孤高の花
わたしにとって、あなたは手の届かない、真冬の空に浮かぶ月。
清らかな泉の真中に咲く清澄な花。
汚濁に溺れているわたしには注がれない、清水。
――決して手の届かない人。
斉朝初代皇帝・文宣帝が崩御して約二年半。
流血の悲劇が起き、世は目紛しく変わった。
が、尉相願の主・蘭陵王高長恭にとっては心に響かないものだったのか、挙動の変化はまったく齎されなかった。
蘭陵王は現皇帝・高湛の兄・高澄の息子として生まれ、公子として扱われてきた。相願の学友である平掩(へいえん)の母が蘭陵王の乳母であった関係で、相願は蘭陵王に仕えることとなった。
彼自身は勲貴(軍閥)の名家の次男であったので、兄に比べれば自由が利いたが、それでもあった家名を何より大切にせよ、という氏族の者の言をあえて無視し、蘭陵王に近しく侍するようになった。
今でも、平掩はもとより、廻りの者から彼の行動は不思議がられる。
――言いたい者には言わせておけばいい。わたしは、あの方に搦めとられたのだ。
相願は、こころに深く想いを秘め、ただ静かにそこにあった。
初めて会ったとき、いたいけな少女だと思った。円らな瞳も、朱をさしたような紅い唇も、他の男児より白い肌も、儚げでこの世から消え去ってしまいそうな趣きであった。
が、厳しい眼差し、人を拒絶する物言い、毅然とした態度は、少年のものであった。
剣の腕をひたすら磨いていた少年は、相願に武術の指南を仰いだ。
それが、始まりだった。
が、深みに嵌まってしまったのは、彼が魂の奥底まで手酷く傷を負っているのを知ってしまったからだった。それは、乳母や平掩でさえ知らぬことであった。偶然に彼は知り得ることになった。心と身体を絶対的な力で蹂躙され、もがきながらも抗えず、それでも自らを捨ててしまえない命の強さを感じたからだった。
彼の魂の救いに、己がなりたい――激しく、相願はそう願った。
それは既に、主従の関係を越えた想いだったのかもしれない。
だが、彼の救いが自分でないことを知らされ、相願の一部はさらに狂ってしまった。
「おい采嚠(さいりゅう)、王がお呼びだぞ」
第の中庭で剣の素振りをしていた相願に、屈託のない笑みを浮かべ、平掩(へいえん)は回廊を渡ってくる。
「また素振りかよ、武骨だねぇ。武術に励むのはいいが、もうちっとは色気づいてもいいんじゃないか?」
はぁ〜〜っと溜め息を吐いて、平掩は腕を組む。
布で汗を拭いながら、じろり、と相願は友を睨む。
「わたしは自分の好きなようにしているだけだ。しばらく誰も娶るつもりはない」
取りつく島もない相願の言いように苦笑いし、平掩は頭を掻く。
「まったく……おれの廻りには、孤独愛好者ばかりかよ。
言っておくけどな、おまえが王に義理立てする必要はないんだぞ。
王が振っ切れるのには、多分、まだ時間がかかる。
王の心からあの娘の面影が去らぬ限りは、王は一歩を踏み出すことは出来ぬ。
哀しい限りだがな……」
平掩の言様にむっとし、相願は彼の顔に汗みどろになった布を投げる。ぶっ、と吹き出して、平掩は布を地に叩き付けた。
相願は忌々しく眉根を寄せる。
――確かに、平掩の言う通り。あの娘の存在がなくならぬ限り、王は呪縛され続ける。
蘭陵王が18歳のとき、突然にその娘は目の前に現れた。
彼とよく似た傷を持ち、それでいてひたむきな力を持つ娘。
北周の将に身体を狙われ、この国に逃げ込んできた。たまたまの行き掛りで蘭陵王は彼女を助けたが、彼女の優しさが、強さが、情熱が彼に影響を与えた。
蘭陵王は娘を求めたが、彼の命を盾に取った罠を掛けられ、娘は彼を守るため北周に向かった。今では北周の将の寵者となり、子を生したという。
その娘を――蘭陵王は、忘れられない。未だに、焦がれる心を抱き、妻を娶ることを拒んでいる。
時は停滞したまま、新たな流れを刻まない。
だから――蘭陵王に縛られながらも、彼の幸せを求めて止まない相願は、齟齬の嵐に見舞われる。
「――――おい?」
唇を噛んで俯く相願を訝しみ、平掩は彼の顔を覗き込む。
はっとして、相願は無表情を取り繕った。
「王のもとに行ってくる」
第の最奥にある主の居室は、橙花の香りが漂っていた。
思わず、相願は香りを感じる感覚を閉じようとする。意識して無視しようとした。
この香りは、ある少女が好んだもの。
『いいでしょ? この香りは気持ちが明るくなって、和むんだもの』
娘は嬉しそうに主にそう語っていた。
書机の上の白磁の瓶に生けられている白く清楚な橙花の枝が、開け放たれた窓から吹き込むそよ風に揺れる。
「……相願、遅かったではないか」
主人は、本を捲る手を止めていた。
いつもながらに、女子よりも艶麗で、表情のない面が己に向き直っている。澄んだ瞳が、彼を映す。
「ご用とは、何でしょうか」
顔を引き締め、相願は蘭陵王を見る。
「うむ、おまえの姉がおまえを心配していると、乳母から聞いた」
手を組み、蘭陵王は部下を真っ直ぐに見据える。
相願の姉は、平掩と結婚している。いわば、平掩と相願は義兄弟である。
「ずっと不思議に思っていたが、おまえはどうして妻を娶らぬ?」
相願は自分の血筋を残すことを考えてはいなかった。尉氏の跡を継ぐのは兄である。己はあくまで兄の補佐であって、後々に受け継がれていくのは兄の血筋であればよい、そう思っている。
しかし、親や兄、姉は彼のことを心配していた。姉は、乳母を通じて、一番この話題を聞いて欲しくない主人に言ってしまった。
相願は、苛立ちを平静の仮面の裏に隠す。
「不自然ですか」
伶俐な眼差しが相願のこころを疼かせる。
「普通は、そのように見られるな。己の子孫を残そうとするのは当然の考えだ」
「あなた様がそのようにおっしゃるとは……そういうあなた様も、誰も娶ろうとはなさらない」
静かな様子を変えず、蘭陵王は橙花を眺める。
「わたしのこころのうちは……おまえも知っておろう……。わたしのこころは未だに蘭香のうえにある。諦めようとて、諦められぬ。
おまえも、遂げようにも遂げられぬ恋慕をしているのなら、その気持ち、解らなくもない。
おまえも、わたしと似た想いを抱いているのか」
言いながら、蘭陵王は橙花に目を注ぎ続ける。
少女――蘭香は、蘭陵王のなかに切ない想い出として、橙花の香りの記憶を植え付けた。彼女がここにいたのは一年余り。決して長いとはいえない。が、彼にとってその一年は、悩ましく鮮烈な情念を沸き上がらせる。橙花の清く柔らかな香りは、情念の糸口といえる。
相願にとっては、切って捨てたい花だ。
この花があるかぎり――相願は苦しみにのたうちまわらねばならない。
「――ええ、わたしにも……遂げられぬ物想いがあります。決して適わぬし、伝えてはならぬ……」
抑揚のない言質は、溢れ出さんばかりの切ない情念が込められている。
「――そうか、お互い、辛いな……」
そう言って、蘭陵王は誰よりも美しい微笑みを浮かべる。幾許かの寂寥が、より美麗に見せる。
至極の宝石のような微笑み。
が、それは、己に向けられたものではない――。
引き裂かれるような胸の痛みが、奥底にある。
相願は頭を下げると、主の部屋から辞した。
――そう、誰にも気付かれなくともよい。あの人にさえも。ただ、あの人を見つめ続けていられるのなら、それでよい。
だが、わたしは、あの人が愛を成就してしまえば、壊れてしまうかもしれぬ――。
密やかな秘密。密やかな情念。
密やかな、狂気――――。
それは、知らず知らずのうちに巣食い、ひとを破滅させる。
了
* * * * * *
あとがき
蘭陵王の近くにいた軍人・尉相願(いそうがん)を主役にした短編です。
尉相願は北方民族出身の軍人(またその氏族を勲貴といいます)で、定陽の戦いで蘭陵王の下で戦いました。
その時、自ら自分の名誉を傷つけようとしている蘭陵王を見兼ねて、相願は苦言を呈します(詳しいやり取りは、歴史逍遙のこのページへ)。
正義感が強い人物だと見受けられます。
これは、自己設定の話ですが、実は、わたしがネットデビューする前から考えていた話から、相願のもとになるキャラクターはいました。
ネットで蘭陵王関係のサイトにお邪魔したり、史書を自分で調べるようになってから、相願とそのキャラクターがダブる、というので、彼があのキャラクターになりました。相願の字(采嚠)は、その名残りです。采嚠というのが、彼の名前になっていました。
蘭陵王本編を書ける状態じゃないことからくるフラストレーションから書いた短編ですが、かなりネタばれ度合いの強い、読んでいる人からすれば「……何が言いたいんだ?」というような話になってしまいました。
本編の主人公は蘭陵王と杜蘭香で、尉相願はサブキャラです。
メインストーリーで、主人公たちに絡んでいくその後の彼を綴っていこうと思っています。(いつになるやら……)。
長谷川彰子(2004年6月8日)