(2)



 僕が河間王孝琬(かけんおうこうえん)さまにお仕えするようになって、はや六年経った。
 以前とは違い、近ごろの僕は側近らしい仕事もさせてもらっている。
 孝琬さまの行くところに控えるように付いていき、孝琬さまと他のひとの取り次ぎなどを行っている。
 相変わらず孝琬さまに愛想というものはないが、それがこの御方の照れ隠しだということをかなり把握してきた。


 母は変わらず婁太后(ろうたいこう)さまにお仕えしており、孝琬さまの名代として宣訓宮(せんくんきゅう)に参っては顔を合わせている。
 どういうわけか、最近母は主上の皇后・李祖娥(りそが)さまにお呼ばれして後宮に出向くことが多い。
 切っ掛けは主上が李皇后さまの姉君を召されたことにあるらしい。
 皇后さまの姉君は魏の皇族に嫁しておられたが、主上はその御方を残酷な方法で殺め、皇后さまの姉君を昭儀(しょうぎ)となされた。
 姉君が後宮に入られたことで皇后さまは苦しまれ、食も喉を通らなくなられた。どうして姉を差し置いて、己が皇后のままいられようか、と。
 皇后さまは嘆きのあまり後宮を出られ、太后さまのもとに身を寄せられた。そこで、同族出身の母と意気投合なされたのである。
 主上はなんとか皇后さまを説得なされ、皇后さまは御位に留まっていらっしゃる。
 皇后さまはご自身の女官として母を傍に置こうと望んでいらっしゃるが、母は固辞している。母は太后さまに大恩を感じており、永くお仕えしたいと願っていた。


 今は桑氏と名乗っている姉の英釵(えいさ)は、常山王演(じょうざんおうえん)さまのもとで健やかに暮らしている。
 二年前に姉は演さまの二男である亮(りょう)さまを生んだ。
 これは正妃・元氏さまではない女人からの男児を望まれた主上の命により、いわば強制的に成されたことだった。
 我が主孝琬さまと姉の夫である演さまに密なる繋がりがないので、僕が出向くことはできない。
 が、演さまの御子を太后さまに御覧頂くために、姉は宣訓宮によく来る。その度僕は孝琬さまにお許しをいただき姉に会いに行っている。
 姉は元妃さまに劣るが、演さまにとても大切にされている。
 僕の睨んだとおり、主上は演さまと元妃さまを引き離すため、数人の女人を妾妃として与えられた。
 先立って侍っていた姉は、演さまと元妃さまを痛わしく眺めていた。

「殿と元妃さまは相愛の御仲なのです。
 というのに、主上が引き裂こうとなさり……お可哀相ですわ」

 亮さまをあやしながら、姉は語った。
 主上は先の朝である魏の皇族を疎んじていらっしゃる。
 最近聞いた噂では、主上の姉婿である魏の皇族・彭城公元韶(ほうじょうこう・げんしょう)さまを女装させ、男妾として後宮に幽閉されたという。
 並はずれた美貌の持ち主といわれた元韶さまだが、女装をさせて女のように犯してしまうなど、最近の主上は奇行が目立っていた。
 それというのも、主上が御酒を深く召されるようになられたからだ。
 お酔いになっては上衣をゥ脱ぎして粉黛を刷き、総髪の状態で刀弓を手にして市井を駆け巡られているという。主上はその姿で血族のもとに殴り込み、器物を打ち壊しつつ婦女を乱暴なされているらしい。
 太后さまはそんな主上を嘆いていらっしゃる。
 僕はそれを端から見ているだけで、他人事のように感じていた。
 僕の関心は、母と姉の現況だけだ。

「姉上は、お幸せですか?」

 母を差し挟んで向かい合う姉に、僕は問う。姉は緩やかな微笑みを浮かべた。

「……幸せよ」

 うつらうつらなさっている亮さまを、姉は抱き直す。

「……襄城王(じょうじょうおう)さまのことは?」

 僕の言葉に、姉は顔を上げる。士隆、と母が咎めた。

「……お母さまの仰ったことは、本当だったわ」
「姉上?」

 姉は笑みを絶やさない。

「わたくしは今でも淯(いく)さまをお慕いしているわ。
 あの方はわたくしのなかで、美しいまま永遠に生きていらっしゃるもの。
 でも、殿のこともお慕いしているのよ。
 今のわたくしは、殿とこの子で占められているもの」

 姉の言葉には実感が込められている。演さまと淯さまを愛している――これが、姉の真実なのだ。
 ふふっと笑い、今度は姉が尋ねてきた。

「士隆(しりゅう)、あなた好きな女人はいないの?
 河間王府には美人がいっぱいいると聞いているわ」

 興味津々といった趣の姉に、僕は困惑した。

「あの方々は、王の妾妃さま達です。
 僕が恋するなど、とてもじゃないけど無理です」

 孝琬さまは僕と同い年ながら、華やかな女性関係を繰り広げていらっしゃった。夜毎違う美姫を閨に召され、寵していらっしゃる。
 近ごろは孝琬さまの夜の宿直もしているが、女人方のなまめかしい声が耳に痛かったりする。

「そう、でもあなたもそろそろ結婚を考えたほうがいいわね。
 婁太后さまにお願いして、あなたに似合いの女人を紹介していただこうかしら」

 笑って言う母に、僕は苦笑いした。

「いまはまだいいです。
 王にお仕えするだけで精一杯ですから」
「そう? もし結婚したくなったら、母に一番に言いなさいね」

 念を押されてたじたじ笑いながら、僕は宣訓宮を辞した。



「おまえが結婚? 冗談でも笑えぬな」

 昼間の母と姉との会話の内容を聞いた孝琬さまは、ありえないといいたげに一蹴された。

「第一、おまえのようなぼんくらに寄ってくる女などおるまい」
「ひどいですよ、王」

 孝琬さまの剣の手入れをしながら、僕は少し拗ねる。
 卓の上で書物を読んでいた孝琬さまは、皮肉な笑みを浮かべ、僕を顧みられた。

「それとも、既に女がいるのか?」

 むっとして、僕は言い返す。

「いませんよ、分かって聞いていらっしゃるでしょう」
「当たり前だ」

 悪戯っぽい顔をして、孝琬さまは僕から剣を取り上げた。

「まだ磨きが甘いな、やりなおせ」
「……解りました」

 むっつりして言う僕に、孝琬さまは微笑まれた。
 再び卓に向かわれる孝琬さまに、僕は口をへの字に曲げる。

 ――以前に比べて、孝琬さまは表情を顕されるようになった。

 この方にお仕えして六年、やっと孝琬さまは僕を寄せ付けてくださるようになった。
 でも、つくづく天の邪鬼な方だと思う。この方の素直な感情というものを見たことがない。
 今のやりとりも、あるいは僕をからかって楽しんでいらっしゃるのかもしれない。
 僕はため息を吐いた。
 僕の主をこの方にした母の選択は、間違いなく正しかった。――この御方のもとに、河南王孝瑜さまは寄り付こうとなさらないから。
 孝瑜さまと母の間に何があったのか、今でも解らない。が、何かあったからこそ、僕と姉を孝瑜さまに託さなかったのだ。
 孝瑜さまは他の御兄弟方のもとには気軽に足を運ばれるが、孝琬さまのもとには来られない。
 庶長子である孝瑜さまと嫡子である孝琬さまの間には、軋轢があるのかもしれない。きっと母はそこに目を付け、僕を孝琬さまに預けられたのだ。
 姉に関しても、当人は嫌がっていたが、演さまに姉を託せて、明らかに母は安堵していた。
 そこまで思うと、僕はいつも不安になる。――母は僕達にいくつ隠していることがあるのだろう。母の実像が、掴めない。

「――士隆!」

 強い声で呼び掛けられ、僕は我に返った。
 仏頂面の孝琬さまが、僕の傍らに立っていらっしゃった。

「よそ見をしていると、怪我するぞ」

 言われて、慌てた。僕は剣の手入れをしていたのだ。
 僕の手から剣を奪い、孝琬さまは鞘に納められる。僕は肩を窄めた。
 ――その時、である。
 急いで駆け込んでくる召使の存在に、孝琬さまは目を鋭くされる。
 その召使は静徳宮の者であった。
 取り次ぐため、僕は召使に近寄る。

「何の御用ですか?」

 息を切らした召使は、尋常でない顔で叫んだ。


「せ、静徳皇后(せいとくこうごう)さまが、主上に……!」



 衣も改めないまま、孝琬さまと僕は静徳宮に飛んでいった。
 深い闇に包まれた宮のなかに、香の匂いが漂っている。

「士隆! おまえは橦瑳(しゅさ)を、わたしは母上のもとに行く!」

 僕に短く命じられた孝琬さまは、静徳皇后さまがいらっしゃる奥宮に走っていかれた。僕は召使から聞かされた事実を確認するために、橦瑳殿の部屋に駆け付ける。
 そして、瞠目した。
 寝台の上に寝かされた橦瑳殿の面には白巾が掛けられており、ありありと死の影がその身を覆っていた。
 宮内に漂う香は、橦瑳殿の枕上に置かれた、死者を弔う祭壇から発されていたのだ。
 僕は寝台の傍で蹲る侍女たちを問い詰める。

「し、主上が……皇后さまを拉しようとなされ、お止めしようとなさった橦瑳殿をお斬りになりました……ッ。
 主上は皇后さまを、高陽王(こうようおう)さまの府庫に監禁され……そのまま乱暴しておしまいになりました……。
 先程高陽王さまが……皇后さまをお戻しになり……」
「そんな……!」

 僕は暫らく言葉を失った。

 ――何ということだ……近ごろの主上はおかしいと思っていたが、まさか兄君の妻を犯してしまわれるなど……。

 高陽王G(てい)さまは主上の異母弟で、うまく主上に擦り寄っていかれたため、主上のお気に入りになられた。きっと主上は高陽王さまと共謀して、皇后さまを凌辱なさったのだ。
 橦瑳殿は連れ去られかけた皇后さまをお護りしようとして、命を落とされたのか。――なんという忠義心だろう。
 否、忠義ではない、橦瑳殿は皇后さまの乳母として、誰よりも大事な方をお助けしようとしたのだ。
 僕が溢れてきた涙を拭っていると、静かに扉を開けて孝琬さまが入っていらっしゃった。

「……母上は心身ともに疲れ果て、眠っていらっしゃる……」

 孝琬さまは僕の横を擦り抜けて寝台に近づかれると、橦瑳どののお顔を被っている白巾をゆっくり持ち上げられた。

「橦瑳……悔しいか? 無念そうな顔をして……」

 孝琬さまが肩を震わせ嗚咽なされている。この方にとっても、橦瑳殿は大事な御方だったのだ。
 僕は孝琬さまに声をおかけする事も出来ず、ただ悲しみの有様を見守っていた。

「……士隆」

 不意に孝琬さまに呼ばれ、僕はびくりとする。

「……わたしは今初めて、母を犯されたおまえの気持ちが解った。
 愛する者を踏み躙られると、腸が煮え繰り返るものだな」
「孝琬さま……」

 僕は母を我がものとした高澄さまを、こころのどこかでお恨みしていた。
 が、同じ苦しみを、ご子息である孝琬さまに負わせたいとは思わなかった。――何たる運命の皮肉だろう。
 僕が顔を伏せたとき、侍女が恐る恐る入ってきた。

「皇后さまが、おふたりをお呼びです……」

 孝琬さまと僕は、顔を見合わせた。



 目をお覚ましになられた静徳皇后さまは、天蓋の一点をじっと見つめていらっしゃる。
 孝琬さまと僕は、ひとことも皇后さまに何かを言えないでいる。

「……孝琬、そなたは知っておるか?」

 小さなお声でぽつり、と皇后さまは呟かれる。

「……何をですか」

 孝琬さまの問いに、皇后さまは漸く僕達に向き直られた。
 皇后さまのお顔は、悲惨な目にお遭いになられたのに、随分としっかりとしていらっしゃる。何か、確とした意志を感じられた。

「そなたは殿の第三の男子ではない。第四子なのじゃ」
「……え?」

 一瞬、辺りの空気が固まる。皇后さまは何を仰ろうとなさっているのだろう。

「第三子は……長恭(ちょうきょう)じゃ。
 あの子は、殿が最も愛した女人から生まれた子じゃ」

 高澄(こうちょう)さまが最も愛した女人……琅邪公主・元玉儀(ろうやこうしゅ・げんぎょくぎ)さま?
 いや、そんなはずはない、高澄さまが初めて琅邪公主さまとお会いになったのは、高歓(こうかん)さまがお亡くなりになる少し前だったのだから。
 では、誰が長恭さまの母君なのだろう?

「殿が市で助け、婁太后にお預けなさったのが、長恭の母じゃ。
 殿は娘に惹かれられたが、娘には既に妾として仕える相手が決まっていた。
 ――それが、今上なのじゃ。
 今上は李皇后と出会う遥か前に長恭の母を見初め、情を通じたいと願っておった。
 それを、殿が横からさらうように奪い、長恭を生させた」

 初めて聞く内容に、孝琬さまと僕は呼吸を忘れた。
 今まで長恭さまのお母君がどなたか、皆目解らなかった。が、そこにはこんなに深い事情があったのか。

「したが、橦瑳が殿の格別愛する女人の所在を嗅ぎとり、身籠っている女人から身ぐるみを剥いで、殿の別邸から追い出したのじゃ。
 幸い、女人は段孝先(だんこうせん)が保護し、再度婁太后に預けられた。――そうして、無事長恭は生まれたのじゃ。
 が、殿からすれば、女人の突然の失踪は、自身に対する女人の裏切りに他ならなかった。殿は荒れておしまいになり、妾達と荒んだ生活を送るようになった。
 最後に殿は妾のもとにお戻りになり、結果、妾はそなたを宿した。
 それまでは寒々とした夫婦仲であったのに、ひょんなところで思わぬように転ぶものじゃな」

 ふふっ、と皇后さまは微笑まれる。
 では……孝琬さまがお生まれになったのは、長恭さまのお母君が姿を消されたからなのか。それが元で、高澄さまは皇后さまを省みるようになり、孝琬さまが生まれたのか。
 ――これは、運命の皮相としかいいようがない。
 僕が恐る恐る孝琬さまを見ると、思ったとおり孝琬さまの表情は硬化していた。

「婁太后は橦瑳に知られぬよう、内密に長恭とその母を隠した。
 が、太后のもとに挨拶に来ていた長恭の母は、偶然にも今上に見つかり、そのまま拉致されてしまった。
 今上は自身がもとで長恭の母を愛しもうとしたようだが、長恭の母は頑なに拒み食を断った。今上は何とか長恭の母のこころを手に入れようとしたようだが、長恭の母のこころは既に殿のものだった。
 今上は長恭の母を手に入れたと殿に言い触らし、余計に殿は長恭の母を憎むようになった。妾は殿の怒りを鎮めるよう勤め、孝瑤(こうよう)と亡き孝琳(こうりん)を宿したのじゃ」

 孝瑶さま――楽安公主(らくあんこうしゅ)さまと既に亡くなられた孝琳さまは、双子としてお生まれになった高澄さまの姫君である。孝瑶さまは現在崔暹(さいせん)殿の子息である達拏(たつだ)殿に降嫁していらっしゃる。この達拏殿の母君が、我が母・李雪華の叔母なのである。

「長恭の母が去った事で、妾は三人も子を授かった。
 これに喜んだのが橦瑳だった。
 あれはこともあろうに、長恭の母を殿の別邸から追い出した事を、妾に嬉々として語りおった。
 だから、妾は殿にそのことを話したのじゃ。
 殿は段孝先と何とかして今上の別宅を探し当てたが、そのときにはもう手遅れだった。
 長恭の母は、殿の腕のなかで死んだのだよ……。
 改めて段孝先から長恭の存在を知らされた殿だったが、既にそなたを第三子として公表したあとだった。
 だから、本来第三子である長恭が第四子になったのじゃ」

 壮絶な内容に、僕は唾を飲み込む。
 高澄さまと主上はあまり仲のおよろしくないご兄弟だった。主上は幼い頃から高歓さまに見込まれた御方で、高澄さまは警戒なされていた。が、兄弟仲が険悪だったのには長恭さまのお母君の存在もあったのかもしれない。

「長恭の母は、殿のなかにも今上のなかにもしこりを残した。
 一度妾は、殿が寵愛していた元玉儀と会ったことがあるのだが、長恭の母と玉儀が似ていると殿は言われた。
 殿が殺められてしまわれた直後に玉儀が自害したのは、あるいは今上に玉儀を奪われぬよう、殿が自身の死後自害するよう、玉儀に言い含められていたのかもしれぬ。
 そして、今回のこと――今上は、長恭の母を奪われた復讐をすると妾に言った。
 今上と高陽王にふたり掛りで挑まれ、妾は徹頭徹尾嬲られてしまった。
 が、橦瑳のために煉獄に堕ちた長恭の母と、殿に長恭の母を奪われた今上のことを思うと、妾は今上を責めることが出来なかった。
 妾を辱める事で今上の気が済むのなら……」
「お止め下さいッ!!」

 皇后さまの言葉を、孝琬さまが鋭く遮る。

「そんなこと……聞きたくありませぬ!
 何故抵抗なさらなかったのですか! どうして恥辱を受け入れられたのですかッ!
 橦瑳は母上を護るために殺されたのですよ。だのに、どうしてお怒りにならないのですかッ!
 長恭の母と今上を哀れんで、されるがままになされるなど……母上は何を考えていらっしゃるのですかッ!!」
「孝琬……」

 孝琬さまの怒気に、皇后さまは気圧されてしまわれている。それほど、孝琬さまの怒りは凄まじかった。小刻みに震える拳が、怒りを発散させるための何かを求めているように見える。

「長恭の母が父上の側を去ったから、わたしが生まれたとは……わたしの存在は、一体何なのですか?!
 この、文襄皇帝(ぶんじょうこうてい)の正嫡であるわたしが、父上と今上の相克の連引でもって生まれたというのですかッ!!」
「そうではない! この母はそなたを愛して……!」
「わたしを愛している母上が、わたしに恥をかかせるのですかッ!!」

 この事実は、誇り高い孝琬さまの許容範囲を超えた恥辱なのだ。弟と見下していた長恭さまが、本当は兄だったなどと。そして、長恭さまの母君の存在なくば、自身が生まれなかったなどと……。

「……わたしは、母上を軽蔑いたします!!」

 そう言い捨てて、孝琬さまは皇后さまに背を向けられる。
 そのまま勢いよく走り出られた孝琬さまのあとを慌てて追い掛けようとした僕は、皇后さまに呼び止められた。

「士隆……そなたの目に、妾は滑稽に見えるか?」

 孝琬さまを気にしながらも、淡々と語られる皇后さまも放っておけず、僕は足止めされる。
 よく見ると、皇后さまは涙ぐんでいらっしゃる。
 僕は躊躇いながら口を開いた。

「……僕には、皇后さまがお優しい御方に見えます。
 皇后さまは主上と高陽王さまに酷い事を致されても、お責めにならない。それどころか、おふたりを許していらっしゃるようにも見えます」

 皇后さまは涙しながら天蓋を見ていらっしゃる。

「皇后さまは……長恭さまのお母君に懺悔するお気持ちがおありになったのでしょうか。
 橦瑳殿が長恭さまのお母君を虐げられたからこそ、長恭さまのお母君は非業の死を遂げられたのだから」
「そうかもしれぬな」

 皇后さまはか細く呟かれる。

「長恭の母が味わった苦しみを、妾も味わねばならない……妾はそう思った。
 そなたの母が耐えられたのだから、妾でも耐えられると思ったのじゃ」
「……母が?」
「そなたの母は、そなた等を護るために殿に身体を許した。
 そなたの母だけではない、そなたの姉も不条理な宿命に身を任せ、常山王の子を生んだのだろう?」
「……はい」

 そうだ。母も姉も、望みもしない相手と身体を交わした。それは宿命だったのかもしれないが、母も姉も、それに柔順に従った。
 それが、女子の性なのかもしれない。皇后さまも例に漏れなかったのだ。
 慰めと受け止められるかもしれないが、僕は言わずにはいられなかった。

「……皇后さまは、お強い御方だと思います。
 どうか、ご自身を卑下なさらないでください」

 僕の精一杯の言葉に、皇后さまは小さく笑まれた。

「……ありがとう。
 妾のことはいいから、早く孝琬の後をお追い。
 ――孝琬を頼む」

 僕は頷いて皇后さまの御前から離れた。
 あとには、皇后さまの細々とした泣き声が聞こえてきた――。



「……そう、静徳皇后さまがそんなことを……」

 後日僕は孝琬さまのお許しをもらい、母のもとにやってきた。
 母は今、李皇后さまの女官として主上の後宮に入っている。母は何度も固辞していたが、李皇后さまの母を望むお気持ちは強かった。結局、主上の勅命として母は李皇后さまにお仕えすることとなった。
 僕が母に会いに来る事を、李皇后さまは快く許してくださった。だから、僕は孝琬さまのお許しさえあれば、自由に後宮に出入りできるのである。

「……でも、わたくしは静徳皇后さま程強くはないわ。わたくしは複雑だけれど、文襄皇帝さまをお慕いしていたもの。
 静徳皇后さまはまったく情も湧かない相手と強要されて肉体を交わされた。こんなことは中々出来ない事よ」

 僕は母の呟きを黙って聞いていた。

「確かに、英釵は淯さまをお慕いしている状態で演さまのもとに侍った。
 けれど英釵にとって、演さまは見知ったお相手だもの。静徳皇后さまとは状況が違うわ」

 そう言って、母はため息を吐いた。
 僕は今なら言えるかもしれないと思い、口を開いた。

「……母上は文襄皇帝さまの御子を死産なさったのですか」

 母上は目を見開かれる。

「どうしてそれを……」
「孝琬さまにお仕えして間もない頃、静徳皇后さまから教えていただきました」

 僕の応えに、母は動揺していた。母にとって、これは絶対に知られたくないことだったのかもしれない。
 母は歎息して語りだした。

「……そうよ。わたくしは文襄皇帝さまに侍るようになってすぐに御子を身籠ったの。
 けれど、生まれてきたその子は息をしていなかった。
 悲しかったけれど、あなたのお父さまやあなたのことを考えると、生きて産れなくてよかったとかえって思えたの」
「その父上も、今はもうお亡くなりになられたのでしょう?」

 更に母は瞠目する。
 震える手を口元にもってゆき、母はわななきながら僕を見つめてきた。

「……これも、静徳皇后さまから?」

 僕は頷く。
 母はぎゅっと目を瞑り、訥々と話し出す。

「信じたくなかったのよ……あの方がお亡くなりになったなどと。
 わたくしにとって、あの方はあなた達とともに生きる縁だった。というのに、西魏に入って二年でお亡くなりになられたとは……。
 わたくしはあの方と再び巡り合いたかったけれど、こんなに薄いご縁だったとは……。
 文襄皇帝さまからあの方の死を聞かされたとき、目の前が真っ暗になったわ。
 わたくしはわざとあなた達に言わなかったわけではないの。……今でも信じたくないのよ」

 母はそう言って涙を流し始めた。

「でも、父上が亡くなられたのは、事実に他ならないのでしょう。
 僕は父上が亡くなられたことを知らない事ほど、親不孝なものはないと思うのです」
「そうね……そうだわ」

 僕の言葉に、母はただただ首を縦に振る。
 僕は細く息を吐き、母の肩を抱いた。

「母上を責めているわけではないのです。僕は僕なりに父上の死を受け止めていますから」
「士隆……ごめんね……」

 本格的に母が泣き崩れ始めたので、僕は母の背を摩り続けた。
 僕の計り知れないところで、母も苦しんでいたのかもしれない。一家離散して父を亡くし、現在はそれぞれ主を持ちばらばらに生活している。
 悲しんでいても仕方がない、只前を見なくては――僕は改めてそうこころに決めた。 


 幾分母が落ち着いてきたので、僕は後宮を辞することにし部屋を出た。僕を見送るため母が回廊を先導する。
 鄴(ぎょう)城は大きく、いつ来ても迷いやすい。僕は母と談笑しながら後宮の出口を目指した。
 ある部屋の前を通りかかったとき、妙に悩ましい声が聞こえてきて、僕は驚く。
 ふと見ると、扉がかすかに開いている。好奇心に負けて僕はなかを覗き込んでしまう。
 ――裸体の美しい少年が同じく裸の男に背後から抱え込まれ、縦に揺れている。少年の足元には一糸纏わぬ色の白い細身の男が蹲り、少年の股間に顔を埋めていた。
 高く掠れたつやっぽい声は、美しい少年からのものだ。少年を抱えているのは……主上?
 三人の周りには脱ぎ散らかされた着物が無造作に置かれていた。そのなかには女物の襦裙もあった。男で女装している者といえば、元韶さまだ。

 ――ということは、主上と元韶さまと……あとは誰?

 僕が三人目を確かめようとしたとき、後ろから長袖を引っ張られた。
 振り向くと、怖い顔をした母が僕を扉から離し、元来た方向に戻り始めた。

「は、母上?」

 僕は突然の母の豹変に驚愕する。そのままぐいぐい後宮を早足であるかされ、裏門まで連れてこられた。
 後宮の外に出たとき、母は真面目な顔をして僕に言った。

「今日見たものは忘れなさい。いいわね?!」

 いつにない厳しい形相だったので、僕は怯みつつ頷く。
 僕が承知すると安堵したのか、母はそのまま放してくれた。
 こころの内にもやもやを抱えたまま、僕は河間王府への帰途についた。



 静徳皇后さまが主上に乱暴されたあと、孝琬さまの機嫌はすこぶる悪い。
 僕の帰りが少し遅くなっただけで、門前に仁王立ちされていた孝琬さまは頭から怒鳴りつけられた。

「遅いッ! 日没までに帰れと何度言ったら解る!」
「す、すいません……」

 僕は縮こまりひたすら謝り続けた。
 ふん、と鼻を鳴らし、孝琬さまは僕を王府のなかに押し込まれる。
 僕は帰り際に見た光景が頭に焼きつき、居心地のよくない思いをしていた。
 孝琬さまは僕の変化を敏感に察知されると、更に仏頂面になり文句を言われた。

「何を赤い顔をしている。
 さては母親から金子をもらい、妓楼で筆卸しでもしてもらったのか。
 卑しい奴が、そんなことをしている暇があれば、とっとと帰って来い!」

 卑しい奴……ご自分が女人に不自由していないからといって、そんな言い方はないだろう。僕はむっとした。

「妓楼になど行ってません! たまたま後宮で淫らな現場を見てしまっただけです」

 孝琬さまは眉を顰められ、情けない奴とでも言いたげに僕を見られた。

「はぁ? 今上と誰かが乳繰り合っているのを見て煽られたか。
 これだから経験の無いものは始末が悪い。欲情して顏を赤くするくらいなら、とっとと妓楼で済ませて来い!」
「行くのか行かないのか、どっちにしろっていうんですか!」

 この方は、自分の言っていることが矛盾していると解っているのだろうか?
 むっつりしながら、僕は真相を言い始める。

「僕は主上と嬪御の交わりを見たわけではありません!
 主上と元韶さま、そしてあとひとり美少年の……」

 そこまで言って、愕然とする。あの美少年は……。

「まさか、長恭さま……?!」
「は?」

 訳が解らないというように、血の気が引いていく僕を孝琬さまは凝視される。
 僕は血相を変えて孝琬さまの袖を掴んだ。

「長恭さまです! 主上と元韶さまの間に挟まれ交わっていらっしゃったのは!」

 僕の叫びに、孝琬さまも瞠目される。
 そう、僕が見たのは、主上と元韶さま、そして長恭さまの交合だったのだ。あの姿態と動きからすると、長恭さまは主上に犯され元韶さまにも辱めを受けていたのだ。
 僕が長恭さまと会ったことは、そう何度も無い。年始に静徳宮で挨拶を行うときにお見かけしたのを、うっすらと覚えているだけだ。が、間違いなく長恭さまだった。

「何ということだ……今上は文襄皇帝の皇子にまで手を出されているのか」

 信じられないというように、孝琬さまは呆然と呟かれる。
 僕はある閃きに、眩暈がしそうになった。

「まさか長恭さまも、主上の復讐の対象なのでは……?
 長恭さまは主上が愛された女人の御子でもありますが、主上が最も憎んでいる文襄皇帝さまの御子でもあります。
 そして、長恭さまの母君は主上をずっと拒絶されていた……主上はその怒りを、静徳皇后さまだけでなく長恭さまにまでぶつけているのでは」

 確証は無い。が、近いところまで推測できているような気がする。
 孝琬さまは眉根を寄せられる。

「おまえ知っているか? 今上の李皇后と長恭はよく似た顔立ちをしている」
「えっ……! では、李皇后さまは長恭さまの母君の形代ということに……?」

 ご自身の私室に入り、声を潜めて孝琬さまは語られる。

「形代というより、今上の女子の好みがあのような造型の女子なのだろう。
 その原型となっているのが、長恭の母だとしてもな。
 ……それより、今上は我等の血筋を何だと思っているのだろう」

 孝琬さまのこのお言葉には、少なくない怒りが含まれている。
 僕は首を傾げた。

「でも五男の延宗(えんそう)さまは、主上に目に入れても痛くないほど可愛がられていらっしゃいますよ」
「延宗は今上が延宗の母を蒸(じょう)するとき幼かったから、延宗の母の頼みで一緒に後宮に入れたのだ。今上はそのまま延宗に情が移ったのだろう」

 蒸とは鮮卑族(せんぴぞく)の風習で、年少者が亡くなった年長者の妻妾を我がものとすることだ。
 もともと家畜を育て、集団で草原を移動する遊牧民である鮮卑族は、人口を増やすために女子を無駄に放っておかず、腹が空いているのなら子を生ませようという主義の持ち主だった。
 斉の皇族・高氏は祖である高歓さまが鮮卑の習俗で育っており、太后・婁昭君さまも鮮卑の御方である。この風習を野蛮なものを思う漢族の倫理を持っていらっしゃらなかった。
 ゆえに高歓さまも魏分裂の折に取り残された魏皇族の妃嬪を多く我がものとされ、高歓さま亡きあとには高澄さまや主上もそれに従っていらっしゃる。
 ある意味敗者の妻であった母もその風俗に巻き込まれたと見ることもでき、静徳皇后さまも同様なのである。
 主上は高歓さまや高澄さまの妾妃たちを、数人後宮に入れていらっしゃる。
 延宗さまやもうひとりの弟君・紹信(しょうしん)さまのお母君もそうやって後宮に入られたのだ。紹信さまに至っては、お母君が主上の後宮に入られてから生まれられた。
 それはそれとして、文襄皇帝の皇子としての強い自覚があられる孝琬さまにとって、兄弟である長恭さまが主上に犯されることは、酷く屈辱的なことであるが、更に複雑さも相俟っている。

「士隆、確かに長恭は兄弟だが……複雑な心地だ。
 わたしは母が犯される元凶を作った長恭とその母を怨んでいる。
 が、文襄皇帝の皇子が辱められているという事実は、耐え難い恥辱でもある。
 喜んでいいやら怒っていいやら解らぬ」
「孝琬さま……」

 これが今の孝琬さまの真実のお気持ちなのだ。
 僕は言う言葉も見つからず、ただ孝琬さまを見つめていた。



 僕は長恭さまが受けている現状を、孝琬さまには秘密にして、静徳皇后さまにお知らせした。
 皇后さまは拭っても拭いきれない罪悪感に、痛嘆なされた。

「長恭……妾のせいで、このようなことに……」


 尽きる事の無い皇后さまの哀しみに、僕は項垂れるしかなかった。




(4)に続く
蘭陵王
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