん?」

 挑発を含んだ兄の言に、高洋はかっと顔を赤らめる。身体を震わせ、怒気を滲ませている。

「あ……兄上に、言われたく、ないっ!」

 が、高澄の表情はそのままだ。

「まぁ、女に惚れるのはかまわぬが、やりかたがよくないな。
 女というものはな、男が押してばかりいると、逃げ出したくなるのさ。あ、これは男も変わらぬかもしれぬが。
 おまえ、姚花が怯えていたのに気付いていたか? あれでは、絶対に落とすことはできぬぞ。もっと、女の扱い方を学んではどうだ? 俺の馴染みの妓女を紹介してやろうか。色々教えてくれるぞ……」
「うるさいっ、黙れっ!」

 血走った形相で兄の言葉を遮り、睨み付けると、高洋は門に向かって走った。

 ――やれやれ……少し、からかい過ぎたか?

 彼とは違って、何事も真剣で嘘などつかない質の高洋には、遊びやからかいなど通用しない。今、姚花に迫っていたのも、真摯に想ってのことだろう。性格がそのまま現れて、直接的なものになってしまう。損といえば損な性分なのだ。
 どちらかというと、駆け引きを楽しみだすと、その恋は遊びの部類に入ってしまう。高澄はそういう恋が得意なので、高洋の猛進的な恋の仕方の欠点が見えてしまう。が、それを指摘しても高洋には直しようがない。

 ――ま、俺が何を言っても余計なお世話というものだろう。



 高澄は微笑むと、今度こそ帰るために回廊を歩き出した。



(3)へつづく


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