隆景の妻(1)へ

(2)


 天文十六年(1547年)四月、竹原小早川(たけはらこばやかわ)家当主・徳寿丸(とくじゅまる)が初陣することとなった。
 攻める相手は、三年前に沼田(ぬた)小早川氏を高山城で籠城戦に追い込んだ、備後神辺(びんごかんなべ)城主・杉原理興(すぎはらただおき)である。
 防長の守護大名・大内義隆(おおうちよしたか)は、この何年か杉原と戦っていたが、なかなか決着がつかない。
 攻防戦に参じていた徳寿丸の父・毛利元就(もうりもとなり)は、息子に小早川水軍を率い、先鋒として参戦するよう命じた。
 出陣するにあたり、徳寿丸は本家である沼田小早川家に出陣の報告に来ることになった。



 一年に一度、年始の挨拶に見えるだけだが、会うたびに徳寿丸は男らしい美丈夫に変化してゆく。
 沼田小早川家の当主・又鶴丸(またづるまる)の妹・永(なが)姫は、母・須賀の方の隣で徳寿丸の端正な姿を見ていた。

「徳寿丸殿には、息災であられますように」

 上座に居る又鶴丸は形式どおりの餞別の言葉を送る。

「勿体なきお言葉、痛み入ります」

 徳寿丸も心得たような返答をし、ちらりと永姫を見た。
 会うごとに送られる、意味深な視線を、永姫は澄ました顔で気付かない振りをする。
 徳寿丸が竹原小早川家の新当主として謁見しにきたとき以来、永姫はひとかけらも徳寿丸を気に掛けないようこころに決めた。
 それは、徳寿丸の存在に脅かされる愛する兄・又鶴丸のことを一番に考えたからに他ならない。
 小早川本家の当主である又鶴丸は、幼いときにかかった病により盲いてしまった。対する分家・竹原小早川家の当主・徳寿丸は五体満足で機知に聡く、行動力もある。
 小早川家中のなかには、徳寿丸の大成を望んでいる者もいる。――それが、又鶴丸を傷つける。
 ゆえに、又鶴丸は徳寿丸をあまり良いように思っていない。初めて徳寿丸に会った日、又鶴丸はときめきを露にした永姫に徳寿丸に対する劣等感を具に語り、涙を見せた。
 その夜永姫は又鶴丸だけに一生を捧げると心に決めたのである。
 挨拶が終わり、又鶴丸が介添えの助けを受けて立ち上がろうとする。永姫はそっと兄の傍らに添い、共に広間を退出した。


「徳寿丸殿は竹原小早川家の当主として初陣を飾れるのだ。
 武家の当主として、わたしは徳寿丸殿が羨ましい」

 自身の曹司に戻った又鶴丸は、妹にそう告げる。
 永姫は目を伏せた。
 領主は兵を率いてこそ一人前――浦新四郎宗勝(うらしんじろうむねかつ)にそう言われたことがある。
 あの頃は幼くて意味が解らなかったが、今は痛いほど理解できる。
 椋梨藤次郎弘平(むくなしとうじろうひろひら)は、領主は指図だけすればよいと言ったが、気休めに過ぎないだろう。現に兄は自信を喪失しきって、軍を指揮できる余裕もない。
 永姫は書棚から書物を何冊か取り出す。

「兄上は、何をお聞きになりたい?
 太平記? それとも平家物語?」

 永姫は兄の憂欝を紛らわすため、軍記物などの本をよく朗読している。

「そうだな、源氏物語はあるか?」
「あります」

 兄の希望に源氏物語を捲ったとき、侍女が障子を開けて入ってきた。

「姫さま、お方さまがお呼びになっておられます」

 少し振り向き、息を吐くと兄の相手を侍女に任せ、永姫は席を立った。



 侍女に導かれ連れてこられたのは、母がいつも居る奥向きとは違い、扇の丸の一室であった。
 訝しみながら入った永姫は、中に居る人物を見て驚いた。

「徳寿丸殿……!?」

 窓から高山城下を見ていた徳寿丸が、永姫の声に振り返りざま微笑んだ。

「毛利の郡山城下や、竹原の木村城下とはまた趣が違う。沼田川を挟んで山がそびえ立っている」

 再び外に目を向け語る徳寿丸を、永姫は厳しい眼で見る。

「帰ったのではなかったの?」

 永姫の刺のある眼差しに構わず、徳寿丸は笑む。その笑顔はやはり魅力的で、永姫は内心戸惑った。

「永殿とは一度も話したことがないので、浦新四郎に頼んだのだ。
 君は初めに会った日以外、ずっとわたしと目を合わせてくれない」
「それは……」

 兄・又鶴丸が嫌がったからだとは言えない。
 永姫は言葉を繕って誤魔化した。

「話す必要も、目を合わす必要も無いと思ったからです。
 わたしは兄の相手をするのに忙しいのです。
 兄の目の代わりになり、兄の不自由を取り除くようにしたいのです」

 自分でも言い訳をしていると永姫には解った。
 彼女の応えに、徳寿丸は少しく皮肉な笑みを浮かべた。

「永殿は兄君を哀れに思われているのか」
「そんなことは……」
「又鶴丸殿は目がお見えにならないが、小早川本家の正当な血筋の者として、家中の皆に庇護されている」

 兄を苦しめている張本人が、知った口をきく――! 思わず永姫は睨みつける。
 が、徳寿丸の言葉は終わらない。

「それに引き替え、わたしは外の家の血を引く者。辛うじて義母上が味方してくださるが、未だにわたしを快く思っていない者がいる。
 父母とは引き離され、家に戻ることも出来ない。
 知る者の居ない余所の領地に入っていく人間の気持ちが、君に解るか?」

 怖いくらい真剣な面持ちに、永姫は意表を突かれる。
 兄は目の不自由から不幸な身になったが、徳寿丸は権謀の渦に飲まれたことが不幸せなのだ。
 否、徳寿丸は強く見える。どんな困難でも知略と勇気ではねのけられるかもしれない。現に彼の存在を乃美隆興や浦賢勝は有望と見ている。
 何より、この少年は人を引き寄せる磁力のようなものを持っている。

「あ、あの……」
「わたしは、哀れまれるのは嫌いだ。
 どんな逆境も乗り越えてみせる。
 絶対に、生きて還ってきてみせる」

 徳寿丸の強い語調に、思わず永姫は頷いた。
 ふうっと吐息すると、徳寿丸は優しい笑みを浮かべる。
 永姫は何も言えないまま、徳寿丸が部屋を出るのを見るのみだった。


 徳寿丸が高山城を去ったのち、しばらく彼の独白に圧倒されていた永姫だったが、元気を取り戻すと徳寿丸に会わせるよう仕組んだ張本人に問いただそうと、永姫は動きだした。
 侍所で戦の用意をしている目的の男を見つけると、永姫は男の腕を取り、強引に廊下に引っ張っていった。

「新四郎、なぜあんなことをしたの!?」

 浦宗勝はきょとんとしている。

「あんなこととは?」
「わたしと徳寿丸殿を会わせるため、侍女を差し向けたことよ!」

 合点がいったのか、あぁ、と呟き宗勝はにやりと笑った。

「徳寿丸さまと二人きりでお会いするのが、お嫌だったのですか?」
「そうよ」

 頬を膨らませて永姫は言う。

「いやに毛嫌いされたものだなぁ、徳寿丸さまは」
「だって、兄上がお嫌いな方を、わたしが好きになっちゃいけないもの」
「又鶴丸さまが徳寿丸さまをお嫌いだから、姫さまも嫌いにならねばならないのですか。横暴な話だなぁ」

 ちゃちゃを入れるような宗勝の語り口に、むっとして永姫は言い返す。

「横暴じゃない! わたしはそうしなくちゃいけないの!」

 宗勝はふぅむと唸る。

「困った方だな、又鶴丸さまも……。
 いいですか、姫さまは頑張って徳寿丸さまを嫌いになろうとしていますが、人は嫌いになろうとして嫌いになれるわけじゃないんですよ。
 又鶴丸さまは直接的に嫌いになる原因がありますが、姫さまには嫌いになる原因が無い。
 兄上の感情に巻き込まれているだけなんです。
 今回、徳寿丸さまと直接対面されて、姫さまはどう思われました?」

 途端に永姫は言葉に窮してしまう。
 先程会った徳寿丸は、やはり素敵だと思えた。強い彼ならば、どんなことがあっても負けはしないと思った。――嫌なようには、感じられなかった。
 何も言わないのを答えと捉えた宗勝は、言葉を継ぐ。

「……これは言うまいと思っていたのですが、徳寿丸さまはずっと姫さまと話をしたがっておられたのですよ」
「え?」

 永姫は顔を上げる。

「高山城に参られるたびに、徳寿丸さまは何とか姫さまとお話する機会を伺っておられましたが、姫さまはずっと又鶴丸さまに付きっきりで呼び止める折りもない。
 徳寿丸さまは今回が最期になるかもしれないからと、わたしに願われたのです」
「最後になるかもしれないからって、どうして?」

 何も解っていない永姫に、宗勝はため息を吐いて腕を組む。

「戦に出るということは、死と隣り合わせになるということです。
 姫さまも戦で父上を亡くされたでしょう?
 徳寿丸さまもそうなるかもしれないと覚悟されているということです。
 だから、最期に姫さまとお話がしたかったのでしょう」

 永姫は手で口元を押さえた。
 徳寿丸は絶対に生きて還ると言ったが、強がりだったのだろうか? 彼も死の恐怖を抱えていたのだろうか?

「新四郎……徳寿丸殿はわたしに、絶対に生きて還ると言ったわ」
「それは、男なら好きな女子にみっともない姿は見せられませんからなぁ」

 え? と聞き返す永姫に、宗勝は何でもありませんと答える。

「とにかく、戦の場は厳しく、生きて還れる保障はないということです。
 姫さまも徳寿丸さまのお気持ちを少しは汲んで差し上げてください」

 宗勝に真摯な眼で言われ、永姫は黙り込む。
 徳寿丸は死を覚悟しているが強がりを言ったと宗勝は捉えている。
 が、永姫にはどうしてもそのようには見えなかった。
 毛利から小早川に入ることになってから、徳寿丸は強く生きてやろうとこころに決めたのではないだろうか。だから、彼はいつも泰然としているのではないだろうか。
 彼が強くあろうと頑張れるのは、体にひとつも不自由がなく、常に健康だからだ。そういう意味では、彼は恵まれている。
 第一、戦に出られることこそが、幸運ではないのか。兄は目が見えないから戦に出られない。国人領主として生まれながら戦に駆り出されないのは、惨めでしかない。
 恵まれているものに、本当の苦しみなど解りっこない――永姫はそう納得しようとした。









 浦宗勝ら小早川水軍を率いて出陣した徳寿丸は、坪生の龍王山城を攻撃することとなった。
 徳寿丸は大内軍司令官・弘中隆兼(ひろなかたかかね)を軍目付として備後鞆ノ浦(びんごとものうら)に本陣を置き、大内傘下にある小早川氏の将・浦小太郎賢勝(うらこたろうかたかつ)と、村上祐康(むらかみすけやす)率いる因島村上水軍(いんのしまむらかみすいぐん)を麾下に加え、四月二十八日に坪生の要害を攻め落としたのである。
 天文十七年夏には陶隆房(すえたかふさ)を総大将にし、小原隆言(こはらたかこと)や隆景の兄である毛利隆元(もうりたかもと)・吉川元春(きっかわもとはる)、平賀隆宗(ひらがたかむね)が戦に加わった。
 途中平賀隆宗が持久戦になる予兆を大内義隆に報告、義隆は隆宗だけを戦場に駐留させ、他を撤退させた。
 天文十八年、竹原木村城にて徳寿丸は元服、大内義隆の偏諱(へんき)を受け、小早川又四郎隆景(こばやかわまたしろうたかかげ)と名乗るようになった。



「隆景殿は今、父君やご兄弟と大内の築山館(つきやまのたち)に滞在なされているらしいな」

 脇息にもたれかかる又鶴丸が、彼の代わりに文書の署名をしている椋梨常陸介盛平(むくなしひたちのすけもりひら)に言う。

「隆景さまの兄君・元春(もとはる)殿の吉川家相続の認可と、隆景さまご自身の加冠の御礼に参られた由にございます」
「神辺城の戦いで勇名を馳せた隆景殿を、お屋形さまと弘中隆兼は大層気に入られたらしいな。
 お屋形さまにいたっては、隆景殿の美貌も愛で、頻繁に寝所に召されているとか」

 又鶴丸の皮肉の籠もった言に、盛平は筆を操る手を止めた。
 本家の当主・又鶴丸より、分家の当主・隆景のほうが明らかに目立ってきている。
 又鶴丸にはそれが面白くない。彼は隆景を大内義隆の男寵呼ばわりして、溜飲を下げようとしているのだろう。
 盛平は主人が荒みゆくのを止められず、何の手立てもなく見守る他なかった。

 ――又鶴丸さまも、来年には十四才……そろそろ元服式をせねば。

 元服すれば、又鶴丸にも心境の変化が表れるかもしれぬ。
 盛平はそれに掛けてみようと思った。


 又鶴丸の居室から下がったあと、椋梨盛平はすぐさま又鶴丸の母である尼御前・須賀の方にことの提案をした。

「そうですね、わたくしもそろそろと思っておりました。
 ですが常陸介殿、わたくしはもうひとつ懸念していることがあるのです」
「懸念している事?」

 須賀の方は頷き、続ける。

「永の嫁ぎ先もそろそろ考えねばならぬでしょう。
 あの子も来年には十三になります」
「永姫さまのことも……」

 盛平は思わず唸った。
 永姫の結婚は、又鶴丸元服より進めるのが難しい。大内派は大内方の国人に嫁がせることを希望するだろう。尼子派はその逆だ。
 領主の姫は手駒である。姫を他家に入れることで国人衆同士が結託する。この手法をよく使っているのが、隆景の父・毛利元就である。
 近頃とみに美しくなってきた永姫は、どの家にも欲しがられるだろう。
 盛平が考えを練っていると、須賀の方は思いもよらない事を話した。

「永を隆景殿に嫁がせてはどうでしょう」
「た、隆景さまに?」

 目を剥いた盛平に須賀の方は真面目な顔で首肯する。

「隆景殿は戦功目覚しく、お屋形さまのお気に入りでもあります。
 永を竹原に嫁がせれば、何かの折にはお屋形さまの不興を買わぬよう、隆景殿に取り成してもらうこともできるでしょう」
「確かに、隆景さまはめきめきと才覚を発揮されております。されど……」

 隆景と永姫を結婚させるときに、大内義隆が横槍を入れてきたら?
 永姫を竹原に嫁がせるというのではなく、隆景が永姫の婿養子になるよう大内義隆が仕向けてきたら、どうなる?
 ――それは、又鶴丸廃嫡に繋がる。婿養子になれば、隆景を正統な小早川家当主に仕立て上げることが出来る。小早川氏は毛利の血を引く隆景によって統一されるだろう。それは、毛利による小早川乗っ取りに繋がりはしないか。

「お方さま、隆景さまの背後にはお屋形さまと毛利の大殿がおられます!
 日頃から沼田の家と又鶴丸さまを快く思っていらっしゃらないお屋形さまからすれば、隆景さまを小早川の当主にするほうが、何かと都合がよいのです。
 ましてや隆景さまの父上・毛利の大殿は調略を得意となさるお方。
 隆景さまと永姫さまの結婚は、お屋形さまや毛利の大殿の調略の糸口となってしまいます」

 盛平の忠告に須賀の方は眉根を曇らせた。

「そうねぇ……永を隆景殿に嫁がせるのは、色々と危ういかもしれないわね。
 隆景殿なら永にぴったりだと思ったのだけれど。
 堂々とした振る舞いといい、冴え渡る知恵といい、素敵に育たれているもの。
 将来が楽しみだわ」
「お方さま……」

 隆景が大内義隆の寵愛を受けているという噂は定かなものでないが、彼が女子を容易く魅了してしまえることは、高山城の女子達の様子を見れば解る。須賀の方も例外ではない。
 とはいえ、肝腎の永姫は隆景に興味がないようなので安心である。

 ――が、これはこれで困った事である……。

 永姫は非常に兄思いである。否、兄思いなどという言葉は生優しすぎる。彼女は兄・又鶴丸のためだけに生きているといって差し支えなかった。
 永姫は「兄上の御目のかわりになる」と言って、姫にあるまじき直垂姿で馬に乗り、沼田の市や三原の港を駆け回っている。
 昨年まで永姫は兄・又鶴丸と一緒の部屋で眠っていた。又鶴丸も永姫もそろそろ年頃である。ひょんなところで男女の性が目覚めれば、非常にややこしく危険なことになる。
 そう言って又鶴丸と永姫の寝所を分けたが、お互いに中々納得しなかった。

 ――これで結婚の話になれば、もっと揉める事だろう。又鶴丸さまも永姫さまも、果たしてご結婚をお受け入れになられるか。

 思わず盛平は苦笑いしてしまう。

「解りました。永姫さまの嫁ぎ先に相応しい家を探しておきます」
「頼みましたよ」

 深々と頭を下げ、盛平は須賀の方の部屋から退出した。


 須賀の方と椋梨盛平によって結婚の話題を出されていた当の永姫は、高山城下を見物し終わり厩番に愛馬を預けているところだった。
 永姫を捜していた椋梨弘平はやっと捜し求めた人を見つけ、駆け寄ってきた。

「姫さま! 一人で城を出られてはならぬと、あれ程言いましたのに!」

 あははと笑い、永姫は頭を掻く。
 彼女は長い髪を頭頂でひとつに結わえていた。見目のよい女物の水干や直垂ではなく、男物の渋い色目の着物を着ている。化粧気もまったくない。
 奥向きに居るときは、永姫といえど姫らしい格好をしている。射干玉(ぬばたま)の髮を垂髪に結い、乙女に似合う小袖の上に華やかな染の打掛を纏っている。顔に白粉をはたき唇に紅を注した顔は、充分に美しかった。
 そんな美女としての本性を持っているのに男物の直垂では、折角の容貌が勿体無い。

 ――これでは、どこかの小姓のように見えても仕方がないな。

 弘平は引き攣った笑みを浮かべる。

「永姫さま、もう勝手に城を出られてはなりませんよ。
 姫さまもお年頃なのですから、世間一般の姫のように奥向きに籠もり、花嫁修行をなさらなければ」
「悪いけれど、あなたの言う事は聞けない、藤次郎。
 わたくしは一生兄上の目の代わりになると決めたのだもの。
 どこかにお嫁に行く気もないし、今までどおり馬でお城を降りるのもやめないわ」

 聞かぬ気な永姫の言葉に、弘平は大きく歎息した。

「ならば、わたしや乃美新四郎を供としてお付けくださいよ」
「あなたや新四郎を連れて歩いたら、目だって仕方がないじゃない。お忍びの意味がないわ」

 永姫は拗ねたように言う。
 浦新四郎宗勝は父方のもとの姓を好み、專ら乃美新四郎宗勝と名乗るようになっていた。
 どんなに説得しても永姫は聞かない。女一人出歩く事の危うさを彼女は解っていない。それが弘平には腹立たしかった。



 その日も永姫は日課の「兄の目代わり」をするため高山城を降りた。
 いつもと同じく誰も供を連れていない。永姫は沼田の港まで遠出をするつもりで城を出ていた。
 沼田の港は朝鮮貿易の入り口になる場所なので、様々な物資が入ってくる。したがって港の側には中世から本市と新市が出来、商いを行う店が軒を連ねていた。
 永姫は一回り市を見た後、馬を三原の浦にまで進めた。
 三原の浦には塩田があり、鋳物師や刀鍛冶など打物の産地としても有名である。沼田の港と同じく貿易船の湾口であるので、小早川氏にとっても重要な場所であった。
 連なる松並木の一枝に馬の手綱を結び、永姫は水際に近寄っていく。
 三原の港から見える瀬戸内の海は小島が連なって浮かんでいる。対岸にある四国もはっきりと見ることが出来た。
 そして、本土と四国を挟む島々――瀬戸内の海賊・村上水軍が根城としている島々である。
 村上水軍は芸予諸島の制海権を握り、行き交う船団の警護や支援活動をする代わりに通行料を取っていた。滅多な事では略奪行為をしないが、それでも近隣の者達に怖れられていた。

 ――小早川の領土は難しい。日本と朝鮮を繋ぐ貿易港があり、海賊衆が暴れまわる地。やはり目が見え、実際に指揮を執ることができないと、この地の統治は難しいかもしれない。だから、お屋形さまは、盲いた兄を領主にすることに不快感を抱いているのかもしれない。

 大内氏にとって、この地だけは何としても尼子氏に盗られてはならないのだ。
 永姫は兄・又鶴丸の目代わりになって小早川の領地を見て廻っているが、見れば見るほど気が重くなる。――兄では、治めきれないのではないか。
 どんなに自身が助力しても、所詮は女である。男の方が発言に力を持ち、女の意見は無視されがちである。
 それでも、永姫はせずにはいられない。兄・又鶴丸だけが小早川本宗家の正嫡なのである。その兄が全盲なので、領主として相応しいかどうか、家中でも揺れている。永姫はそれを見ていられない。
 ならば、己が目代わりとなり、兄が領主としての全き仕事を行えるよう妹として支えるのみだ。
 例え領主の妹に出来る事は、兄の有利になるため嫁ぐ事だけといわれても、簡単に諾といえない。

 永姫は海を見ながら呆と考え事をしている。だから異変の出来に気づかなかった。


 音をさせないよう港につけられた小船から、屈強の男が数人降りてきた。
 彼らは静かに永姫の背後に廻ると、彼女の体を抱き上げた。永姫は悲鳴を上げる。
 男は抱えた身体の柔らかな感触で、相手を女と知ったようだ。

「おっ?! 綺麗なお小姓かと思ったら、女か!
 面白い、島に連れて帰ろうぜ!」
「おうよ、少輔太郎(しょうたろう)!」

 軽々と抱き上げられた永姫は大声で助けを呼んだ。が、誰も助けに来ない。

「無駄無駄、誰も来ないって。
 能島(のしま)に帰ったら贅沢させてやるからさ、大人しくしとけよ」

 聞いて、永姫はぎくりとする。

「能島って、村上水軍の?」
「お? 嬢ちゃん物分りがいいね!
 俺は能島水軍の頭、村上少輔太郎武吉(むらかみしょうたろうたけよし)だ」

 更に永姫は驚いた。
 能島水軍といえば、村上水軍を束ねる一団である。
 となればこの男は神辺城攻めで隆景に組した村上祐康を従えている男である。
 それは解った。だがこのままでは村上武吉に小船に乗せられ、能島に連れ去られる。

「ちょっと、村上水軍は略奪行為をしないことを旨としていたのではないの?!」
「いや、あんた可愛いからさ。少しの間我慢してくれたら、ちゃんともとの場所に戻してやるから」

 いけしゃあしゃあと言ってのけた武吉に、永姫の血の気が引いていく。

 ――藤次郎にあれ程言われたのに聞かなかったから、この様になったのか……。
 わたくしは馬鹿だ、ちゃんと言う事を聞いておけばよかった。

 漁を終えた港には誰も居ない。――誰も助けに来ない。
 ならば、賭けにでるのみだ。

「あ、あの、お願いだから話を聞いて!」

 頭上で喚く小娘を武吉は煩そうに見る。

「何だよごちゃごちゃ言いやがって。自分が攫われそうになってるの、解ってるか?」
「解っているわよ! だから交渉しようというの!」

 必死で言い募る永姫に呆れたのか、武吉は彼女を地面に下ろした。

「小娘のわりに度胸があるな。その肝に免じて少しだけ聞いてやるか。
 言いたいことは何だ?」

 面白そうに見る男に、永姫は懐剣を出して刃を抜き、勇気を振り絞って言う。

「わ、わたくしは、沼田小早川家の姫・永姫です。
 わたくしに何かをすれば、家中が黙っておりますまい。今のうちにやめておきなさい」

 懐剣の刀身をちらつかせる永姫の言葉に、あたりがしぃんと静まり返る。
 後にやってきたのは、海賊達の大爆笑だった。

「じ、嬢ちゃん、沼田の姫さまだって!? そりゃ面白い嘘吐いたな!」
「……嘘なんて吐いてないわよ」

 永姫は真実を言うが、武吉は聞いてはおらず大笑いし続けている。

「本っ当に面白いな嬢ちゃんは。ますます連れて帰りたくなった」

 ひとしきり笑った後、武吉は永姫に向かって足を一歩踏み出す。

「ち、近寄らないで!」

 永姫は側によってきた武吉に対し懐剣を突き出す。が、武吉は永姫から簡単に懐剣と取り上げると後方に放り投げ、再び抱き上げようとした。
 そのとき、彼らの背後から声が掛けられる。

「彼女の言っていることが本当だとしたら?」

 後ろから掛けられた声に、皆の動きが止まる。
 振り向くとひとりの青年が懐剣を拾い、永姫達に近付いてきていた。
 只ならぬ殺気が青年から放たれているのを、武吉達はすぐさま感じ取った。――これは、ただの男ではない。
 永姫は大きく目を見開いた。何故、彼がここに居るのだろう。

「ほら、これが証拠だ」

 男は武吉達に永姫が携帯している懐剣の柄を見せる。そこには小早川家の家紋である三つ巴が描かれていた。
 武吉は改めて永姫を見る。

「徳寿丸殿……」

 徳寿丸――隆景は永姫に微笑みかけた。
 永姫が告げた名に、武吉も驚愕する。

「徳寿丸って……竹原の当主!?」
「あぁ、今は又四郎隆景だがな。
 因島の村上祐康殿には、二年前から助けてもらっている。村上水軍を統べるあなたは黙認してくれていたのだったな、村上武吉殿」

 ちっと舌打ちすると永姫を地に降ろし、武吉は隆景に近寄った。
 永姫は隆景と武吉の様子を黙ってみている。

「どうだ、祐康は役に立ってたか?」
「勿論、存分にな。何かの折にはまた助けてくれると約してくれた」
「そうか、そりゃよかったな」

 しばらく隆景と武吉は睨みあっていた。互いに視線を外すことなく、気迫だけが行き交う。

「まぁ、祐康は大内や毛利の味方をしたが、俺達能島水軍はまだ決めかねている。
 せいぜい状況を見させてもらうさ」
「そうだな、気が向いたら加勢してくれ」
「あぁ」

 そう言って隆景の肩を叩くと、武吉達は笑顔で永姫に手を振り小船に戻った。
 呆気にとられる永姫の側に近寄ると、隆景は懐剣を手渡し、呆れたように告げる。

「そんな格好をして一人で城を抜け出すとは、本当に君は向こう見ずだ。
 懐剣ひとつで大の男と渡り合えると思ったのか?」

 永姫の頭から爪先までを何度も見て、隆景は皮肉な笑みを浮かべる。
 むっとし、永姫は言い返した。

「お、男の格好をしていれば安全だと思ったのよ。
 懐剣術には自身があったし……」
「世の中には女に興味がなく、男のみを性愛の対象にする男も居るのだが……」

 痛いところを突かれ、永姫は口を噤む。
 客観的にみれば、己はこの男に助けられたことになる。たとえ兄が憎む相手でも、礼はせねばならぬだろう。
 引き攣った顔のまま笑みを造り、永姫は口を開いた。

「た、助けていただいてありがとう、又四郎殿」

 精一杯の虚勢を籠めた永姫の礼に、隆景は暫時止まってしまう。
 が、やがて声を発てて笑い始め、笑い声は次第に大きくなっていった。

「ひ、人がお礼を言ったのに、どうして笑うの!」

 永姫はまたも怒り文句を言う。――完全に馬鹿にされている。

「い、いや、二年前とまったく変わられぬ。わたしには愛想がまったくない」

 くっくっと声を発てて笑う隆景は、以前と本当に変わったと永姫は思った。
 元服して侍烏帽子を被るようになったからではない。連戦を戦い抜いた男の精悍さというものが滲み出ており、それでいて彼の美貌は冴え冴えとしている。鋭さが増したといえるかもしれない。
 声も前より低くなった。――何だか、まったく違う人物を相手にしているような気さえする。
 永姫は戸惑い、隆景から目を反らす。何だか、まともに見ていられない。
 目線を外しながらも、永姫は思ったことを聞いた。

「もう大内の館から帰られたの?」

 隆景は穏やかな笑顔を浮かべ言う。

「あぁ、これから帰参の挨拶をしに高山城に向かおうと思っている。
 なんならわたしが永殿を高山城まで送ろうか?
 永殿はあぶない目に遭われたばかりだから、これ以上城下を歩き回れないだろう」
「えっ……」

 嫌、と言いたいがこんな目に遭った手前、もうどこにも動き回りたくないのが実情。一人で高山城に帰るのは心細いと思っていたのは確かだ。
 仕方がない、利用できるものは利用しなくては――永姫はそう考え、またも作り笑いを浮かべた。


「お、お願いできますかしら」



 永姫の無理矢理な笑顔に、隆景は再度噴き出した。



隆景の妻(3)へつづく





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