前編


2.高歓

 ――今宵は、やけに落ち着かない。

 高歓は一度書物に落とした目線をまたも空に上げる。
 いつもより冴え冴えとした月光に充てられたからか、それとも、いや増してくる寒気のせいなのか? 高歓は自問し続ける。
 彼の心が乱れる理由は、歴然としていた。
 思いも掛けない来訪者があったからだ。



 少女は高歓に体当たりでぶつかってきた。
 激しく寄せられてくる心と、暖かく柔らかな肢体が彼の心を掻き乱してくる。が、面を少しも変えることなく、高歓は少女の身体を己から引き剥がした。

「これは、いかな戯れか?
 君のような令嬢が、男を篭絡しようなどとは」

 高歓の慇懃だが冷ややかな拒否に、しかし少女は従わない。毅然とした面持ちで彼を見返してくる。

「あなたはあたしが、戯れなどでこんなことをしてくると思っているの?
 あたしは、これでも婁提の血を引いているのよ。あたしが男に媚を売るような愚なまねをする女ではないことを、あなたも解っているはずよ、賀六渾殿」

 少女――婁昭君の声が城上の空間に響いた。
 高歓も、婁昭君の名は以前から聞いている。名族・婁氏の令嬢で聡明な美少女であり、年頃になってからは様々な豪族の花嫁として望まれていることも。みなが噂する娘に、高歓も一度は会ってみたいと思っていたのは確かだ。
 が、そんな彼女が、なぜ自分を選んだのか、高歓は訝しく思っている。

「君のような、知恵のある娘が、わたしのような男を選ぶとはとても信じられぬが?
 わたしは鎮獄隊の一兵卒で、財産も有していない。後ろ楯のない、将来さえ危ぶまれる男を、君はどうして選ぶのだ?」

 言われて、昭君はふふ、と笑う。

「そうね、あなたは何も持っていないわね。
 でも、これからあなたはきっと大きな力を有するはず。あたしはそれに賭けてみたいの」

 高歓は虚に摘まれる。複雑な表情で笑みを造る。

「それは、買い被りすぎだろう。
 君は何を根拠にわたしが大きな力を有するというのだ?」

 昭君は自信ありげに唇を開いた。

「あなたは、大望を抱いている。あたしにはそれが解るの。
 胸に大望を抱いて、来るべき日に備えているのでしょう」

 高歓は瞠目する。が、気取られぬよう、すぐに顔を改める。

「まさか。この、軍部の存在を顧みさえしない魏朝で、どうやって大望など抱けよう? 君の思い過ごしだ」
「そうかしら?
 あなたのその顔が、物語っているというのに?
 それに、あなたほどの人が、あたしを娶る利益に気付かないとは思えないわ」

 己自身の価値を測る昭君を、高歓はじっと見据えた。
 正直、内心では舌を巻いていた。どう見ても、彼よりも年下で、年頃になったとはいえ未だ童女の未熟さも併せ持って見える少女が、はっきりと損得勘定しているのだ。聡明だという噂も、伊達ではないと高歓は思い知らされた。

「あたしと結婚するということは、すなわち婁氏という後ろ楯を得ることよ。これは、きっとあなたの人生の利になるはず。出世する望みがなくとも、苦労せずにすむのだから、あなたに断る理由はないはずだわ」

 不敵な微笑みを浮かべる少女に、高歓の好奇心が湧いてくる。

「そうは言うが、果たして君の家族がわたしとの結婚を許すだろうか? わたしにとっては有利となる結婚でも、君の家にとっては、利益を得るどころか屈辱を負うことになるかもしれぬぞ。
 それでも、君の家族は許すとでも?」
「だから、こうやって自分からあなたのもとに来たの。
 いま、あたしを抱いてあなたのものにして。そうすれば、母や兄も何も言えなくなるはず」

 少女は臆面もなくそう言う。度胆を抜かれたのは高歓の方だ。
 二の句が告げられない彼の手を取ると、昭君は衣服の上から己の胸に触れさせた。昭君は男の手の平が暫時強張ったのを感じ取る。男の様子に、昭君は婉然と微笑んだ。
 少女は、己の理性を奪おうとしている――高歓はそう悟ると、少女に捕われた腕を強引に振払った。
 昭君は顔色を変える。目の淵を激情に染めて叫ぶ。

「どうして、思うままに委ねようとしないの!?
 あなただって、いまあたしを欲しいと思ったはずよ! なのにどうして……!」

 高歓は冷静な態を取る。

「見くびられては困る。
 君のような少女に誘惑されて我を失うような男だとは思わないでくれ。
 それに、わたしはそんな卑怯なまねをしてまで婁氏の力を得たいとは思っていない。残念だが、別の男に当たってくれ」

 怜悧な口調で、高歓は昭君の望みを突き放す。
 二度までも拒まれ、昭君の表情が悔しさに歪んだ。

「そう…………、解ったわ。
 あたしには、あなたがあたしの伴侶になる人だと思えたのに。あなたとなら、一生添って生きていけると思ったのに。
 結局、あたしの思い過ごしだったわけね」

 嫋々とした呟きに、高歓は目を細めて少女を見、そして見開いた。
 少女が――気高く、峻烈と噂されていた婁昭君が、目の前で涙を流している。苦しさと悲しさで頬を濡らしている。高歓は言葉を無くした。
 涙に気付くと、昭君は唇を噛み締め、涙を袖で荒々しく拭った。

「お邪魔してごめんなさい。もう来ないから」

 動けない高歓に頭を下げると、昭君は身を翻した。



 もう既に、婁昭君の訪れから四・五刻過ぎ去っている。城上にも、朝日が差しはじめた。
 だというのに、高歓の気持ちは何故か晴れない。
 書物でも読んで憂さをやり過ごそうとしたが、思う通りにいかなかった。気が付くと、空を見つめ、憂わし気な吐息を吐いている。

 ――たかが、女を泣かせただけだろう。今までにも、そういうことはあったはずだ。

 高歓は己に言い聞かせる。
 彼も女との交渉を数重ねて年を経ている。豪族の娘や娼妓など、高低身分を取り揃え女を抱いてきた。泣かせた女も、数知れない。
 気楽な遊びなら、高歓は婁昭君を受け入れていたと思う。たった一夜だけのかりそめの恋なら、煩わしくはない。が、結婚となれば別だ。
 高歓とて、一度は結婚したいと思ったことがあった。
 が、妻にと望んだ娘の母が、彼との結婚を許さなかった。
 それは、高歓に資産がなく貧窮していた、ということもあったが、一鎮獄隊士に娘を嫁がせたくない、という女性の母の彼への見縊りがあったからに他ならない。
 だからといって、『結婚』というものを畏れているわけではない。妻を持つことによって、家庭に縛られるかもしれない、という思いがあったからだ。
 昭君に突き止められた通り、高歓は胸に野望を抱いていた。男としては、一度は思う夢ーーこの世に覇を称えること。高歓も例外ではなく、その野望に女が必要な部分はなかった。
 それなのに、婁昭君の鮮やかさに目を奪われている――。
 女だというのに優れた知性、凛冽とした資質。が、容姿は彼女の中身に反して清婉である。男達が彼女を妻に望むのは、高歓からしても自然と思えた。
 そう考え、ふと、触れた乳房の柔らかさを思い出してしまう。高歓は慌てて脳裏から打ち消した。

 ――わたしは、こんなに情けない男だったのか。

 高歓は嘆息を零した。




 当直の任務を終え、宿舎に帰った高歓を迎えた盟友達は、みな一斉に驚いた。
 何があったのかは解らぬが、高歓はどこかげっそりとした面持ちをしていた。

「――どうしたのだ? まさか、賊の気配でもあったのか?」

 高歓の義兄・尉景(いけい)が心配する。

「いえ、そういうわけでは……」

 高歓は部屋の隅に置いてある桶に汲んであった飲料水を、柄杓で掬い、一口啜る。

「それはそうだな。敵襲があろうものなら、我等の宿舎にも報告が届くはずだ」

 高歓は居心地悪そうに肩を竦める。
 そんな様子をしげしげと眺めていた司馬子如(しばしじょ)は、屈託なく言った。

「何だか、誰かとやりあったような面持ちだな」

 余りにも的確な突きに、高歓は飲みかけていた水を噴き出す。
 どぎまぎしつつ、彼はにやにやと笑う司馬子如を睨んだ。

「一体、何を言うのだ」
「いや、そのようにしか見えないよ。疲れが、顔に出ている。なにかあったようにしか見えないね」

 今度は、蔡儁(さいしゅん)が。
 みなが一様に言うので、高歓は黙り込んでしまう。
 もとより、話したくない事柄は梃でも話さない性格の高歓なので、盟友達はそれ以上追求しようとはしなかった。
 彼の盟友は、それぞれ違う鎮獄隊に属しているが、平城などで顔を合わせる度に互いを意識しあって交流に及んだ。特に、機を見るのに長け、弁がたつ司馬子如に、豪気で清々しい性格だが度胸のある蔡儁は普段から親しく付き合っている。
 朋友と共にいる時間は、高歓にとって貴重な時間だ。
 が、それを妨げる来訪があった。



「賀六渾殿。姉はいまこちらに?」

 昼下がりの一時、懸念らしきものが見える顔をした婁昭が、鎮獄隊の宿舎に入ってきた。
 婁昭が宿舎に入ってきて告げた内容に、高歓は驚愕する。
 友の目を避け、高歓は宿舎から婁昭を連れ出した。

「いや、夜中にすでに帰られたが」

 言われて、婁昭は見るからに蒼白になる。

「えっ!?
 姉は、今こちらにいないのですか!?」

 今度は、高歓が驚きを露にする。
 昭君は自分の邸宅に帰ったはずなのだ。彼が追い返したのだから、そこしか行く場所はないはずなのだが。
 高歓がそう言うと、婁昭は頭を抱え込んだ。

「そんな……。姉は、未だ婁氏の邸に帰ってきていません。本当に、あなたは姉を帰されたのですね?」

 不安気な婁昭の言に、高歓は頷く。
 婁昭は唾を飲み込むと、顔を上げた。

「僕はもう少し探してみます。お騒がせして申し訳ありませんでした」

 そう言って宿舎の門を出ようとする婁昭を高歓は呼び止める。

「待ってくれ、わたしも一緒に探そう。いま、馬の支度を……」

 婁昭が高歓の動きを止める。

「いえ、あなたが動くと、かえって大げさになる。
 もしも、厄介ごとに巻き込まれていたら、その時力を貸して下さい」

 高歓はまだ何か言おうとしたが、婁昭は待つ間もなく飛び出していった。
 彼の胸の中にも、悪い予感が過る。まさか、己が拒んだことで自棄を起こしたのだろうか。今頃、自ら命を絶っていたりしたら……。
 婁昭君はそこまで愚かな女ではない、と高歓は思っている。が、昭君の絶望の眼差しが、生々しく彼の目の奥を焼く。
 再び朋友達の前に立ったとき、高歓は暗然とした面持ちを隠しきれてはいなかった。

「……やはり、おかしいぞ。どうかしたのか?」

 尉景が探りの目を入れてくる。高歓の出方を、司馬子如と蔡儁が見守っている。暖かく硬い知己の眼差しに、抗しきれずに高歓は口を開いた。

「昨夜、婁昭君に求婚された」
「…………えっ!?」

 司馬子如と蔡儁の声が見事に重なる。

「婁昭君って――あの、婁昭君!?」
「婁提の孫娘だろ!? おまえが見初められたのか!?」

 大騒ぎする友を、高歓は虚ろな目で見る。

「喜ぶのはまだ早い。わたしは、求婚を拒絶したのだから」

 一瞬の、間。しん、と宿舎内が静まり返る。
 やがて、静寂を破ったのは大音声。

「え――――ッ!!」

 大業に、司馬子如と蔡儁は叫びを挙げた。

「な、なんで、断ったりするんだよ! 婁氏だぞ! 裕福になるのが、間違い無しなんだぞっ!」

 蔡儁が一気に捲し立てる。
 司馬子如は不思議そうに眉を寄せる。

「――おまえがさっきから塞いでいるのは、婁昭君のことでなのか?  おまえは自分の意志で彼女の求婚を撥ね付けたんだろう? それなのにどうして憂鬱そうな顔をしているんだ?」

 高歓も一言では応えられない。黙してしまった彼をより奇妙な表情で朋友は見つめている。
 困り果てて、高歓は首を振った。

「さぁな。わたしにもよく解らん」

 先程から沈思していた尉景が口を開いた。

「実際に婁昭君に会ってみて、おまえはどう思ったのだ。まったく、意に適う女ではなかったのか?」
「いや……そういうわけでは……。噂以上の女であったのは確かです」

 高歓は尉景に正直に言う。

「では、おまえの嗜好に合わなかったのか? 噂からすれば、手応えのある女で、おまえの好みそうな女ではないか」

 言われて、高歓の面に朱が注す。火を見るより明らかな高歓の言外の答に、朋友達は呆れかえって溜め息を吐いた。

「……なんだよ。好きなら、断ったりするなよ」

 司馬子如がどんよりと言う。

「わたしは、婁昭君のことなど何とも思っていない」

 むきになる高歓を、蔡儁は人さし指で揶揄した。

「無理をしちゃいけないよ、賀六渾君。ホントは惚れちゃってるくせに。
 せっかくの据え膳だったんだろ? 食わずに帰すなんて、男が廃るじゃないか。それに、彼女なら嫁さんにしても、何ら問題はないと思うがね。彼女なら、おまえが留守にしても、ちゃんと家庭を守れるだろうし」
「だから、妻を娶る気はないと、前から言っているではないか」

 むっとして、高歓は言い返すが効果はない。

「ま〜〜た、強がっちゃって。
 前に女の親に結婚を手酷く断られたから、まだそれを引き摺ってるっていうんなら、話は別だけどねぇ」

 的確なところを狙って揶揄してくる蔡儁に、高歓はむっとして言い返す。

「前の破談のことなど、引き摺っていない!」

 ふぅん? とちらり、と高歓を見、蔡儁は彼の胸にとん、と指を突き刺した。

「あ、そう。じゃあ、おまえは彼女が他の男の妻になってもいいってわけだな」

 言われ、高歓は詰まる。
 並みの女よりも優れ、汚れのない婁昭君が、どこにでもいる駄馬のごとき男のものになるのだ。勿体ないと頭の片隅に思う。
 と同時に、昭君の己を見る真摯な眼差しが胸を刺す。

「歓、おまえが婁昭君との結婚を躊躇うのは、自分の出自を気にしているからなのか?
 それなら、わたしも婁真諦殿に取りなすぞ。
 おまえは、悠嫣(ゆうえん)から委ねられた大事な義弟だ。おまえの嫁を探すのは、わたしの義務だと思っている」

 高歓は義兄の言葉に、何も言えなくなってしまう。
 高歓の先祖は、自ら渤海脩(ぼっかいしゅう)の名族の生まれ、と言っていた。
 が、彼らがもともと居を置いていたのは北辺の懐朔鎮で、彼自身、先祖の言っていることは怪しいと思っている。
 懐朔鎮の勇将・尉景が高歓の年の離れた姉・悠嫣(ゆうえん)を娶ったのは、姉が美しかったからに他ならない。
 度量の広い尉景は、生まれてすぐに母を亡くした高歓を哀れに思い、悠嫣の頼みもあったが高歓を引き取った。
 そんな義兄の心を、高歓はありがたく思う。

「本当に、わたしは妻を娶る気がないのです。義兄上のお心はありがたいのですが……」

 目を伏せ、高歓は告げる。
 そのとき――――。


「が、賀六渾殿っ!
 姉が、刑杲(けいこう)のもとに捕われているようですっ!」

 血相を変えて、婁昭が飛び込んでくる。
 取り乱しているので前後の見境がなかったのか、高歓の周りに鎮獄隊の人々がいるのに吃驚している。

「刑杲? 直接は会ったことがないが、かなりの荒くれみたいだな」

 尉景が冷静に言う。咎める素振りのない鎮獄隊の人々に、婁昭は落ち着こうとし、錯乱の名残りを留めながらも告げはじめる。

「あいつ、姉上が何度も拒絶しているというのに、懲りずにずっと迫ってきていて、姉上は心底嫌い抜いていたんだ。
 なのに、あいつ、姉上が自分と結婚したいと申し出て、自分の邸にいるって……。
 僕には、姉上があいつのところに自ら嫁ぐなんて考えられないんだ!」

 高歓は目を見張る。

「昭君殿は、ひとりでわたしのもとに来ていたはずだ。馬に乗ってきていたのだろうが、まさか……」

 顎に手をあて、高歓は考えている。脳裏に現れるのは、不吉な符合ばかり。

「刑杲なら、手荒なことでもやりかねない。どうやって知ったのか、城から帰るときに略奪されたのかもしれぬな」

 高歓が考えていたことを、そっくりそのまま尉景が言う。高歓と婁昭の鋭い眼差しが、尉景に注がれる。

「刑杲なら、平城からそう遠くないところに邸を構えているはずだ。地図を用意するから、行ってみるといい。
 だが、攫ってまで自分のものにしようとしたのだから、すでに、手後れになっているかもしれぬし、未だ何もなかったとしても、おまえはそれなりの覚悟を決めて行かねばならぬ。彼女を本当に娶る気がないのなら、いらぬ気を持たせてしまうことになるぞ」

 尉景の言葉に、高歓の顔が険しくなる。何かを言おうとしたが、何も言えなかった。尉景の言にも一理あるからだ。

「ただの侠気でもって彼女を助けたいのなら、おまえは背後で補助するだけにし、遵業(じゅんぎょう。司馬子如の字)と景彦(けいげん。蔡儁の字)にまかせておくのが利口だ」

 尉景は司馬子如と蔡儁に目配せする。ふたりは頷いた。
 高歓は押し黙る。

「賀六渾殿は、姉が嫌いなのですか?」

 婁昭が詰問するように言う。みなの視線が、高歓に集う。

「たしかに、姉は並みの女よりも気位が高く、手に余るところがあるかもしれません。
 ですが、姉は本気であなたに嫁ぎたいと思っています。
 僕も――義兄になるのがあなたならいい、と思っています。他の男なら、認めたくない。ましてや、刑杲なんて……!」

 最後の言葉は、悲鳴に近かった。
 みなの目が、高歓に決意を促す。
 高歓は硬く目を瞑り、やがて、萌した決意を胸に瞼を開けた。






 ――ちょっと、どうしてこうなるのよ……!

 後ろ手に縛められた昭君は、忌々しそうに心の中で呟いた。
 本当に、突然のことだったのだ。
 失意でいっぱいになり、馬を飛ばすのを忘れていた昭君を、後ろから付けていた騎乗の男が強引に攫ったのだ。余りの荒々しさに気を失い、いつのまにか昭君は見知らぬ邸に運び込まれていた。
 目覚めると、ほの暗い部屋の寝台の上に寝かされていた。穏やかでないのは、両手を背後に縛られていることだ。

 ――どこの誰よ、あたしをこんな目に合わせるのは……!

 昭君は悔しさに目が眩んでくる。
 完全に、己の不注意だった。彼女からすれば、決死の覚悟で高歓に己を投げ出したというのに、それさえも、すげなく拒絶されてしまったのだ。衝撃が強すぎて、我をなくしていた。
 思い出すと、後悔と悲哀で涙が出そうになる。冷たい高歓の姿が、陽炎のように脳裏に立ち上がる。端整な面持ちが冷ややかに彼女の心を拒んでくる。それなのに、何故かせつない。

 ――あたしって、本当に馬鹿だ……。あれほど木っ端微塵に望みを砕かれたというのに……。

 矜持も徹底的に傷つけられたはずだ。それなのに、心は未だに彼を憎もうとはしない。憎んでしまえば、楽なのに……。
 昭君は枕で溢れてきた涙を押さえようとした。
 すると、離れた空間から大きな足音とどよめきが響いてきた。はっと、昭君は顔をあげる。彼女がいる部屋に入ってきた男を、精一杯にらみ付けようとする。そして、愕然とした。

「刑杲……!」

 現れたのは、昭君に求婚してくる男の中で、彼女が最も嫌い抜いている刑杲だった。粗野で乱暴な、汚らわしい男だ。
 昭君に見せびらかすためなのか何なのか、刑杲は両手に妖艶な女達を数人抱えて部屋に入ってきた。

「よぅ、目ぇ覚めてみて驚いたか」

 いつもとは形成が逆転し、刑杲は悦に入っている。妾と思われる婀娜な女達を退け、昭君のいる寝台に寄ってきた。

「……あんただったの。あたしを略奪したのは」

 憎々し気な昭君の声に、刑杲は鼻で笑う。

「略奪? あんたの兄貴に認められれば、そんなもんは関係ないね」

 昭君は極めて傲然とねめつける。

「よく、あたしを見つけたわね。さては、あたしの邸を見張っていたの? 閑人ね」
「あんたって目立つからな。俺の三下に見晴らしてたら、あんたがひとりで邸を出たっていうじゃねぇか。
 それで、付けてみたら、高賀六渾のところにしけこんだだろ? あんた、あんな豎子なんかがいいのか? よっぽど、俺のほうがマシじゃねぇか」

 つらつらと喋る男に、昭君は眉を寄せる。

「…………臭い」
「あ?」

 刑杲が耳を峙てる。

「泥臭いっていうのよ。田舎者! あんたみたいなボンクラがあたしに手を出そうなんて、さらさら可笑しいわ!」

 昭君は勝ち気な笑い声を立てる。
 男の顳かみが引きつり、武骨な腕が戦慄いた。と思うと、腕が振り上げられ、昭君目がけて風を立てて下ろされる。
 ばしん、と乾いた音とともに、昭君の身体がふっ飛ぶ。そのまま、寝台に倒れ込む。唇の端が切れ、血を滲ませている。頬に走った激痛に起き上がれずにいる昭君の上に、大柄な体躯がのしかかってくる。昭君の身体が竦んだ。

「な、なにするのよっ!」
「なぁ、なんで俺がこんな回りくどいことしたか、あんた解ってんのか?
 あんたの兄貴がいないところで、あんたを俺のモンにしちまおうっていう算段なのさ」

 ぎくり、と昭君は身体を震わせた。
 彼女が垣間見せた怯えが、男の刺激になる。

「さすがに、手がついちまったもんは、仕方がねぇよなぁ? あんたの兄貴も何も言えないだろうさ。
 あぁ、ゾクゾクするね、散々馬鹿にされたあんたを滅茶苦茶に出来るってのはよぉ。ついでに、明日には俺も大金持ちさ!」

 へへっ、と刑杲が下卑た笑いを見せる。昭君の背に悪寒が走った。
 男の手が、彼女の衣服に伸びてくる。昭君は身体を捩るが、男の重みにびくともしない。

「ちょ、ちょっと、止めて……ッ!」

 叫び、足で無茶苦茶に蹴り上げるが、男を退けるに能わない。それどころか、火に油を注ぐように、男を楽しませている。
 刑杲の大きな手が、強く彼女の乳房を鷲掴みにしてくる。昭君は悲鳴をあげた。

「賀六渾殿――――ッ!!」

 高歓の姿を求め、力の限りに昭君は絶叫する。いま、彼に助けてほしかった。来るはずがないのに、彼の姿を求めている。

「あ――? 無駄だな。諦めろ」

 刑杲は彼女の項に舌を這わせてくる。昭君の心は絶望で蒼白になる。

 ――このまま犯されてしまうのなら、舌を噛み切って死んだ方がましだわ――!!

 昭君は意を決し、自害しようとする。歯で舌を挟み、力を込めようとする。

 と…………。



「昭君っ!」

 耳に届く声。一番聞きたかった声。
 昭君は目を見開く。
 そこに、高歓が――居た。険しい面持ちで室内に飛び込んでくる。勢いで抜刀し、刑杲の背後から斬り付ける。が、気配に気付いた刑杲は寸でのところで身を躱した。
 飛び退った刑杲の狭間を通り、高歓は昭君を背に庇った。

「なんだっ、てめぇはっ!!」

 みっともないほどに狼狽する刑杲に反し、高歓は鋭利な刃のような剣呑さで言い放った。

「触れるな。彼女はわたしの妻になる女だ」

 高歓が告げたことに、昭君は目を見開く。口元を手で覆う。
 ――今、確かに高歓は己のことを『妻になる女』と言ってくれた。
 昭君のなかに喜びの塊が膨らんでくる。  目前に刃を突き付けられ、刑杲は後ろに歩を拾おうとする。が、背に鋭い切っ先を感じ、慌てて刑杲は立ち止まった。

「惜しかったな。せっかく昭君殿を抱けるチャンスだったのに。ま、せいぜい諦めてくれ」

 言われて刑杲が振り返ると、司馬子如と蔡儁が共々に剣を構えていた。
 四方を囲まれ、刑杲は己の得物を探す。が、寝室のどこにも武器になるようなものはなかった。そうするうちにも、三方から剣が迫ってくる。刑杲はへたりこんだ。

「い、命だけは……助けてくれっ!」

 低頭し、刑杲は命乞いした。
 高歓は盟友に指図する。
 高歓達が剣を突き付けたままでいると、司馬子如が懐から太い縄を取り出し、刑杲の身体を縛りはじめた。

「恨まないでくれよ。抵抗されては困るから、ちょっと動きを防がせてもらう」

 刑杲の大きな体躯に縄を巻き付け、強く縛ると、司馬子如は刑杲の身体を蹴った。大男は鞠のように室内を転がる。

「あとで誰か救助を差し向けるから、それまで待っておくんだな。それに、助かっても、俺達に復讐しようなんて思うなよ。
 もししようとするのなら、俺達懐朔鎮が、百倍にして返すからな!」

 司馬子如が悔し気な刑杲を見下ろす。
 高歓は昭君の肩を抱くと、仲間を振り返った。帰る、という合図だった。

「あばよ!」

 蔡儁が刑杲を揶揄する。


「覚えてろよ――――ッ!!」


 刑杲の悔し気な叫びが、邸内に谺した。




 昭君は助けられたあとでも、信じられない。
 高歓が、己を妻になる女だと言って助けにきてくれたのだ。彼女を庇うように、馬上に支えてくれている高歓の温もりが、夢ではないと言っているが、それでも昭君には夢のように思える。

「賀六渾殿、とりあえず、姉上は一度つれて帰った方がいいかな?」

 刑杲の邸の前に待機していた婁昭が、高歓の馬に己の馬の歩みを揃えてくる。
 高歓は応えず、にやり、と笑った。

「賀六渾殿?」
「いや、刑杲のしようとしたことも面白いな、と思っただけだ」

 婁昭の問いに、高歓はとんでもないことを言い出した。

「義兄上に頭を下げてもらうのも心苦しいし、わたしには刑杲と違って内通者がいる」
「あはは……それって、僕のこと?」

 悠々と馬を歩ませる四人が、同時に笑い出す。
 男達の楽し気な談笑を、昭君は他人事のように聞いていた。

「賀六渾殿がそうしたいなら、僕はそれでいいです。
 一刻もはやく姉上を賀六渾殿に娶わせたいし、兄上のことならそんなに心配ないと思うんだ。賀六渾殿なら、兄上だって快く承諾してくれるよ。僕も一所懸命説得するから」

 婁昭はそう言い。高歓達と別れて己の家路についた。
 高歓は後ろの仲間を振り返る。ふたりとも、にこやかに頷いた。高歓は頷き返すと、馬に鞭をくれて走り出した。
 突然のことに、昭君は縋り付く。
 悍馬が風のような早さで道を過って行く。
 青年の体温と体臭に息を詰まらせながら、昭君は問いかけた。

「が……賀六渾殿!」

 高歓は手綱を緩める。馬は速度が落ちると、昭君は身体を起こし高歓を見た。彼も、穏やかな眼差しで見下ろしている。

「ほ、本当に、いいの……? あたしを妻にするのが、嫌じゃなかったの?」

 昭君の問いに、高歓は柔らかく微笑む。どきりとし、昭君はたじろいだ。

「君が言った通り、わたしは胸に大望を抱いている。時期が来るのを待っているのだ。
 わたしが目指す道は危険な道かもしれない。もしかすると、短命に終わってしまうかもしれない。
 そんなわたしだから、女ひとりの人生を背負い込む余裕がなかったのだ」

 聞いて、昭君は言い返す。

「そんな、女ひとりの人生なんて! あたしは重荷になんて思われたくないわ!
 あたしは、男に縋って生きていくような弱い女ではないわ。そう、生きていくなら――男の役に立つ女になりたいの。
 あなたが大望を抱えているのなら、あたしはあなたの影から擁護していく。あなたの大望が適うのが、あたしの夢だわ」

 凛とした面持ちで昭君は言い切る。
 高歓は声もなく昭君を見ていた。彼女の気高さに打たれ、彼は彼女の頭を胸に抱き取る。

「――君なら、そう言ってくれると思っていた。だから、君と生きていこうと思ったのだ。
 険しい茨の道かもしれない。それでも、わたしとともに歩んでくれるのか?」

 高歓の声に、昭君は彼を見つめる。彼も、昭君を見つめている。
 互いに交わされる、真摯で、熱い眼差し。
 やがて、昭君は花が咲きこぼれるように笑った。

「――――喜んで」



 見つめあうのは、ほんの瞬時。
 漸くして、ふたりの唇が、静かに重なった――。







 高歓と結婚後、婁昭君は睦まじい日々を送り、次々と子を生した。初めの女児はやがて魏朝で立后し、次子である男児は高氏の王朝・北斉を築く礎となる。
 北辺の六鎮はやがて魏朝に対し反乱を起こし、高歓は反乱を鎮圧した爾朱栄の幕下となった。将軍として魏に入朝した爾朱栄は皇帝から反感を買い暗殺され、高歓はそのあとに乗じ実権を握った。同じく爾朱栄の幕下出身の将・宇文泰と高歓は対立、それにより魏朝は東西に分裂する。


 婁昭君の生は波乱万丈に過ぎた。夫とともに命の瀬戸際に立たされたこともあった。が、彼女はめげず、高歓の妻として立派に責務を果たす。彼女の息子達は北斉の皇帝となり、彼女は皇太后として北斉に君臨した。



 手の平からこぼれ落ちる砂のように、儚く過ぎていった北斉という王朝の、これは始まりで、輝かしい一瞬を映した物語――――。











*   *   *   *   *   *   *

二回目の言い訳

 せっかく、いい感じ(?)に話が終わったのに、水を注すようですが……。

 なんか、自分でもじじ(高歓)がこんな人だとは思いませんでした(笑)。なんか、ばば(婁太后)に振り回されているヒサンな男の人って感じ(爆)。これでいいのか、長谷川!

 それに、伏線を張らなさ過ぎ(笑)。刑杲を前編から出しておくべきでしたね。

 えっと、じじと色々関係している男性方も出て参りましたが、長谷川のカンチガイも幾分あると思いますので、「このひとこんなんじゃないっ!」というところがございましたら、どうか突っ込んでやってくださいませ。
 まぁ、最初から長谷川でも言えることといえば、尉景って、ホンマに懐朔鎮の隊長なのか? という。多分、隊長は違う人なんだろうなぁ、と思っています。
 司馬子如や蔡儁も、もしかすると性格が全然違うかもしれませんね(爆)。ま、彼らの若い頃のお話だからいいか! はっはっはっ……。(だんだん笑いが乾いていく……)

 あーでも、自分でも書いていて砂をゲロしそうになったくらいに甘ったるく終わってしまいましたね、最後。もう、しばらくこんなベタベタモードはやめておこう(笑)。


長谷川彰子


*   *   *   *   *   *   *

この小説は、さいらさんのサイト、「転倒坂うぇぶ学問所」の二周年記念企画に投稿したものです。

高歓と婁昭君は、蘭陵王・高長恭の祖父母(蘭陵王の父・高澄の両親)にあたります。

「北史」「北斉書」の婁皇后伝では、高歓と婁昭君の出会いのシーンを

『少明悟、強族多聘之、並不肯行。及見神武於城上執務、驚曰:「此真吾夫也。」乃使婢通意、又数到私財、使以聘己、父母不得已而許焉。』
((婁昭君は)年少の頃から聡明で(物事を)理解するのがはやく、多くの強族が彼女を正妻として迎えたがっていたが、(彼女は)並びに承知しようとはしなかった。および、神武(高歓の北斉での諡=神武帝)が城の上にて執務をとっているのを見、驚いて「この人こそ、わたしの夫です。」と言った。そこで、婢を使者にして私財の数々を持たせ、自分を正妻に迎えてほしいという気持ちを伝えようとしたので、やむをえず父母は許した。)
※意訳が間違っている場合もあります。ご了承ください※

と書いています。この一文をもとに創作したのが、この小説です。

基本的に、史料を眺めていたら、高歓と婁昭君って後々まで仲が良かったのではないかな? と思いました。何故って、高歓が東魏の丞相となり、彼のまわりに大勢の女達がいるようになっても、婁昭君は夫の信頼を得ていたし、子供もたくさん生んでますから。

なお、この小説の主人公ふたりについて、歴史逍遥中の蘭陵王のページでも言及しています。よろしければ、そちらもごらんください。

トップへ