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木蓮の涙(もくれんのなみだ)



 ――いま、わたしが想う言葉が、あなたに届かないということはよく解っているの。わたしは、文字を残すことが出来ないし、口伝てする時間もない。そう、これは、わたしの心のうちだけで綴られる想い。それでも、あなたに向かって想わずにはいられない……。

 わたしは、あの方に出会うまで、生きていたとは言えなかったの。
 家族が生きるためにわたしに強いた選択を怨むつもりは毛頭ないの。でも、戒めに等しい恣意や、わたしを弄び賎しむ手から逃れられない生は、底無の闇というより他ないもの。わたしは、逃げたくて逃げたくて仕方がなかった。そして、実際、わたしは逃げ出したの、自我と引き換えに。
 あの方が助け出してくださらなかったら、わたしは今でも闇のなかを彷徨ったままなのかしら……。





(1)




 東魏(とうぎ)の都・鄴(ぎょう)は今日も活気に満ち溢れている。
 大路に市が並び、商いを行う人の張り上げた声が空に響き渡る。店舗に並べられた品物は高級そうなものから、異国で産出されたものなど様々にあり、それらを求めて人々がたむろしている。宮城を出入りする車駕が過り、夏の熱気とともに土埃が舞い上がる。日常的な光景だ。

「――本当に、このようなところにお望みの品が?」

 痩せ面で切れ長の目の男が、前を行く青年に声をかけた。ふたりとも、質のよい衣を纏い、市井に住まう者とは明らかに違う気品を漂わせていた。

「たしか、この辺の露店に、出入りの商人が持ち込んでいたものと
同じ鈿が、数倍安価に売られていたのだ」

 言う青年の眼差しは怜悧で、整った目鼻立ちに言質が、貴人であることを物語っている。その人は一目で脳裏に焼き付いてしまうような強い印象を醸し、若さが、それに拍車をかけている。

「で、件の舞姫に送られるのですか?」

 青年は対になっている露天の列を交互に睨みながら口を開く。

「まぁな。あの女は欲の皮が張っているわりに審美眼を持っていない。まがい物でも騙されるだろう」

 その言葉に、付き従っている男は軽く溜め息を吐いた。

 ――やれやれ……。鄴キ一の舞姫を「あの女」呼ばわりするのはこの方くらいしかいまい……。気位の高い妓女を騙すことなど、何とも思っておられぬのだな。

 だからこそ、幾度となく女達との修羅場をかい潜っていけるのだと、男はひとり納得する。
 と、青年がくすり、と小さく笑う。男は怪訝な眼差しを浮かべる。

「――なにか?」
「いや……何人でも浮かれ上がってしまう市に立ちながら、いつもと変わらぬ顰め面。少しも楽しくないのか、崔叔正(さいしゅくせい)よ」

 言われて、崔叔正――崔季舒(さいきじょ)は当惑した。
 彼は晋陽にて西魏との戦いに備えている東魏の丞相(じょうしょう)・大将軍である渤海王高歓(ぼっかいおう・こうかん)に見込まれ、若年ながら京師(みやこ)の朝廷にて郎中として仕えている。

 もともと、魏はひとつの大国であった。が、当時の魏は皇太后が権力を握り、奢侈と淫奔に耽っていた。省みられなかった軍部は反乱を起こし、そのなかで実力を付けた爾朱栄(じしゅえい)という男が、皇太后とその子である皇帝を殺し、自身の選んだ魏の皇族を皇帝に即けた。
 が、虚栄心が強く、権力を握って離さない爾朱栄は皇帝や朝廷から恨みを買い、彼は誅殺されてしまう。
 爾朱栄を失った爾朱氏は形成を立て直そうとするが、爾朱栄ほどの才覚を持つものはおらず、彼の幕下であった高歓が爾朱氏を討伐して魏の実権を握った。
 高歓は自らが選んだ皇帝を立てたが、「魏の主は朕であるぞ」という意識の強い皇帝は、西に居るもうひとりの爾朱栄の配下、宇文泰(うぶんたい)のもとに逃げ込んだ。
 ここにおいて、魏はふたつに分裂した。高歓が擁立する「東魏」と宇文泰が打ち出す「西魏」である。
 分かれた「魏」をひとつにし、自身がその権力を握るため、高歓と宇文泰は相争っている。
 前年(天平四年・西暦537年)にも、高歓の東魏と宇文泰の西魏は沙苑において戦ったが、東魏の惨敗に終わった。東魏は鮮卑族の軍人が多く在しているが、「自身の実力は丞相をも越える」と二心を持つ者もいて、内情は安定していなかった。
 兵力・国力ともに弱い西魏であるが、その分、彼等は知恵を絞って東魏との戦いに挑んでいた。二国の力は伯仲し、戦いはなおも続いていく様相だった。
 無理に笑顔を作り、崔季舒は彼の詮索を誤魔化そうとした。

「い、いえ……子恵(しけい)さま、そういうわけでは」
「俺に付き従っているように見せながら、その実はお目付役。いつも緊張していては肩が凝ろうぞ?」

 崔季舒はぐっと詰まる。
 高子恵――高澄(こうちょう)の父でである渤海王にそれとなく言い付けられた役柄を、見抜いてすっぱりと言って退ける相手に、正直舌を巻いた。
 高澄は渤海王・高歓の嫡子である。齢十八才の若輩であるが、知略に長けており、父・高歓から東魏の運営と軍部の決裁権を委ねられていた。現在は東魏の皇帝・元善見(げんぜんけん)の政務を父に代わって輔するところであり、京畿大都督(けいきだいととく)として、朝野において大きな力を持っていた。
 そんな人物が、供ひとりを連れただけで、市をほっつき歩いている。彼の顔貌を知る者は市井に余り居ないが、危険な事極まりない。
 崔季舒はとにかく用事を済ませて、早く高澄を第まで帰さねば、と焦っていた。
 狼狽えている崔季舒を面白く眺めながら、高澄は対岸の奥にある露店に歩み寄り、銀細工の鈿を手に取った。どうやら、目当てのものらしく、やおら店主と交渉し始める。渋る店主に畳み掛けるように言葉を継いでいることから、値切っていると見て取れた。
 思わず、崔季舒はどんよりと嘆息したくなる。
 出入りの商人の売価よりも安く流通している品物を、それ以下に値下げさせようとは……。ある意味、その鈿を捧げる舞姫に対する高澄の「価値観」が現れていると言えなくもない。これでは、余りにも舞姫が哀れというものだ。

「どうだ、半額以下で手に入れてやったぞ」

 小さな包みを手に得意げに戻ってくる高澄に崔季舒が近寄りかけた、その時……。

 ――きゃあああァァ――ッッ!!
 
 空を劈く女の悲鳴が轟き、一帯にざわめきが起る。
 ふたりが視線を走らせた先に、黒山の人だかりと大男に髪を鷲掴みにされた女があった。女は泣き叫び細い身体をのたうちまわらせている。大男は今にも女の身体を掴み上げようとしていた。
 まわりに集う人間達は、女に視線を釘付けにしながらも、助けるために動こうとはしない。

「……どうします?」

 一応、崔季舒は問うてみる。

「どうせよ、と言われてもな……。わざわざ俺がここで動かなくともよ……」

 応えかけたその時、高澄は硬直した。
 見えたのだ。女の、容貌が。
 まだ、若い。未だ少女ともいえる幼い輪郭。円らで黒めがちの瞳を涙で濡らし、苦悶の表情である。ほっそりとした肢体に女としての実りが見え、どこか均衡の取れない色香と美貌を放っている。
 やがて、女は精魂尽きてぐったりとし、抵抗の無くなった身体を大男がやすやすと持ち上げる。我に帰った高澄はよく通る声を張り上げていた。

「その汚い手を放せ!」

 皆の視線が一斉に彼に集まる。
 崔季舒は処置なし、といった風に頭を振った。


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「ま、まあぁぁぁ、おまえという子は!」

 高澄の母で渤海王高歓の正妃・婁昭君(ろうしょうくん)は驚愕と呆れが綯い交ぜになった顔をする。
 婁妃は高歓の糟糠の妻で、初め懐朔鎮(かいさくちん)の一将士だった高歓と苦楽を供にしてきた。高歓が丞相という高位に登りつめ封爵されたあとには、妃としての威厳と貫禄を見せていた。
 現在、高歓は晋陽に第を置いているが、婁妃は息子を監督すると言って京師に居残った。高歓は婁妃の申し出に反対し、高澄は目の上のたんこぶを煙たがったが、婁妃は頑として意志を貫き通し、高歓の京師の第で生活している。
 結局、高澄は女を助け、その足で母の住まう第に駆け込んだ。突然のことで、午後の緩やかなひと時を楽しんでいた婁妃は、口に含んだ飲み物を噴き出しそうになった。

「久方ぶりに妾に顔を見せに来たかと思うと、女を預かってくれとは……。どういう了見だえ?
 置くところがないのであれば、自分の第に置けばよかろう」

 ちくちくと嫌がらせを言いながらも、婁妃は侍女に女を介助させる準備をさせている。意識の戻らない女は、衛兵によって帳の奥へと運ばれた。

「母上もお解りでしょう。わたしの第に連れ帰ると、色々と面倒が起きてしまう」

 苦りきって、高澄は告げる。婁妃はつん、とあごを上げた。
 高澄は独立して自分の第を持ち、妻と住んでいる。
 その妻というのが問題で、東魏の皇帝の姉なのだ。鳴り物入りで降嫁し、おかげで彼の第に召し使われている者の半数が妻の実家――宮城から連れてきた者達である。とくに、妻――公主に付き従っている彼女の乳母が曲者で、彼の言動に対して様々な口出しをしたり、極まると皇帝に注進に及んだりする。さすがに、乳母に弱味を握られるようなへまをする彼ではないが、少しばかり辟易していたりする。
 婁妃は母だけあって、息子の内心を見抜いている。

「おまえ、近頃自分の第に帰る頃合が遅いそうだね。またぞろ、女のところに寄り道でもしているのだろうが、いい加減にするのだよ。
 何かにつけ、公主さまの乳母が探りに来るので、たまったものではない」
「こちらにまで来るのですか、あの乳母は……」

 げんなりしている高澄に、やっと婁妃は微笑みを浮かべた。

「まぁ、同情はするぞえ。家のためとはいえ、公主さまを相手にするのだから、さぞかし疲れるだろうて」
「いえ、さほどに苦はありません。乳母はともかく、姫は大層愛らしい人です。わたしの言うことも聞いてくれる」

 唯一の救いといえば、嫁いできた公主本人に、姫育ち特有の我が儘さがなかったことだ。どちらかというと従順で、大人しやかなので扱いやすい。悪くいえば、喜怒哀楽がわずかに欠如しているともいえるかもしれないが。
 渤海王の嫡子である高澄は高氏の利益の為に、東魏の公主は高氏との円満の為に、それぞれの理由でもって結婚した。
 が、彼は、今に……と思う。

 ――いずれ、俺がこの世を睥睨してやる。それまでの辛抱だ。

 そう思うときの高澄の面には、いつも以上の怜悧さが宿る。研ぎすまされた刃のごとく、剣呑な危うさを帯びる。その顔を知るのは、廟堂に集う廷臣だけだ。
 妻である公主をある意味愛しいとは思うが、これは、避けられない宿命だ。
 高澄が物思いにふけっていたとき、女を看ていた侍女が帳から出てきた。深刻そうな色を面に浮かべながら、侍女は婁妃の椅子に跪く。

「あの、お妃さま、よろしゅうございますか? あの女人なのですが……」

 婁妃が腰を上げたと同時に、高澄も一歩を踏み出す。が、彼は侍女に制止された。

「あ、あの、殿方は御遠慮願えませんか」

 それでも行こうとする彼に、婁妃は呆れて言う。

「おやまぁ、解らぬのかえ? 女だけ同行するということは、男には見られたくないという状況なのだよ。名うての漁色家が……名が泣くぞえ」

 鼻で笑うと、婁妃は侍女とともに帳の奥に入った。
 憮然とした顔で、高澄は帳を睨み付ける。
 母は己のことを小馬鹿にしてのけるが、そういう母も、己以上の漁色家である父のせいで、内心頭を悩ませているではないか。
 一目惚れした末に、押しかけ女房して高歓の妻になった婁昭君だったが、夫は東魏の実権を握ったとたん、女漁りを始めた。彼が抱え込んだ女はほとんどが高歓等軍部を見下していた漢族出身の者で、魏の皇族の妃となっていた女がほとんどであった。魏の皇族は魏が東西に分裂する動乱の折に蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、妻達は置き去りにされた。そんな女達を妾にした高歓は、ある意味懐深いといえるのかもしれないが、婁妃はひそかに高澄やこころを許せる者に、

 『昔なら手に入れられなかったはずの女人を手に入れることによって、権勢欲を満たしておられるのであろうよ』

 と手厳しく語った。
 とにかく、夫が沢山の女を蓄え始め、婁妃は選択を迫られた。彼女は懸命な道――夫や女たちに妬かず、女の面倒を細やかに見、彼女等の生んだ夫の子を我が子と思って寛容に接することを選んだ。
 婁妃は高歓が晋陽に住まうにあたって、何人かの妾達を添わせた。妾達の中で高歓が最も寵愛している爾朱氏の姫ふたり(両方とも、もと魏皇帝の皇后)や名門出身の鄭氏、信用の置ける貞淑な女性たち――韓(かん)氏や游(ゆう)氏に夫の面倒を見てもらうよう頼んだりした。
 婁妃は夫から離れることによって、こころの静穏を保っているといっていい。
 そんな母が己を煽るなど、片腹痛い。高澄はそう思うことで己を納得させた。

「子恵さま」

 呼び掛けられ、振り返る。夕刻で陰り行く部屋の入り口で佇んでいるのは、崔季舒だ。

「戻ったか。で、どうだった?」
「は。あの女は豪商・楊沌(ようとん)の婢だそうです。脱走したところを捕まえられそうになって、我々が助けたようです」
「で、楊とはもう話がついたのか?」
「はい。あらかじめ子恵さまに手渡されていた金子で事足りました。あと、あなたさまの御名も少し使わせていただきましたが」
「俺の名を? ……まぁ、よいか。しかし、鈿代の余った金に、思わぬ使い道があったものだ」

 崔季舒の事後報告を受けながら、高澄はまたも帳に視線を戻す。そうしているうちに、暗い表情をした婁妃が出てきた。先程の侍女の深刻さが乗り移ったような顔つきの母に、高澄は訝しむ。

「……母上?」

 婁妃は面をあげ、息子と一緒にいる崔季舒に気付く。婁妃は卓子にふたり分の椅子を侍女に用意させると、酒や肴の支度を残る侍女に言い付けた。勧められるまま、ふたりが座ると、婁妃も重く腰を下ろす。

「崔叔正殿。そなたも、関わっているのだね?」

 崔季舒が頷くと、婁妃は吐息した。

「あの娘、衰弱が激しい。
 身体中を鞭打たれ、爛れている箇所もあるのだよ。傷にやられたのか、熱も出始めている。それどころか……あの傷は、嬲られたとしか言い様がない。酷いものじゃ……」

 重厚な、沈黙。夏の風だけがさや、と吹き通る。

「持ちそうにないのですね?」

 至極、冷静に高澄が切り出した。
 暫時、ためらいがあったものの、婁妃は頷く。

「助けたそなた等に告げるのは心苦しいが、言わねばならぬ。覚悟をしていておくれ」

 またしても、静寂。崔季舒がちら、と高澄の様子を伺い見た。

「……まぁ、鈿の釣り銭と同価ですからね。あの娘が助からなかったとしても、わたしに損はない」

 婁妃と崔季舒が観察の目を高澄に注ぐ。長い間ののち、落胆の表情とともに溜め息ともつかぬ言葉を婁妃は漏らした。

「……おまえがそう言うのであれば、別に構わぬ。妾はせいぜいあの娘を助けるため手を尽くすとしよう」

 おもむろに婁妃は立ち上がり、帳のなかに戻ろうとするが、ふと、振り返った。

「崔叔正殿、折角酒肴を用意したゆえ、気長にやっていておくれ。
 ……それに、澄。ここに来たのだから、孝瑜(こうゆ)に顔を見せておやり。  近頃は伝い歩きも少しづつ出来るようになってきて、可愛ゆうなってきたぞ」

 孝瑜は一年前に生まれた高澄の長男である。
 肩を落とした婁妃の後ろ姿に頭を垂れると、崔季舒は高澄に囁いた。

「――少し、冷たすぎやしませんか」
「母上がか? 母上はお優しいぞ。ああやって、助かる見込みのない女を看病しようとする」
「――違います。そういうことを言うあなたを、冷たいと言いたいのです」

 まったく意に介した様子もなく、高澄は首を捻る。

「そうか? 別に普通だと思うが? 俺が冷たいというのなら、父上はその倍をいくぞ。それに、優しい男なぞ、気持ちが悪いではないか」
「……そうですか」

 崔季舒の言葉に、うんうんと何度も相槌を打つ高澄。が、崔季舒の言葉は決して納得して出たものではない。どちらかというと、議論を諦めたというほうが正しい。
 まったく、訳の解らぬお方だ――複雑な思いを抱え込んで崔季舒が高澄を見ると、彼はもうそこにいなかった。彼は出口である扉を開けようとしている。

「……あ、あの?」

 頓狂な問いかけの声に、高澄は面倒そうに振り向く。

「余計なところで時間を取られた。舞姫に鈿を渡してくる」
「孝瑜さまは? お会いにならないのですか」
「ああ、また会いにくればいいだろう」

 そう言って扉を開いた高澄の腕を、崔季舒ががっし、と掴み、強引に引っ張って外に出た。芯から心の籠らない高澄の物言いに、方便だと聡い崔季舒は気付いたのだ。

「ええ、あなたに冷たいなどと言ったわたしのほうが愚かだと解りましたよ!」
「お、おい……何をそんなに怒っている?」
「怒ってなどいません!」
「だったらそんなに引っ張るな、目付け役!」

 ――わたしだって、好きでこんなことしているわけではないっ! わたしは、丞相殿からこの人が羽目を外さないように歯止めになるように言われただけだ! それを、なにを好き好んで……!

 崔季舒は思ってみるが、口に出しては言えない。彼とて、もともと冷静な質なので、こんな風に激することなど、あまりなかったりする。この状態は、完全に高澄に引き摺られていた。
 大股で派手な音をたてながら、大の男がふたりして廊下を渡る。第に居るものの耳目が彼らに引き寄せられたのは、言うまでもない。
 彼らの来訪よりも先に、中年の女が幼児のいる部屋の前に出迎えに出ていた。

「ま、これはこれは……。孝瑜さまにお会いしにいらしたのですね」
「そうです」

 応えたのは、崔季舒。
 満面の笑みをたたえた女に部屋に通され、高澄はふたりの幼児を指し示される。ひとりは、高澄の息子である孝瑜(こうゆ)で、もうひとりは高澄と母を同じくする一番下の弟・湛(たん)である。
 湛は孝瑜と同じ年に生まれた。彼は故あって、我が子を母のもとに預けていた。
 当時、彼と孝瑜の母親は我が子を育てられる環境になく、丁度湛を生んだばかりの婁妃に相談をした。
 そこで、婁妃は一緒に孝瑜も育てようと申し出て、同じ乳母の乳を含ませて孝瑜を育てさせた。謂わば、湛と孝瑜は乳兄弟である。
 高澄は余り子に興味を覚えない性質なのか、母のもとに行っても、あまり孝瑜に会いに行く事はなかった。
 だから、これは息子との久しぶりの邂逅といえる。
 孝瑜と湛をあやしていた乳母が、彼の存在をふたりに教える。乳母に支えてもらって立ち上がり、孝瑜は彼に手を伸ばしながら、よたよたと歩いてくる。が、途中で転びそうになり、高澄は慌てて駆け寄り、我が子を抱き締めた。

「とぉちゃ」

 突然、孝瑜が高澄を見ながら声を出す。驚いた彼はどういうことかと乳母を見た。

「最近、片言を覚えられるようになられたのですよ。
 『お父さま』という単語をお教えしたら、このように覚えられました」

 我が子の成長ぶりに、高澄はしげしげと孝瑜を見るが、それが気恥ずかしくなり、わざとらしく目をうろうろさせる。

「どうなさったのです?」

 滅多に見られぬ高澄の有り様に、崔季舒は珍しそうに見守る。

「あ……なんだ、その……自分の子なのだが、何だかくすぐったいというか……」

 しどろもどろに言う高澄は、未だ父親という現状に慣れていないようだ。彼には、孝瑜の他に、四月ほど前に生まれた次男・孝珩(こうこう)がいる。が、抱き方があまりにぎこちなく、いかに父親らしいことをしていないか、よく現れている。が、実際会えば、やはり可愛いらしい。孝瑜の小さな手が彼の頬に触れると、甘い目でにっこり笑った。ひとしきり観察して、崔季舒はくすり、と笑った。
 高澄はその笑いを見とがめ、唇を尖らせた。

「――何がおかしい」
「いえ、別に」

 高澄の反応がおかしく、崔季舒は余計に笑い出す。これが、ひと睨みで一部の廷臣を凍り付かせる目の持ち主と同じかと思うと、妙に微笑ましく思えてくる。
 孝瑜を乳母に手渡すと、高澄は何を思ったのか、市で手に入れた鈿を崔季舒に手渡した。訳の解らない崔季舒に、高澄は思いもよらないことを言って退ける。

「気が変わった。おまえが舞姫に渡してきてくれないか」
「え、えぇっ!?」
「くれぐれも、丁重にだぞ。それとだな、渡す時に、一緒にこう言ってくれ。
『この鈿は特別な鈿です。その鈿を挿してくれれば、きっと子恵さまの夢を見ることが出来ます。そうすれば、子恵さまも必ずや同じ夢を見、明日こそ逢瀬を果たすことができましょう』……とな」
「――そんな子供じみた言葉に、だまされますか?」

 胡乱な目で崔季舒は高澄を見る。

「阿呆、信じさせるのがおまえの役目だろう。おまえの冴えた頭で、この言葉に真実味を持たせてくれ」

 ――はいはい、やればいいのでしょう。にしても、どうして今日わたしは使い走りばかりやらされているのだ?

 そんな心の声を出さず、崔季舒は高澄の言を受け入れた。

「解りました。やってみます」


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 舞姫のもとに赴かずに高澄が訪れたのは、彼の妾のひとり、王夫人・更紗(こうしゃ)の第である。王夫人とは長い付き合いで、彼女との間に次男・孝珩をもうけている。
 突然の来訪だったが、王夫人は驚きもせずに、使人達に酒肴の用意をさせた。いつ高澄が訪れてもいいように、落ち着いた色見の家具や、彼の好みの調度を揃えている。当然ながら、高澄としては居心地がいい。

「いや、おまえの前に居ると落ち着く」

 ゆったりと首座に着き、高澄は呟く。王夫人は瓶子を傾け、夫の差し出した杯に酒を満たしながら婉然と微笑んだ。

「そう言っていただけると嬉しゅうございますわ。たとえ、酒楼の舞姫に飽きられたから、こちらに参られたのだとしても、ね……」

 柔らかな口調で釘を刺され、高澄は苦笑いする。
 王夫人は聡い質で、機転が働き、嫉妬もするが嫌味になるほどではない。高澄は飽きやすい性分ではあるが、彼女と長く付き合っているのは、そういうところがあるからなのだ。
 一息に酒を呷り、ふと、高澄は芙蓉の傍らの布団の上で寝ている我が子に目を止めた。
 王夫人は苦笑いする。

「やっと寝付いてくれたのです。この子は、理由もないのに、よくむずかる子ですので、わたくしも大変なのですわ。
 この子の乳母の娘・芙蓉はよく寝ている子なので、育てやすそうですが」
「ふむ……」

 大して関心なさそうに、高澄は眠る我が子を見る。
 ちなみに、芙蓉という女児は、孝珩の乳母の娘で、いうなれば孝珩の乳姉妹にあたる。

「孝瑜さまは、さぞかし可愛くおなりでしょうね」

 言って、王夫人は微笑む。
 高澄は少し目元を赤らめた。

「どうも、幼子は危なっかしくていかんな。
 今日など、わたしのもとに近づこうとして、転びかけたよ。それなのに、もう片言で話し始めていた。
 子供とは親の知らぬ間に大きくなるのだなぁ」

 王夫人は苦笑いして指摘する。

「それは、あなたが子供をあまりに見なさ過ぎるからですよ。
 あなたは、子供よりも興味のあることが一杯おありですもの。
 でも、この子の成長はちゃんと見てやって下さいましね」

 王夫人は笑って言った。釣られて、高澄も微笑みを浮かべた。
 こうして、馴染みの妾と、我が子の話をしている。和やかで、暖かな空気に包まれる。高澄は幸せなのだと思う。
 が、こうしている今でも、昼間助けた女は死の淵を彷徨っているのだ。光り射す生と、深淵の闇に包まれた死との狭間に立っているのだ。

 ――たしかに、美しい娘ではあった……。

 未だに幼さを残す、いたいけな少女だった。どうやら彼の次の同母弟、太原公洋より三・四歳年上のようだった。あどけなさと女の危うさをともに持つ、なにやら心惹かれる娘だった。

 ――ふ、考えるだけ無駄だ。あの娘はもうじき死ぬのだから。
 そう思いながらも、高澄の心には、確かに「死なせるには惜しい」いう感情が芽生えていた。

「……た、あなた!」

 呼び掛けられ、高澄は我に返る。王夫人が、少し鋭い面持ちをして彼を見ている。

「もうっ、お酒、溢れてますわよ!」

 あっ、と手許を見てみると、斜になった杯から酒が溢れ、籐で編まれた敷物に染みを作っている。

「あなたともあろうお方が惚けてしまって。さては、可愛い女人ができたのですね?」

 王夫人が興味津々に高澄を覗き込んでくる。

「い、いや……今は、おまえだけだ、更紗」
「ま、上手いこと嘘をおっしゃって。わたくしの傍にいるときだけは、わたくしのことを考えてくださいませよ!」

 そう言って、王夫人はにっこり笑った。
 笹竹の簾が、そよ風に吹かれて涼しげな音を耳朶に運んでくる。
 様々なことが起った一日はこうして更けていった。




 あくる日、公務に出ている高澄のもとに、婁妃からこっそりと知らせがもたらされた。

「そうか、あの娘は助かったのか……」

 高澄の言質に、平静さだけではなく安堵も籠っていることに、崔季舒は微笑んだ。

 ――やはり、この方も冷たいだけではないのだな……。

 あからさまに喜色の浮かんでいる崔季舒の顔に、高澄は文句をつけた。

「おまえ、昨日から、何がおかしいのだ!?」
「いえ、別に、何もありませんよ」



 が、その日一日、崔季舒の喜色が消えることはなかった。




(2)へつづく


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