1・仙女の名を持つ少女
斉の国に入ってから、どれくらい経っただろう。かれこれ十日は過ぎたか。
夜中、軽馬車の手綱を捌きながら、朴茅鴛(ぼくちえん)は考え続けている。
深く生い茂った森が、彼ら一向を鸚い隠すことを一心に願い続ける。清かな水音が遠く聞こえる。森のなかに、水流があるのだろう。
彼らは、東の大国・斉(せい。北斉/ほくせい)の首都、鄴(ぎょう)を目指していた。馬を休めず、ひたすら移動し続けていた。
茅鴛は車のなかで眠っている仲間を――とくに少女を気遣い、覗き込む。
少女は、安らかな寝息を発てている。茅鴛は安堵の息を吐く。
「蘭香……もうすぐだ。もうすぐ、宇文瑛(うぶんえい)から逃れられる」
彼は、彼女――杜蘭香(とらんこう)を助けたかった。彼女を苛もうとするものから、彼女を遠ざけたかった。
想いであり、願いであるそれは、茅鴛をがむしゃらに突き動かしていた。
青黒い闇が、蘭香を絡めとって呑み込もうとしていた。
『いや、止めて、止めて――――!!』
蘭香は喉が破れんばかりに叫ぶが、逃れられない。
いつしか闇は、男の形を成していた。
『か弱き女が、このおれから逃れられると思っているのか、諦めろ』
嘲りや、蔑みを含んだ男の声が彼女を嬲り、少女の魂を縛り上げる。
『助けて……っ』
少女の魂は肉体を持って現れていた。容赦のない男の腕が細腰を攫い、娘の衣を掴む。
裂けるような痛みが、蘭香の魂を貫いた。
「蘭香、蘭香――ッ!!」
少女の肩を、茅鴛は強く掴んだ。
蘭香は八切れるほどに目を見開く。荒い息は、目の前の幼馴染みを認めて、緩くなる。
「ち、茅鴛……」
蘭香は茅鴛にしがみつく。嗚咽が、肩の震えとともに漏れる。
「大丈夫……もう大丈夫だよ……」
蘭香は夢の後味の恐ろしさに、涙が滝のように溢れて止まらない。
「恐い…恐いよ、茅鴛……ッ。夢のなかにまであの男が……っ」
蘭香は怯える。
夢であって、夢ではない。これは、この身に起きた現実、消し去ってしまいたい過去。あの日の記憶。
ひとりの男の恣意が、蘭香の魂をずたずたに引き裂く。
泣きじゃくる蘭香の背を、茅鴛はゆっくり撫でた。
蘭香のただならぬ様子に、彼女の廻りで眠っていた仲間が身を起こす。
「蘭香、夢を見たのかい?」
少女は顔を上げる。心細そうに揺れていた瞳が、安堵に彩られていく。
「菻静(りんせい)姉さん……」
菻静は茅鴛の姉である。勝ち気そうな目が、心配そうに細まる。
「ごめんなさい、起こしちゃって……。心配が、お腹の赤ちゃんに響いちゃうわね。」
菻静は現在妊娠している。彼女はおおらかな笑みを浮かべた。
茅鴛の姉は心身ともに頑丈だ。が、妊娠中の身体に馬車はきついのではないかと、蘭香は案じた。
彼等の旅は、逃避行の道行である。追手に追いつかれないように、適度に馬を飛ばす必要があった。
砂利道を走る振動が、菻静と腹の子に負担を与えないか、蘭香は憂慮していた。
「大丈夫大丈夫、気にする必要ないよ」
菻静は蘭香の肩をぽんぽん、と軽く叩く。
茅鴛は姉に蘭香を任せ、馭者に戻る。再度、馬車が揺れ、がらがらと車輪の回る音がしだした。
「馬車のなかで揺れるから、恐い夢見たんじゃない?」
菻静は妹のような少女の眼を覗き込んだ。蘭香は先程より安定した眼差しを返す。
「だめよね、あたし、弱いよね。あのことがあってから三月は経ったのに。もう、忘れていいのに、頭から離れていかないみたい。昼間は忘れているつもりなんだけれど、夜になると、出てくるの……」
蘭香は微笑み、嫋々と呟く。
菻静は彼女を痛ましく見る。
もともとは、蘭香は利発で明るく、いるものを和ませるような少女だった。が、あのことがあってからは、どこかが狂ってしまったのか、心からの笑みを見せなくなった。今も、口許は笑みを作っているが、眼は笑っていない。
それだけ、蘭香の身に起こったことは、彼女にとって衝撃が激しかったということだ。
菻静は蘭香を労わった。
「こういうことは、時間がかかるんだよ……。身体に付けられた傷だって、そう簡単には治らないだろう? 心は表から見えないから、余計に難しい。時間が掛かるんだよね。
でもね、出口はないことはない。苦しみも、いつかは超えることが出来る」
蘭香は錯乱した眼で、菻静にしがみ付く。
「いつか? いつかっていつ? いまでも、あの男はあたしを追い掛けてくる。
あたしは、ただの楽士のままでいいのに。あんな男のところに行きたくないのに――」
蘭香の本心の願いだ。
誰にも煩わされる事なく、自由に動き回りたい――。ただそれだけが、蘭香の願いだ。
彼女達は旅する楽士である。国から国を巡り歩いて、戦いで疲れたひとたちに優しいひとときを与えるため戦の最中に流浪をしている。
蘭香は楽を愛していた。彼女は笛子を奏する。いつもは伸びやかに響く音とともに、気持ちも解れていくように感じられるが、今は、思ったような音が出ない。
蘭香のそばに寝ていたいまひとりの人物が、肘を着いて身を起こす。さらり、と流れる髪は白く、開けられた眼はどこを見ているのか解らない。
「菻静? どうしたんだ?」
彼は手探りで幌の幕を掴み、隙間を開けて顔を出し菻静に語りかける。手を差し伸べる彼に菻静は甘く微笑んで、男に寄り添った。
「斐蕗、何でもないよ」
そうか? と男はいう。
蘭香は、ふたりを羨ましく眺めた。
彼――董斐蕗(とうひろ)は、菻静の夫である。
斐蕗と菻静は信頼しあっている。お互いに大切にし合っている空気が、蘭香には心地よい。――が、己には、そのような幸せは恵まれないかもしれない。
己は、もう菻静のようにこだわりなく男に接していくことは出来ないかもしれない。
――男が、恐い。そう思いたくないのに、身体が、こころが竦んでしまう。
一番近くにいる幼馴染みさえ、時折、近付かれると身構えてしまう。その折々、茅鴛を落胆させてしまうので、蘭香は自分自身が嫌だった。
今の現状が、蘭香には切なく、悲しい。
「いま、どのあたりにいるのだろう」
斐蕗は思い付いたように言う。
夫の疑問に応える為、菻静が幌の外の弟に向き直る。
「茅鴛、いま何処らへんにいるんだい?」
「もう、斉の国に入ってるよ」
元気な声が、応える。
「そうか……ここまでくれば、追っ手もすくなくなるかもしれないね……」
菻静と茅鴛の会話を聴きながら、蘭香は幌の隙間から遠い目で外の景色を眺めた。
「流石に、敵国じゃ周(しゅう。北周/ほくしゅう)の武将も手が出せないんじゃないかな」
茅鴛は蘭香に聞こえるように告げる。
自身を苛む者が敵対する国に辿りついたのだ。少し安心する事が出来るかもしれないが、蘭香にはまだ不安だった。
「本当に――もう今までみたいに襲われないかな」
縋るような目で、蘭香は幼馴染みを見つめる。
「大丈夫、この国は、周よりも強くて大きいからな。もうすぐ、鄴の都に入る。そうしたら、もう安心だ」
彼らが今いる東の国・斉と西の国・周は相争いあっている。
斉と周はもとは魏(ぎ)というひとつの国であった。
遊牧民族の鮮卑族(せんぴぞく)が建てた魏朝は、武を誇り隆盛を極めたが、中原に残っていた漢民族の影響もあって、仏教と雅を尊び、牙を抜かれて覇気を無くしていった。
遊蕩と奢侈を好む朝廷は武を忌み、これに反発した軍部が反乱を起こした。
国は擾乱し、魏朝は東と西に分たれた。
実権を握ったのは双方とも遊牧民族の人間で、東は鮮卑族の高歓(こうかん)、西は匈奴系宇文部(きょうどけいうぶんぶ)の宇文泰(うぶんたい)が、それぞれ傀儡の皇帝を立てた。
後、二国は魏朝の禅譲(ぜんじょう)――事実上は簒奪(さんだつ)だが――を受け、斉・周と替わる。
東の魏――斉と、西の魏――周は、今でも宿命的な戦いを続けている。
現在の状況では、国力も軍事力も、斉のほうが強靭である。
いかな細作(スパイ)でも、街中で刃傷沙汰を起こすことは憚られるだろう。
彼女を狙う男の細作から蘭香を護るため、斉の国に逃げ込んできたのだ。
愛しい少女を、茅鴛は誰にも渡したくなかった。
「姉貴は中にいろよ、皆心配するんだから」
外に出てきた菻静は、手綱を握る茅鴛の隣に座る。
朝日を浴びながら川沿いに馬車を走らせている。水飛沫が生む清い空気が、茅鴛の頬にも吹き付けていた。
「なんだい、あたしゃそんなに柔くないよ」
呆れたように言う菻静。
茅鴛は口をへの字に曲げる。
この姉は、強気、といえば聞こえがいいが、ようは過激なのである。すぐに弟を殴る。言論をしても、茅鴛は勝つことが出来ない。毒舌が過ぎる。
が、女らしい優しい一面、持ち合わせていた。
「――忘れろってほうが、本当は無理なんだよ。
年の割にはまだ幼いからね、蘭香は……。普通の女でさえ、手込めにされかけりゃ、大体精神的にちょっとおかしくなるもんだよ。
あの娘は歳のわりに稚いし、まだ恋も何にも知らないんだから、衝撃もひとしおなんだろう」
今、蘭香の気持ちが一番解るのは、女である菻静である。男には、組み敷かれる女の恐怖など、解るまい。
しみじみとした姉の言葉に、茅鴛は反発する。
「だからって、どうすりゃいいんだよ……! 蘭香は毎夜、毎夜魘されて、ろくすっぽ寝てないんだぜ?!
俺には、気休めしか言うことが出来ない」
「あんなに明るかったのに……今じゃ泣いてばかりだよね。前に比べて、熱が出なくなっただけ、ましだけど……」
菻静は、重い溜め息を吐く。
襲われて日数が経たない頃、精神的な苦痛から、蘭香はよく発熱していた。悪夢に魘される夜が続き、現実との境目がつかなくなった彼女は弱り切っていた。
今は少しずつ立ち直りつつあるが、夜など、まだ余波に悩まされている。
「俺はずっと蘭香を見ているのに、助けてやることも、守ってやることもできないんだぞ……歯がゆすぎるんだ!」
茅鴛は俯いて表情を隠す。彼は、幼い頃から一緒に育ってきた蘭香に、淡い想いを抱いていた。
十五歳になって、乙女らしい美しさを身に付け始めた蘭香に、期待の念を持っていた。
やっと、蘭香に想いを告げることが出来る――そう思った矢先の、不幸な出来事である。
「うん――あんたの気持ちは解るんだけどね、茅鴛」
「姉さん」
茅鴛は、顔をあげる。
「ちゃんと、前見て馭者しなよ」
菻静は馬の方を指差した。悲しみに浸る弟を、正気に立ち直らせるために、彼女は少しふざけて言った。
熱情に浸りきっていた茅鴛は慌てる。
その時、突然小刀が馬の足に突きささり、馬が暴れはじめた。
「わ、わあ――ッ!」
「だ、大丈夫――、あんたのせいじゃない――ッ!!」
菻静は訳の解らない慰めを叫び、把手に捕まる。
茅鴛のせいではないとすると、他の原因で馬が暴れだしたのだ。悪い予感に、ふたりは顔を強張らせる。
「ち、茅鴛?! どうしたの、また……!!」
中で横になっていた蘭香が、恐怖に表情を凍らせて出てくる。
「大丈夫だから……ッ、蘭香ッ!!」
馬は馬車を揺らし、暴走する。
「だ、大丈夫か、菻静!」
「ひ、斐蕗〜〜ッ」
林犀は斐蕗に抱きついた。
「キャアアァァァ――ッ!!」
馬は勢い余って転倒し、馬車も一緒に薙ぎ倒された。
カラカラ…………。
無音の空間に、車輪の廻る音だけが響く。
足を挫いたのか、台車の下敷きとなった馬は泡を噴いている。
楽士の一向は皆、気絶している。かすかに、呻き声を洩しているだけに過ぎない。
俯せに倒れている蘭香のうえに、太く黒い影が差した。
「くっく……賞金の玉だ……」
邪悪な、欲望に塗れた声。
下卑た武骨な腕が、蘭香を掴み上げ、肩の上に担ぎ上げる。
男は大柄な体躯を黒衣で纏っていた。鼻からしたを部位を黒の一枚布で隠し、面を割れないようにしている。この男の他にも、同じようななりをした男が数人いた。
どのように見ても普通の人間ではなく、細作といってさし支えない身のこなしをしている。
「瑛将軍の下に連れてくぞ!!」
蘭香の身柄を手にしている男――この男が頭目なのだろう――が、他の仲間に号令した。
――――と。
「待てッ!!」
遠くから、若い男の声がした。
「だ、誰だ!?」
頭目が眼を挙げる。
燦々とした陽光に映える、均整の取れた姿が。人物は腰に挿した剣の束に手を掛けている。
その容姿は稀に見る美しさを持っていた。
瓜実型の顔の輪郭に、豊かに波打った黒髪が柔らかな印象を添えている。整った鼻梁、切れ長の眼、紅を注したような形のよい唇。美女の形容が非常によく似合う。
が、その体躯は、女のものではなかった。
身体に女性特有のおうとつはなく、細身だが筋肉質な体つきをしていた。
伶俐な眼差し、硬く引き結ばれた口許が、正しく男と証明していた。
「な、なんでえ、女じゃねえか!!」
「べ、別嬪だあっ!!」
勘違いをした細作たちが声を挙げる。
それほどに、男の容姿は際立って麗しかった。
「この私の目の前での暴挙……許さぬ!!」
男は目にはみえない素早さで剣を抜くと、飛び掛かった
その瞬発力は並みのひとのものではなく、細作は度胆を抜かれ、あるものは立ちすくんだ
舞っているかのような無駄のない太刀裁きで斬る。血飛沫が舞い。断末魔の声が轟く。
「う……」
菻静が声を洩らした。
目の前には、凄惨ながらに、華麗な戦いの現場がある。
「ち、茅鴛、皆ッ!!」
菻静は思わず叫ぶ。
「ね……姉さん?」
はっと、茅鴛が目を覚ます。
「蘭香が……ッ!!」
頭目に抱えられた蘭香を見て、茅鴛は愕然とした。それだけではなく、襲われた自分達を助けるためか、獅子奮迅の戦いをする男がいる。
凝視している茅鴛の目の前で、男は一瞬の間に大男の鼻先に剣を突きだした。
「言え――瑛とは、あの宇文瑛か?」
大男が後ずさると、男はにじりよった。
「ハッハ……言うと思ってんのか!?」
そういうと大男は何かを噛み砕き、血を吐いた。大きく傾ぐ身体。担がれている蘭香も揺れる。
「ら、蘭香――――ッ!!」
茅鴛が彼女のもとに走りだす。後方には流れの速い川があった。
血相を変えた男は、素早い動きで外套を脱ぐと、大男に続いて飛び込む。水しぶきとともに、大きな音がたつ。大きな骸は水中深く沈み、蘭香の身体も大男とともに沈んでいく。
勢いのある川は、三人の身体を押し流す。男は何度か川面から顔を出し、息を吸い込み、流れに乗って泳ぐ。少女の身体は留まらず、先を行く。
男は力の限り水を掻き分けると、蘭香の腕を捉え、片手で大きな岩を掴んだ。
茅鴛が瞬きをする間もなく、蘭香と男達は急流に運ばれていった。
悲愴な顔色で、彼は叢に座り込む。
「ら、蘭香……蘭香は……?!」
眼から涙がぽたぽたと落ち、声が震える。
「茅鴛、蘭香は!?」
斐蕗が茅鴛の声をたよりに歩いてくる。
彼は戦慄きながら振り向いた。
「今、川に落ちて……誰かが、助けに飛び込んだ……」
斐蕗は顔を強張らせる。
耳に届く川音は強く激しい。激流だ。果たして、この川に落ちて、助かるのか――。斐蕗はそろそろと手を伸ばし、義弟の肩を掴んだ。
「おい、そこな男よ――!」
はっとして、ふたりは振り向く。
馬の蹄の音とともに、大声が彼らのもとに届く。
武将のような男ふたりの姿が、みるみる近付いてくる。
「……何か?」
斐蕗は身構える。
「おまえ、ここいらで十七才ぐらいの男子を見なかったか?」
「え……」
茅鴛の脳裏に、蘭香を助けに飛び込んだ男が過る。
「あ……今、連れを助けに、川に……」
「何!? 貴様それは本当か!?」
栗色の髪を編みこんだ男が、茅鴛の胸ぐらを掴んだ。
うっ、と茅鴛は喘ぐ。
「止めろ、相願!」
「こ、公子っ!!」
もう一人の赤毛の長髪の男が声の方に向き直った。
蘭香を助けに川に飛び込んだ男が、ずぶ濡れで立っていた。腕に、蘭香を抱きかかえている。
茅鴛は顔に喜色を浮かべる。
男は無言で彼に蘭香を手渡し、二人の武将に面を向けた。
「公子、何故そのような無茶を――!!」
三編み男が詰め寄る。
「そのように騒ぐな、相願。お前は心配性だ」
いなすように告げると、茅鴛に目を向けた。透明な色を浮かべた瞳が、茅鴛のこころに刺さる。
「そなた等、これからどこへ行く」
唐突な言に、茅鴛は面喰らう。
「え……どこ、とは……」
「行く先はないのか」
「今日、斉に入ったばかりで、まだ……」
しばらく、男は茅鴛を思案気にじっと眺める。
しばしの間、起伏のない目線が茅鴛の上を漂っていたが、やがて、男はふうっ、と息を吐いた。
「――先程、刺客が、宇文瑛がどうとか、言っていたぞ」
茅鴛の表情が固まる。その様子を見て、男は口を開いた。
「今から、わたしの第に来ればよい」
「え……ッ!?」
茅鴛が疑惑の目を向ける。
この、不審な人物に自分達の身柄を、蘭香の身柄を預けていいのか……、茅鴛は警戒する。
男は茅鴛が何を言いたいのか、察した。
「――私は高長恭(こうちょうきょう)。文襄(ぶんじょう)皇帝の子だ」
何事でもないように、至極あっさりと高長恭は名乗る。
茅鴛の目が、驚愕に見開かれる。斐蕗も狼狽していた。
文襄皇帝――聞き覚えが、あるような気がする。彼等からすれば雲上人だが、市井にもよく名の通った人物である。
その人物は――斉の今上の、兄だ。
「斉の、皇族――!」
ふたりとも、言葉を無くす。
文襄皇帝――名は高澄(こうちょう)。現皇帝・高洋(こうよう)の同母兄である。
本来なら、この人物が魏朝の禅譲を受けるはずだった。が、南の朝・梁(りょう)の将の子、蘭京(らんけい)に殺された。高洋が斉を建国してから、高澄は文襄皇帝と諡された。
つまるところ、文襄皇帝・高澄の子である高長恭は、現皇帝・高洋の甥で、斉朝直系の皇族である。
そんな人物が目の前にいる。俄には信じられない。
「どうした、来るのか来ないのかどちらなのだ。嫌なのなら、無理強いでも連れてくることができるのだぞ、私は」
茅鴛は返答に詰まる。二人のやり取りを聴いていた斐蕗が、口を開いた。
「――あなた様は、私たちを周のまわしものと思っていらっしゃるのですか」
このような内容の事を、落着き払って言う斐蕗がどのような人物なのか、高長恭は見入る。
「……いや、刺客ではない、と思っている。少なくとも、その娘は何か関係していると思ってはいるが…」
ちらり、と高長恭は茅鴛の腕のなかの蘭香をみやる。
むっとし、茅鴛は公子・長恭を睨み付けた。
「……何も聞かないで、人を怪しがるなよ。こっちだって、好きで狙われてるわけじゃないんだ!」
茅鴛の一言に、先程「相願」と名を呼ばれた側近が、彼を睨みつける。
が、長恭はこれぐらいのことでは怯まない。
「その訳を聞きたいから、来いと言っているのだ。それに、今宵の宿ぐらい貸すつもりだ」
非常な冷静さで、危ういやり取りを聞いていた斐蕗が、
「……どうやら、私たちに危害を加えようというのではないのですね」
と呟いた。
「当たり前だ。周の宇文瑛に狙われているのなら、尚更だろう」
斐蕗と同じぐらいの冷静さで、長恭は返す。
暫し、高長恭と斐蕗は互いの空気を測り合う。やがて、斐蕗は理解したように吐息した。
「解りました。差し障りのない所までなら、お話致しましょう」
柔らかなほほ笑みを湛え、斐蕗は言った。
「俺、何だか嫌だな、あの男……」
「茅鴛」
茅鴛は頬を膨らませて、馬に騎乗して馬車の前方を行く長恭を睨む。
彼からすれば、北斉の公子・高長恭は何を考えているのか解らない、得体の知れない人物だった。
あるいは、茅鴛にとって、長恭は単にそりの合わない典型的な人物、ともいえる。
「あんな奴に、俺たちのこと関わってほしくない。大体、蘭香が一番傷つくだろ……」
長恭と関わると関わると蘭香が不幸になるかは、まったく解らぬことだというのに、茅鴛はそうに違いないと言いたげである。
宥めるように、斐蕗は茅鴛に言う。
「しかし、このままの蘭香を放ってはおけないだろう。どうやら、また熱が出ているようだしね」
茅鴛は馬車の中で菻静に解放されている蘭香を見遣る。額に濡れた手巾を当てられている。その頬は熱で赤く染まっていた。
「問題があるようだったら、すぐに出ていけばいい。そうだろう、茅鴛」
「それはそうだけど……」
斐蕗は渋々ながら言う茅鴛の頭を撫でた。
彼はあるとき病を得て、目に光を失ってしまった。故に、何物をも見ることができないのだが、それだけに他の感覚が鋭くなっていた。
人の出す空気を察知する能力に長け、小さな音も拾う事ができる。物の間隔をも大体の観測で正確に当てられるようになっていた。
――斐蕗の直感は、長恭を信頼の置ける人物、と捉えていた。
「公子、あの者どもを城に滞在させるおつもりですか……!?」
茅鴛たちに先導しながら前をゆく長恭に、将士の尉相願が詰め寄った。
「何か不満か、相願」
「よくありません! あのようなどうとも解らぬ馬の骨を――!」
「よいかどうか、決めるのは私だぞ、相願。
私とて物事を見極める力がある、小さな子供を心配するような小言など言うな」
「しかし……」
なおも相願は言い渋る。
相願にとっては、長恭はまだ稚い少年である。彼がすでに成年ともいえる人格を備えているとは、認められていない
そんな彼に、馬を並べてくるもう一人の将士が告げてくる。
「采嚠(さいりゅう)、今お前がしてることはそこらの偏屈じじいと同じだぞ」
彼は相願を茶化す。男の見た目は、相願よりも年長だった。
ぎっ、と相願は男を睨む。
「黙れ、平掩(へいえん)!」
相願は平掩をどやし付ける。
その時、相願や平掩より後方に居た長恭が笑い出した。笑うことが少ない長恭が久々に笑ってので、相願は途端に顔を緩めた。
「流石は平掩、友の事は見抜いていると見えるな!」
同調するように長恭は言う。
「ごもっともで!」
アハハ、と平掩は朗らかに笑う。
長恭はほほ笑みを浮かべると、後方の茅鴛たちに目を向けた。
――冷たい……。ここは何処なのかしら……あたしはどうしてこんなところにいるのかしら……。
暗く深い淵に沈んでいるような感覚。生温く、呼吸も出来ないほどの深い闇が蘭香を包む。
が、不快ではない。なにもない、という心地が蘭香を安心させる。
――ここにいると、辛いこと、みんな出てこない……。だったらずっと……ここに……。
何もかも、どうでもいい。明るいところに出れば、希望など見えない。己というものを保っているのも辛い。柵も、枷も、ここにはない。蘭香はそこに閉じこもろうとした。
「甘ったれたことを言うな」
――え!?
不意に、蘭香の意識に差し込んでくる声が。蘭香の魂は何事かと、頭を擡げる。
「辛いことが無くなるだと? そうして逃げれば全て解決するのなら、誰も悩みなどはせぬ」
――だ、誰……!?
「逃げるのは、弱いもののすることだ。 辛かろうが、立ち向かえばきっと抜け道が見えてくる」
今まで、ぼんやりと遠く聞こえていた低い声が、不意に近くなる。一番真近くなったとき、蘭香は靄から抜け出すように覚醒した。
目前に、自分を見下ろす顔がある。声は、そこから齎されたようだ。
それは、今まで見たことがないほどの美貌だった。
夜に輝く月の光を人型にすると、このような容貌になるかもしれない――冴え冴えとした美貌を見て、蘭香は何となくそう思った。
「あ…たし……」
蘭香は辺りを見回す。
吹き抜けるように高い天井、己が横たわる、寝心地のよい寝台、趣味のよい屏風や壷、調度が溢れた室内……。
蘭香は別世界の別世界に迷いこんだように錯覚した。どうしてこんなところにいるのか、解らなかった。
「やっと、正気に戻ったようだな」
今まで問い掛けていた男の声が、美貌の主から発せられた。
またも、蘭香は驚く。
あの、冷たく上から刺す様な声が、この人物のものだったのか。
その美しさから高貴なる姫かと思っていたが、違うのだと蘭香は悟った。
その横から、茅鴛が心配そうに蘭香に近付き、彼女の手を取った。
「茅鴛……あたし……」
「蘭香、もう大丈夫だ、心配するな」
「何……を」
蘭香は、矢継ぎ早に起こる新たな現実を受け入れられず、混乱する。
「そなたは、刺客に襲われ意識を失っていたのだ。熱も出ているが、すでに処置はしてある」
茅鴛の隣の美男子が無機質に言う。この屋敷の主人なのだろうか、まだ若いというのに彼は泰然としている。
「襲われ……て」
「蘭香、この人がお前を、おれたちを助けてくれたんだ」
茅鴛の言葉に引き寄せられて、蘭香の脳裏に、大きく傾ぐ馬車が過る。
「――また、なの……!?」
蘭香は蒼白になり、がくがくと震えだした。
「蘭香……!」
「また、あたしのせいでこうなったの……!?」
いつもいつも、己のせいで、皆を苦しめる。皆に迷惑を掛けてしまう。
動揺する蘭香を抱きしめ、高ぶる精神を沈めようとする。
主人の後方から、斐蕗たちや武人らしき男ふたりが、部屋に入ってくるのが蘭香の視野の片隅に見える。
「もう、いやぁッ! あたしが、何したって言うの!?
どうして、あたしがこんな目にあわなきゃいけないのよッ……!」
蘭香は惑乱して叫喚する。
「落ち着け、と言っているのだ!!」
喝を入れるように主人は大声を出した。
びくり、と蘭香は止まる。
驚きは、恐怖も越えてしまうのだろうか。蘭香は、この美しい青年からこんな厳しい叱責を聞くとは思わなかった。
「私が助けたから、今は大丈夫だ。それに、訳さえ話せばこれからも助けることが出来る。
訳さえ話せば、だがな……」
「あなたは……?」
涙ぐむ目で蘭香は青年を見る。
この状況にそぐわない程に落ち着き払っている青年は、一体、誰なのだろうか……?
「わたしは高長恭。斉の皇族だ」
「斉の……皇族?」
斉は、己を苛む男の敵国。その敵国の皇族に、何の偶然か蘭香は拾われたのだ。
ある意味幸運ともいえる成り行きに、蘭香は目を瞬かせる。
「そうだ。朝の遠駆けをしているときに、偶然、そなた達が襲撃されているのを目撃し、助けた」
沈黙が流れる。彼が、己を襲った細作を撃退してくれた……。蘭香は長恭をじっと見つめる。
女のようにしか見えないのに、この青年は強いのだ。世の中には不思議なことがあるものだ、と蘭香はつらつらと思う。
斐蕗は、咳払いをすると口を開いた。
「訳は、わたしが話しましょう。しかし、ここでは……」
ちら、と斐蕗は顔を出口に向ける。
蘭香ははっと斐蕗の動きを見た。
斐蕗は己に聞かせまい、と配慮しているのだ。その配慮は嬉しいが、当事者は己であるというのに、人任せにしていいのだろうか。
長恭は頷くと、踵を返した。
「待って!」
蘭香は、二人の足を止める。
室内の者の目線が、蘭香に集中する。茅鴛は心配そうな眼差しを送ってくる。
「いいわ――斐蕗兄様。あたしが巻き込んだ種だもの、あたしが話す」
「蘭香!」
茅鴛が止める。
忌わしい記憶を呼び起こすのは、危険過ぎる。蘭香に更なる苦しみが覆いかかる。彼女の精神が傷つけられるのは、もう嫌だった。
茅鴛はいつでも己のことを一番に心配してくれる。が、それが蘭香には自身を甘やかせているように感じた。
「止めないで、茅鴛。あたし、もう皆を危険な目に遭わせられない」
「蘭香……」
茅鴛は思い定めた面持ちの蘭香に、唇を噛む。
――この人はあたしを助けてくれた。だから、あたしが話さなくてはいけない。
蘭香は深く息を吸い込むと、傷を飛び越えるように語り始めた。