河南王孝瑜(かなんおうこうゆ)さまに犯されかけてから色々あったが、僕は河間王(かけんおう)府の家政に戻った。
僕が居ない間仕事が止まりがちだった孝琬さまも、現在は普通に政務をこなしていらっしゃる。
「王、朝ですよ、起きてください」
寝具に包まれたまま惰眠を貪っていらっしゃる孝琬(こうえん)さまの肩を、僕は強く揺さ振る。
既に日が高く昇っており、昼近くなっている。寝起きの悪い孝琬さまをお起こしすることが、毎朝の僕の日課となっている。
うぅん、と機嫌悪く唸られたあと、孝琬さまは寝返りを打ち僕から背を向けられた。
僕は呆れつつ、力ずくで孝琬さまから寝具を引き剥がし、耳元で叫んだ。
「起きてくださいと言っているでしょう! もう昼ですよっ!」
琬エンさまは飛び起きられた。眉をしかめて両耳を指で押さえ、孝琬さまは不機嫌な顔をされた。
「……ったく、もっと穏やかに起こすことは出来ぬのか!」
「何言ってるんですか。
優しく起こして、起きられた例はないでしょう」
くしゃくしゃになった寝具を畳み、僕は孝琬さまの衣裳棚から本日お召しになる胡服一式を用意する。
「王は、夜のお遊びがお過ぎになっていらっしゃるんですよ。
もう少し加減なさらないと」
孝琬さまの着替えのお手伝いをしながら、僕は愚痴をこぼす。
僕と深い間柄になられた孝琬さまだが、以前と変わることなくお妾さま方を閨に召されていらっしゃる。かといって僕との関係も切れるわけではなく、お妾さまと致されない夜は、僕が性愛のお相手をしていた。
否、それだけではない。お妾さまと致されたあとも、どうした訳か孝琬さまは僕にちょっかいを出される。
僕を一方的に追い詰め果てさせてから、交わることなく孝琬さまはお眠りになる。僕はされるがままに翻弄されるのが恥ずかしく、お妾さまと致された夜くらいは放っておいてほしいと本気で思っていた。
孝琬さまの胡服の帯を絞め、僕はいつも通り尋ねる。
「今宵はどの姫御をお召しになります?」
政務に出られる前に、今夜孝琬さまに侍るお妾さまのご指名をしていただく。昼までに枕席に侍すお妾に今夜の予定を伝えておけば、ことを易く運びやすい。
孝琬さまはにやりと笑い、僕の頤を取られた。
「今宵は、おまえがわたしの相手をしろ」
僕はむっつりと眉を潜めた。
「……本当に、毎朝飽きもせずに戯ればかり仰られて。
そろそろ女人をひとり決めて、その方にだけ施射なさって下さい。
王も、御子をおつくりにならなければ」
「またその話か」
孝琬さまはうんざりしたように僕を払われる。
「おまえこそ、最近口を開けば『子をつくれ』だ。
そんなに言うなら、おまえが孕めばよいだろう」
「僕は男ですッ!」
まったく、この方は何を考えているのだろう。僕が御子をおつくりになるよう進言すると、いつもこう仰る。――完全に、僕で遊んでいらっしゃるとしか思えない。
何だか馬鹿らしくなり、ため息を吐くと、僕は朝の準備を進めていく。
「……とにかく、あとでどなたをお召しになるかお聞きしますので、考えておいてください。
これが本日の案件です。政庁に来られるまでに目を通しておいてください」
僕は今日の政務の内容をあらかじめ書簡に整理していた。それを孝琬さまに手渡す。
「厨に王の朝餉の用意をさせますので、出来たらお呼びいたします」
そう言って出ていこうとした僕の腰をさらい、孝琬さまは引き寄せられた。
「わたしの言うことが聞けぬのか?
主の枕席に奉仕するのが、妾の役目だろう」
低く艶やかな声で囁かれ、僕の腰が戦慄する。
――いつ聞いても、孝琬さまのこの声は苦手だ。
肉体を交わすようになってから、孝琬さまはわざと艶っぽい声と色気のある眼で僕を弄ばれる。孝琬さまの危ない目と声で、僕はすぐに腰が砕けそうになる。
辛うじて僕は孝琬さまを押し返した。
「だ、だれが妾ですかッ!
僕は孝琬さまの側近ですが、妾になった覚えはありませんッ!」
「おまえはそう思っているかもしれぬが、おまえがわたしの愛人であることは、第内の者すべてに知れ渡っているぞ」
孝琬さまは服のうえから僕の身体をまさぐられ、熱い息を耳に吹き掛けられる。びくッ、と僕の身体が弾む。
「だ、だから、その愛人というのも……」
途端に、僕はごにょごにょと口籠もる。
確かに、皆に噂されている。王の側近は御寵愛の男妾だと。僕がどんなに否定しようと、孝琬さまの閨に侍っているのは事実だから、仕方がない。
大体、どうしてこの関係が続いているのかも、僕には解らない。
はじめ、僕を半ば孝瑜さまに奪われたと思い荒れていらっしゃる孝琬さまを鎮めるため、僕は孝琬さまに抱かれた。孝瑜さまが奪えなかった僕の菊花を摘むことによって、孝琬さまは僕に対する独占欲を全うされた。
が、それからも僕は定期的に孝琬さまに抱かれ続けている。僕を孝瑜さまから取り返されて満足されていらっしゃるはずなのに、孝琬さまは僕を枕席にお呼びになる。その回数は、王妃さまやお妾さま方よりも、圧倒的に多い。
孝琬さまは謀反人の子である僕の主なので、基本的に僕は逆らえない。孝琬さまが僕に一夜の相手を望まれれば、僕は粛々と従う。
しかし僕も本心から嫌なわけではなく、孝琬さまに触れられることに抵抗はない。孝瑜さまに犯されかけたときは無理矢理悦楽を植え付けられたが、孝琬さまとのときはそうといえない。
凄艶な色香を含んだ孝琬さまの瞳を見ると、全身の血が騒めく。この方のなまめいた囁きを聞くと、勝手に身体がわななく。
――そうして、僕は堕ちていく。女のように喘ぎ、身体を開いて……それを男妾といわないで、何というのだろう。僕はどうかしてしまったのだろうか……。
孝琬さまに胡服を着崩され、露になった肩や項に舌を這わされながら、僕は自分でも情けないくらい上ずった声で言った。
「……わ、解りましたから、放してください。孝琬さまの仰るとおりにしますから……」
僕の息も絶え絶えな声に、だが孝琬さまは僕の帯を外され、下履きを半分脱がされた。孝琬さまの繊細な指の動きに、僕は呻く。
「……このまま止めるのは惜しい。もう少し乱れ続けろ」
そのまま敏感な胸と下肢を愛撫され、僕は愉悦に身を開け渡した。
孝琬さまは自分勝手で残酷で、気位が高い。――それでも、僕はどこかでこの方に惹かれているのかもしれない。
僕が居ないとどうしようもない方。僕に自由を許されず、他の者が近づくことを許されない。勿論、僕が他者を特別に愛することは、論外である。この方にとって、僕の特別は自分だけなのだから。
高澄(こうちょう)さまの嫡子として大人びていらっしゃるのに、中身はこんなに子供っぽい。そんな孝琬さまを解っているのは、長年お付き合いしてきた僕だけ。それが、妙に嬉しい。
――やはり、僕は身もこころも孝琬さまのものなのかもしれない。
ねっとりと濃い接吻を交わしながら、僕は孝琬さまの腕のなかで高みに昇った。
「はぁ……」
孝琬さまの閨に侍するため、湯で身を清めたあと、僕は忸怩たる思いで回廊を渡っていた。
孝琬さまの思うとおりに押し切られ、その上朝っぱらから引き摺られるように快楽に耽ってしまった。情けないこと、この上ない。
僕は乱れてしまったことで、たまらなく恥ずかしかったのに、孝琬さまは何ともないように政務に就いていらっしゃった。
これが今回だけのことならよいが、僕はしょっちゅう孝琬さまに振り回されている。
僕の肉体を自由に出来るようになってから、孝琬さまは玩具を得たように、朝昼晩関係なく僕の身体を触り放題に触られる。公的空間でも為されることがあるから、冷や冷やしている。――正直、孝琬さまが憎らしい。
そしてそんな孝琬さまを阻むことのできない僕自身が、情けなくてたまらない。主の行動を制御し補佐するのが側近の役目であるのに、こんな状態では側近失格である。
僕が頬に手を当てたまま歩いていると、後ろから肩を叩かれた。振り向くと、孝琬さま付きの侍女・潘秀英(はんしゅうえい)殿がいた。
「髪を下ろしていらっしゃるということは、今宵も殿の御寝に侍るのですか?」
にこにこ笑って言う秀英殿に、僕は苦笑いする。
孝琬さまの枕席に侍るときは、側近として侍する折と区別するために、僕はいつも髪を下ろしている。一番初めの時に髪を下ろしていたのを、孝琬さまが殊の外気に入られたため、そうすることとなった。
「僕としては、孝琬さまには真面目に女人と睦まれてほしいのだけれど。まだ御子もお生れでないし」
「そうですわねぇ。殿も十八歳におなりですもの。御子がおありになってもおかしくないお年ですわ」
早婚の傾向にある斉皇族の方々は、早々と女人に御子を生ませている方が多い。高澄さまも十六歳で孝瑜さまを生された。主上の皇太子も、主上が十代中頃に李皇后さまから生させた御子である。
孝琬さまも早々と女人と関係を持っていらっしゃったが、ひとりの女人と集中して関係を持たれていない上に、毎晩違う女人を召されているので、懐妊まで到らないのである。
「僕のことなど構わず、孝琬さまはもっと女人を召されたらいいんだ」
「あら、殿の御寵愛の御方が、そんなことを言ってよろしいの?
殿に侍る方のなかで誰よりも寵を受けていらっしゃるのに……」
秀英殿の言葉に、僕はじっとり眉を寄せた。
「あのねぇ、僕は孝琬さまの側近であって、妾じゃないんだ。
みんな僕のことを孝琬さまの男妾だとか愛人だとか言うけれど、僕はそんなつもりないから」
「でも、髪を下ろしていらっしゃるのは、普段と区別するためなのでしょう。
髪を下ろしているときは、殿の寵人ということですね」
秀英殿の楽しそうな言葉に、僕はうっと詰まる。
それでも悔しくて、僕は言い返した。
「本当は、こんなことするのは嫌なんだ。
始めてお会いしたとき、孝琬さまは李昌儀(りしょうぎ)の息子を憎むと仰ったのに、何で今妾扱いされるのだろう」
「敵から愛人に昇格されたのですね」
再度、僕は唸って黙り込む。
ふと、何かを思いついたかのように、秀英殿は僕の手を引っ張り、走りだされた。
突然の成り行きに動転し、僕は焦る。
「秀英殿?!」
「殿が今も李昌儀さまをお嫌いなら、殿の士隆殿への執着を逸らす方法があるかもしれませんわ!」
「えっ、ちょっと待って!」
何が起こるのか解らない僕を尻目に、秀英殿は僕を彼女の部屋に引き込んだ。
秀英殿の思惑通りの格好をさせられた僕は、慣れない足捌きで孝琬さまの閨に向かった。
『よろしいですか、李昌儀さまのなさる所作に倣って身動きして下さいね』
母の所作の真似……確かにどのようなものか知っているが、あれを僕にせよというのか。秀英殿は酷だとは思わなかったのだろうか。
僕はため息を吐き、孝琬さまのお部屋の扉を叩いた。なかから「入れ」と孝琬さまの声がする。
静かに扉を開き、僕は楚々とした動きで入っていった。
「遅いぞ、いつまで待たせる……………………………
何だその格好は」
僕は母がいつも浮かべる微笑みと礼儀を模倣して、孝琬さまに向かった。
孝琬さまは初め目を丸くなさっていたが、やがて不機嫌な面持ちをなさった。――はや、秀英殿の目論みどおりになったのかな?
「おまえなぁ、前に女装したとき男たちを混乱に陥れたことを忘れたのか?」
僕は動きを止め、素に戻ってしまう。
確かに、今僕は女装している。今度は化粧から結髪の仕方まで、そっくりそのまま母の姿をしていた。
この前孝琬さまの状態を探るためやむなく女装をしたが、後日女装の僕を見た男たちが「あの美しい娘はどこにいった?!」と騒いでいたのは、記憶に生々しい。
「それも、今回はまったく李昌儀そのままか。
こざかしい真似をしてからに、大方秀英の入れ知恵だろう」
何とも居心地の悪くなった僕は、肩を窄める。
頭を揺らすと、高髷に挿さった歩揺(ほよう)がしゃらしゃらと音を発てた。
「孝琬さまは母上をお嫌いだから、母上の姿をしていれば手をお出しになれないだろうと、秀英殿が言っていたのですけれど。上手く逃れられると思ったのになぁ」
「確かにおまえの母は嫌いだが、その姿をしていてもおまえはおまえだろう」
そう言って、孝琬さまは不敵に手招きされる。
むっとした僕は、この際孝琬さまに思い切り嫌がらせしようと思った。
よよとしなを作り、母がするように涙ぐむ。
「まぁ、わたくしをお嫌いになるなんて、河間王さまは酷うございますわ。
わたくしは河間王さまを信じて我が子士隆をお預けいたしましたのに。
わたくし、今夜は下がらせていただきます!」
母が本当にこんなことを言うのかどうかは知らないが、どうでもいいからやってやれ、というやけくそな気持ちがあった。哀れっぽく孝琬さまを見上げ、寝台から離れながら長袖で口元を覆う。
僕の破れかぶれな態度にどう思われたのか、孝琬さまはやおら寝台から立ち上がり、嘘泣きする僕のもとに寄って来られる。
「李昌儀のふりをしてまで、わたしを拒もうというのか。
ならば、わたしにも考えがある」
――ん?
思いもよらない状況になりそうで、僕は片眉を上げる。
「近頃わたしは父上によく似てきているといわれている。
ならば、父上と李雪華(りせつか)の逢瀬の真似事をするのも、悪くはあるまい?」
にたり、とどこか怖い笑顔を浮かべて、孝琬さまは僕を軽々と抱き上げられた。
――こ、高澄さまと母上の真似事だってぇ?!
「い、嫌っ、それだけは嫌ですっ!
何で文襄皇帝(ぶんじょうこうてい)さまのお妾だった頃の母の真似事をしなくてはいけないんですかっ!」
「おまえが頑固に李昌儀のふりをしようとしたからだろうが」
手足をばたばたさせ、僕は孝琬さまの腕から逃れようとする。
僕にとって、母が文襄皇帝さまのものだった頃は、色に例えるなら灰色といえるくらい、思い出したくない時期だ。
父と僕達姉弟だけのものだった母が、そのときから高澄さまだけのものになった。その挙句、もしかすると異父の弟妹が出来ていたかもしれないというのも複雑な話で、考えるといつも酸っぱいような変な感覚に陥る。
「わ、解りましたから、母上の真似事は止めますから、お戯れはお止め下さいっ!」
そう言って、僕は無理矢理孝琬さまの腕から抜け出る。
後方から「ちっ」と舌打ちが聞こえてきて、僕は忌々しくなった。――結局、孝琬さまはまた僕で遊ぼうとしただけじゃないか!
急いで複雑に結ばれた帯紐を解こうとする。が、女物の装束を脱ぐことに馴れていない僕は、四苦八苦してしまう。
「……何をしている」
寝台に戻り腰掛けられた孝琬さまが、僕の悪戦苦闘ぶりを呆れたように眺めていらっしゃる。
振り返り、不機嫌に僕は言い放つ。
「見て解るでしょう! 僕は女装しなれていないんですよ!
何でこんなにややこしい結び方してあるんだ、本当に!」
苛々と僕は帯の結び目を弄くるが、余計に絡まって解りにくくなる。
思わず怒りの叫びを上げようとしたとき、孝琬さまにぐいと腕を引っ張られ、僕は寝台に引きずり込まれた。
「こんな簡単な結び目も解けないのか、情けない」
そういいつつ孝琬さまは帯を解いて、手早く僕の襦裙を脱がせてしまわれた。
――孝琬さまは、こうやって正装した女人を幾度も寝台に引っ張り込んでいるから、女人の衣装を簡単に解けるんだろうな。
それが即ち経験値というものであり、なかなか女装を解く事ができなかった僕は、結句女性関係を積んでいないということに他ならない。そう思うと、何だか悔しい。
僕が拗ねている間にも、孝琬さまは結い上げた髮から簪を抜きさり、僕の髮を下ろされた。脱いだばかりの女物の下襦を取ると、孝琬さまは大雑把に僕の化粧を拭われる。
「これで元通りか」
そう一言呟き、孝琬さまは僕のうえに覆い被さられた。
熱い一時が過ぎ、身体に恍惚を残した僕の隣に孝琬さまは横たわられた。
僕は口をへの字に曲げたまま、孝琬さまの横顔を盗み見る。またも孝琬さまの妖しい眼差しと悩ましい声に煽られ、僕は惑乱してしまった。――この方はご自分の目と声が、人を悩殺するほどの威力を持っていると解っているのだろうか。
「……何だ」
天井を見たまま呟かれた孝琬さまに、僕はぎくりとする。
い、言えない、そんなこと。孝琬さまの眼と声を聞くだけで堪らなくなるなんて……!
「何でもないですよ」
「だったらじろじろ盗み見るな」
「……ぬ、盗み見てなんかいませんよ」
まずい、盗み見ていたことがばれている。変な詮索をされると、ぼろを出しかねない。
僕はこのまま退散しようと、寝台から抜け出ようとした。が、後ろから腕を掴まれる。
「ほう? 逃げるようなことをしていたのか。
隠さず教えろ。ほら」
そう言って、孝琬さまはまた僕に悪戯を働こうとなさる。何だかいつもこんな感じで、ずるずると寝台に居させられる。またも組み敷かれて力強い肉体に押さえつけられ、僕は降参した。
「あぁ、もう! 僕は孝琬さまの御眼と御声が苦手なんです! これでいいですか?!」
しーん、と閨のうちが静まり返る。膠着した空気が、何とも嫌な感じだ。
やがて、孝琬さまはにやぁりと笑われた。
「ほーう、おまえはわたしの声と眼が苦手なのか。耳に囁き眼を見合わせただけで身体を反応させるおまえだというのになぁ。
そうか、苦手なのか」
――うぅ、とっくにばれている。
孝琬さまは僕の顎を鷲掴みされ、孝琬さまの御眼が真正面に見えるよう固定される。
「この嘘吐きめ、おまえがどうされれば反応するか、わたしは既に解っていたぞ。
わざとこのようにおまえを見、おまえの耳元に囁いていたのだがなぁ」
そして、孝琬さまは耳元に粘っこく囁かれる。
「素直でない奴。……だから御し甲斐があるのだがな」
まずい……また弄ばれる。
反応してきた身体の様子を詳細に耳打ちされ、耳朶に舌を這わされる。それだけで、堪らない。
この方は、他の女人方にもこんな加虐的な仕打ちをされるのだろうか。それとも、「自分だけがどうにでもしていい」謀反人の子である僕だけにだろうか。
そう思うとすこし辛い。孝琬さまはちっとも優しくない。僕を寝台のなかで女のように虐げられる。そして、そんな孝琬さまの身動きにあられもなく反応する自分自身が嫌だ。
僕は決して孝琬さまが嫌いではない。むしろ、誰よりも大事な方だと思っている。
が、孝琬さまはどう思っていらっしゃるのか……解らない。
しゃくりあげながら、僕は呟いた。
「僕は……孝琬さまが、嫌いです」
僕のなかで自侭に動かれていた孝琬さまが、ふと動きを止められる。
「孝琬さまは、僕が謀反人の子だから、このようにされるのですか?
僕を自分のものだと思ってくださるのは、とても嬉しいです。
けれど、僕を女のように抱かれるのは、……嬉しくないです」
身体を接したまま、時が止まる。僕を嬲るときのような妖しい眼差しではなく、どこか真摯な目つきで僕を御覧になる。
「ならばなぜ、おまえはあの時、わたしに身体を許した」
今さらな問いかけに、僕は詰まってしまう。
「それは……いつもの孝琬さまに戻っていただきたかったから、僕が孝瑜さまのものではないことを証明することが必要だと思ったからです」
「わたしの側近として……下僕として取った態度なのか?」
僕は応えられなかった。
側近として……下僕として、大事な方に立ち直っていただきたかったからだろうか。……それだけだろうか?
否、確かにあのときはそうだった。孝琬さまは僕にとってだれよりも大事な方。この方のためなら、命を奉げても構わないと思った。だから、孝琬さまに僕の身体を差し上げた。
でも、今は……解らない。
孝琬さまは問いを変えられる。
「おまえは他の男にも抱かれることが出来るのか?」
その問いに、僕は慌てて頭を振る。
孝瑜さまに挑まれたときは、本気で嫌だった。母の身代わりにされたこともそうだが、生理的な嫌悪感があった。無理強いに快楽を呼び起こされ、惨めで仕方がなかった。
でも、孝琬さまとは初めからそうではない。僕は孝琬さまからもたらされる感覚のすべてを、素直に受け止めていた。
多分、主上や孝琬さまのご兄弟など他の男相手でも、孝琬さまのようにはいかないだろう。
「それに、おまえはわたしが他に側近を置き、その者にも侍妾の役目をさせても、構わぬか?」
僕は血相を変えて言う。
「それは、嫌です!
孝琬さまが僕以外の側近を置かれるのは、僕がお側を去ってからにしてください!」
「おまえの前でわたしが他の男を愛でるのは、見たくないか?」
「……孝琬さまのことを一番に理解できるのは、僕だけだと思っています」
――本当は、そうだと思いたいだけかもしれないけれど。
孝琬さまが僕以外の側近を置いて昼夜放されず、閨のお世話もさせるなど、考えたくない。
はた、と僕は考えを止める。
――こ、これって……独占欲?
孝琬さまのなかだけでなく、僕のなかにも、孝琬さまに対する愛着や独占欲があったということなのか。
目を白黒させる僕ににやりと微笑み、孝琬さまは思い切り僕のなかを突かれた。僕は悲鳴を上げる。
「こ、孝琬さまっ……!」
そのまま激しく蠢かれる孝琬さまに、僕は切羽詰った喘ぎを洩らし続けた。
「……素直でないのは、お互い様だ」
そう言って、孝琬さまは僕に口づけされる。
素直でないのはお互い様……それは、どういう意味だろう?
孝琬さまが素直でないのは最初からだけど、僕も素直でない?
そして、孝琬さまは知っていて何か隠している?
あぁ、何だか解らない。身体を愉悦に揺さぶられて、熱い肉体に翻弄されて、思考までも錯乱させられて……僕は孝琬さまの思うがままに遊ばれてしまう。
本当に、どうしようもない方だな……上り詰めるままそう思う僕のなかに、孝琬さまは熱情を注ぎ込まれた。
「僕は孝琬さまの側近として、孝琬さまの閨に侍る事は厭いません。
が、僕を女のように嬲るのだけは止めてください!
孝琬さまが変な目で見たり囁かれたりすれば、僕はおかしくなりますから。
謀反人の子にも意地があるんです。僕の意地を踏みにじる孝琬さまは、嫌いです」
孝琬さまの「素直でない」との指摘に、一時の情熱が過ぎた僕は、発奮して本意を話した。
寝台から起き上がり睨むように言う僕に、孝琬さまは何を言うのかと目を大きく開けていらっしゃる。
「――自分でも自分の言っている事が本当に恥ずかしい事だと解っているんです。
だからそんなに見ないで下さい」
何だか、耳まで妙に熱い。僕は羞恥に塗れ身体を茹でた蛸のように火照らせていた。
変なものを見るように御覧になっていらっしゃった孝琬さまだが、やがてぷっと噴き出された。そのまま、爆笑される。
「な、何がおかしいんですか!
側近として閨に侍るにしても、されていい限度があると言いたいんです!」
「阿呆か、おまえは!」
むきになって言う僕の頭を、孝琬さまは軽く叩かれる。
「まったく情趣というものが解らん奴だな、おまえは。だからからかい甲斐があるのだが。
――あれは、おまえを加虐しようとしてやっているわけではないのだぞ?」
「……はい?」
ぽかんと呟く僕に呆れ返り、孝琬さまは仰々しく寝台に横たわられた。
「まぁ、よい。鈍いのがおまえなのだろうさ」
「はぁ?! それはどういう意味ですかっ!」
僕は言い募るが、孝琬さまはわざと寝返りを打って、僕に背を向けられた。暫くして、孝琬さまの緩やかな寝息が聞こえてくる。
訳の解らない僕は、混乱したまま夜を過ごした。
考えたまま一睡も出来なかった僕は、次の日政庁に居る間、ずっとあくびを噛み殺していた。
そんな僕とは反対に、今日も孝琬さまはてきぱきと仕事を進めていらっしゃる。
――いいよなぁ、孝琬さまは、悩みがなくて。
夕刻、僕は王府の各所から上がってきた帳簿を計算しながら、ちらりと孝琬さまを見る。僕だけが悩んでいるなんて馬鹿らしいと思えてくる。が、孝琬さまの真意をおろか自分のこころさえ解らなくて、僕は困惑の極致にいた。
孝琬さまは顔をお上げになり、書類を持ち上げ僕を呼ばれる。
「士隆、ここの計算を間違えているぞ」
僕が書類と帳簿をつき合わせて確認している間、孝琬さまはご自身の所管地から届けられている報告の書類に目を通され、判を捺していかれる。
「……あれ? どこも間違えていませんよ」
困惑して書類と帳簿を交互に見る僕に、孝琬さまは書類等を僕から取り上げ、該当箇所を指摘された。
「ここが抜け落ちている。ぼうっとしすぎだぞ」
「……はぁ」
孝琬さまに軽く睨まれ、僕は肩を窄めた。
確かに、ぼうっとしていたのは事実で、言い訳のしようもないけれど、ぼうっとしている原因が孝琬さまなのだから、言う言葉もない。
「さて、今日はここまでとするか」
孝琬さまの令に、政庁に居ていた者が頭を下げて退出していく。
まだ今宵召されるお妾さまを決めていらっしゃらないので、几案に並べられた書類を片付けながら、僕は孝琬さまに尋ねる。
「孝琬さま、今宵召される女人はお決めになりましたか?」
今晩こそ、女人を召されて御子をお作りになられれば、と僕は言外に思う。
にやり、と孝琬さまは笑まれ、意味ありげに僕を御覧になる。
「昨晩逢った、李昌儀に似た者がいいな」
――聞かなかったことにしよう。
僕は孝琬さまのお言葉を無視し、書類を棚に納める。
ふと思いついて、僕は孝琬さまに向き直る。
「孝琬さま、僕と似た顔立ちの女人ならば、夜毎愛でることがお出来になりますか?」
もしそういう女人を探し出すことが出来るのならば、孝琬さまの御子様のお顔を近々見ることが出来るかもしれない。
が、孝琬さまは不機嫌に言われた。
「顔が似ていても、おまえではない。おまえに李昌儀の面影を重ねた義兄ではあるまいし、興味ない」
孝琬さまの一言に、僕はむっつりと眉を寄せた。
――こ、孝琬さま、何だかそれ、変ですよ?
僕じゃないから興味が無いって……孝琬さまの僕に対する執着って、一体どれほどのものなのだろう。
はぁ、孝琬さまの思考回路が孝瑜さまと同じようなものだったら、ことは簡単なのに。なかなかうまくいかない成り行きに、僕は歎息を吐いた。
「本っ当に、ご兄弟といえど、考え方は違うものなんですねぇ」
むっとしたように、孝琬さまは仰る。
「……何を当たり前のことを言っている。わたしと義兄を同列に扱うな」
「孝瑜さまは、母に似ているものなら何でもこい! という感じだったけれど」
そう言いつつ、僕は孝琬さまと深い仲になってから、孝瑜さまの存在を忘れていたのだと改めて感じた。――それだけ、孝琬さまの存在が僕のなかに大きく入り込んできたということなのだけれど。
不意に、僕は孝瑜さまの仰った事を思い出す。
――俺は、雪華が好きだった。なのに、雪華は俺を拒んでお祖母さまの女官となり、英釵(えいさ)やおまえを俺にくれなかった。憎んでも憎みきれず、雪華がどうしても欲しくてたまらない。
孝瑜さまの母への執着は、相当なものだ。――やはり、母と何かあったに違いない。
僕は顔を上げる。
「……孝瑜さまは、何故か解らないけれど、母上のことが好きだった。
母上のことが好きだから、姉を妾として望み、僕をご自分のものにしようとなされた。
――孝瑜さまと母上の間に、何があったのでしょう」
孝琬さまを真っ直ぐ見て言う僕に、孝琬さまは顎に指を当てて考え込まれた。
やがて、ぽつりと漏らされる。
「……義兄がおまえの母に惚れているのは確かだ。
が、執着の度合いが尋常ではない。
そして、襄城王(じょうじょうおう)の弔問に駆けつけたとき、義兄はおまえの母と異様に親密だった。
もしかすると……」
「もしかすると?」
問い返す僕を、孝琬さまはじっと見入られる。
「……義兄とおまえの母は、深い仲にあるのではないか」
「母上と、孝瑜さまが?!」
孝琬さまの応えに、僕は頭を振った。
まさか、そんな。孝瑜さまと母が深い仲にあるなどと、信じられない――信じたくない。
「義兄はおまえの母に馴れ馴れしくしていたが、おまえの母は一歩退いていた。
義兄の話からすると、義兄はおまえの母に欲情を抱き、蒸したがっていたようだが、おまえの母はみずからお祖母さまの女官に志願した。
その上、おまえの母はお祖母さまにお願いしてまで、おまえを義兄に渡さなかった。
おまえの姉のことは叔父の一存で決められたことだが、あの空気では、おまえの母はおまえの姉を義兄に奉仕させなかっただろう。――これは、かなり強い拒絶の意志だ。
ここまで義兄を拒絶さぜるをえない何かが、おまえの母にはあるのではないか?」
僕は唾を飲み込む。
孝瑜さまは、ご自身の父君の妾である母を蒸したがっていた。が、母はそれを拒み、姉・英釵や僕を孝瑜さまから遠ざけた。――僕たち姉弟を、孝瑜さまの自身に対する執着の犠牲にしたくなかったから。
孝瑜さまが強く執着する原因が、何なのか――もしそれが、李雪華という女への激しい情欲だったとしたら?
――母上は、高澄さまだけでなく、孝瑜さまとも……。
母は高澄さま親子に肉体を差し出したのだ、僕達に黙って。
否、高澄さまのお妾であったとき、母は高澄さまの別宅に居た。だから、僕達もなかなか会えなかった。それなのに、高澄さまの息子である孝瑜さまが容易に逢えただろうか。
――まさか、高澄さまの公的なお妾の立場を辞してから、母は孝瑜さまと関係を持った?
母は高澄さまのお妾の立場を辞してから、婁太后(ろうたいこう)さまにお仕えするようになった。太后さまのいらっしゃる第に住まうようになり、僕達はいつも母の側に居られるようになった。
が、母は太后さまの第のなかの、僕達の知らない場所で孝瑜さまと関係を持ったのか。
知らず知らずのうちに、僕の手が震えてきていた。
それを止めたのは、僕の手を握ってこられた孝琬さまの手の感触だった。
「……大丈夫か?」
僕は唇を噛み締める。
首を振って、僕は孝琬さまから離れた。
「……何だか、酷く凶暴な気持ちです。
信じていたのに……母上……」
堪えようとしていた涙が、関を破って溢れてくる。
貞淑で美しい、自慢の母。――その像がこんなに脆いものだったとは。僕が信じていた母は、一体何だったのか。所詮母も生々しい女だったのか。
思わず頭を掻き毟ろうとしたとき、孝琬さまが僕の腕を掴み、ご自身の胸に引っ張り込まれた。
「……こ、孝琬さま?」
突然抱かれて、僕は焦燥してしまう。
「まずいな……おまえの泣き顔を見ただけで、またおまえを苛みたくなってしまう」
「は?!」
こ、こんなときに、この方は何を仰るのだろう?
当惑する僕の唇を奪い、孝琬さまは濃厚な接吻を施される。舌を絡められ息を呑まれ、僕は惑うた。
顔を離すと、孝琬さまは小さなお声で、僕の耳元に囁かれる。
「……ひとりで背負うな。義兄から見せられたおまえの母の姿が本物とは限るまい。
不信の海に沈むのは、真実を知ってからでも遅くはあるまい」
びくり、と僕の肩が蠢動する。
面を上げて孝琬さまのお顔を見ると、戯れの色など全くない真剣な表情があった。
思わず、僕は頷いてしまう。
――そうだ、何も確かめずにひとりで猜疑するより先に、しなくてはいけないことがある。
「孝琬さま、僕、孝瑜さまに経緯をお聞きしてまいります」
「……え?」
忽ち、孝琬さまの機嫌が悪くなる。眉間に深い縦皺を刻み、鋭い目尻が更に吊り上がる。
僕は、自分が墓穴を掘ったことにすぐさま気が付いた。――まだ孝瑜さまに襲われたときのことが、孝琬さまのなかで尾を引いているのだ。
うろたえて、僕は言い訳する。
「あの、変な誤解しないで下さい!
ただお話をお聞きしに行くだけなんですから!」
「おまえは、ついこの間獲って食われかけたのに、まだ自分の立場が解っていないのか」
「わ、解っていますって! 警戒は怠りませんよ!」
不機嫌さ丸出しに、孝琬さまは顔を近づけると、ねちねちと僕に迫られる。
「どうだかな。か弱い羊さながらにのこのこ行って、ここを抉られて帰ってくるのがおちではないか?」
底冷えするような声で嘯きながら、孝琬さまを衣越しに僕の後ろの窄まりを弄られる。
「ち、ちょっと、どさくさにまぎれて何をされるんですか!」
や、やばい、孝琬さまの手が段々と執拗になってくる。
何で孝琬さまは孝瑜さまのところに行くというだけで、こんなに怒られるんだろう。やはり、また奪われかねないと思っていらっしゃるのだろうか。
はぁ、本当に困った方だ、僕の主は……。
僕の身体を散々弄んだあと、ほぼ脱がされてしまった衣を必死で纏おうとする僕を見下ろし、孝琬さまは信じられないようなことを仰った。
「一応、おまえがわたしの男寵(だんちょう)だと義兄に言ってあるが、油断は出来ぬ。
おまえが義兄に会いに行くときは、わたしも行く」
下穿きの下紐を結びつつ、僕は自分の耳を疑った。
「……僕が孝琬さまの男寵であると、孝瑜さまに仰られたのですか……?!」
「何か不都合があるか?」
孝琬さまは座った目でぎろり、と僕を睨まれる。
「大有りですよ! 僕はあなたの男寵じゃないと、何度言えば解るんですか!」
「知らぬな。おまえがそうでないと思おうと、事実は男寵以外の何者でもないだろう」
ぱくぱくと口を開けたまま、僕は呆れ返った。
第内で取り沙汰されているのは仕方ないにしろ、この方はそれを外部に明かされるのか……! どうしよう、余所で噂されたら……。
僕はあまりにも情けなくて、泣きたい気持ちになった。
が、孝琬さまは関係ないと言わんばかりに話を進められる。
「義兄にとっては、おまえがわたしの男寵であろうと、関係ないかもしれぬ。
が、わたしが目を光らせていれば、義兄とておいそれとおまえに手を出せぬだろう。
あの庶兄が李昌儀のことをどんな顔で語るか、たっぷり見てやろう」
そう言って笑われた孝琬さまのお顔は、震え上がるほど怖かった。
多分、僕のことが無いにしろ、孝琬さまにとって孝瑜さまは敵なのだ。高澄さまの嫡子と庶長子、それぞれに矜持があるのだろう。否、それが孝琬さまだけのものにしろ、顔を合わせれば修羅場になりかねない。
はぁ、とため息を吐き、改めて僕は聞いた。
「で、今宵は誰をお召しになるのですか?」
呆れ果てる僕を振り返り、孝琬さまは不敵な笑みを浮かべられた。
「昨夜の李昌儀もどきを召す。用意させよ」
「だから、いやだと言っているじゃないですか! 適当に女人を選びますから、そのおつもりで!」
そう言って踵を返す僕の腕を掴み、孝琬さまは引き寄せられる。
ぼそり、と孝琬さまは僕の耳に囁かれた。
「今夜ひとりで大丈夫なのか? 考えたくないことを考えて、夜も眠れぬようなるのではないか?」
うっ……痛いところを突かれる。
孝瑜さまに真実を確かめにいくにしても、僕のことだから真相を知るまでは悶々と苦悩し続けるだろう。
「わたしのもとで夜を過ごせば、悩みなど忘れさせるぞ?」
斜め後ろを見れば、孝琬さまの妖しい眼差しがある。
――やはり、僕は孝琬さまのこの眼に弱いのだろうな。
そう思い、僕はこくりと頷いた。
が、それも悩みの種であることを、僕は解り切っていた。
主従の間柄を超えた孝琬さまとの不均衡な関係が、僕という個を大きく崩そうとしていると――。
解りつつ、僕は最早孝琬さまを拒めない。
のめり込んでいくだけで後戻りできないこの関係が、僕の人生に大きな陰を残す事など、このときの僕は知らなかった。