「あたしの名は、杜蘭香といいます」
俯きがちに告げられた彼女の名に、後ろで控えていた平掩が反応した。
「杜蘭香っていったら……仙女の名じゃないか」
じろり、と相願が友を鋭い目で見る。
杜蘭香――世間で喧伝されている仙女の名。人間の男に嫁するために天から舞い降りた仙女。どの頃から伝えられたのか解らないが、神秘的な美女として言い表わされている。
蘭香は小さく微笑む。
「はい、仙女の杜蘭香から母が付けた名前だそうです。姓はもとから杜氏で、美しく華やかな、慎ましやかな女性となるよう願いを込められているらしいです」
感情の籠らない眼差しで長恭は彼女を観察する。
仙女というには、今はまだ至らない姿をしている。未だ幼さのほうが目立つが、整った顔立ちや可憐な風情は、いずれ仙女と言われてもおかしくはない。
仙女、という形容は、長恭もよく喩えられている。女顔で柔和な容貌をしているので、当人がいくら気に入らなくとも、廻りの者が勝手に騒いでいる。
「あたしたちは、楽を奏する事を糧として生きる流浪の楽士で、色々な所を旅して廻っています。先に旅した周の国で、あたしたちは周の皇族の宇文瑛という人に招かれ、楽を披露しました」
努めて淡々と蘭香は話す。記憶は、あの日に遡っていく。
周の都・長安は、斉の都・鄴よりも垢抜けない空気が漂っていた。周は斉よりも軍国としての雰囲気が濃い。雅やかさが欠けるのも否めない。
蘭香達は一晩の憩いのために取った宿の伝手で、商家を通して仕事を見つけた。貴族や皇族のなかでは、宴のために楽士を必要としている者が折々いる。彼らは周の皇族・宇文瑛に楽を奉じることになった。
宇文瑛は周の皇帝の背後で政を執る宇文護の子であるという。
宇文護(うぶんご)は周の建国の礎を築いた宇文泰の甥である。宇文泰が皇位に即かずして亡くなったとき、彼の子は誰もまだ幼かった。ために、宇文護が宇文泰から彼の子の後見を任される。
が、宇文護は即位した宇文泰の子・宇文覚を蔑ろにしていまった。宇文瑛はその宇文護の庶長子で、武勇すぐれた人物であるという。
招かれて奢侈な第に入った楽士一向は、宇文瑛や彼の客の前で楽を披露した。その後、宇文瑛は彼らに一夜の宿を貸すと告げ、彼らはそれに乗った。
蘭香は気が付かなかった。宇文瑛が彼女の身体を値踏みするように見ていたことに。
各々一室ずつ部屋を与えられ、朝に第を辞することを決めて寝具のなかに入った。
夜中、蘭香は余りの寝苦しさに魘される。なにかが己にのしかかり、武骨な手が乳房を、四肢を弄っている感触が夢を蝕む。
己の呻きに、蘭香は目を覚まし、凝結した。何が起こっているのか解らなかった。
彼女の身体を組み敷く隆々とした体躯が。燃え残っていた燭が、この第の主人を浮かび上げていた。
「……な、何を……っ」
恐ろしさに身を竦ませる蘭香に、不敵な笑みを瑛は浮かべる。
「仙女の身体がどのようなものか、味わおうと思っていた」
はだけた夜着から覗く肩を、男は強く吸う。おぞましさが彼女の身体のなかを走る。細い手首を掴む手の強さが、蘭香を恐慌に落し入れる。
「い…いやあぁぁっ、いやあああぁぁ――ッ!!」
喉を引き裂き出た悲鳴が、空を劈く。
空いた男の片手が、柔らかな胸乳を揉みしだく。
蘭香はもがいて身を捩るが、覆い被さる硬い体躯はびくともしなかった。少女の下肢の間に筋肉質な脚を差し挟み、男はさらに力で少女を封じ込む。
「イヤぁッ、やめて、やめてぇッ――!!」
蘭香の叫びを停めるため、瑛は彼女に接吻する。少女の口内を思うがままに蹂躙する。うぅっ、と蘭香は呻いた。
「か弱き女が、このおれから逃れられると思っているのか。諦めろ」
非情な男の声が、蘭香をさらに絶望させる。
――あたし、このままこの男に……?
男の手が腰紐を掴んだのを感じた蘭香は、涙に濡れた眼を虚空に投げる。
そのとき、
――――バァン!!
と爆発するように扉が開かれた。
「蘭香ッ!」
入ってきた茅鴛は、愕然とした面持ちをしていた。
乱れた姿を見られた蘭香の脳裏も真っ白になる。
「なんだ、不粋な。少しは気を利かせられぬか」
少しも動じた様子がなく、瑛は茅鴛と、彼とともに入ってきた斐蕗を見る。
「――これは、どういうことですか」
斐蕗は、殺伐とした気配を肌で感じる。ただならぬ蘭香の絶叫に駆け付けたが、何かが起こったのは確かなようだ。
「お、おまえ、蘭香をッ!!」
血走った眼差しで、茅鴛は瑛を睨む。斐蕗はかろうじて義弟を押さえた。
闖入者があってなおも、瑛は蘭香を放そうとしない。身を起こすと蘭香の身体を抱え込んだ。
「いやッ……」と蘭香は喘ぎ、助けを求めて茅鴛と斐蕗を見る。
怒りを滲ませ歯軋りする茅鴛の眼には、萎れた花のように弱っている蘭香が痛ましく見え、憎しみがより膨れ上がる。
硬い面で、斐蕗は口を開いた。
「どうか、蘭香を放して下さい。この娘は、あなたの意に適うような者ではありません」
努めて冷静に言う。
ふふん、と瑛は笑う。
「おまえ、おれを見くびるのか。おれにはこの娘が磨かれていない玉に見える。誤摩化そうとて、そうはいかぬぞ」
斐蕗は唇を噛む。
確かに、蘭香は未だ咲いていない花であって、開花を待っている状態である。花開いたとき、如何に大輪の花を咲かせるのか、解る者には解るだろう。
蘭香は息も絶え絶えな有り様で、ぐったりと瑛の腕の中で力をなくす。
茅鴛の怒りも膨張していく。限度だった。
「ですが、いまここで蘭香を我がものをすれば、蘭香はすぐに死んでしまうでしょう。無理強いされて生きていられる程、この娘は強くありませぬ。蘭香の死は、あなた様というひとの徳を堕してしまうことになります。
ここは取り敢えず引いていただいて、蘭香に言い聞かせます。後ほど、蘭香をあなた様のもとに向かわせましょう」
斐蕗の言に、瑛は彼を凝視する。彼という人間を測っているようだ。
「盲(めしい)か、おまえ。だが、阿呆ではない、理を弁えている。
よいだろう、今は我慢する。後ほど、必ずこの娘を我がもとに入れよ」
斐蕗の額に汗が伝う。彼が盲ているのは事実だ。が、揺さぶりをかけるのにそのことを使った。
鷹のような鋭利な空気を持つこの男は、約を違えれば己達を躊躇わず殺すだろう――そのようなこと、すぐに解る。が、この隙をついて逃げるほかない。
「必ず、思し召しのままに」
斐蕗の確固とした応えに、瑛は気を失った蘭香の身体を放し、部屋を出ていった。
「このあと、兄様の斉の国に逃げ込もうという提案に従ってここに参りました。ですが、道中も、将軍の細作はわたしたちを追って来ました」
蘭香は強く目を瞑る。
或いは、宇文瑛は初めから彼らが逃亡するのを解っていたのかもしれない。まるで、肉食の獣が弱い獲物を嬲るかのように、逃げ惑う彼らの姿を楽しんでいる。
「すべて、あたしのせいなんです。あたしさえ周に行けば、皆は無事に生きられるかもしれない。だから……」
――あたしは周に行きます。
蘭香はそう告げようとした。ずっと思っていたことだ。今までこころのきりがつかなかったのは、己の弱さに他ならない。もう、己の弱さを許しておくことは出来ない。
が、その言葉を止めたのは、斉の公子・長恭だった。
蘭香は伏せていた顔を上げる。そして、気付く。
長恭の顔が、蒼白になっていることを。まるで、我がことのように――。この痛みは、蘭香の痛み。だというのに、どうして彼が同じように痛みを感じているのか、彼女には解らなかった。
気が付けば、彼の部下も沈痛な面持ちを抱えている。
「もう……よい、何も言うな。わたしには、お前の気持ちが解る。だから…私が宇文瑛の追而(ついぶ)を追い払おう」
「…………!」
蘭香は目を見開く。
「追而がなくなるまで、この城に居るといい……」
そういうと、耐えかねたように長恭は踵を返し、部屋を出た。彼の部下も、主人を追う。
彼の表情の意味を読み取れない蘭香は、一瞬戸惑ったが、告白とともに込み上げてきた息苦しさに、嘆息する。
この第の主人は、己達がここにいてもいいと言った。が、それが一番の解決策なのか、判然としない。
この場所に――斉の国にいるからといって、宇文瑛は己を諦めてくれるのだろうか。怖れ気のないあの男は、たとえ敵国といえども、細作を遣って、己を追い詰めるかもしれない。
とすれば、ここの人に、公子・長恭に迷惑を掛けてしまうだろう。それだけは、絶対にしてはならなかった。
「そんな暗い顔しちゃ駄目だよ、蘭香! ほらもっと、明るくさあ!」
蘭香は顔を上げる。菻静が、暖かな眼差しを注いでいる。
「皆無事なんだし、あたしも、お腹の子も大丈夫なんだから!」
「ん…………」
それでも沈みこんだ気持ちは浮上してこない。
確かに、妊婦の菻静にとっては、ここにいるのが一番安全だ。第一、追われて馬車を全速力で飛ばすのは、身体にいいはずがない。菻静は、いまが一番大事なときなのだ。出産するときのことはあとから考えたらいいだろうが、現状では、ここに潜んでいるのが懸命だ。
ふうっと、蘭香は息を吐く。
「姉さま……好きでもない人に抱かれるのって、どんな感じなのかな……。それでもやっぱり、明るく生きていけるのかな……」
菻静の笑みが消える。
「なにいってんだよ、好きでもない奴に、身体なんか許さなくってもいいじゃないか! それとも何だい、あの性悪将軍の所にでも行こうってのかい?」
姉に等しいひとに、蘭香は曖昧な笑みを見せる。
菻静が無事に子を生むためにも、仲間が平穏な人生を送るためにも、己は側にいないほうがいい。少なくとも、己が瑛のところに行けば、瑛は仲間に手出しをしないだろう。
「あのね、確かに今回は助けてもらえたわ。でも、ここも安全なのかしら?
宇文瑛は、あたし達がたとえ斉にいたとしても、襲い掛ってくるかもしれない。この場所にいたら、公子に迷惑かけてしまうのよ。もう、抜け道などないのかもしれない」
思い詰めた言葉に、菻静は返す言葉もない。
「やっぱり一番いいのは、あたしが周に行くことなの。
それで皆はもう危険な目に逢うことなどなくなるし、公子に迷惑掛けることもなくなるのだもの」
平気そうに言う蘭香に、菻静は激昂する
蘭香は、一体己達を何だと思っているのだ。それほど、己達を糸は細く切れやすいものだったのか。
「その代わり、あんたが死ぬほど辛い目に逢うんだよ! あたしたちは、そんなことされたってちっともうれしくなんかないよ!」
「辛いかどうかなんて、解らないじゃない。始めは確かに辛いかもしれない、でも、その後は? 慣れちゃえば、平気かも……」
笑顔さえ見せる蘭香の肩を、菻静は揺さぶる。
菻静の眼には、涙があった。そのような生き方は、女として悲しすぎる。
「馬鹿だよ、あんた!! 何一人で自分を追いこんでんだよ!!」
激しい言葉を蘭香に投げ付ける
本当は菻静にも痛いほど蘭香の気持ちが解る。己が彼女の立場に立たされていたら、同じことを言っていただろう。
「じゃあ、どうすればいいのよ! こんなあたしなのに、助けてなんて言えないわ!!
他の人を巻き込んでしまうのが、目に見えるほど解るのに――!!」
半狂乱で、蘭香は叫ぶ。滂沱の涙を流す。
逃げることもできない、かといって、瑛のもとに行くことも許してもらえない。だったら、他に何の方法がある?
言い過ぎたと感じ、菻静は己を落ち着けようとした。
「ちょっと、落ち着きなよ。今、あんたはすごく興奮してる。襲われたばかりだからね……。冷静になれば、もっと他の方法が考えられるかもしれないよ」
蘭香の肩を抱いて、寝台に寝かせつける。
「いいかい、あんたまだ熱が下がってないんだからね。まず、熱を下げることだよ。だまって寝ときな」
そういうと、黙って菻静は部屋を出る。
静まり返った扉の奥から、啜り泣く音が聞こえた――。
将士の詰め所で、尉相願は愚痴を止むことなく話し続けていた。
長恭の第には、彼付きの将士が数名在している。各々己の武具の手入れをしたりしているが、仲間の荒れた口調を興味深そうに聞き耳たてていた。
平掩は呆れた面持ちで相手をしていたが、苦笑いして呟いた。
「まったく、お前は公子の事になると窮屈すぎていかんな。過保護というか、保護者きどりというか……。
公子もれっきとした成人男子、余りに干渉すると、嫌われてしまうぞ」
もともと、平掩のほうが長恭と近しい間柄である。平掩の父は長恭の傅育の者で、母は傅母(ふぼ。乳母)である。尉相願は長恭の乳兄妹である平掩の学友である。その関係で、相願も長恭と知り合った。
相願は軍人――勲貴(くんき)の子であるので、己の家を守るのが役目であったが、次子であるので、家の者の反対も聞かずに長恭の幕下になり、彼の側近として平掩とともに仕えている。
苛々と相願は告げる。
「解ってはいるのだが……公子は人に優しすぎる。それが、後々に悪いようにならねばよいと、心配でならぬのだ」
あのような話、長恭には負担に過ぎる。蘭香の立場は、長恭の暗い傷を刺激するはずなのだ。
相願は、平掩も知らない長恭の闇を知っていた。だから、長恭にとって、現在の蘭香が己にだぶって見えないか、それが心配なのだ。
が、それを知らない平掩は、相願の不安を彼特有の「病気のようなもの」と見做す。
「それが過保護というものだぞ」
大義そうに、平掩は大きくため息をついた。
「お前とて、若いのだからもそっと自分の事を考えて行動してもよいのだぞ。歳をとってやっと周りをみても、女などかまってもくれぬし、かといって他の将士は家庭があるしの……淋しいぞ」
相願はむきになって言い返す。己のことには、誰にも立ち入って欲しくなかった。
「放っておいてくれ、そのような事、おまえに言われたくなどないわ」
そんな相願を、平掩は茶化す。
「そ――か!? 俺はこう見えても、人生を楽しく謳歌しておるぞ。なんといっても、若くて逞しく、美男とくる。女子等が放っておかぬわ」
平掩は声をたてて笑う。些か脳天気といえようが。
「おまえは……必要以上に呑気過ぎるな……。悩みなど、本当はないのだろう?」
今度は相願のほうが呆れ果て、平掩をみた。
「いや、悩みはあるさ。何といっても、妻がうるさくていかん。お前、何かちくっているのではないか?」
平掩は相願の肩に手を置いて、彼の表情を探る。
別段、相願に疚しい事はないと解っていたが、ただの面白半分だ。
案の定、憮然とした顔をして、相願は害虫でも見るように平掩を睨む。
「姉上の悋気を起こして面白がるほど、私は暇ではない。姉上が怒ると恐いということは、私が一番よく知っているのだぞ」
「はは……違いない」
一層大きな声をたてて平掩が笑う。
笑って、相願が醸していた重い空気を吹っ飛ばそうとした。
「楽しそうだな」
その声に、二人は振り向く。
部屋の入り口に、長恭が立っていた。その面は微かに哀調を帯びている。
相願は眉を潜めた。
「公子……」
平掩は立ち上がり、上司で乳弟である長恭に頭を下げた。
「はは、ただの戯言でございますよ。私たちはいつも、次の戦の事を案じて頭が一杯であります」
平掩は冗談めかして語り、己の頭をぽん、と叩く。
長恭は乳兄の明るさに、付きまとって離れない心の靄が、少し晴れたような気がした。
「しかしまぁ、周の宇文瑛はかなりの物好きですな。あのような小娘に欲望を抱くとは。
私ならもそっと胸が豊満で、尻の大きい成熟した女のほうが好いと思いますがね……」
言いつつ、平掩は己の胸の辺りに手をやって、揉むような手つきをしてみせる。
あけっぴろげに言う平掩の頭を、相願が殴る。
「貴様、公子の前で何ということを……!」
「おまえ、本気で殴ったな!?」と憎まれ口を叩きながら、平掩は頭を押さえる。
「じ、冗談だ、本気で怒るなよ!
だから、どちらにしろ、そういう女を手元においておけば、何かと有利といいたいのだろう!?」
平掩は必死に言い逃れする。
長恭は彼の答えに大きく頷く。
「あの娘は和につながるか、火種になるか解らぬが、鍵にはなるだろう。あの娘は、取り引きの道具として使えるはずだ」
「そうですね、しかし、相手が宇文瑛となると……やっかいな事にならねばよいが…」
相願が思案する。
この斉は敵国・周の情報に敏感に耳を澄ませているが、宇文護の庶長子である宇文瑛という人物に関しては、余り耳にしなかった。
得体の知れない人物を相手にすることに、相願は一抹の危惧を憶える。
「だから、しばらく第に置いて様子をみる。何も起こらぬ様なら、放してやればよいだろう」
「さように」
長恭の言葉に二人は答えた。
彼らがもう一度剣を磨き始めると、長恭は部屋から出ようとし、ふと足を止めた。
「公子?」
長恭の様子に、相願が問う。
しばし彼は黙っていたが、吐き出すように言葉を紡いだ。
「何故……人は同じような過ちを起こしたがるのだろうな……。己さえよければ、それでよいのか……」
嫋々と言って、長恭は目を瞑り、詰め所をあとにする。
二人はそんな主人に、何の言葉も掛けられなかった。
「蘭香の様子は?」
菻静が割り当てられた己の部屋に戻ると、茅鴛と斐蕗は暗い様子で待っていた。
「だめだよ、完全に滅入ってるよ……。今の蘭香はあたし達の為に、何でもしかねない」
彼女は重い息を吐く。
今、蘭香はきっとひとりで泣いている。己は彼女を慰める手立ても持たない。蘭香ひとりで苦しみを背負わねばならないという事実が、悲しかった。
茅鴛は姉を瞠視する。
「可哀相だよ……なんだって、蘭香がこんな目にあわなきゃいけないんだよ……」
やっとのことで、彼は擦れた声を出す。
蘭香のことを一番気遣っているのは、茅鴛である。彼は蘭香が側に居なくなることを、一番畏れていた。
「確かに、楽士の中には春をひさぐものもいるからね……。あの馬鹿将軍はそこん所を勘違いしたんだろ」
菻静の楽座は先代である蘭香の祖母の頃から、どんなに生活が苦しくても身体だけは売らない、と固く座員に戒めていた。どこかの国に頼まれて諜報活動をするわけでもなく、正々堂々と楽だけを人々に提供するのを理念にしていた。
それなのに、人の雑念というのは、他人の理念を勝手に曲げようとする。
菻静はそのことにいらついていた。
「蘭香は今、どうしている?」
「寝かし付けたよ。眠ったほうがいいだろうから」
「蘭香は、何を言っていた?」
静かな面持ちで斐蕗が問う。
悲観的な状況にあるのに、斐蕗だけはいつも悠然としている。困窮した状況には、彼の冷静な判断が頼りになる場合が多かった。
「将軍に身を任すって、言って聞かないんだ。止めるために、あたしもきついこと言っちまったけど……」
「まずいな」
斐蕗は顎に手を当てる。
彼の頭に、警鐘が鳴り響く。
「何が?」
不安げな面持ちで、茅鴛が聞く。
「自棄を起こして、周に行くといっているのだろう? だが、それも反対された。
今の混乱した頭で、他のことを考えるとしたら……」
斐蕗の言葉に、二人は真っ青になる
「や、やめておくれよ……。そんな、縁起でもないこと……!」
菻静はそわそわと、下裙を握りしめる。
十分、考えられたことだ。今の蘭香の気持ちが、絶望に向かっていたことは、解っていたいたはずなのに。菻静たちは覗き見るのが怖かった。
茅鴛はぶるぶると手を震わせ、斐蕗を瞠視する。
「ひとを絶望したら、極端なほうに考えが行くもの……茅鴛、何処に行く!?」
斐蕗が止める間もなく、茅鴛は駆け出した。
「だめだっ、何処にもいない!!」
茅鴛は蘭香のいた部屋をみたが、すでにもぬけの空だった。起抜けの寝具が、くしゃくしゃの状態で放置されていただけだった。
「茅鴛、蘭香は!?」
壁伝いしながら、斐蕗が茅鴛を追い掛けてくる。
「遅かった! 蘭香が、どこかに行った――!!」
血相を変えて、違う部屋に探しに行こうとする。
このまま、蘭香を失う事になるのか、そう思うと、茅鴛は居てもたってもいられなかった。
「どうした、騒がしいぞ」
はっと、茅鴛と斐蕗は声の主を凝視する。
騒がしさに気付いた長恭が帯剣し、部下を引き攣れ現れた。
「ら、蘭香が、居ない!!」
「あの娘が……」
彼女の苦痛が理解できる故に、或いはこういうこともありうるだろう、と長恭も考えないでもなかった。
長恭は蘭香が居た部屋に入り、寝具に残った温度を確かめる。まだほんのりと温もりが残っているので、ここから離れたのは、そんなに前ではないことが解る。
茅鴛が長恭に詰め寄り、胸倉を掴んだ。
「あんたが、蘭香にあんな事を話させるから、蘭香は……!!」
思わず、茅鴛はぼろぼろと泣いてしまう。
茅鴛の手を払うと、長恭はふたりの将士に素早くめくばせした。相願と平掩は異なる方向に走っていく。
「落ち着け、部下たちに捜させる」
そういうと、長恭も動きだした。
あとには、茅鴛たちが取り残された。
気が付くと、蘭香は屋敷の中にある、底の深い井戸の前に立っていた。
どうやってここにたどりついたのか、よく解らない。己がいつ部屋を出たのかも、記憶にない。
「深い……」
蘭香は、吸い込まれるように、井戸の縁に足を掛けた。
石造りの井戸の欠片が落ち、時をおいて水音が返ってくる。
「これで……あたしも、皆も楽になれるのね……」
夢の中でいたところに戻りたい。なにもなくて、何ものにも煩わされない場所に行きたい。
うっとりと呟くと、蘭香は身体を前に乗り出した。
ぐらり、と彼女の身体が傾ぐ。
――ところが。
「今、甘えるなといったところだろう!? 何度、同じ事を言わせる!!」
重力に乗ろうとした蘭香の身体を羽交い締めにする者がいた。
蘭香は我にかえり、振り返る。
憤然と目をつり上がらせる長恭が、強い力で彼女の身体を地面に放り投げた。
石畳の上に身体を打ち付けた衝撃で、蘭香の頭はくらくらする。
それでも、なんとか上肢を起こし、蘭香はきっ、と長恭を睨んだ。
「やだ、止めないでよ!!」
蘭香は抗議する。どうして、この人物に止められなくてはならないのだ。恩人ではあるが、まったく関係ない人物なのに。
「うるさいっ、大人しくしろ!!」
少女の胸倉を掴み、長恭は頭から彼女を叱りつける。
間近になった怒れる美しい面に、蘭香は思わず眼を剥く。
「死のうなどと、どうして考える!! せっかくの命を、そのようなことで無駄にするつもりか!?」
嵩高(けんだか)な彼の態度に、どこかに引き込んでいた蘭香の怒りの感情が沸き上がってきた。ぼろぼろと泣きながら、長恭の手を払い、蘭香は食ってかかる。
「じゃあ、どうすればいいの!? 甘えるなだとか、逃げるなとか、そんなこといわないでよ!!
あたしに何ができるっていうの!? 周の国に行くこともできないで……他に方法がないじゃない!!」
鬼気迫る表情で蘭香は叫ぶ。
が、長恭も負けていない。
「馬鹿かそなたは!! そなたは死んでしまえばそれで終わりかもしれぬが、他の者はどうなる!?
自分たちのための他人の死ほど、後味の悪いものはないのだぞ!!
わたしも、この第で人に死なれれば、迷惑被る!」
蘭香は、ぴたりと止まる
死にたい、というのは己の希望だ。が、それは、果たして皆が望むことか? 確かに、彼が言うように、これほど後味が悪いものはない。望まぬ人の死は、関係した者に不幸を呼びこむ恐れがある。
長恭に助けてもらったのに、この第を死で汚してしまうのは、恩を仇で返す事になる。
蘭香が黙り込んだので、長恭はなかに凝った怒りの名残りを、溜息として大きく吐き出した。
「無責任に死ぬということは、現状よりも物事を悪く運んでしまうのだぞ。他の者の迷惑を考えろ」
蘭香は、涙を流し続ける。
死という逃避手段を封じられ、蘭香には後がなかった。
「もう……解らない……。死ぬことも、皆を助けることもできないなんて……」
蘭香の口から、湿った嗚咽がもれる。
しゃがみ込んで泣きじゃくる蘭香を見下し、長恭は静かに語りかけた。
「だれでも……そのような選択を一度は強いられるものだ。しかし、何時も冷静に物事を判断できれば、おのずとどうすればよいのか解る。
今のそなたは、斉の皇族、それも対抗できる力のある武将に匿われているのだぞ」
蘭香、はっと顔を挙げる。
斉の皇族で、武将……この人物が宇文瑛よりも強ければ、彼の助けによって瑛を永遠に退けることも出来るかもしれないのだ。
「そなたを追っているのは周の武将で、匿っているのはその敵将の私だ――。どういう事かわかるか? そなたの仲間の安全も保障できる」
蘭香は手を強く組む。一筋の光明が見える。
が、それでも不安げに言う
「でも……あたしが、あなた様や、他の方に迷惑を掛けることになってしまう……。
この第に居候することも、よくないことじゃ……」
「だから何度同じ事を言わせる。いらぬことを言って、私の気が変わってしまうぞ
居候くらい、養う財は持っているつもりだ」
蘭香はどうやら一番よい方向に物事が流れていっているように感じた。
素直に、流れに乗ってみてもいいような気がした。
「……わかりました。どうか……お願いします」
蘭香はそう言って、頭を下げる。
長恭は無表情に戻って、背を向けた。
そんな彼に、蘭香ははっとして言葉を投げる。
「そういえば――あなた様が甘ったれるなと言った言葉……。あれ、あたしの夢の中の言葉だと思ったんですけど、違うんですか?」
長恭、ふと足を止め、首を向ける。
冷たいが透明な眼差しが、蘭香に注がれる。
「うなされて、馬鹿らしい事を言ったので、私がそなたに語ったのだ。夢ではない」
長恭はまた足を進めた。
回廊の向こうから、ばたばたと足音が聞こえてくる。
見ると、己の仲間や、長恭の部下だった。
「――蘭香ッ!!」
茅鴛は駆けつけると蘭香を抱き締めた。彼の肩が震えている。泣いているようだった。
「何で…相談してくれなかったんだよ……っ!」
腕の力が強くて、少し息苦しい。が、蘭香は我慢して、申し訳なさそうに呟く。
「ごめんね、茅鴛……みんなに、迷惑かけると思って…」
「馬鹿……!!」
「ごめんね……茅鴛……」
立ち止まって蘭香たちの様子を見ていた長恭は、息を吐くと部下達に目を向ける。
平掩は安堵の息を吐いて、主人を見る。
かっと怒りを露にし、相願は荒い足音を発てて蘭香に近づく。
相願は蘭香を睨み付けると、傲然と怒鳴り付けた。
「娘、公子にいらぬ心配を掛けるな!! 居候のお前が王に心労を掛けるなど以ての外……」
びくり、と蘭香は恐怖に身をすくめる。そんな蘭香を、茅鴛が背に庇う。
切れ長の瞳が、相願に向けられる。
「やめろ、相願」
今にも蘭香を打ちそうな相願を、長恭が遮る。
振り返った相願は、顔色を変えた。
怜悧な眼差しで腕組みをし、長恭は相願を威圧する。
「この娘は、極度の精神疲労状態だったのだから、仕方のないことだ。それを煽るような言動は慎め」
「……はい」
上司の叱責に、相願は項垂れた。
長恭は部下を引き攣れ、蘭香達を残して回廊を渡っていった。
凪いだ瞳で、蘭香は一向を見おくる。
「もう、大丈夫なようだね?」
落ち着いた蘭香の気配に、斐蕗は穏やかに語りかけた。
「……うん、もう大丈夫。あの人は強い。きっと、瑛を遠ざけてくれる……」
蘭香のなかに、長恭に対する信頼の念が生まれていた。
――あの公子を、信じてみよう、と。
「ああっ、もう! 余計な心配させて、蘭香はッ!!」
菻静は忌ま忌ましそうに言って、蘭香の頭を軽く叩いた。
沢山心配した照れ隠しである。
「絶対に、二度とあんなことするんじゃないよ!
解ったら、部屋に戻って寝な!」
しっしっ、と菻静は蘭香と茅鴛を屋内に追いやる。
照れ笑いを見せて、蘭香は足取り軽やかに戻っていく。
ふうっと息を吐いて、菻静は蘭香の後姿を見送った。
「――乗り越えてほしいね。この試練を」
菻静は愛おしむように言う。
そんな彼女の肩に、斐蕗は手を置いた。