泣き虫〜「恋*5題」by.桜雨 -Rain of Pink-様より〜



 ――オレは、彼女に嫌われてるんだろうか?

 何度も何度もその問いが頭のなかを廻るけど、答えは出ない。
 ……ううん、そんなことはない。本当はよく解ってるんだ。



 ――本当は、あの娘(こ)に嫌われてるって。





 オレの父は、オレが幼い頃に亡くなった。
 父・高澄(こうちょう)は現在、文襄皇帝(ぶんじょうこうてい)といわれてる。けど、それは謚号(しごう)で、父は生きてる間に即位していない。

 ――即位したのは、オレのことを父親がわりとして育ててくれた主上・高洋だ。主上は父の同母弟で、斉を建国した。

 主上はオレのことをべたべたに可愛がってくれる。自分の子供たちの誰よりも、オレを側に置いてくれた。
 だから、次兄・高孝珩(こうこうこう)や、四兄・高長恭(こうちょうきょう)よりも先に、主上はオレに「安徳王(あんとくおう)」という王爵を与えてくれた。
 オレはとても幸せな立場にあると思うんだ。
 けれど、立場的に恵まれていても、「恋」とそれはまた別ってことに、オレは気付かなかったんだ――。



 その娘とは、主上の皇后・李祖娥(りそが)さまのもとで、初めて会ったんだ。
 うさぎとか、小鳥とか、小さな動物の喩がぴったりくるその娘は、李后さまの幼い従妹で、名前は李翠璋(りすいしょう)といった。
 李后さまに聞いてみれば、翠璋は趙郡李氏(ちょうぐんりし)の一族に列しているが、彼女の父・李騫(りけん)は既に亡くなっており、李騫の夫人である宋氏(そうし)が翠璋を養育しているという。
 彼女はまだ十二歳で、行儀見習いをするために、時折後宮に遊びに来る。
 とにかく、オレは翠璋に会ったとき、可愛くて可愛くて仕方がなかったんだ。
 目をクルクルさせて笑う顔や、はにかむ顔がとても愛らしくて。こんなこと言うと、長兄あたりに変なヤツっていわれそうだけど……食べちゃいたいくらい、可愛かったんだ。
 オレは翠璋に近づきたくて、贈り物を用意したんだ。ちょうどその時、オレがすごく気に入っていたものを。
 世の中の女の子も、オレと同じものを好き、と思ったのが、そもそもの間違いなのかな。――だから、嫌われたのかな。
 オレは後宮に通されるのを待っている翠璋を待ち伏せした。お気に入りのそれを大事に箱に入れて、彼女に差し出した。
 翠璋はあまり会話もしたことのない俺から贈り物をもらい、きょとん、としてたっけ。
 でも、彼女は嬉しそうに箱を開けてくれた。

「きゃああァ――ッ!」

 翠璋だけでなく、彼女に付いていた侍女たちまで悲鳴を上げ、俺はびっくりした。
 俺の贈り物が、落とされた箱のなかから飛び跳ねる。
 俺はそれを捕まえて、翠璋に差し出した。

「これ、やる」

 ずい、と俺は贈り物――大きくてすべすべした蛙を彼女の前に突き出した。
 翠璋は真っ青な顔をして、首を振りながら侍女にしがみ付く。涙を目に溜めながら、

「い…いや……っ」

 と蛙を見ないようにしながら、泣いていた。
 折角の贈り物なのに、俺のお気に入りなのに、受け取ってもらえないのは悲しい。だから、俺は蛙を彼女の目に見えるところに持っていった。
 顔を避けて、見ないように努めていた翠璋だったけど、しつこい俺に、神経が限界にきてしまったらしい。

「ぁ……」

 と弱々しく漏らして、翠璋は侍女の腕のなかで気を失った。

「きゃああッ、姫さま、姫さまぁッ!」

 数人の侍女に担がれて、翠璋は皇后さまのいる奥宮のほうに運ばれていった。
 呆然と見ている俺に、侍女のひとりが叫ぶ。

「いくら安徳王さまといえど、ご無体でございます!
 あとで、主上にご報告しておきますので、そのおつもりで!」

 ひとり取り残されて、オレは不味いことをしたんだ、とこの時初めて解った。



 あとから、李后さまに呼ばれ、オレは後宮に出向いた。
 おっとりと優しいほほ笑みを浮かべ、李后さまは仰った。

「翠璋殿の侍女には、わたくしから口止めしておきました。
 あなたを堕としめると、主上はお怒りになり、侍女をお斬りになるでしょう。
 いたずらに命が失われるのを見たくないから、わたくしはそうするのです。
 延宗(えんそう)殿、男子と女子の好むものは違うのですよ。あなたがよかれと行ったことでも、翠璋殿を傷つけてしまうことがあるのです。
 それを、お弁えなさいな」

 やんわりと、だがはっきりとオレを咎められた李后さまに、オレは衝撃を受ける。
 ――オレは、翠璋を傷つけた?

「李后さま……姫は、オレのこと、嫌いになりましたか?」

 震えているオレに、李后さまはため息を吐かれる。

「少なくとも、あまり良い印象は持ち得ないと思いますわ。
 あの姫はとても幼く、頑なですもの」
「……そう…ですか……」

 オレは、どうしたらいいんだろう。翠璋に、嫌われちゃったのかな……。
 あれ、やだよ。何で涙なんて出てくるんだよ……。
 オレはたらたら流れる涙を、拳でごしごし拭う。
 李后さまは苦笑いされて、少しかがみこみ、オレに目線を合わせられた。

「……諦められる前に、誠意をお見せなさいな。
 ひとのこころは、相手の有り様で変わるものです」
「誠意……どうしたらいいんですか?」

 縋るように見るオレに、李后さまはにっこり微笑まれた。

「それは、自分でお考えなさいな」





 李后さまに「自分で考えろ」と言われたけど、男と女は同じ好みの生きものだと思っていたオレには、見当もつかなかった。
 主上に相談しようかと思った。けれど、最近の御酒に溺れて、ひとの見境が付かなくなった主上のもとに行くのは、とても危ないような気がした。
 他に相談できるひとといえば……兄上たちだ。
 が、相談できるひとは、非常に限られている。
 次兄・孝珩は芸術バカで、ちょっと世間と常識がずれている。きっと、次兄にとって恋とかは圏外に決まっている。
 三兄・孝琬(こうえん)は、オレとは住む世界が違うと思っていて、会うと必ずバカにされる。絶対に相手にしてもらえない。
 四兄・長恭は岩より硬いカタブツで、恋愛のことに対して鈍いに決まっている。相談を持ちかけられて、物凄く困惑している姿が、目に浮かぶ。
 ……残すは、ひとりしかいない。そのひとは適当に遊び歩いているから、女の好みも知っているだろう。
 まず、消去法などしなくても、この問題にまともに答えられるひとは、初めからひとりしか居なかった。
 はぁ……と嘆息し、オレは笑われるのを覚悟して長兄・孝瑜(こうゆ)のもとに向かった。



「お、おまえ、か弱い女の子に蛙をプレゼントしたのかぁ!」

 長兄・河南王(かなんおう)孝瑜にヒィヒィゲラ笑いされて、オレはほっぺたを膨らませて拗ねる。
 それが、長兄には余計に笑えるらしい。

「おまえ、そんな顔すると、風船みたいな顔がもっと不細工になるぞ!」
「ど〜〜せ! オレは風船デブだよ!」

 長兄はオレのコンプレックスを遠慮なく突き廻る。
 オレの最大の欠点……それは、壮絶にデブなことだった。
 ゲラゲラ笑う長兄のもとに、困ったような顔をした長兄の妃・盧静婉(ろせいえん)殿が酒肴を携え近づいてきた。

「旦那さま、延宗さまをいじめて差し上げてはいけませんわ。可哀相ではありませんか」

 卓子のうえに酒肴を並べ、盧妃は長兄から一歩下がって座った。
 長兄は盧妃を振り返る。

「なぁ、おまえだったら、蛙もらって嬉しいか?」

 盧妃は複雑な顔をして、答えにくそうにしている。
 あぁ〜〜あ、やっぱり、普通一般の女は、皆蛙が嫌いなんだなぁ……。
 オレは改めて、自分を痛いヤツだと認識した。
 しょんぼりするオレに、長兄はもう一度盧妃に聞く。

「おまえだったら、何貰ったら嬉しい?」

 盧妃はしばらくの間、う〜〜ん、と考えていた。
 が、少し笑って、盧妃は恥ずかしそうに答えた。

「花を貰ったら、嬉しいですわ。
 大輪の牡丹や梅、菊の花もよいですが、可憐な野辺の花も見ていてこころが洗われます」

 盧妃はにっこり笑った。
 ちょっと意外そうに、長兄は言う。

「え、おまえ、花なんかがよかったのか?」
「え、えぇ」
「俺はてっきり、かんざしや首飾り、耳飾りがいいと思ってたんだがなぁ」

 今度は長兄が唸りだす。
 盧妃は苦笑いし、口を開いた。

「あまり知らない御方に身を飾るものをいただくと、却って下心があるように見えるものです。
 遊び慣れた女人なら、それでもよいかもしれませんが、殿方との触れ合いが余り無く、恋に初心な御方なら、逆効果になってしまいますわ。
 そうですね、まだ稚い御方なら、お菓子やお人形を贈られるのも、よいかもしれませんわね」

 オレは顔を上げて、盧妃を見る。
 盧妃は優しげに微笑んで、頷いた。

「……ありがと! 長兄に聞くより、一番解りやすかったよ!」

 「な、なんだと?!」と気色ばむ長兄を尻目に、オレは盧妃に頭を下げた。

「頑張って下さいな」

 盧妃の激励を受けて、オレは長兄の第を辞した。

「馬鹿ヤロウ、俺の立場はどうなるんだよ! 戻ってこい、コラ!」

 オレを呼び戻す長兄の激昂が第の外まで聞こえたが、オレはそ知らぬふりで自分の第に帰った。




 長兄たちの教えどおり、オレは翠璋の居る李騫の第に花などを届けに行った。
 初め、翠璋の母君である宋氏は、オレに対し怒りを顕にしていた。
 翠璋はあの日の蛙がかなりの打撃だったのか、数日寝込んでなかなか起きられず、夢にも蛙を見たらしい。
 それを思うにつけ、オレはとんでもないことをしたんだと、激しく後悔した。
 それでも諦められず、オレは毎日花や人形などを持って、翠璋のもとに日参した。
 が、オレに対する恐怖心からか、彼女はオレと会ってくれない。奥堂に引き込んだまま、侍女に「お帰りください」と言付けている。
 そういう毎日が、半年ほど繰り返された。





「延宗、君は最近花屋をうろついているそうだね?
 君は本来、花になど興味を持つ子ではなかったけれど」

 次兄・高孝珩の第に久々に遊びに行ったとき、書物を手に次兄は面白そうにオレに聞いてきた。
 照れて頭を掻くオレに、くすくす笑いながら次兄の侍女・鎮芙蓉(ちんふよう)が甘い菓子と冷えた薄荷水、それと熱い薄荷湯を持ってくる。

「延宗さまは、きっとお好きな方がお出来になったのでしょうね」
「え、そうなの?」

 まったく合点がいっていなかったというように、次兄は驚いてオレを見る。
 オレの前に菓子と薄荷水、次兄の前に薄荷湯を据えて、芙蓉は盆を抱えた。

「殿方が姫御に花を渡すときは、大抵気を引きたいときですのよ」
「そうなのか、それは知らなかった」

 本当に初めて知ったようで、次兄は顎に手を当てて考え込んでいた。
 やっぱり、次兄にとって恋愛事は、蚊帳の外なんだなぁ、とオレは何となく思った。

「それで、姫君との進展はおありなのですか?」

 芙蓉が知的な目でオレを見てくる。彼女は次兄の乳妹で、何かにつけのめり込みやすい次兄の時間管理や身仕度の世話、第の采配など、ひとりでこなしている。いつ会っても、彼女は頭のいい女に見えた。
 オレは俯いて、首を振る。
 いつまで経っても、翠璋はオレと会ってくれない。
 「気分が優れない」「誰とも会う気になれない」と、取りつく島もなく、毎回彼女の第から追い返されてしまう。

 ――オレ、諦めたほうがいいのかな。

 何度も、その言葉が頭を過る。
 けれど、諦められず、また贈り物を持って翠璋のところに行ってしまう。

「オレって、馬鹿なのかなぁ……。
 これって、諦めたほうがいいのかなぁ……」

 薄荷湯を啜っていた次兄の手が止まる。芙蓉もオレをじっと見ていた。

「諦めるには早いと思うけどねぇ」
「諦めるのは、早すぎますわ」

 次兄と芙蓉の言葉の内容とタイミングが被る。
 あら、と次兄と目を見交わしてから、芙蓉は改めて口を開いた。

「延宗さまは、姫君から直にお気持ちを聞いていないのでしょう?
 姫君からしっかりはっきりお言葉を聞いてから諦められても、遅くはありませんわ」

 オレは顔を上げ、次兄と芙蓉を見る。
 次兄は椀を卓子に置いて、手を組んで言った。

「君が今感じている気持ちは、わたしにはよく解らないが、諦めの良い男は、あまり格好良いものではないと思うがね。
 出来る限りの、最善のことを行ってから、諦めればいいと思うよ」

 そう言って、次兄は微笑んだ。

 ――諦めるのは、努力してからでいい。

 オレは、まだ翠璋の気持ちを聞いていない。
 せめて、諦めるなら、彼女の気持ちを聞いてからのほうが――完全に嫌われていると解ってからのほうが、諦めやすい。
 オレは頷いて、次兄の第をあとにした。




(2)に続く
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