身体を気遣わなければならない羽依を車のなかに座らせ、玲琳は羽依の身体の障りにならない程度に馬車を走らせる。
南遼を出た直後に、ふたりは北宇に隠れようと話し合った。
「木は森に隠せ、という故事もある。
北宇は人が多い。見つかる確立が低いかもしれない」
玲琳のその言葉に羽依は頷き、振動に身を揺られていた。なんとか、腹の子に異常はない。日に何度か子が動くのを感じた。確実に、子は育まれている。
その都度、羽依は腹の子に語りかける。
――大丈夫、あなたはわたくしが護るから。だから、あなたもわたくしに力を貸して。わたくしから離れていかないで、生きて。
この子は羽依の、玲琳の希望。この子を失えば、逃避行する余力も失われていくかもしれない。
玲琳も、夜に子に「生きろ」と囁く。
親の持つ数奇な運命にこの子が巻き込まれないよう、祈らずにはおれない。
この不安定な状態で授かった、光明である子に。
浅い眠りのなか、玲琳は見知らぬ場所を歩く。
そこは寺院のような、慎ましやかでこじんまりとした屋敷だった。
――なんだ、ここは?
玲琳はあたりを見回しながら、草の茂る庭を歩む。
緩く乳香が焚かれた房に、人影が見える。玲琳はそこを覗き込もうとし、背後に気配を感じて振り返る。
『――――!』
そこには――陶嬪・硝珠がいた。大きな椋を背にして。
玲琳は身構える。何故、陶嬪の霊が己の夢に出てくるのか。己に恨みを残す陶嬪が。夢の中で害を与え、復讐しようとしているのか――。
が、陶嬪の面には穏やかな笑みが履かれ、懐かしそうに玲琳を見つめていた。
玲琳はまだ警戒を解かない。
つ、と陶嬪は窓の内に手を差し出す。玲琳もそこを見た。
硝子戸の内の房には、大きな貴石が処狭しと置かれていた。机の上には大きな丸玉の白水晶があり、朱色に塗られた床には紫水晶や紅水晶、茶水晶の結晶や翡翠や瑠璃、瑪瑙に月長石、石榴石などの原石が幾何学的に配置されている。何か、意味のある並べ方のようだ。
――何だここは? わたしは何故このような所の夢を見ているのだ? そして、何故陶嬪が……?
陶嬪には、玲琳に何かをしようという考えはないようだ。ただ、無心にかつての想い人を見つめていた。
玲琳は陶嬪に聞く。
『何故こんな夢を見せる? 一体、何の意味があるのだ?』
陶嬪は目を細め、可憐な唇を綻ばせた。
『なにもかも、大いなる意思の思し召しです。あなた様のことも、羽依様のことも、そして、羽依様が身籠っていらっしゃる御子も――。
これが、あなた様の運命』
『陶嬪――?』
言っている意味がよく解らない。
大いなる意思――? 己と羽依と、そして子の?
そしてこれが――運命?
訳の解らない玲琳を、陶嬪はただ黙って見守る。
玲琳は陶嬪の眼差しに居たたまれなくなり、目を反らす。言いにくそうに、口を開いた。
『陶嬪……本当に、すまなかった。憎んで当然だ。何をされても、わたしには立ち向かうことはできない』
例え、殺されても……。玲琳は唇を噛む。
玲琳の言に、陶嬪は頭を振り、己を見ようとしない玲琳の胸に飛び込んだ。ふわり、と玲琳の鼻孔に陶嬪の髪が触れる。
『玲琳さま――お礼を言うのはわたくしのほうです。
かりそめのことでも、あなた様の存在が、なんの夢も知らなかったわたくしの一生に、彩りを供えて下さいました。
なのに、わたくしは自害して、あなた様と羽依様を苦しめてしまった。どうか、お許し下さい……』
『何を言う!』
玲琳は陶嬪の肩を抱き起こす。
『どうか、忘れないで下さいませ。
羽依様を愛される心の片隅にでも、わたくしの存在があったことを――心に留めておいて下さいませ』
玲琳は、ゆっくりと、心を込めて頷く。
羽依という大輪の花に隠れた、健気で一途な花を、心にしまい込むように。
陶嬪の目尻に涙が浮かべ、掻き消えた。
『陶嬪……』
寺院の庭に取り残され、玲琳は空を見上げた。
「――玲琳?」
揺り起こされ、玲琳は跳ね起きる。
心配そうに、羽依が覗き込んでいる。
暗い馬車の中で、ふたりは外套に包まれ眠っていた。捲り上げられた幌の覆いから、きらきらと輝く星空が見える。東の稜線が白んでいた。
「酷く魘されていたわ……。嫌な夢でも見たの?」
羽依が玲琳の額の汗を汗拭きで拭く。
玲琳は躊躇いながらも、羽依のなかに宿る子との関わりを思い、静かに切り出した。
夢で見た見知らぬ寺院。乳香が薫る、貴石の房。大きな椋の木。そして、陶嬪――。
――なにもかも、大いなる意思の思し召しです。あなた様のことも、羽依様のことも、そして、羽依様が身籠っていらっしゃる御子も。
陶嬪が言い残した言葉に、羽依は当惑する。
「どういう意味なの? 大いなる意思とは何? この子はどうなるの?」
羽依の頭に不安が霞める。
「託宣」という不安が。
玲琳も同じことに胸を痛める。
「巫が下した託宣では、婚姻する時期を違えると、わたしたちは互いに殺しあう、と予言されていた。
が、この子のことはなにも言われていない。この託宣は、わたしたちだけのものだろう」
羽依は額を曇らせる。
巫を通して託宣を下したのは、「大いなる意思」ではないだろうか。巫の神通力が神を依り付かせる。「大いなる意思」とは、神のことなのか――。
その「大いなる意思」が、己や玲琳の運命を定め、また我が子の行く先まで決めようとしているのだろうか。
羽依は絶大なる畏怖に捕われ、玲琳にしがみつく。
「嫌よ、この子まで運命に縛られるなんて! こんな思いをするのは、わたくしたちだけで沢山だわ!」
羽依は荒んで玲琳の胸を叩く。
「落ち付け、子に影響を及ぼす!」
びくり、と肩を波打たせて、羽依は涙に濡れた顔を上げる。
玲琳の瞳にも、苦渋が滲んでいた。
思いは同じだというのに、玲琳は耐えている――。羽依のなかで吹き荒れていた嵐が鎮まっていく。
「ごめんなさい……取り乱してしまって」
「いや、おまえの気持ちとわたしの思いは同じだ。
だが、陶嬪のなかに悪意を見い出せなかった。
陶嬪は――何かの先触れかもしれぬ」
何かの先触れ――確かに、そうだろう。
が、この先触れは光の先触れか、闇の先触れか、道が閉ざされていて見えない。
拭いきれない不安を隠し、玲琳は告げる。
「この子は、わたし達の希望だ。この過酷な道行きのなかにも力尽きずに生命を保っている。この子は、我々以上に、強い――」
玲琳の言葉に、羽依の涙の籠る目に綺羅とした光が灯る。羽依は腹部に手を当てる。
腹の子は規則正しく心の臓を響かせていた。
玲琳は羽依を抱き締め、額に口付ける。少し膨らんだ腹に乗せられた羽依の手に、己の手を重ねる。羽依は玲琳の手を腹に触れさせ、その手を握りしめる。
三つの心音が絡み合うように弾む。その音に、玲琳と羽依は癒された。
ふふ、と笑って羽依は呟く。
「陶嬪様とは、どんなお話を?」
焦って、玲琳は羽依の顔を凝視する。
羽依は微笑んでいた。心からの笑みだ。
ほっとして、玲琳は語る
「自分を忘れるな、と――。
おまえを愛する心の片隅にでも、陶嬪の存在があったことを――心に留めておいてくれ、と」
玲琳は目を細める。
陶嬪は、己を恨んでいなかった。ただ、己を愛してくれていた――。あんなに残酷なことをした己だというのに。玲琳のなかに、羽依を想うのとは違う愛情が生まれる。それは恋ではなく、友情であった。懐かしく、心に温もりを与える思いだった。
「そう……」
羽依も静かに言葉を落とした。
もはやふたりの間に、嫉妬はなかった。ただ、お互いを想う気持ちが流れ込んでくる。
もう、何者にも煩わされない強い絆があった。それは、腹の子かもしれない。お互いのなかに溢れる真摯な愛なのかもしれない。
ふたりは、寄り添って明るくなる東天を眺めていた。
ひたすら馬車を走らせて四か月、ふたりは北宇の国境に辿り着いた。
これまでの間、何故か李允の刺客は現れていない。南遼を燃やしてまで羽依を奪おうとしていたのに、まったく音沙汰がなかった。
義賊の追っ手も来ない。完全に撒けたのかもしれないが、頭目を殺めたので酷い怨恨を買っているはずだ。彼らの執念が撒かれて諦めてしまう程弱いとは思えないが。
一度は義賊達――殷楚鴎と通った道筋を再び過り、北宇に向かう。玲琳のなかに痛みが走る。
が、後ろ暗さはない。羽依の大きく膨らんだ腹のなかで、元気に暴れる子の存在があるから。
なんという命運の強さか、激しく動く車の振動にも影響されず、子はありありと存在を見せつけ、親の心に光を灯す。
子宮を蹴り付けては、羽依を呻かせている。
「痛いから、やめて。わたくしの坊や」
車中から聞こえる苦笑の声に、玲琳は聞き耳を立てる。
「坊や? 腹の子が男児だと解るのか?」
振り返った玲琳は、羽依の髪に飾られた桜貝のかんざしの光に目を細める。
北宇の宮城から脱出したとき、玲琳はどういう訳か羽依から強引に奪い取ったかんざしを懐にしまいこんでいた。羽依が目覚めたあとかんざしを返したが、華美な装いが出来ないというので、羽依はずっと身に付けてはいなかった。
明るい予感を身に染みている今、羽依は躊躇うことなくかんざしを髪に挿している。
玲琳を見て、羽依はくすり、と笑う。
身籠ってから、羽依は見違える程強くなった。生命の線の細さが消え、滲むように逞しさを見せた。
「どうしてか、そんな気がするの。何故かは、解らないけれど」
言って、腹の子を撫でる。
玲琳は内心、焦燥していた。
もういつ生まれてもおかしくない。が、このままでは出産に不自由するだろう。誰か、女手が必要だ。
かといって、隠忍自重の行動をしている己達が、誰かを頼ることなど出来はしない。足がついて、李允に所在を知られてしまう。
では、どうしたら……? 玲琳は母になる喜びを噛み締める羽依の傍らで、思い悩んでしまう。
それに、生まれた子は、腹から出てすぐに、他所に預けることになっている。そのことを言う度、羽依の面に悲哀が滲むが、追われている身で子を育てる余裕はない。最悪の事態、この子まで親の悪運に巻き込まれてしまう。
――生きられるだけ、まだましだ。我らの側にいないほうが、この子は幸せになれるかもしれぬ。
この子が他所ででも生きていることが、我々の生きる希望になる。
玲琳のその言葉に、羽依は涙ながらに頷く。そして、腹の子を惜しむように愛撫する。
我が子と離れたくないのは、玲琳とて同じだった。
内心の愛惜を味わいながらも、玲琳は黙々と馬を走らせる。
羽依が陣痛に苦しみだしたのは、それから日を置かぬ夕暮れ時であった。
悶絶し、苦しげな息を吐く羽依に気付いた玲琳は、慌てて空き小屋を探す。北宇の都の郊外、宮城が炎上したあと身を顰めた農家の小屋を探り、誰もいないのを見て取ると、痛みに足が萎える羽依を支えて入り込んだ。
羽依を寝台に横たわらせると、玲琳は小屋の外に出て辺りの人気を確認する。が、日没が近いので、皆、作業を果ててそれぞれの家に戻っているらしい。一帯は畑しかなく、人々の家は離れた区画にあるらしい。
人を呼びにいくかどうか、玲琳は迷う。絶え絶えの呻きを洩す羽依を振り返り、唇を噛み締め羽依の側に寄った。
「玲琳……ッ」
羽依の額をしとどに汗が流れる。玲琳の眉間にも玉の汗が吹き出る。
「……いいの、わたくしたちだけで、やりましょう……ッ。誰にも、頼れないのなら……」
羽依の手が、玲琳の手の平を握りしめる。
大きく頷くと、玲琳は数枚の清潔な布に短剣を傍らに用意した。
初産なので、時間が係る。ううッ! と羽依が息む声が小屋に響く。
玲琳は背後に廻ると、羽依の腰を支える。腕に縋ってくる羽依の汗を拭いたり、水を口に含ませる。
外を見れば、青黒い空の端が水色に変化している。ふたりとも寝られず、夜通し緊迫していた。
空気を吸っては吐き、吸っては吐きをずっと繰り返していたが、羽依は大きく力み、玲琳の腕に取り縋る。
「羽依……?!」
眉根を寄せ、羽依は玲琳を見つめる。
「わたくしは……ずっとずっと諦めてきた。生きることにも、愛することにも……。
でも、あなたと出会い、わたくしは変わった。もう、負けない。
この子だけは……この子だけは、必ず……!」
あぁぅッ! と最後に羽依は大きく唸り、痛いくらいに玲琳の腕を握りしめる。
産声が、上がった。弾けるくらい大きな、活気に満ちた生命の声が。
羽依はがくり、と崩れ落ちる。頭の片隅に誕生した我が子の声を感じ、目尻から一筋涙を流した。
玲琳は血で塗れた赤子を布で優しく拭き、馴れぬ手付きで臍の緒を断ち切ると、暖かな毛布で包む。
「赤ちゃんは……?」
羽依が我が子に手を延ばす。玲琳は羽依の顔の横に激しく泣く赤子を差し出した。
「おまえが思っていたとおり、男児だ」
上半身を起こすと、羽依は震える手で我が子を抱き締める。
「あぁ……わたくしの赤ちゃん……」
布で拭かれただけなので、汚れの残る赤子の頬に、羽依は涙に濡れた頬をすりよせた。
確かな温もりが――、痛々しい程小さいのに、命の力を漲らせた存在が、羽依の心に染み入る。
しみじみと泣いたあと、羽依は玲琳を見上げる。
「わたくしのかんざしを……」
玲琳は羽依の願いを聞き、桜貝のかんざしを手渡す。
羽依は赤子を包んだ毛布の袷に、かんざしを挿した。
――これが、わたくしたちの子だという証。これが、この子の護りになるよう。
そして、今一度、赤子をぎゅっと抱き締めると、羽依は玲琳に手渡す。
「さぁ、連れていって。
この子が新たな運命に導かれるように」
涙に笑顔を讃えて、羽依は言う。
力が籠った眼差しで頷くと、玲琳は素早く小屋をあとにした。
後ろ姿を見送ると、羽依は寝台に身を預ける。
――行ってしまった、わたくしの子が。
涙が滔々と溢れる。
諦めていた。我が子を育てられないことくらい、解っていた。
というのに、今まで己の腹に存在した子が世に出ると、無性に哀しくなる。身体の一部に感じていた温もりが、恋しくなる。
――でも、いい。あの子が幸せになってくれるのなら……。
羽依は手の甲で涙を拭う。疲れから、眠気が押し寄せてくる。泥のような眠りに、身を埋めてしまう。
しばらく、羽依は眠り込んでいた。
どれくらい時間が経ったのか、何かの気配を感じて、目を薄く開ける。玲琳が帰ってきたのかと思った。
が、目の前にいたのは、三人の黒ずくめの男達だった。
「き……きゃああぁぁぁぁ――ッ!!」
羽依は叫び声を上げ、身を捩って逃げようとする。しかし、出産のあとなので、身体に痛みが走り、力が入らない。
逃げることも出来ず意識を失う羽依を、肩の上に軽々と担いで、刺客達は俊敏な動きで小屋を飛び出した。
馬を車から放し、玲琳は片腕に子を抱いて騎馬する。
全速力で駆け、北宇の都に入ると孤児を預けられそうな寺院を探す。
寺院――寺院?
玲琳は一瞬眉を寄せるが、気にする間もなく、馬を飛ばす。
ひとりにしておいては、羽依が危ない。迷っている余裕は、一刻とてなかった。ひたすら馬を走らせ、なるべく宮城や李允の屋敷から遠い寺院の一画を探す。
ふと、聞き覚えのある匂いを感じ、玲琳は馬の足を緩める。辺りを見回す。
そして、愕然とする。
「あのときの……寺院か?!」
まさしく、玲琳が走っていたのは、夢で見た寺院を臨む路地だった。
――なにもかも、大いなる意思の思し召しです。あなた様のことも、羽依様のことも、そして、羽依様が身籠っていらっしゃる御子も。
陶嬪の言葉が、脳裏を翳める。
玲琳は下馬し、寺院の門を潜る。
まぎれもなく、夢と同じ乳香の薫りだ。屋根越しに椋の木も見える。
表の入り口には守衛がいた。どうも、名のある寺院らしい。守衛に勘付かれるのも煩わしいので、玲琳は建物の背後を通って椋の木に向かう。
椋の木の側には、確かに貴石の房がある。なかには、手入れをしていない白色の総髪の後ろ姿があった。人物は、枯れた手を大きな白水晶に翳している。
何もかも、夢の通りだった。あの夢はただの夢ではなく、正しく先触れだったのだ。
――この場所に、わたしや羽依、そしてこの子の運命があるのか?
気付かれないように、玲琳は硝子戸を開け、房の中に入る。
白髪の人物は、ゆっくり振り返った。玲琳は身を固くする。
人物は、瞠目した。また、玲琳も激しく驚く。
目には緑の隈取りがあり、首には貴石でできた勾玉や管玉、丸玉を幾重にも連ねた首飾りをしている。額には白水晶が嵌められ、意匠の凝らされた額飾りが。老年の、男らしい。
――なんだ? この人物は。
とてつもない違和感に見舞われる。
この建物は寺院に似ているが、この人物は僧ではない。隈取りをしているということは――巫か?
玲琳の直感が告げている。巫――何か、引っ掛かる。
そして巫も、わなわなと唇を震わせていた。何かを言おうとしているが、声が出ない。
――唖か? 唖だというのに、何故巫に?
玲琳は身に走る戦慄に耐える。
と、先程まで震えていた巫が崩折れ、涙を流した。
「お、おい、何を泣く!?」
玲琳は慌てて巫の肩を片手で掴む。
はっとして、巫は玲琳の腕に抱かれた子を見据える。
「ア…………」
巫が何か、声を洩す。
よく聞き取れなかった玲琳は、巫の呻きに耳を澄まそうとした。
――が。
バァン! とけたたましく房の戸が開け放たれ、屈強の兵が数多に入ってきた。
「な――!」
玲琳は凝結する。
この者らは、まさか――!
「貴様等、李允の手の者かッ!」
玲琳は声を上げ、無理矢理赤子を巫に押し付け腰に挿した剣を抜剣した。
優れた瞬発力で、兵に斬り掛かる。袈裟掛けに斬っては、とって返した剣で背後の兵を斬る。寄せてくる兵を素早く打ち倒し、また来る者も容赦なく殺める。
ただおろおろと、巫は腕の赤子を抱き締め、ちらり、と覗き込む。
額に汗を浮かべ、巫は赤子から目を反らす。
――と、玲琳が入ってきた硝子戸からも、兵が侵入した。
恐怖に身を竦める巫に気付き、ちいッ、と玲琳は舌打ちする。
前方からも切れることなく兵がくるのに、後方の敵までも倒すことが出来ない。おそらく、この巫は実戦の経験がない。我が子が――危ない!
――ままよ!
玲琳は前の敵を振り切り巫を庇う。己に斬り掛かってくる敵に気を使う余裕はない。いまにも来る痛みに、目を瞑る。
ガキィン――! と鋭い剣戟の音が耳朶を裂き、玲琳は顔を上げた。
巫に襲いかかろうとしていた兵が、玲琳に斬り掛かろうとしていた敵と刃を交えていた。
何が出来したのか解らず、玲琳は唖然とする。玲琳が動けない間にも、装飾の見事な鎧を身に纏った兵――どうも、将軍らしい――は確実に敵を仕留めていく。
気付いたときには、この兵がすべての敵を殲滅していた。
将軍らしき男が、振り返り、甲を脱ぐ。
「――――!」
玲琳は言葉を失う。
「陶衡……」
陶衡――陶嬪・硝珠の父で、羽依の父であった昭基演の副官だった男である。
どうして――陶嬪の父が、己達を、助ける?
玲琳は不可解さに目を見張る。
陶衡は玲琳の目前に膝を付く。玲琳は更に衝撃を受けた。
「玲琳王子……お怪我は?」
玲琳はごくり、と唾を飲む。
楚鴎が、玲琳と羽依の生存を陶衡に知らせていた。だから、己達を探していたのかもしれない。
が、どうして、陶衡が己を暉玲琳と解しているのか?
玲琳はその疑問をぶつける。
陶衡は薄く笑顔を見せる。
「夜に、娘の――硝珠の夢を見ました。
夢の中、この場所で娘とあなたがい抱き合っているのを見ました」
玲琳は目を見開く。陶衡に、陶嬪との関係を――知られた?
陶衡は、己が見た夢と同じものを見ていたのか。
「あなたのことは、羽依様のもとで何度か見ていました。
羽依様の側から離れぬ舞姫。そして、硝珠が慕う男だと――。
夢の中の娘の態度で気付きました。あれは、生きている間からあなたのことを思慕の念でもって話していた」
思わず玲琳は目を反らす。
陶衡は微笑むと、巫が抱く赤子を認めた。
「その子が……羽依様との?」
びくり、と肩を峙てると、玲琳は陶衡を凝視する。
「……え?」
その目が、何故知っている? と問うている。
陶衡は唇の端で笑う。
「あなた方の状況は、細作を使って調べていました。
わたしは、北康の皇帝と組んで、北宇の現状を建て直そうとしているのです。今、北康皇帝は現在、北宇に入っておられます。
あなた方を助けることは、北康皇帝の命でもあります。北康皇帝には、あなた方に害を加えようという気は毛頭ないとのこと。
ただ陰で見守るようにとの令で、細作をあなた方の廻りに遣わしていました。
細作を使って、あなた方に有利な伝聞を流しもしました。
あなた方が南遼に帰ったことも、羽依様が身籠ったことも、そして、今朝方、羽依様が無事に子を産んだことも、わたしは知っています。
李允殿も細作を使って羽依様を手に入れようとしています。それらを倒すのも、我が細作の役目だったのです」
「そう……だったのか……」
玲琳は始めて合点がいった。
何故、義賊が追って来なかったのか。
李允の刺客が余り現れなかったのか。
そして、あの不正確な己達の人物像の伝聞も――。
「羽依様は我が尊敬する昭基演殿の命を継ぐ姫。
そして、あなたは無惨にも滅ぼされた南遼の生き残り。
適うのならそっとして差し上げたかったが、李允殿の細作のほうが上手だった。だから、南遼はまたも災厄に遭ってしまった――本当に、申し訳ござらぬ」
玲琳はまじまじと、頭を下げる陶衡を見る。そして、頭を振る
「わたしに謝らないでくれ――。わたしが、あなたの娘を……」
目を伏せる玲琳の肩を、陶衡の岩のように大きな手が掴む。
「夢の中で娘が言っていたとおり――あなたは、娘に大切なものを与えてくれました、愛する心を――」
そう言って、陶衡は赤子と巫を見比べる。
巫は何かをぶつぶつと呟いていた。
「――神が降りて、託宣を下されたか?」
え――? 玲琳は瞠目して巫を見つめる。巫は虚ろな目で赤子に見入っていた。
「託宣……託宣とは……まさか?!」
玲琳は陶衡の肩を掴む。血走った眼で陶衡を睨む。
傷ましそうに陶衡は玲琳を見る。
「そう――羽依様が生まれた折りに、昭基演殿と宝扇公主が姫の託宣を伺われました。
その時、この巫があの託宣を下したのです」
ふたつの託宣――輝かしい未来と、呪わしい未来の。
あの託宣が、この巫によって告げられた――。
玲琳は巫の胸倉を掴む。陶衡は玲琳を押さえようとする。
巫は緑に隈取られた眼から、幾筋もの涙を流し、玲琳に何かを告げようとする。
その時――、
「申し上げますッ!」
廊下を勢いよく蹴って、陶衡の部下の将士が駆け込んでくる。玲琳と陶衡は厳しい眼差しで将士を見る。
「あの女人が――昭羽依殿が、宰相様のもとに連れ去られました!」
玲琳の身体に、打撃が走る。
羽依を……宰相――李允に、奪われた?!
陶衡が動く間もなく、玲琳は将士の横をすり抜けて走り出していた。
重い瞼を擡げ、羽依が身体を起こすと、そこは奢の凝らされた房だった。
見上げると、天蓋を覆う朱に染められた絹の幕が目に入った。青磁の壷や白磁の陶器、銀で仕立てられた燭台は豪勢なもので、羽依を過去に引きずり戻す。後宮で見慣れた設えだった。
華奢な房――ここは、李允の屋敷か? 羽依は身を固くするが、失われた血の多さに力が入らない。
おぼつかなく廻りを見ていると、羽依の覚醒に気が付いたのか、侍女が湯気の立った杯を手に入ってきた。
「お目覚めになられましたか? こちらは貧血に効く薬湯です。どうぞお飲み下さいませ」
杯を卓に置くと、侍女は寝台に座り込む羽依を支え、席に導いた。厚く織った毛足の長い席は、床の冷えから羽依を守った。
羽依は薬湯に手を付けず、侍女を凝視する。
「こちらは、李允殿のお屋敷ですか?」
強い詰問に、侍女は少し怯むが、確かに頷く。
「わたくしは、あなた様にかしずく者です。今宵、ご主人様があなた様を訪われるとのことですので、お支度のお手伝いをと……」
羽依は目を見開く。
李允は、己が今朝子を産んだことを知っているのではないのか? 連れてこられたときの有り様といい、今の薬湯といい、羽依の状態を理解しているはずだ。
――玲琳は、李允殿が己を男と知っても構わず、男女問わず数々の者と拷問のような交わりをさせたと言っていたわ。
怖気に、羽依は両腕を抱く。今の現状では、肉の交わりに産後の身体が適合しない。それでも、李允はこちらに通ってくるという。何もせずに終わらせるつもりか、それとも――。
が、羽依の理性は、李允との交わりだけでも、悲鳴を上げている。
考え込んでいる羽依を後目に、侍女は卓に衣や化粧箱を入れた長櫃を据える。
驚いて顔を上げた羽依に微笑み、立たせると、侍女は固まっている羽依の腰紐を解き身に付けている衣を脱がせた。
ぼとり、と微かに何かが落ちた音がしたが、侍女は気に掛けない。手早く、華美な衣装を纏わせる。
萌黄や縹色、蘇芳に染められた錦や絹、綾をふんだんに使った、袿衣や単衣、下裙である。金糸で縫い取られた鳳凰の刺繍など、艶やかなきらびやかさは後宮で用意されていた衣装と変わらない。
禁中で用いられるものと、質の変わらない物品を集められる李允という人物に、羽依は底知れない薄ら寒さを感じる。このような物を容易に手に入れられる李允は、現在皇帝なみの権力を持っている、ということなのだろう。
――このように、狡悪な者が、北宇を牛耳っている。
羽依には耐えられない事実だった。このまま、我が祖国は薄汚れてしまうのか?
そんなことを思っている間にも、侍女は羽依の豊かな髪を形よく高髷に結髪する。玉や貴石で出来た笄や歩揺、飾り櫛を挿した。
続けて、侍女は汚さないように羽依の襟を緩めると、血色のない顔に化粧を施す。面や首筋に白粉をはたき、目尻に脂の線を引き、唇に濃桃色の紅をさす。額には赤子――。
ふわり、と肩に領布を掛けられ、目前に鏡を備えられると、夕日が反射する鏡面に、後宮に居た頃の艶美な羽依がいた。
羽依は感慨と悲嘆が綯い交ぜになった己の顔を見る。
――また何故、わたくしはこの姿に戻ってしまったのだろう……。
もう、戻りたくなかったのに。他の男のために化粧する姿を見たくはなかったのに。
図らずも元の姿に戻ってしまった事実に、羽依は眼に涙を溜める。
「あぁ、泣かれては、化粧が落ちてしまいます――」
侍女が涙を袖で拭こうとする。
と、簾が掲げられた戸口を、他の侍女が急いで入って来、羽依の側につく侍女に耳打ちする。
「なんですって?!」
飛び上がると、あたふたと侍女は羽依の脱ぎ捨てた衣の片付けをし始める。
羽依は気付かれぬよう、床に落ちた物を下裙のうちに隠す。
片付け終わると、侍女は羽依に手を付いた。
「すでに、ご主人様がこちらに到着されたようです! どうか、こちらでお待ち下さいませ!」
言って、侍女は他の侍女の手伝いをすべく房をあとにした。
――あぁ、玲琳、玲琳……!
震える手で、羽依は隠した物を手に握りしめる。
産後の弱った身体では、逃げられない。玲琳のもとに、行けない。
――ごめんなさい、わたくしだけ、こんなところに連れてこられて……。
もう、あなたと一緒にはいられないかもしれない――……。
羽依が手にしている物、それは短剣だった。いつも、何かあったときのために、懐深く忍ばせていた。
涙に濡れた瞳を花頭窓に向ける。深まった秋に、楓が葉を落としている。
始めて玲琳に抱かれたのは、このような季節だった。あれから二年。南遼の桜は、今を盛りと咲いているのだろうか。
もう一度見たかった。清楚で艶やかな、あの桜を――羽依は、そう思う。
羽依は今一度強く短剣を握りしめると、袷を開き、それを懐に隠した。
李允が房に入ってきたとき、羽依は微動だにしなかった。ただ眉を険しく寄せて、李允を睨んでいた。
そこに欲していた昭妃・羽依を認め、李允は羽依の側に躙りよる。
羽依は逃れようと身をずらすが、素早くたおやかな手を握りしめられた。
「おぅ、やっと、手に入ったか……!」
李允は羽依の手の甲に乾いた唇を這わす。
羽依に身に悪寒が走り、身を攀じる。
「いやぁ、止めてッ!」
羽依は全身で拒絶の態をとる。が、李允は羽依の腰を攫い、己の胸内に抱き寄せた。
白い顎に手を掛け、羽依の面を上に向かせる。強い光を讃え、睨む瞳に、李允は酷薄な笑みを浮かべる。
「なんと……見違えるようになったではないか。生気のない人形が、これほどに艶やかになるとは……。惜しや、一年もの間、南遼の若僧にそなたを奪われていたとは」
羽依は李允の手を振り切ろうとする。
「わたくしは、あるべき場所に戻っただけです。わたくしのあるべき場所は、玲琳王子のところです。
今すぐ、わたくしを玲琳王子のもとに戻して!」
必至で、羽依は叫ぶ。無駄なこととは知りつつも。
くくく、と李允は嘲笑する。
「そなた、子を生んだそうだな? あの南遼の若僧との。
あの者が、わしの玩具であった者が、父親とはの――」
羽依は李允が何を言おうとしているのか感じ、止めようとする。
「イヤッ、それ以上言わないで!」
が、李允の口から、玲琳を辱める言葉が零される。
「あれは、よく鳴く男だったのぉ。色めいた艶のある鳴き声で、わしやこの屋敷の者を誘いおったわ。
男にしては感度のよい、極上の肉体であった。
菊座の締め付けもよく、わしも何度か極楽につれていかれたわ――」
「いやあぁッ!!」
明らかに、羽依をいたぶるための言葉。
「あの者の裸に群がる人間の姿は、凄艶であったぞ。
あの者の肌にむしゃぶりつき、あの者を余すところなく喰らっておった。
それがまた、あの者を乱れさせ、のたうち回らせる。まるで、数多の蛞蝓が這っているようであった――」
クククッ、と喉を鳴らし、李允は下卑た哄笑の音を洩す。
羽依の脳裏に、玲琳と楚鴎の交わりが、玲琳の濃艶な姿が浮かび上がる。そして、見たこともない玲琳と他の者の交わりも浮かぶ。
「やめて……やめてッ――!」
羽依は狂乱する。
「あの者は鞘のない、抜き身の刃であった。触る者、皆切れてしまいそうな、鋭利な刃であった。
だからわしも、あの者なら皇帝を殺すと思っていた。
あの者は皇帝を殺すことを欲し、わしはそなたを我がものとすることで利用しあったのよ。
計算が狂ったが、あの者は首尾ようやってくれた――」
はっとして、羽依は面を上げ、毅然とした眼差しを見せる。
李允は面喰らった。
「陛下を殺めたのは、玲琳王子ではありません。
このわたくしです。
わたくしが、自らのかんざしで以って、陛下の心の臓を刺しました」
衝撃の事実に、李允は言葉を失う。空気を噛むように、口を動かす。
「わたくしはあの人のためなら、何でも出来る――人の命も、躊躇わず奪える」
羽依は美しく微笑む。まるで魔性のように――冷艶と。
これが、この女の本質か――李允は一瞬、その美しさに見蕩れるが、唇を歪める。
「あの者がいるのなら――この屋敷からも脱出してやる、と?
無理だの、それは。産後の回復していないその身体では、あの者のもとに辿り着くまでに力尽きるだろう。
それに――あの者やそなたの子は、今、生きているかのぅ?」
皮肉を目に浮かべ、李允は青ざめる羽依を眺める。
「………え?」
一体――どういうことだ?
醜悪な李允の笑顔が、恐怖に飲まれてしまった羽依の心に止めを刺す。
「わしの手の者が、あの者のもとに向かったと、ひとつも思わなんだのか?
このわしが、そのような手抜かりをするはずがあるまいに。
今頃、あの者とそなたの子は、この世にはおらぬだろうよ」
羽依は手で口を覆う。嘆嗟に、目を見開く。
「う……そ、そんなはず…は……っ」
ぼろぼろと、涙を流す。
信じられない――玲琳が、我が子が死んだなどと。
が、この恐ろしい男が、ふたりを見逃すはずがない。玲琳はひとり。大勢の刺客に襲われれば、ひとたまりもないだろう。
では、やはり、愛する者たちは――羽依の中に、凍った絶望の塊が、心を押し潰そうと膨れ上がる。
羽依はそれに、勝つことは出来ない。なにひとつ、光が見えない――。
己に覆い被さろうとしていた李允を押し退けると、羽依は胸元に忍ばせていた短剣の鞘を抜き、己の頸動脈を掻き切った。
吹き出る血が、李允の皺だらけの顔を塗らす。李允は首筋に手を当てて血を止めようとするが、押さえられず血は飛散する。
恍惚として、羽依は目を閉じる。
――玲琳……愛しているわ……。
朦朧とする意識の中で、それだけが、その言葉だけが、浮き上がってくる。
「羽依――――ッ!!」
声が聞こえた――玲琳の、声が。絶叫が。
幻聴かもしれない。でも、聞こえた。
消えゆく命の炎は、確かに、駆け付けた玲琳の魂の声をその魂に刻み付けた。
あるはずがない。こんなことは。
玲琳はその目で、羽依が首筋を短剣で掻き切るのを見た。
房が、愛する人の血で染められていく。
玲琳はそれを止めることも出来ず、時が止まったように見詰める他ない。
赤子を巫に預け、叫ぶ陶衡の声も聞かずに、玲琳は全速力で李允の屋敷に駆け付けた。屋内を守る護衛を荒々しく斬り続け、羽依の、李允のいる房に突入する。
そして、ありえないものを、見てしまった――。
愛する人の瞼が、己をいつも見ていた黒真珠の瞳が、静かに、ゆっくりと閉じられる。
唇が、己の名を呼んでいた。
戦慄く玲琳の唇から飛び出たのは、絶叫だった。魂の、迸りだった。
――アアアアアァァァ――ッ!!
玲琳は突進すると、避けようとする李允の背を斬り付ける。何度も、斬り付ける。どれだけ斬ったのか解らないほど、立て続けに斬り付ける。
涙が溢れていた。それすらも、解らない。
憎い男の腕の中でこときれてしまった愛する人しか、目に入らない。
ひくひく……と最期の蠢きを見せる李允を退け、玲琳は羽依の亡骸を抱き締める。
まだ、暖かい。死んでしまったなど、信じられない。
ずっと一緒にいると、ともに死ぬと言った人が――先に、死んでしまった。
忘我の表情で、玲琳は涙を流す。血が付いた温もりを残す頬を何度も撫でる。
叫び声が上がったような気がした。女の絹を引き裂く声が聞こえた気がした。
何かが、駆けつけて来る。
玲琳は、背に焼け付く痛みを感じる。斬り付けられたらしい。
振り返ると、羅刹の面持ちをした兵がいた。
玲琳は羽依を片腕に抱え、片手に剣を持つと、素早い手捌きで兵を斬る。
兵の今際の際の叫びを聞いたような気がしたが、玲琳の耳には入って来ない。
羽依を抱いたまま、玲琳は房を出る。待ち構えていた兵を斬る。次から次へと来る兵をもろともせず、斬る。
いつしか、屋外に出ていた。戸外には既に、数百を超える兵が集まっている。玲琳を、倒すために。
が、玲琳は怯まない。怯む心さえも、失われてしまった。ただ斬り続け、剣を揮い続ける。
軽く空を切る身体は優美。剣捌きは絶妙。表情のない面は凄艶に、まるで舞を舞うかのように斬り続ける。
否、見る者には、それは舞であっただろう。暉玲琳の――燐佳羅の、一世一代の素晴らしい舞。舞の天分を謡われた燐佳羅の、最高の舞――。煌めく剣、散る血、降り注ぐ楓の葉が、彩りを添える。
兵は皆、その強さに目を見張る。凄絶な美しさを讃える舞に、心を奪われる。
が、我に帰った一兵卒が、弓を構える。その的を、羽依の亡骸に絞る。玲琳はずっと、羽依の身体を庇い続けている。弱点は、羽依の身体――。
兵は能っ引いて、矢を勢いよく放つ。
玲琳は見逃していなかった。相手の意に嵌まってしまう。
羽依の身体を胸に庇うと、玲琳はその背に矢を受ける。刺さる矢に眼をはちきれんばかりに開ける。
それが、緊張感が緩んだ瞬間だった。
兵達が一斉に矢を放つ。玲琳の背に次々と刺さる。上衣がみるみる朱に染まる。
「羽依……」
玲琳は羽依の亡骸を強く抱き締める。そのまま、どう、と倒れた。
――わたくし達、死ぬ時は、一緒ね。
いつか聞いた、羽依の囁きが、そのまま耳に響く。
――あぁ、逝くのなら、一緒だ……。
玲琳は吸い込まれるように目を瞑る。
「――やめよ――ッ!!」
威厳に満ちた鋭い声を耳にしつつ、玲琳は羽依のもとに旅立った。
陶衡は玲琳王子と昭羽依のひとり子を抱いた巫を従え、北宇の宮城を歩く。
あの哀しい日から三日後。この宮城には、北康皇帝が入っている。陶衡は皇帝に呼ばれ、この宮城にあのふたりの子を連れてきた。
李允の屋敷での惨劇を止めたのは、北康皇帝だった。厳のある号が、李允の兵の動きを止めた。
北康皇帝の傍らで陶衡が見たものは、散り敷いた楓の赤に飾られた、ふたりの亡骸だった。楓と血の赤に埋もれ、美しいふたりは倒れていた。
間に合わなかった――喉元まで迫る哀しみを堪え、陶衡は皇帝に会う。
ふたりの子の処遇を決めるために。
ふたりの罪を問わないと約してくれていた皇帝なので、子の行く末の安堵があるのが、せめてもの慰めだ。
玲琳王子と昭羽依の亡骸は、ひとつの棺に納められ、南遼への久遠の道行を辿った。ふたりは南遼に還りたがっていた。生きて還ることはできなかったが、亡骸だけは、愛する大地で眠らせてやろう――北康皇帝はそう言い、ふたりを南遼に埋葬することを許した。
宮城の大きな客間に入ると、陶衡と巫は目前の北康皇帝に礼をとる。
主人のいない玉座だというのに、北康皇帝は坐らず、客間に居している。誠実で謙虚なのだろう、北宇を奪うことを考えずに、己は北宇の客として在しているらしい。
玲琳王子と昭羽依の死の翌日、北康皇帝は李允に関わっていた者を詮議した。李允の悪事を露呈し、李允が囲っていた北宇皇帝・牽櫂の落胤と噂されていた子を殺めた。
これで、本当に北宇を継ぐものは誰もいない。
なにもかも、北康皇帝に任せるつもりで、陶衡は皇帝にすべてを預けている。
椅子に腰掛けた北康皇帝は旺玉蓉皇后の同母兄で、少しばかり面差しが似ているが、男らしい精悍な顔付きをしている。悠然とした態度は、まさしく、王者の態を現していた。
「おう、来たか。
で、その子が、あのふたりの子か?」
皇帝は頬杖をつき、陶衡と巫、そして赤子を眺める。
「この子が、今では南遼ただひとりの生き残り、そして、南遼の王位継承権を持つ子か」
「さように」
陶衡は深々と頭を下げる。
「そしてその巫は、あのふたりに不吉な託宣を下した者か」
皇帝は椅子から降り、巫の前まで歩み寄る。
この巫の託宣は、現実のものとなり、託宣を下されたふたりは死んでいった。
ふたりは、果たして幸せだったのだろうか、不幸せだったのだろうか。皇帝は微かにそう思う時がある。が、真実は、死んでいったふたりにしか解らない。
皇帝はふと、巫が何かしらずっと呟いているのに気付く。
「――陶衡、何かを言おうとしているぞ」
顔を上げた陶衡に、皇帝は手招きして巫を指し示す。
「その巫は、普段は話せないのです。が、神が降りたときだけ、その霊験で話すことが出来――」
そのとき、巫がはっきりと聞きとれる声をだした。
「この御子、世に和を齎す御子なり。
北宇の皇帝となり、南遼の王となる者を排出する――」
そう言うなり、巫は昏倒した。
信じられないように、皇帝と陶衡は巫と赤子を見る。
「和を齎す御子……?
この子が、いずれ北宇の皇帝に?」
呆然と、皇帝は呟く。
慌てて、陶衡は巫の腕から赤子を取り上げ、覗き込んだ。
尊貴な相を持つ子。玲琳王子とも、昭羽依ともよく似た面。成長して知性を宿しそうな額。
父である玲琳王子は聡明な性質を持っていたようだ。あるいは、父に似ているのかもしれない。
母である昭羽依は、北宇先帝の妹・宝扇公主の娘。北宇の直系の血を引いている。
この子は、北宇皇家の血を、明らかに引いている。そして、南遼王家の直系の血も。正しく、この男児は北宇と南遼の、ただ一人の血族――。
陶衡は北康皇帝の玉顔を凝視する。
北康皇帝も、赤子の相を隈無く見ていた。
「――陶衡、そなた、今日から北宇の宰相となり、この赤子を養育しろ。
この男児が皇位に登る日が来るまで、北宇を護るのだ」
陶衡は目を見開く。
皇帝は、この男児を、将来皇帝にせよ、と言っているのだ。
それまで、己がこの子の養父となり、帝王学を学ばせ、立派な皇位継承者とするように、と。
陶衡は固く目を瞑り、深く頭を下げた。
騒乱の事後処理が終わると、北康皇帝は陶衡に全権を委ね、自国に帰っていった。
その翌日、陶衡は北宇の宰相となり、皇太子となった男児を朝廷に披露する。託宣をもとに定められたこの取り決めに、否というものはいなかった。
それから数カ月後、玲琳王子と昭羽依が、無事に南遼に埋葬されたという報せが陶衡に届く。
ふたりが南遼で生活していたとき友情を分かち合った人々が、ふたりの葬送に立ち会ったという。
玲琳王子と昭羽依が愛した桜の下に、ふたりは葬られた。人々は、ふたりの墓を代々見守ると約束したという。
皇太子は託宣によって、瀞諒(せいりょう)と名付けられる。
陶衡の深い愛に護られて、瀞諒皇子は逞しく育っていく。両親の類い稀な器量を受け継ぎ、知性を兼ね備えた美丈夫に成長した。
十の歳には、北康の皇女――北康皇帝の娘で、旺玉蓉前皇后の姪――が嫁ぐことが決められた。
これは、瀞諒に託宣を下した巫による、
――北宇皇帝と北康皇帝の血筋に、南遼の王が現れる。
という言葉によって定められた。
そうして、瀞諒皇子が十八才の年に、託宣が違えられることなく、北康皇女は北宇に嫁いでくる。両国の融和の願いを背負って。
同時に、瀞諒皇子は登極し、北宇皇帝となる。
三年後、皇后となった北康皇女が男児を出産、南遼の王位継承者とすることを北宇・北康両国の談合で取り決められた。
暖かな南遼に涼しい風が吹く。
長閑な畦道を整然とした車駕が通る。秋も更け、紅葉が車の屋根に降り掛かる。侍者を大勢従え、威容を誇る車列だ。
出迎える人々は溢れるばかり。惨劇の日を遠くに過ぎて、入植してきた人々の希望を受け止め、南遼は豊かな大地を取り戻している。
小高い岡の上、もと南遼の王城があった場所に、仮に造られた城がある。車駕の人々を受け入れるためだ。
城の前に車駕が到着すると、中年の夫婦が迎えに出る。
侍者が車の帳を持ち上げると、龍の刺繍が映える、濃紫色の袍を身に纏った美しい貴人が降りてくる。齢は二十六頃、威厳の漂う物腰で、まだ新しい城を見上げる。
先に降りた貴人が車の中に手を差し伸べると、ふくよかな手が貴人の手を取り、幼子の手を引いた女人が姿を見せる。高髷に結った雲髪に飾られているのは、赤い飾り房の垂らされた、桜貝のかんざし。艶やかでなよやかな、貴種の夫人だ。
「こちらが、あなた様の祖国なのですね」
夫人が感慨深く呟く。
「あぁ、我が父祖の国、そして、我が子が王となる国だ」
清々しい面持ちの貴人に、夫人が寄り添う。
臣下の礼を取っていた中年の夫婦が、遠くに見える桜に続く道を示す。
「陛下、あちらに、あなた様のご両親が眠っていらっしゃいます」
夫婦の言葉に、貴人はそうか、と告げ、再び車に戻る。
貴人――瀞諒は、初めて踏み締める祖国に胸を熱くし、車のなかから一際美しい桜を眺める。
あの桜の下に、両親の墓がある。己が生まれた日に死んでしまった、数奇な運命を生きた男女の墓が。両親は不幸な託宣に弄ばれるかのようにして、命を散らしていったが、己は下された託宣の流れを受け止め、北宇皇帝としての努めを果たしている。在位八年――現在では、賢帝の誉れも得ている。もうこの生では、再びこの地を踏むことは、ないかもしれない。だから、この目に焼きつけておこう――瀞諒は心の奥で固く決めていた。
「陛下、着きましたわ」
妻の声に、瀞諒は顔を上げ、風に捲れ上がる帳を避けて身を乗り出す。
秋に咲く優美な桜が、出迎えていた。その下には、年をえて幾分黒ずんでしまったが、それゆえに風景に溶け込む一基の墓石がある。ここに、両親――玲琳王子とその妻・昭羽依が眠っている。
侍者が仕度をする間もなく、瀞諒は靴を履かぬまま地に降り、両親の墓に額づく。低頭した瀞諒の鬢に、薄紅の桜の花弁が吹雪のように注ぐ。
「やっとお会いすることができました――父上、母上……」
ふわり、と瀞諒の傍らに柔らかな白檀の薫りが添う。白檀は、皇后が身に付けている薫りだ。瀞諒の母が好んでいた薫りと聞いて、自ら身に付けるようになった。
侍者が墓に手向ける香華の用意をする。白檀に香華の薫りが混じる。
瀞諒は覚えていた。腹の中にいる己に母がずっと語りかけていたことを。父が己を抱いて巫のもとに向かったことを。理屈ではない、それは間違いなく瀞諒の記憶の片隅にある。
祈り終えると、瀞諒は妻に背を押された我が子の肩を抱き、地下に眠る両親に見せる。幼子の胸には、宰相の手から伝えられた、南遼の紋の入った札が飾られている。
美しい微笑みを浮かべ、瀞諒は父母に、己の先祖に言挙げする。
「御覧下さい、この子が、南遼の命を継ぐ者です――」