愛情表現〜〜「不器用さも愛しい5のお題」by.浮きに絶えぬは様より〜



 ――東魏・天平(てんぺい)元年/534年冬。


「昨夜第内に入られた韓氏(かんし)の御方が、殿が初めて求婚なさった方なのでしょう?」

 今日も爾朱后(じしゅこう)に通うために束帯を纏おうとしていた高歓(こうかん)は、今は彼の正妃の身分にある婁昭君(ろうしょうくん)に一言告げられ、唖然とした。
 確かに昨夜、彼は以前結婚を申し込んでいた韓氏の女・淑桜(しゅくおう)を妾として閨に召した。
 淑桜を妻にと望んだが、彼女の母が彼を軽んじ、結婚を許さなかった。
 その後、淑桜は他の男に嫁いだが寡婦になり、実家に出戻っていたところを、実力を付けた高歓が妾として迎えたのである。
 皮のベルトを手渡そうとしていた昭君は、狼狽している夫の姿に肩を竦める。

「……知っていたのか?」

 顔が強張り、脂汗まで出そうになっている夫の姿が、可笑しくてたまらない。
 口元を長袖で押さえて、昭君はくすり、と笑った。

「晋州(しんしゅう)に居た頃に、噂で聞きました。
 殿は精一杯の身形をして参られたのに、韓氏の御方の母君に断られてしまわれたのですね」

 膝を突いて高歓のベルトを絞めつつ、昭君は何気なく言う。

「……妬いているのか?」

 頭のうえから掛けられた言葉に、昭君は顔を上げる。
 真剣な面持ちをした夫の顔が、彼女の内心を伺うように見下ろしていた。

「妬いてはおりませんわ。
 ……ただ、殿とあの方との結婚が成就していたら、今こうしてわたしはここに居ないかも、と思っただけです」

 十八年前のあの日、昭君は城上で兵役についていた高歓を見初め、妻になりたいと私財を投入し彼に迫った。
 が、あの時既に彼が韓氏と結婚していたのなら、己は諦めていた、と昭君は思う。
 自身のプライドの高さは、自分が一番よく弁えている。婁氏の娘が妾など、あってはならぬことだった。
 あの頃は解らなかったことだが、高歓以外にも己が夫に選びそうな男は、確かに他にもいた。
 現在夫の宿敵となっている男に会う機会があったなら、己は男の資質を見抜き、迷わず男のもとに向かうであろうと思う。
 自身に高望み癖があることを、昭君はよく自覚していた。

「――――昭君!」

 物思いに耽っていた昭君は、きつい声で高歓に名を呼ばれ、我に返った。
 夫はじとっとした目で、彼女を見ていた。

「考え事をしていたな」
「あ……えぇ」

 素直に頷く昭君に、不機嫌さを顕にして高歓は腕を組んだ。

「……言っておくが、おまえが嫉妬したとしても、それは無意味なことだぞ」

 夫の断言に、昭君はきょとんとする。

「仮に淑桜を妻としても、おまえほど重んじることはできぬ」

 真顔で言う夫に、昭君は少し驚く。
 彼は韓氏を妻に望み、やっと念願叶ったのだ。今は韓氏に気持ちが向かっていても不思議でない――と思っていたから、昭君は夫の言葉に理解に苦しんだ。

「まぁ、どうしてですの?」

 小首を傾げて尋ねる昭君に、高歓は腕組みを解いて、彼女を指差した。

「おまえほど頭の切れる女子はおらぬ。
 文娥(ぶんが。爾朱后の名)は束帯姿で臣下を気取るわたしを見て満足しているが、それがただのポーズだということに気付いておらん。
 あれは己の立場を錯覚されさえすれば、易々と身体を開く女だからな。
 おまえは、そんなこと遠の昔にお見通しだろう?」

 昭君には、ますます訳が解らない。爾朱后は仮にも、現在高歓が一番寵愛している女である。
 それなのに、夫は彼女を軽く見ている。
 それが、昭君には変に思えた。
 が、取り敢えず思ったことを口にしてみる。

「まぁ、それは、そうですけれど。
 身分が高いと見せ掛けているのに、殿の手管に簡単に騙されておしまいになるのは、ある意味滑稽ともいえますわね」

 言葉は柔らかだが、しっかり現われている辛辣な妻の目利きに、高歓は苦笑いする。

「まったく、おまえは相変わらずだな……。
 渤海王妃(ぼっかいおうひ)となって貞淑さを身につけたと見せ掛け、中身はまったく変わっておらん」
「ひどい言い草ですのね」

 昭君はむっとする。

「だが、文娥の本質を見抜いている。
 おまえのことだ、他の女子たちのことも、しっかり観察済なのだろう」

 夫の挑発に、う〜〜ん、と考えて、昭君は見て取れた女人たちの特徴を言う。

「まぁ、そうですわね。
 鄭氏(ていし)の御方は色気で勝負される方ですわね。殿方と女子の前では、態度が違いますし。
 そういえば、鄭氏の御方は鞠のような胸をお持ちですわね。爾朱后さまもなかなかの胸をしていらしたし。
 殿が『美乳好き』と言われたのがはったりだったと、よ〜〜っく解りましたわ」

 高歓はぎくりとし、に〜〜っこりと笑う昭君のどこか怖い顔を見る。
 彼は昭君との初めての夜に、「整った形の胸が好き」と言っていた。
 今もそれは変わらぬが、女を欲しがる要因は、乳房だけでなく色々であるので、致し方ない。

「それは、だなぁ……年をとれば、好みの幅も広がる、というものだ」
「そうですか」

 じっとりと冷たい目で見られ、高歓はたじたじとする。

「……とにかく!
 他の女子に比べ、おまえは頭がいい分、扱いにくい。
 逆にそれが、十八年連れ添っても、まったく飽きさせぬ理由なのだがな」
「それは、褒めていらっしゃるのですか?」

 今度は昭君の機嫌が地を這う。
 高歓はただただ取り繕う努力をしていた。

「勿論、褒めているのだ。
 女子を百人集めても、おまえ一人には満たぬ。
 薹が立ったあとでも、おまえの女の魅力は尽きぬしな」
「まぁ、上手に持ち上げられますこと」
「馬鹿者、素直に受け取れ!」

 皮肉っぽく当て擦りする昭君を、高歓はぎっと睨み付ける。
 が、つんと横に顎を上げた昭君には、通用しない。
 妻の強情ッ張り加減にげんなりして、高歓は嘆息した。

「解らぬか? 多く女子を侍らせても、夜々おまえを慈しんでいるだろう。
 人には言えぬような濃密な夜を幾度も過ごしているというのに、何を拗ねる必要があるというのだ」

 高歓の暴露に、部屋に居た侍女たちが「きゃ〜〜っ」と騒ぎだす。
 説得というには余りに明け透けな言い様に、昭君は真っ赤になった。

「まぁ、恥ずかしげもなくおっしゃって!
 わたしは拗ねてなどおりませぬ!
 わたしと結婚した当初と、今の言い分が余りに違うから、怒っているのです!」

 むきになって怒る昭君に、呆然と見ていた高歓だが、やがて笑いだした。
 恥ずかしいというのなら、乳房談義も十分恥ずかしいというのに気付かず、昭君は怒りつつ照れている。
 普通の正妻の怒りのポイントと、大幅にずれまくっている昭君の感性には、爆笑するしか仕方がなかった。
 夫のそんな態度が、昭君の怒りを逆撫でする。

「何で笑うんですか!
 十人並みの胸を哀れんで、未だに寵されるというのなら、そんなものいりません!
 えぇ、独り寝のほうがましですわよ!」

 妙なコンプレックスに拘っている昭君が、高歓にはおかしくて仕方がなかった。

 ――まったく、しとやかな淑桜を妻としても、こんなに楽しめまい。

 彼女は気付いていない。
 昭君と出会って共に生きるようになってから、韓氏の面影が浮かばなくなっていたことを。それほど、彼女は鮮烈なのだ。
 今韓氏を妾に迎えたのは、ひとえに懐かしさを感じたからに他ならない。
 昭君は彼が爾朱后や鄭氏を召したことについて、長子の高澄(こうちょう)や、盟友の司馬子如(しばしじょ)などに、

「手に入れられなかった女を手に入れて、権勢欲を満たしているだけ」

 と語ったらしいが、ある意味当たっている。
 確かに、女たちを可愛いとは思う。
 が、どんなに爾朱后に正妻にせよと迫られても、己は頷かないはずだ、と高歓は確信していた。
 まだまだ昭君は若い。子供も生ませられる。彼女がどんなに「嫌だ!」と言っても、己は昭君を飽きずに愛しむだろう。
 ――ある意味、重症だ、と高歓は感じた。

「ほら、もうお支度をなされたでしょう?!
 早く、爾朱后のもとに行ってください!」

 しっしっ、と犬を追っ払うような仕草をして、昭君は高歓を戸口に押しやった。
 黙って押し出されていた高歓だが、ふと昭君を振り返り、言った。

「……言っておくが、わたしが他の女を寵したからといって、他の男と火遊びしようなどと思うなよ」

 夫の思わぬ言葉に、昭君は手を止めた。

「え? しませんよ。あなたじゃあるまいし」





「間違っても、どこかの黒いカワウソに夢想などするなよ」





 …………え?

 昭君は夫が出ていった戸口を見入る。

 ――み、見抜かれてる??

 夫が違う女人と結婚していたかもしれないのなら、自分だって夫の宿敵――宇文泰(うぶんたい。字は黒獺・こくたつ)などと結婚していた可能性もあるかもしれない、と空想遊びをしただけなのに、見抜かれてしまった。
 彼と会ったことがあるのは、爾朱栄(じしゅえい)の屋敷の酒宴でコンパニオンとして無理矢理呼ばれたときと、爾朱栄の幕下だった賀抜岳(がばつがく)の使者として彼が現われたときの二回しかない。
 その二回の面識だけで、昭君は宇文泰を、

「あれは、夫と伯仲する実力を持つかもしれない」

 と判じ、仲間に引き入れられないのなら、殺すべきだと強く感じた。
 高歓と同等の魅力を持つ者――つまり、宇文泰は昭君の「男の好み」に填まっていたのである。
 昭君は自分の間抜けさに、苦笑いした。

 ――そりゃ、見抜かれて当然か。二回とも、賀六渾(がろっこん)殿には探りを入れられたし、警戒されて当然だわね。
 でも――あの人も、あたしを信用していない。
 あたしがあの人に浮気されたからといって、宿敵のもとに走ってしまうなど、あるわけないというのに。



 昭君は暫し首を捻っていた。
 が、頭を切り替えて、夫の新しい妾・韓氏と話でもしようと思い、いそいそと支度を始めた。




――了――




蘭陵王
トップ