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 目覚めたとき、アシェラは水の巫長の室に居た。目を上げると、頭上の祭壇に捧げられている水鏡が玲瓏とした光を放っている。ふと眼を傍らに移すと、籐でできた椅子に座すアッタルが、彼女を心配そうに見ていた。他に誰もいない。彼が昏倒しているアシェラを見つけ、巫長の室に運んでくれたようだ。
「兄様……」
 か細い声で呟き、アシェラは半身を起こそうとする。が、胸に込み上げてくる不快な異物に、彼女は枕元に突っ伏する。なんとか堪え、涙目で倒れる前のことを頭に呼び起こした。
 慌てて、アッタルはアシェラを介抱する。額に浮かぶ汗を布で拭き、手から水の気を送る。心地よい波動に浸され、アシェラは息を吐いた。
「兄様が、わたくしをここに運んで下さったの?」
 アシェラの問いに、アッタルは首を縦に振る。
「なにか虫の報せがあって巫長の室に向かっていたら、おまえが川のほとりで倒れてた。慌ててここに運んだんだ。ネイラも、じきにここにやってくる」
「ネイラ殿も……」
 なにかとアシェラにきつくあたるネイラも、ここに。巫長は健康であるからこそ就いていられるのだ。いまの有り様を見て、彼女はなんというだろう。ましてや――懐妊していることを彼女に知られれば、ただではすまない。アシェラは眉を寄せる。近頃のアシェラの変化を、ネイラは窺っていた。
 アシェラは二月前から水の霊気を失い、何も感じなくなった。恐怖を感じたアシェラは、先程アッタルに助けを求めに行こうとした。途中、アシェラの腹部から水の聖霊のものではない霊気――太陽の霊気――を感じ、目の前に、神・ナラヤナが現れた。
 ――番(つがい)を分けられた魂が結合したとき、新たなるエネルギーが生まれる。運命は巡り始めた。次なる時を刻み始めたのだ。汝が得たのは、新たなる時の巡りの象徴。
 そう告り、神はアシェラの腹部のなかにあるものに吸い込まれた。
 ――そう。わたくしは、ベール様の御子を身籠ったのだわ。
 アシェラは額に手を充て考える。
 巫が人と肉体を交わすとき、身体に霊気を張り巡らせる。霊気に阻まれ、生殖する能力を失う。が、霊気の充満が足りなければ、子を生すこともある。巫として最大の不始末である。男巫は胤を外に漏すだけなのでそう害はないが、巫女は腹に異なる生命を宿すため、霊気や生命力を腹の子に摂られることになる。概して、受胎した巫女は霊気を感受できなくなることが多い。永劫に巫女としての能力を失うこともある。もとより、巫としての倫理が問われるため、男女を問わず子を生した巫は聖職者としての地位を剥奪される。
 ――やはり、巫女でありながらベール様と通じてしまった罰が下されたのかもしれない。
 アシェラは目を落とす。不思議と、哀しみは湧かない。もともと、ベールと愛し合ったことを後悔して生きるのなら、巫女を辞めてもいいと思っていた。
 それよりも、いま、己の胎内にベールの――太陽王の子がいる。喜びとともに罪深さに彼女は喘ぐ。
 アシェラの当惑を敏感に読み取ったのか、アッタルが真摯な面持ちで聞いてくる。
「……おまえ、妊娠しているんだな」
 アッタルの問いに、アシェラは間を置いて頷く。
「――ラ・ムーの?」
 アシェラは、はっと目を見開く。上肢を起こし、アシェラは兄のごとき男を真直ぐに見つめる。
 アッタルはいっとき苦しげな面持ちをしたが、溜め息を吐いて言う。
「――俺が倒れたおまえのもとに駆け付けたとき、おまえの身体に太陽の霊気が残っていた。あの霊気は、ラ・ムーの霊気に随分と似ていた」
「……そうね。お腹の子は、あの方の霊気の筋を受けているのだわ」
 再び横たわると吹き抜けの天を見据え、アシェラは誰ともなく言う。母の霊力である水の気をひとつも受けない、純粋な太陽の気。腹の子は、ベールの……太陽王の血を色濃く引き継いでいるのかもしれない。神が言っていた。アシェラが得たのは、新たなる時の巡りの象徴だと。胎児の霊気は、ラ・ムーの霊力と引けを取らぬものだった。
 アッタルが悔しげに唇を噛む。アシェラはそれに気付き、訝しむ。
「――兄様?」
 無防備な、澄んだ瞳。アッタルはアシェラの無邪気な様子に怒りを露にした。
「おまえは――それ程までに、あの男がいいのか?! おまえは巫女なのに、手の届かない太陽王に恋い焦がれて……!」
 アシェラは瞠目する。こんなに荒れたアッタルは見たことない。いつも彼女を慈愛で包む優しい人、それがアシェラのなかのアッタル像だった。が、今のアッタルは普通の男のように激情を口走っている。
「あぁ、そうだよ、俺は知っていたよ! おまえも、あの男も互いに想いあっていると! どうにもできない想いだから、俺は自分の想いを押さえ見守ろうとしたよ! だというのに……おまえ達は互いしか知らない秘密を分け合って、挙げ句、罪の結晶まで作ってしまった……。
 どうするんだよ、もう巫女でなくなるのか? 腹の子に生気を吸い取られ、弱ってしまうのか……?」
 どろどろした塊を吐き出し、アッタルは強く唇を結ぶ。アシェラは何を言っていいか解らず、ただ彼を凝視する。
 どうなるかなど、解らない。腹の子は己とは対極の霊気の持ち主。腹に子を抱いている間は、アシェラも霊気を使えないだろう。が、子は霊気を放出するかもしれない。霊気が使えないとはいえ、彼女の体質は水の巫のものである。太陽の霊気に蝕まれ、出産する前に命を落とす可能性が高い。なんと危険な生命の芽吹きか――。アシェラは思わず腹を押さえる。
 と、掌からじわりと霊気が伝わってくる。太陽の霊気とは違う、どこでも感じたことのない霊妙な波動が――。強いていえば、水・風・土・火、そして太陽の霊気をすべて混ぜ合わせた霊妙な気だ。
『聖なる蛇・ナラヤナの霊力は四つ、水・風・土・火。神は霊気を右回りに回転させ、また左回りに回転させる。速い回転は力と磁力を生み、様々なものを生み出した――』
 ムーに伝わる、神・ナラヤナの伝承。太陽王が人々に祷りの言葉として伝え、聖域にいる巫は病める者達に術を施すとき、力の由来として語る。
 はっとして、アシェラは思いだす。倒れる寸前、神がアシェラの腹に――胎児に吸い込まれた。まさか、未だに神は子に宿っているのだろうか。だとすれば――。
 アシェラはアッタルの腕を掴む。
「兄様、わたくし、死なないかもしれない。神が力を貸して下さる」
「神が?」
 アッタルが合点がいかない素振りをする。
「わたくしが倒れる前に、七つの頭を持つ聖なる蛇――神が現れたの。神がわたくしのお腹に入って、わたくしは気を失ったの。
 まだ感じるのよ。お腹の子から、神の気を――」
 アッタルも驚く。話でしか聞いていない神が、アシェラの子の中にいるという。
「神が仰ったのよ――この子は、新たなる時の巡りの象徴だと。
 大丈夫だわ。この子は、神が護って下さる。
 そしてラ・ムーが、わたくしはこれからの世に必要だと仰っていたわ。
 多分――わたくしは、死なない」
 言い切ったとき、アシェラの足底から不吉な予感が這い上がってくる。
 この子が新たなる時の巡りの象徴なら、ベールはどうなる? この子の存在は、互いの罪を明らかにするものだ。この子が新たなる時代の象徴なら、ベールは……。彼は最後の夜、アシェラの未来を予見したとき、哀しげに笑っていた。アシェラが彼の未来を聞いても、何も言わなかった。
 ――わたくしやお腹の子はいい。でも、あの方は? あの方はどうなるの?
 暗い心象に、アシェラは震える手で口許を押さえる。
 その時、堅い足音が響き、葦の茎を糸で縒った扉が開けられる。入ってきたのは、次長ネイラと彼女の取り巻きである巫達だ。アシェラは身構える。
「巫長、お加減はいかがです?」
 満面の笑顔を浮かべ、ネイラは尋ねる。どこか邪なその笑顔は、妖しく美しい。巫女として相応しくない美麗さをネイラは湛えていた。
 アシェラは寝台から立ち上がろうとする。が、貧血でぐらり、と身体が傾ぐ。アッタルが寸でのところで支え、再度彼女を寝かせる。
「あまり大丈夫そうではありませんわね? 水の気もなくしていらっしゃるし」
 ネイラは傲然とアシェラの青白い顔を見下ろす。アシェラは気圧されるでもなく彼女を見る。
「言いたいことがことがあるのでしょう。はやく言えばいいわ。
 せいぜい、水の気をなくしたわたくしは巫とはいえないから、巫長の位を降りろ、と言いたいのでしょう?」
 アシェラ、とアッタルが止めにはいる。が、アシェラは毅然としていた。
「言われなくとも、わたくしは巫長を降りるわ。あとは、あなたの好きなようにすればいい。
 今は身体の調子が思わしくないから、すぐには出られないけれど、かならず聖域を離れるわ。だから、安心して」
 ――そう、ここに留まっていてはいけない。わたくしは、ベール様から託されたのだから。心に濁りを持たない人々を助けることを。
 アシェラは堅い面持ちで唇を結ぶ。あっさりと彼女から巫長の座を譲り渡され、ネイラは拍子抜けする。が、まるで勝ったような気が――逆にアシェラに敗北してしまったような気がして、ネイラは眉を釣り上げる。
「――解りましたわ。目障りですから、今日からこの室を出て下さいませ。そして、なるべく早く聖域を去るように」
 アシェラは黙って頷く。
 と、カッと目を開き、アッタルがネイラに喰ってかかる。必至の形相で、ネイラの胸倉に掴み掛かる。アシェラはアッタルのしたことに驚く。
「や、やめて、兄様ッ――!」
 アッタルを止めたいが、またも胸に悪阻が競り上がってきて、アシェラは床に胃の中身を吐く。アッタルは血相を変えてアシェラを抱き起こした。アシェラは布で口許を拭き、肩で息をする。皆一様にアシェラを見る。
「――もしや、妊娠……?!」
 ネイラの取り巻きの巫女が、洩した言葉。ネイラはぴくり、と頬を動かした。
 にやり、と微笑み、ネイラは勝ち誇って言う。
「それでだったのですね。身体から霊気が消えたのは。
 なんとまぁ、巫長にあるまじき粗相。水の巫の恥以外の何ものでもありませんね。
 やはり、一刻も早く水の聖域から出ていってもらわねばなりません。水の聖域に汚点を刻んではなりませんから。あなた様が巫長であった記録は、消させていただきますよ」
 アシェラはネイラを睨む。唇を噛み締めると、口を開いた。
「――解ったわ」
 アシェラは何もかも煩わしくなり、目を瞑る。そんな彼女の身体を、堅い腕が包んだ。
「ならば、俺もここから出てナーカルになる。
 こんな腐ったところにいる意味はないからな」
 アシェラは瞠目して己を抱くアッタルを見上げる。ネイラ達も動揺している。柳眉がきりりと切れ上がり、ぎらりとした眼がアッタルを凝視する。
「この聖域が腐ったところとは、どういう意味?!」
 癇の高い声がアッタルに突き刺さる。彼はにやりと笑った。
「知っているんだぞ、おまえのしていることは。
 おまえは金品を取って、報酬に人々の浄化をしているのだろう? それに、姿見のよい男だけ選んで術を施している――あなたは病み過ぎている、と言ってな。おまえは俺にも誘いを掛けたことがある」
 うッ、とネイラは言葉を飲み込む。切れる程唇を噛み締め、ネイラはアッタルを睨めつける。
「俺はおまえに従うつもりはない。おまえに従うつもりなら、ナーカルになるほうがましだ」
 そう言って、アッタルはアシェラをさらに抱き締める。アシェラは硬直していた。彼の真意が、まったく解らない。
 彼女の疑問を解いたのは、ネイラだった。邪悪な面で、アッタルとアシェラに言葉を突き刺す。
「そういうあなたこそ……アシェラを恋情で見ていたのでしょう? アシェラを妹のように可愛がりながら、その実ずっと焦がれていたのよね。太陽の祭でアシェラが太陽の頂にあげられたときの蒼白な顔、忘れられないわ」
 アシェラを抱く腕が、強張る。アシェラは驚きのあまり頭が真っ白になった。
 ――兄様が……ずっとわたくしに恋してる、ですって?
 俄には、信じられない。が、先程のアッタルの態度も納得がいく。ベールとアシェラの仲を無理に理解しようとした。が、ふたりが子を生したことに動揺した。先程の行き場のない苛立ちが、彼のこころを如実に現していたのだろう。
 いたたまれなくなり、アシェラは彼の腕から離れた。自分の胸からすり出たアシェラに、アッタルは悲しげに目を伏せる。
「大方あなたがナーカルになるのは、アシェラを護りたいがためでしょう?
 まさか、アシェラが身籠ったのはあなたの子では……」
 くすくすとネイラが嘲笑う。
 アッタルは真一文字に唇を結ぶと、はっきりと言った。
「そうだよ。アシェラの子は、俺の子だ。だから、俺もここから出る。それでいいだろ?」
 確かな眼差しで、アッタルはネイラを見据えた。ネイラはアッタルのあまりの開き直りように何も言えなくなる。
「だから、もうこれ以上何も言うな。俺達が出ていけばそれですむことだからな。
 あまり派手な行動を取るなよ。このことが太陽王の耳に入れば、水の聖域そのものが裁かれることになるからな」
 アッタルの科白に、アシェラは物悲しくなる。
 彼は、己とベールを庇ってくれている。事実がベールの耳に入らなければ、彼のこころを痛ませなくてすむ。アシェラはベールに知られることなく、子を生める。苦しむのは、己だけでいい――アシェラはそう思う。が、いまのままでは、アッタルの名誉を傷つけることになる。彼は巫としてなんら疾しいところはないというのに。
 罪がまた罪を呼ぶ――アシェラは眼に溜まってくる涙を秘かに押さえた。

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 その夜のうちにアシェラは巫長の室を退き、聖域の入り口に近い、巫達が依り付かぬ小暗い場所に移った。仮住まいの場所として、椰子の木を簡単に組み立てた小屋を立てられた。
 重い悪阻に、アシェラは始終寝て過ごす。明確に身体のなかが変質していく。己の身に合わぬ霊気を折々に感じる。その度にアシェラは呻き、命が止まるかと錯覚するほどの苦しみを味わう。
「アシェラ、少しは落ち着いたか?」
 アッタルが毎日・毎夜彼女を見舞い、顔を覗き込む。アシェラは目でだけ彼を認め、頷いた。
 アッタルはアシェラの身体に手を当て、水の霊気を彼女に注ごうとする。
「だ、駄目……! この子に影響を与えてしまう……」
 アシェラは絶え絶えに拒む。
 彼の申し出はありがたいが、腹の子の身を損ねてしまう可能性を考えると受けることが出来なかった。そうか、とだけ呟き、アッタルはほとんど夜寝ずに彼女に付き添う。
 アシェラはアッタルの優しさが、涙が出るほどに辛い。彼の愛に応えることは出来ない。アシェラが反意を求めても、彼は聞こうとしなかった。

 難渋したまま月日が経ち、子が腹に安定してきた。何とか身を持ち崩さぬまま、アシェラは耐えることが出来た。
 アシェラは一案を巡らし、アッタルに見つからぬよう密かに水の聖域を出ることにした。
 現在、アッタルは未だ聖域固定の男巫として在住している。夜半時に神・ナラヤナへの祈りを、滝壷の側にある大聖堂で行っているはずだ。
 アシェラはあまり荷物を持たずに聖域の出口に向かう。荷をあまり持つと動きに支障が出る。ひとまずサンテレイに身を落ち着けてから、改めて旅の荷を揃えるつもりでいた。
 外界の気を頬に微かに感じながら、アシェラは聖域を振り返る。
 水の気を操る能力を水のナーカルに認められると、四歳の年に親から離され聖域に連れてこられた。それから先代の巫長から巫としての初歩の術を授けられ、一身に修行に励んだ。十一の年に女としての月が満ち、次の年にラ・ムーに巫としての究極の癒しを体感させられた。それ以来、アッタルを相手に癒し合い、巫としての術を全て身に付けた。十五で先代の巫長から位を譲り渡され、華々しく輝かしい立場に身を置いた。巫長となってから、カーディのように己を巫ではなく女として見られたことも数度ある。今の苦しい身の上を思えば、彼らになんと冷たい態度をとったことか。少しでも優しさを掛けなかったことが、悔やまれる。
 ――巫という立場を縦に、わたくしは心ないことをしてきた。神の意による現況だけれど、わたくしという人間への罰でもあるのかもしれない。
 アシェラは自身の罪を重く受け止め、もう逃げない、と誓う。
 ――誰も巻き込まない。罪はわたくしの上だけに。
 心に決め、アシェラは外界と聖域を隔てる水の結界を越えるため、一歩を出す。
 ――と。
「アシェラっ!」
 堅く張りのある声に、アシェラはぎくりとして振り返る。
 アッタルやアンシャル、その他アシェラが目に掛けてきた巫たちが――居た。
「ど……どうして」
 アシェラは逡巡する。が、首を大きく振って、近づいてきた人々を押し返す。
「なりませんッ! 早く聖域のなかにお帰りなさいッ!」
 巫長としての厳を見せて、激しく怒鳴る。が、彼らは怖じ気づきはしなかった。
「俺はお前と行く! 何があっても、たとえ剣がこの身に振ってこようと離れはしない!」
「そうです! わたしたちの心は巫長の上にあります!
 わたし達が付いていけば、聖域が瓦解してしまうので残りますが、それだって嫌々なんです!
 お願いですからその身を護るためにも、アッタルさんを連れて行って下さい!」
 巫達が思い思いに告げ、アシェラの手を握る。振りほどこうにも、強い力に解けはしなかった。アッタルの目も相当に強い。意を曲げるのは不可能といえた。
 アシェラは双眸からぽろぽろと涙を零す。
「どう……して……っ! どうしてわたくしに付いていこうとするの! 大きな苦しみになると知っていて! 馬鹿よッ!!」
 両手で顔を被い、アシェラは泣き崩れた。
「おまえとおまえの子を護るのが、俺の役割なんだ。夜、おまえの身を借りた神が、俺にそう告げた」
 はっと、アシェラは顔をあげる。
「神が……」
 神・ナラヤナが我が身に依り移り、アッタルに峻命した――。
 ふと腹部から神の気が立ち上がり、身体を駆け巡る。確信して彼女は腹を軽く押さえた。
 神は己の身に現われたのであろうが、神を呼ぶ力があるのは、神の仲介者・ラ・ムーの力を継ぐ腹の子であるということは解っている。この子が腹にいる間、己の身を通して神の意が現われるのかもしれない。
 神の思惟がどこにあるのかは人の身には計りかねるが、これが神の意だというのなら、アシェラは従うことしか出来ない。
「……解ったわ。わたくしに付いていくということは、先の見えないことと解っていて言っているのでしょうから」
 溜め息を吐きつつ、アシェラは言葉を落とす。そして、アッタルや他の巫を眺めた。
「……ここだけの話だけれど、将来、この大陸になにかが起きます。ラ・ムーが予見しておられました。
 我ら巫は、民人を導かねばならない使命があるの。わたくしは巫としての資格を失ったけれど、自分の出来る範囲で人々を助けるつもりよ。
 あなたたちには、ネイラを通して神の威令が下るかもしれない。だから、心しておいて」
 巫たちは色めき、互いに顔を見合わす。そして一様にアシェラを凝視した。
「ネイラは、巫長に相応しくありません! それに、いま神の意があるのは、巫長ではありませんか!
 この大陸に変調が現われたのなら、わたし達は巫長を探し出し、行動を共にします!」
「皆……」
 巫たちの強い瞳に、アシェラは心苦しくなる。
 己は、巫として相応しくない。子を身籠った時点で、すでに巫ではなくなっている。人々を導くためになにかをしようというのは、ある意味自己満足だ。それに、いま腹に子がいるのは、神の意ではなく罰なのだから。表立って人々を助けるのは、各元素の巫長たちでなくてはならないのだ。巫たちは、巫長に従わねばならぬのだ。
 が、ネイラが巫長として何かしら問題があるのは事実だ。情に負けてしまった己も相応しくないが、ネイラには巫としての透明さが欠けている。
 やっとのことで、アシェラは口を開く。
「……それは、あなたたちの心が決めることです。誰に従うのか、こころが――神の別魂であるあなたちの神性が知っているでしょう。自分のこころに問うてごらんなさい」
 それとなく翻意を求めるが、巫たちの眼差しは変わらなかった。
 これ以上、何も言いようがない――アシェラは細く息を吐いた。
「好きになさい」
 巫たちの面が明るくなるのを、アシェラは複雑な思いで見つめた。慕われるのは嬉しいが、巫として不相応な己を、尊敬の目で見ないでほしい。
 暗い面持ちで目を伏せるアシェラの肩を、アッタルが力づけるように掴む。
 これ以上皆でこの場に纏まって居ては、ネイラに怪しまれる。アシェラは皆に別れを告げ、名残惜しさを噛みながら聖域を出た。

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 その夜は聖域につながる森に野宿をし、アシェラとアッタルは早朝に動き出した。
 聖域とサンテレイは水路を使って一日、馬車を使って半日かかる場所にあった。徒歩では約二日だが、アシェラは身重の身である。休み休みしながら聖域を出て三日後にサンテレイに入った。
 休んでいる間に、まずナーカルに大陸の状況を教え、人々の救済のために個々に動いてもらおうという話しを付けていた。自分たちがあうナーカルのなかには、先の巫長・アシェラの顔を見知っている者もいるかもしれない、という懸念もある。その者たちが、アシェラの姿をどう見るかという怖れもある。
「ナーカルたちには、俺が働きかける。だから、アシェラは表に出ずじっとしていればいい」
 アッタルはアシェラを庇い、負担を負うという。が、アシェラは意見を入れはしなかった。
「怖れていては、何も出来ないのよ。身籠ってしまったのは、神のわたくしに対する罰だもの。誹謗されようと、受け止めるつもりよ」
 そう言って、アシェラは毅然とした表情で進む。アッタルの目にはそれが強がりに見える。
 それに、アシェラは肝心なことを見ようとしていない。
 ――アシェラ、おまえは腹の子は神の罰だというが、腹の子は太陽王の資質を有しているんだ。おまえはその腹を介して、太陽王になるかもしれない子を生むんだ。そして、神はおまえと子を助けようとしている。人々を救おうとしているおまえに、次なる時代を導く子を与えたんだ。それが、罰だというのか? そんなに、自分に自信がないのか?
 彼が知っているアシェラは、勝ち気で怖れ気がなく、正義感に満ちあふれている。何より、心根が強い。アシェラはラ・ムーと巫としての本分を越え通じてしまったことに罪の意識を覚えているが、彼からすれば、それは罪ではない。人と愛し合ってはいけないという教えに矛盾があるのだ。
 巫が人と愛を以て肉体を交えてはならないという範は、はたして神が定めたものだったのか、初期に巫になった者が自ら定めたのかは解らない。巫の不犯は、現在巫たちの厳格に言い渡されている。
 巫の霊力を持つ者は、只人同士が結び合い、突然変異的に生まれてくる。が、もしも……巫同士が結合して子を生した場合、現在存在する巫よりも強い力を持つ子が生まれるのではないか。あるいは、元素の境がない、霊力を混ぜ合わせた子を誕生させることが出来るのではないか。
 巫が誤って只人の子を生した例はいくつかある。その人々は巫としての資格を剥奪され、只人のなかに混じって生きていくことになっている。ただし、巫であったことを知っている者には冷遇され、一生汚名を被って生きていかなくてはならないが。巫同士が通じて子を生したという例は、聞いたことがない。それは巫を排出した聖域自体の恥で、子を生したものが存在した事実は巧妙に、慎重に消される。巫同士が子を生す事例は、身近に接している同じ元素の巫が多かったからだ。聞いたことがないということは、考えたくないが子もろとも秘密裏に闇に葬り去られたのかもしれない。
 アシェラの場合、不幸中の幸いで相手が太陽王だった。太陽王はもっとも厳しい目に曝されている巫で、清廉さを求められる。大陸が出来、初代のラ・ムーが王として登極してから、遠い年月が経っている。平和に慣れきっている民人はラ・ムーを絶対的・完全な存在と信じ、誰も罪を犯すなど思ってもいない。そんな人々の目を盗んで、ラ・ムーはアシェラと禁断の果実を作った。アシェラも相手がラ・ムーであったから、子の父を正確に定められなかったのだ。ましてや自身も巫女としての規範を破り続けるネイラは、聖域の腐敗など根本的に気にしない。罪を犯したからといって、巫たちのアシェラへの信頼は揺らがず、ネイラに対して不信感を露にする。だから、アシェラや己は無傷で聖域を出られたとアッタルは思っている。
 そして、神の明らかな意思――アシェラは、神の意図により子を身籠ったのだ。大陸になにかが起こるというのは、大陸を掌る神がなにかを起こすということだ。ラ・ムーが先見でアシェラはこれからの世に必要だと予見した。すなわち、アシェラの懐妊は、神が起こす運命に仕組まれていたのだ。アッタルは、アシェラの上に神が現われた夜、そのことを確信していた。
 ――アシェラ、おまえは自分に自信をもっていい。罪を犯したからといって、おまえは汚れていない。おまえは真っ更なままだ。
 厳しさを漂わせるアシェラの背に、アッタルはこころのうちで語りかけた。

 サンテレイのなかに入った途端、ぐいぐいとアシェラの背を無理矢理押して、アッタルは彼女を郊外の農作物倉庫に隠す。彼は自分だけで今宵泊まる宿と、この街のナーカルの情報を得ようとしていた。
「本当に、わたくしは大丈夫よ。だから、わたくしだけ安全な場所に隠そうとしないで……!」
 アシェラはそう言うが、アッタルは聞かない。
「いいから。こういう時くらい、全て自分でしようとせずに他人を頼れよ」
 快活な笑顔を残し、アッタルは戸を掴む。
 古い木戸が軋み、アシェラは闇のなかに取り残された。
 倉庫だけあって、人が住まう家屋と違い、温度調整のために藁葺きの屋根がしてある。密集された藁の隙間から、微かに光が覗く。アシェラは溜め息を吐いた。
 アシェラは、誰かを頼ることに慣れていない。生来の性格や巫長という立場から、なんでも自分でこなせるものは自分でしてきた。慣れないことをすると、何とも落ち着かない。――じっとしていられない。
 やはり、アッタルと合流しよう――。アシェラは倉庫からこっそり抜け出し、街中を歩み出した。
 高く生えた椰子の木が、乾いた石畳に陰をつくる。尽きない水を湧き上げる噴水が熱気の満ちた空気に湿りを加えていた。アシェラは頭から水色の布を被り、顔を隠して行動する。
 涼やかな音色が、街の中央にある神の聖所から響いてくる。
 ――なにかしら、音に乗って波動が伝わってくる。
 身体に苦にならぬ程度の早足でアシェラは聖所に向かう。
 近づくにつれ、波動の質が明らかになる。アシェラにはその波動に覚えがあった。風の霊気だ。
 煉瓦積みの家屋を隔てて天に長くのびた四角錐の柱が見える。元素の柱で正方形に陣を組み、真中に神を象徴する六芒星が刻された岩が聳え、霊妙な波動を放っている。大陸の七都市それぞれに神・ナラヤナの聖所が祀られ、神の波動を行き渡らせている。ラ・ムーの波動も神の霊気に縫うように放たれ、四聖域の霊気も、必要な時には聖所を通じて遠隔にて送られる。アシェラも一年に一度聖所にて祭礼を行ったことがあった。
 壁に隠れて聖所を盗み見ると、風の元素の柱の礎石に蜂蜜色を帯びた白銀の長い髪を持つ何者かが座り、厚みのある丸い胴をもった五弦の楽器を爪弾いていた。明らかに、その者が風の霊気を放ち、密集している聴衆に染み渡らせている。
 ――誰かしら、わたしくの顔を見たことがある者かしら……。
 己の面を知った者ならば、見つかるとまずい。アシェラは踵を返す。
 動揺したまま定まらぬ足取りで元来た道を戻る。と、どんっ! と堅いものにぶつかった。
 何とか体勢を崩さず、アシェラは踏みとどまる。目を上げると、見覚えのある面貌があった。
 アシェラは目を剥き、固まる。
「水の……巫長――!!」
 相手は怒りの形相を露に、アシェラの腕を掴み上げる。
「……ッ! ゼオン卿……」
 ゼオン卿――アシェラを慕い、カーディに殺されたケンテの父。
 アシェラの面から血の気が引く。
「おまえ……ッ! おまえのせいで、我が跡取りが――!!」
 ゼオン卿は配下に目配せしてアシェラを引き摺り、人気のない廃屋に放り込む。配下の者が扉を閉め、厳重に掛け金をした。

 背筋が冷たい、嫌な予感がする――アッタルは血が逆流するのを覚えながら、全速力で中央の街路を駆けていた。
 ――アシェラ、アシェラッ……!!
 宿の寄り集まった区画で空きを聞いていた時、目の前が閃きアシェラが苛まれる映像と叫び声が谺した。自分ではない、聞き覚えのある、あまり思い出したくない男の声だった。
 決死の思いで我が身も振らず走る。
 ――その時、
「お待ちなさい!」
 アッタルの背中を厳のある声が叩いた。
 足を止め振り返ると、取り囲む人々の隙間から、柄の長い弦楽器を手にした男が彼を見据えていた。
 ギクリ、とアッタルは身体を凝結させる。
 男の背から、凄まじい風の霊力が涌き立っていた。
「異変があったのは、あちらです。わたしも行きましょう」
 楽器を柱に凭れさせると、男はアッタルの横を通り過ぎた。

「貴様が、我が息子を殺したのだッ! その霊力で、我が子を返せッ!!」
 アシェラののしかかって衣の襟足を掴み、ゼオン卿は唾を飛ばして叫ぶ。
 アシェラは必死で首を振った。
 そんなこと、出来るはずかない。それは元素の巫の領分を超えた行い。ただひとり、ナラヤナの霊気に繋がることが出来るラ・ムーのみ施術することができる。肉体が腐らず、生きた原型を留めている状態で、死者の魂が望む場合だけ行える。
「……肉体を無くしたケンテ殿を…復活させることは……、ラ・ムーでも出来ません……。諦めて……」
 呼吸を妨げられ、苦しげにアシェラは言う。
 ぎりり、と歯ぎしりし、ゼオン卿はアシェラの白く細い首を締め上げる。
「殺して…殺してやるッ!! 我が子を奪った貴様だけ生き延びさせはせぬ!!」
 ゼオン卿の顔面が憎しみでどす黒く変色する。呼吸を阻まれ、アシェラは涙目で卿の醜悪な姿を見た。
 ――い、嫌……死にたくないッ!! ここで死ねない!!
 強く目を瞑った時、腹部から強力な光と太陽の霊気が放射される。
「ギャアアアァァァァッ!!」
 ゼオン卿は灼熱の気に当てられ、目を被い後退する。
 身に合わぬ激しい霊気に、アシェラは悲鳴をあげる。
 ――アシェラ!
 脳裏に、強く男の声が響いた。
 ――ベール様……?
 確かに聞こえた声。アシェラは声に問いかけようとするが、身体に走った太陽の霊気にそれどころではない。苦痛に床に倒れ込み、悶絶しながら懐にしまっていた水の霊石を強く握る。
 腹から発されていた霊気が段々と緩んでくる。
「グ……ッ! な、なんだ……ッ!!」
 ゼオン卿はアシェラに手を伸ばそうとする。
 が、煉瓦造りの壁を突き崩し、突風が吹き荒び、卿を弾き飛ばした。男の顔や腹部にかまいたちが斬りつける。
「それ以上の暴挙は、このわたしが許しませんよ」
 崩壊した壁の向こうから、柔和な男の声が響いた。
 よろけながら立ち上がろうとする卿の身体を、風が取り巻き動きを封じる。一歩足を出そうとすると、容赦なく風の刃がみまう。
 アシェラは意識が翳みそうになるのを抑え、長い白銀の髪を風で巻き上げ、手掌から鋭い風の霊気を放つ人物を見る。瓜実型の柔らかな面輪に、整った鼻梁。垂れ下がった目尻は優しげに見える。が、容姿に違えて彼が醸す雰囲気は、氷のように冷たく険呑だ。これだけ自在に風の霊気を操れるのだから、巫なのだろう。
「アシェラッ!!」
 風の巫の横を過り、アッタルが駆けつけてくる。アシェラの身体を抱き起こし、水の霊気を彼女に送り込んだ。腹の子から水の霊気を防御する霊気が発される。それは、今まで感じた腹の子の霊気ではなく、脳裏に響いた声とともに彼女が最も感じたかった霊気だった。
 ――ベール様……ベール様が助けて下さった。
 おそらく腹の子に憑依し、ベールが己を救った。彼は、知っているのだ。己が彼の子を身籠っているということを。透視能力を駆使して、己たちの動きを腹の子が宿った頃から掴んでいたのだ。
 もう一度、アシェラは風の巫を凝視し、はっとする。
「……リュエル殿……? 風の巫長の……」
 確かに、アシェラは彼をよく見知っていた。彼とは八年前に初めて出会い、それから何度か公式の場で互いに巫長として会ったことがある。
 風の巫長――リュエルがアシェラを見、微笑んだ。
「お久しゅうございますな。水の巫長殿」
 ゼオン卿がリュエルに噛み付くように絶叫する。
「わ、わしを放せッ! その女が、わしの子を殺したのだ!! 復讐せねば気が済まぬ!!」
 風の巫長は唇に薄い笑みを乗せる。
「さぁ、どうしたものでしょう。明らかに水の巫長殿は不利なように見受けられましたが。非力な女人を苛むのは、巫として見捨て置くことは出来ません」
 リュエルは柔らかな風情ながら、切れ長の目には冷徹な光を浮かべる。
 アッタルがリュエルに向かって訴える。
「逆恨みだ! こいつの息子・ケンテはアシェラに執着していた! 同じくアシェラに邪な念を抱く男にケンテは殺されたんだ! アシェラは何もしていない、巫に恋慕する者が身を滅ぼしただけだ!」
 ――やめて、兄さま……。
 消耗したアシェラはそう言おうとしたが、力が入らず項垂れている。
 リュエルは薄い笑みを絶やさぬまま、アッタルとアシェラに頷いた。
「そんなところだと思っていましたよ。わたしも、水の巫長殿の気性は見知っています。まさに水の清澄さそのものの人柄……卑しき行いをするような方ではありません。
 それより、神の代理人である巫に手を上げたのですから、それ相応の罰を受けていただかなくてはいけませんが……巫長殿、どういたします?」
 リュエルの問いかけに、アシェラは否、と首を振る。
「……解放してあげて……下さい……」
 声を出すのが苦しい。アシェラはやっとのことでか細く呟く。
「お優しいですね、水の巫長殿は。よろしいでしょう」
 美しい微笑みを浮かべ、リュエルはゼオン卿を冷たい目で見据える。
「今回は水の巫長殿に免じて見逃してあげましょう。……が、再び巫長殿に危害を加えようというのなら、わたしも今度こそ容赦はいたしません。必ずやあなたに致命的な罰を加えます。――よいですね?」
 剣呑の輝きを漲らす瞳に、卿は蒼白になり何度も頷く。
 リュエルは眼を瞑り、ゼオン卿の霊光を読む。
 人の霊光には様々な情報が含まれている。その人の運命や住所、性質など読む能力をもつ人には簡明に手繰ることが出来る。
 リュエルは霊気を迸らせていた手を一閃すると、卿の身体と囲む風が旋回し、男の体躯を持ち上げた。驚きのあまり叫ぶ卿の声が、裏返って高く響く。重い身体を風がふわりと持ち上げ、壊れた壁から吹き飛ばされた。
「巫長殿のお望み通り、彼はちゃんとお屋敷に帰しましたよ。本当に、巫長殿は汚れなく、お優しい」
 どこまで本気か解らぬ風の巫長の言葉に、アシェラは違うと言いたかった。もう己は清らかではないと、罪に汚れてしまったから外界に身を委ねたのだと――。
 が、彼女の身体は限界に達していた。
 リュエルの美声とアッタルの悲痛な声がぐにゃりとくねる。強いめまいに襲われ、アシェラは意識を途切れさせた。

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