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久遠への道行(1)へ


 南遼の都だった土地に入ったのは、その日の夕刻であった。
 比較的荒れた様子のない路であったので、心乱れることもなく来れた。が、玲琳はなんとも言えず落ち着かない。
「ここは、本当に七年前に滅びたのだろうか。今の景色は夢ではないのだろうか」
 ふと、口に出る言葉。無理もない、と羽依は思う。それとともに、この光景が夢ではないことを切に願った。西に入る陽の光を浴びて、草木が紅く映える。羽依が見蕩れていると玲琳は突然馬から降り、走り出した。
 羽依もどうにかして下馬すると玲琳のあとを追う。生え放題の草木をくぐり抜けると、大きな瓦礫の積まれた高台に出てきた。寂寞とした処で、玲琳は立ち尽くしている。
 砂塵に埋もれた瓦礫が、橙に暗がる。瓦礫は、建物が崩落した跡だった。漆喰に塗られていたと思われる壁が、無惨に埃にまみれていた。広々とした土地に、秋の風が吹き抜けた。
 ここは、かつての王城の跡――? 羽依は聞こうとして玲琳を覗き込む。そして、絶句した。
 玲琳が、涙を流している。正しく、己の住処だった廃虚に立ち、途方に暮れている。
「玲琳――」
 羽依が声をかけると、玲琳は涙を拭った。
「ここは、何も変わらぬ……。よく風の通る場所だった。城の頂上から見る夕日が見事で……今は、影も形もない。やはり、南遼が滅んだのは夢でも何でもなかったのだ」
 大きく、広々として、子供だった玲琳には巨大な城だった。乳兄弟の伯如と広間でよく遊び、調度品を壊しては乳母を困らせた。優しい父と母は何も言わず笑っている。通路を駆け回っては悪戯をして歩いたが、寝付いている兄の部屋の近くでは静かにしていた。病がちで兄弟でもなかなか会えない兄であったが、元気になると嬉しかった。遠い遠い過去……。美しかった城も瓦礫と化し、幼かった玲琳も大人と同じ目線で荒涼とした大地を見下ろしている。
 懐かしさに、玲琳の心は自然と昔に帰る。比較的無邪気で、きかん気で負けん気が強かった玲琳は、両親や乳母にとっては手のかかる子供だった。大人しくしていた試しがなく、家臣や侍女に鬼子とまで言われた。かというと、学問を教えていた師には挑むように質問をぶつけ、いつか超えてやろうとよく学んだ。
 そんな玲琳でも、正月や事あるごとに尋ねてくる北宇の使者には神妙になった。北宇の使者は度事に許嫁の姫の近況を教えた。神が定めた生涯の伴侶といわれても、まだ幼い玲琳にはしっくりこない。第一、託宣というものもよく解らなかった。神様なんかいるものか、どうせ他の誰かが勝手に決めたんだろう、と両親や使者に詰め寄ったこともあった。が、遠く離れた北宇にいる許嫁の少女は、大層美しく、明るいと聞き、玲琳も返答に困った。いつかその少女が嫁いできたときにどう対応したらよいのか、正直構えていた。南遼が滅ぶその日までは、玲琳はたしかに許嫁の少女に親近感を抱いていた。
 くすぐったい感傷に惹かれて、玲琳は羽依を振り返る。と、どこにも見当たらない羽依の姿に目を見張り辺りを見回す。
「羽依……!?」
 玲琳が叫ぶと、瓦礫の裏手の遠方から羽依の声が上がった。声のするほうに行ってみると、思い掛けない様に目を細めた。
「ねえ、見て、これ――とても、きれい」
 咲き誇る花を見つめ、羽依は陶然と溜め息をついた。
「――桜」
 玲琳も、我を忘れて呟く。
「なんだか不思議。春に咲くはずの桜が、南遼では秋にも咲くのね……。はなびらが風に乗って舞い降りてきたからもしや、と思ったのだけれど」
「ああ、南遼の秋は春の気候とよく似ているから、秋でも咲く桜があるのだ――」
 呟いて、玲琳は回想に戻っていく。
 北宇の使者が、事あるごとに許嫁の姫を桜に例えた。桜のように清楚で可憐だ、と。むきになってよく言い返した。
『南遼の秋の桜には絶対にかなわないぞ。南遼の秋の桜は、春の桜に比べてずっと美しいんだ』
 意気込みながらそう言い、いつか姫が嫁いできたときにこの桜を自慢してやろうと思っていた。あのときの桜が、いま、同じ場所に立って咲いている。
「どうしたの?」
 玲琳の長い沈黙に、羽依は尋ねた。玲琳は微笑んで羽依に目を当てる。
「幼いころ、おまえが嫁いできたときにこの桜を見せようと思っていた。桜に似通った姫に、南遼自慢の桜を見せようと……」
「桜に似通ったなんて、誰が言ったの? そんな、恥ずかしい」
 羽依は頬を桜色に染めて俯く。その様子が可憐で、清楚に愛らしい。ふっと笑い、玲琳は羽依を腕に抱く。
「子供だったあの頃には桜のもうひとつの姿の喩えかたが思い付かなかった。
 夜にこっそり城から抜け出して見た桜のもうひとつの姿――。花弁が闇に白く浮き上がり、溶け込もうとしていた。ひどく心が疼いて、なかなか寝つけなかった。あれは――なまめかしい、というのだな」
 いたずらっぽく羽依の耳元に吹き込む。
「それを見た瞬間、桜によく似ているという姫もこういう風情なのかと、子供ながらにひどく心が騒いだ」
 羽依はよけいに赤面する。何を言いたいのか解ったからだ。
「もう……」
 それだけ言い、羽依は袖で面を覆う。
「始めておまえの素肌を見つめたとき、どこかで同じ疼きを味わったと思ったのだが、これだったのだな」
 馬鹿、といって羽依は玲琳の腕を抓った。玲琳は顔を顰める。そのとき、背後の雑草ががさがさと鳴り、玲琳は咄嗟に羽依を抱く腕に力を込めた。
 飛んできたのは、女の素頓狂な声だった。
「まあっ、こんな所に旅人が! めずらしいっ!」
 女の真正直な感想に、ふたりは絶句する。しばらくすると、壮年に差しかかった男も姿を見せた。
「どうしたんだ?」
 そう言って、男はふたりに目をとめる。男も目に驚きを浮かべる。
「ねえねえっ、どうしてこんなところまでやってきたの? ここはあんまり人が寄り付かないところなんだけれど」
 一息に女が捲し立てる。勢いに呑まれ、何も言えずにいるのを、女は勝手な空想で答えを見つけた。
「あっ、さては、駆け落ちしてきたんだ! あたしたちとおんなじ!」
 明るく、朗らかな女である。興奮して、自分で盛り上がっている。傍らの男が制止に入った。
「こら、道草していないで。赤ん坊が待ってるだろう」
「そうだけれど……」
 しぶしぶ引き下がろうとするが、女はまだもふたりに興味を抱く。
「あんたたち、泊まる所あるの?」
「いいえ……」
 つい、羽依が口を滑らせる。玲琳が耳元でだめだ、と囁いた。
「だったら、あたしの家に泊まっていけばいいよ」
 にっこりと女に笑われ、羽依は警戒を解いてしまう。うっかりと頷いてしまった。
「そうと決まれば、付いてきて!」
 女は後ろ姿を見せ、男はしぶしぶ従う。
 男女が離れたあと、玲琳は密やかに羽依を咎める。
「安請け合いなどするな」
「でも、あのひとが嘘をつきそうに見える? 豪快そうなひとだったわ」
「それはそうだが――」
「それにあのひと、あたしたちとおんなじ、と言ったわ。駆け落ちしたとも……」
 羽依はその部分に妙に引かれている。玲琳も細く息を付いた。
「仕方がない、一晩だけ泊めてもらおう」
 玲琳の承諾に、羽依は華やかな笑みを浮かべた。玲琳も、久々に屋内で寝たかった。他の場所ならともかく、南遼で家の中に泊まれると言うのなら……。
 顔をあげると、玲琳は羽依の背を抱き先にいったふたりの後ろに続いた。


 夫婦と思われる男女は宮城跡から離れた集落にふたりを伴った。平均して整備された区画は新しく、木々も植えられて何年も経っていない。小さな家が身を寄せ合うように密集し、夫婦がふたりを連れてくるとみな顔を出して驚き合った。
「ここにはそんなに人が来ないのか?」
 玲琳がたずねると、男は困ったように笑った。
「一応、ここの地は伝聞で滅びたままになってるんだ。そんな、縁起でもない地にどんな旅人が来たいと思うんだい?」
「それは、そうだな……」
 寂しく呟きながらも、玲琳は釈然としない。
「では、あなた方は、どうしてここに居を構えている?」
 入り口である木戸を開ける男の背に問う。男は何も言わないが、妻である女が応えた。
「あたし達、許されて結婚したわけじゃないから。ここらに住んでいる他の人間も、まぁ、似たようなもんね」
「許されて……結婚したわけじゃないから?」
 羽依がぽつり、と零すと女は朗らかに笑った。
 屋内に入ったふたりは中央にある卓子を勧められる。頭を下げて座ると、女がふたり分の白湯と菓子を差し出した。
 こじんまりとした家屋に、少なくとも整然と揃えられた家具や農具。蜜蝋に灯された火がほの暗い室内に優しい明かりを落とす。差し出された茶菓も手作りだが美味だ。豊かそうではないが、それなりに幸せという空気があった。
「うん、あたしが地主の娘で、あいつが小作人だったの。よくいう駆け落ちってやつ。
 親が用意した許嫁に我慢が出来なくて、もともと好きだったあいつとここまで逃げてきたってわけ。行く所がなくて、どうしようかって迷ったんだけど、一度、親と旅行で南遼に来たことがあったんだ。それで、どうなってるのかな、って……」
「それは、いつ頃の事……? まさか、七年前に?」
 羽依が思いあまって女に聞く。玲琳も耳を峙てていた。
「あたし達がここに来たのは、五年前。南遼は滅ぼされて、塩まで撒かれたって聞いたから、ちょっと怖いかな、と思ったんだけど、どうしても気になって……。あの桜のことも、前に見て覚えてたから。そうしたら、人がいたのよ」
「人が?」
「そう。借金をこさえた人や、軽い罪を犯した人なんかがね。住む所に困ってて、それで、七年前に三人程が住み着いたそうなんだ。その頃は、まだ惨劇のあとも生々しかったらしいけれど……。
 で、あたし達が来てみたら、綺麗なもんで、ここに住むことに決めたの。落ち着くまでちょっと時間がかかったけどね」
「そうなの……」
 それで、南遼の綺麗さにやっと納得できた。
「それはそうと、あたし、まだ名前言ってなかったよね。
 許春伽っていうの。旦那は許朴宏。生まれは北康よ」
「北康の――。わたくしは……」
 羽依が自分も名乗ろうとしたとき、赤ん坊の泣き声が割いて入った。春伽が慌てて立ち上がると、夫の朴宏が睦月もとれない赤子を連れてきた。
「あああ、どうしたの。下が濡れてるの? お腹が空いてるの?」
 母親の顔になって春伽が夫から赤子を抱き取る。
 幸せそうな面持ちで春伽が子をあやすのを、羽依はじっと眺めていた。
 赤子を見たことがなかったわけではない。弟妹が小さかった頃のことを覚えているし、旺皇后が生まれたばかりの赤子を見せに来たことがあった。が、幼かった頃は物心が湧かず、皇后の子など見ても何の感慨もなかった。
 しかし、今は違う。
 愛する人の傍にいて、夫婦の誓いまでたてた。愛を交わすとき、この人の子が欲しいと思ったことは何度かある。安定した生活ではないので、当座は諦めているが……。
「俺の抱きかたが悪かったのかなぁ。抱き上げたとたん、火が付いたように泣き出したんだ」
 朴宏が戸惑いぎみに頭を掻く。春伽は馬鹿ね、と笑い、ずっと様子を見ていた羽依に気づいた。
「ごめんね、ずっとこっちに気を取られちゃった。生まれたばかりでね、大変なのよ」
 そう言う声音は満ち足りていて、羽依は少し羨ましかった。
「それはそうと、どうしてこの地に? やっぱり、あたし達と同じ駆け落ち?」
 思い出したように切り出されて、羽依は口を開きかける。と、玲琳が肩に手を置き、対面に座る夫婦を見つめて言い出した。
「わたしが……南遼の生き残りなのだ。わたしの名は……」
 玲琳が自分の名を口にしようよする前に、春伽が玲琳を指差した。
「な、南遼の、生き残り?! ってことは、玲琳王子?!」
「……どうしてそれを?」
 思い至りもしないなりゆきに、玲琳は眉を潜める。
「だって、ゆ、有名なんだもの。南遼の玲琳王子が女装して、北宇の後宮に潜入していたって……。
 と、いうことは……」
 春伽は羽依を凝視した。
「あなたが、昭妃・羽依? 玲琳王子の恋人の?」
 動転している相手に、羽依はおずおずと頷いた。
「嘘みたい……。何だか夢物語みたいなうわさ話だと思ってたけれど、まさか、その本人達に会えるなんて……」
 興奮し、春伽はぶつぶつ呟いている。
「そんな噂話が、ここまで流れてきているのか? わたしは女を演じたことを誰にも言っていない」
 冷静になるように努め、玲琳は尋ねる。
 玲琳の問いを、朴宏が受けた。
「ああ、祖国を滅ぼされた南遼の玲琳王子が敵討ちと許嫁を取り戻すために、女装して後宮に潜り込んだと……。玲琳王子は後宮で許嫁の昭妃.羽依と愛しあい、皇帝を討って恋人とともに北宇の宮城を脱出したと、たまに物を売りにくる行商人が言っていた」
「どうして、そこまでくわしく――」
 羽依が言い淀む。
 南遼の王子・暉玲琳が女に身を扮して北宇の後宮に潜入したことは、伝手となった李允が知っている。が、李允は羽依を我がものとするために追っ手を差し向けているので、わざわざ玲琳と羽依が愛しあっているという噂を撒くとは思えない。噂を流したとしても、万にひとつも李允の利益になることはない。とすれば、一体、誰が――。
 ふたりは思案していたが、ふと春伽の好奇の目を感じ取り顔を上げた。特に、春伽は羽依に視線を注いでいる。
「な……なにか?」
 笑顔を造りながら、羽依が問うと、ほう、と春伽は夢見がちに溜め息を吐いた。
「そうなんだ。あなたが、美貌で有名な昭妃・羽依なんだ……。たしかに、薄汚れているけれど、とっても綺麗な顔。それに、玲琳王子も女装していただけあって、物凄い美形……」
「は、はあ……」
 ふたりは苦笑いした。
「おまえ、綺麗なものに目がない癖、いいかげんに直せ」
 朴宏が妻の頭を小突き、眠りこんでいる幼子を受け取る。穏やかで仲睦まじい夫婦の空気があった。夫と妻と、生まれたばかりの子のささやかな幸せ……それが、羽依には眩く映る。
「それで、北宇が滅亡してからずっと逃げてきたの?」
 春伽に尋ねられ、羽依は頷く。
「南遼がこの人の故郷だから、一度来てみたかったの。この人も、気になるって……。実際、見てみて綺麗だったから驚いたわ」
 そう言って、羽依は玲琳の優しい微笑みを見つめる。玲琳も口を開いた。
「わたし達は北宇の皇帝を殺した下手人なので、北宇の追手に追われている。なにもなければ、ずっとこの地に居たいのだが……」
「それは、そうよね――故郷だもの」
「でも、この頃は追手が誰も現われないわ。一体、どうしたのかしら。諦めたわけでもないでしょうに」
 羽依が玲琳の腕を掴む。玲琳も眉根を寄せるが、解らぬ、と首を振った。
 春伽が身を乗り出す。
「だったら、ここに落ち着いてもいいんじゃないの?
 そうよ、やっとふたりで手を取り合うことが出来るようになったんじゃない。もう、あなたも皇帝の妃じゃなくなったんでしょう?」
 言われて、羽依は頷く。
「本当は、約束通りこの国で結婚していたはずなんだから、今でも遅くはないでしょう。そう思ってここに来たわけじゃないの?」
「いや、滅びたあとの南遼が気になって来てみただけであって……。第一、今のわたし達では何かをすることも出来ぬ」
「出来るわよ、ここには人間が居るんだし。
 それとも、幸せになることを諦めているの? 愛する人が傍にいるのに。あたし、南遼の王子は英雄だから、もっと女に優しいものだと思ってたのに」
 がっかりした口調で春伽は告げる。
「わたしは……英雄ではない。なにひとつも、人々にとっていいことなどしていない。噂などあてにはならぬ」
 言ったきり、玲琳はむっつりと口を噤んだ。そんな玲琳の様子に、朴宏が言い過ぎだと妻を咎めた。
 羽依が、慌てて口添える。
「優しくないわけじゃないのよ。これ以上ないくらい、今のわたくしは幸せだわ。それ以上を望むのは、贅沢すぎると思うの」
 本当にそう思っている。北宇の後宮に閉じ込められ、愛してもいない男に抱かれる生活に比べれば、今の状況は幸せ以外のなにものでもない。羽依は今のままでも充分満足だ。
「じゃあ、今みたいな愛人とも恋人とも言えるあやふやな状態じゃなく、普通の女みたいに愛する人の正式な妻になって、家庭を築きたいとは思わないの?」
「それは――」
 羽依の声がか細くなる。そう思ったことは、なかったわけではない。今の状況でも必死で己を護ろうとしてくれている玲琳を思うと、身を過ぎた我が儘だと思えて口に出来なかっただけだ。
「それはそうよ。確かに、一度は人の妻になったとはいえ、あなたの望んだことじゃなかったのでしょ。自由になって、愛する人と幸せだと思うようになると、いやでも考えるわよ。女ならね」
「それを、女の我が儘だというんだ。男には男の立場もあるし、女を護らなければならん。いちいち女の願望に応えていたら、身が持たん」
 朴宏が春伽を叱る。
「い……いいの。今のままで幸せだから!」
 手前で口喧嘩をし始める夫婦を止めるために、羽依は言い切った。そんな羽依の肩を、玲琳が掴む。

「だが、おまえは正式に妻になりたいのだな?」
 玲琳に問われ、羽依はどう答えればよいのか解らない。今の成り行きで否と言ってしまえば、どう見ても嘘だと言われるだろう。羽依は黙り込んだ。春伽も、羽依の様子を注意深く観察している。
「……式だけでよかったら、協力できるけど、あたし達のお古の衣装でよかったら。
 あたし達もここに来てから婚儀の式を挙げたんだ。南遼式の婚儀で、その仕様の衣装を造って。
 そうよね、旦那が南遼の人間だったら、その方式で婚儀を挙げるのが筋ってもんよね」
 ぱちん、と春伽が手を打つ。
「――いいのか?」
 玲琳が遠慮してそう言うと、春伽はにっこりと笑った。
「誰だって、人が幸せになったほうが嬉しいもんよ。ね」
 そう言って、春伽は夫の腕に抱きつく。朴宏は照れ笑いした。
 戸惑って羽依は夫婦を見、玲琳を見つめる。この上ない優しさで、玲琳は微笑んだ。溢れてくる幸せの実感と人々の優しさに、羽依の眼が露で滲んだ。


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「ねえねえ、やっぱりずっと一緒にいたから、少しだけでも離れると寂しい?」
 床に敷かれた褥に入っている春伽が、寝台の羽依に聞いてくる。頷くと、そうよねぇ、と春伽が返してくる。
 南遼の地で婚儀を挙げることとなったので、花嫁は一週間、男と離れて身を浄めるという南遼の婚礼のしきたりに羽依は従うことになった。いま玲琳は隣の空家を借りて、朴宏と入っている。丁寧に春伽は羽依に寝台を貸してくれた。
「……どうして、こんなにわたくし達に親切にしてくれるの?」
 上から羽依がそう言うと、春伽は小首を傾げた。
「したいからした、じゃ信じられないかな」
「そ、そういうわけじゃないの。ただ……」
 言い淀むと、春伽はふふ、と笑う。
「そうよねぇ。根拠のない親切には大抵裏があるものねぇ。でも、あたしの性格かな、そうしたいと思ったからそうしたの。親にも、朴宏にも馬鹿だとよく言われるわ」
「馬鹿だなんて、そんなこと思わないわ、わたくしは。
 こんなに人から良くされたことがなくて……。わたくしもあの人も、姿が美しかったせいで、人の欲に振り回され続けてきたの」
「確かに、そうされてそうな見目形よね。でも、あたしも旦那も苦労して幸せになったから、苦しんでいる人の気持ちが解るんだ」
 羽依は起き上がり、じっと春伽を見つめる。
「……駆け落ちしたこと? 親に逆らったから?」
 春伽はふと神妙な顔をした。
「朴宏は、あたしが物心ついた頃から実家に雇われていたの。親はあいつをこき使って、ぼろぼろに疲れている姿を見るに見兼ねて世話したのが始まりだった。それが、十歳の頃ね。それから親に内緒でたびたび逢っていたの。でも、あいつ何かと遠慮してね……いまでこそあんなだけど。指一本触れないのよ。あたしが自分の気持ちに気付いたのは、親が許嫁を決めてきたときよ。あいつ以外は嫌だって。それなのに、あいつはあたしに何も言ってくれないの。だから、あたし許嫁と結婚しちゃおうって……そのとき、始めてあいつは自分の気持ちを言ってくれた。あたしが雇い主の娘だから駄目なんだってね。それで、駆け落ちしたの」
 長々と語る春伽の言葉を、羽依は無心に聞き入る。
「どうなるか解らないけど南遼に来て、一から家を造るとき、一緒になったんだなって強く自覚したわ。苦しいのだって、楽しいの。あいつと一緒なら。それで、苦しいついでに子供まで生んじゃった」 あはは、と春伽は笑う。羽依は春伽の強さを羨望でもって眺めた。
「でも、いいよねぇ。あなた達の恋は運命的だよね。他人に引き裂かれても、出会って愛しあったんだから」
 羽依は視線を落とす。春伽の無邪気な発言が胸に痛かった。
「わたくし、人に言われたことがあるの。わたくしとあの人が愛しあったのも、託宣による運命じゃないかって。どうしようもない運命に導かれて、否応もなく惹かれあったのではないかって。では、愛している気持ちも嘘になってしまうのかって。そんな気持ちのせいでわたくしも、あの人も不幸にならなければならないのかって……」
 吐き出すように言い出す羽依を、居を突かれた表情で春伽を聞いている。はっとして、羽依は口元を押さえた。気まずそうに春伽の様子を窺うと、明るい笑みで応えられた。
「でも、好きでしょ? 好きだから、迷いながらも一緒にいるんでしょ。運命だから惹かれあったとか、運命がなければ違う人と一緒になってたとか、考えても仕方がないんじゃない? 答えは、すでに出てるんだから。始まりがどうであっても、何が本当で何が嘘なのかと考えても、結局は同じ答えに戻ってくるよ」
 羽依は何も言えない。
「あたし、あのとき親の言い付けどおり許嫁と結婚していたら、絶対に後悔していたと思う。あなたも、同じだよ。運命だからと逆らったら、もっと不幸になる」
「……ええ、そうね」
 羽依にとって、玲琳と供にいることが、すでに幸せなのだ。託宣によるものだろうと、そうでなかろうといまでは関係ない。心から、そう思っている。
「……ありがとう。わたくし、ここに来て本当に良かった」
 か細い呟きに、相手の顔が満面の笑みに崩れた。


 玲琳から離れるのは久しぶりなので、なかなか寝つけない。
 羽依は寝台から抜け出すと、春伽を起こさないようにして屋外に出た。本当ならば良くないことなのだろうが、興奮に任せて夜道を歩き回る。目指すのは、あの桜の木だ。
 さすがに秋なので、南遼といえども夜は冷え込む。羽依は寝衣の上に羽織った上衣を掻き合わせる。 夜も更けているので、桜の木の下には誰もいないと思っていた。が、眩い月明かりに照らされた人影がある。近付くと、羽依はあっ、と声を漏らす。
「――羽依」
 押し殺した声音で、玲琳が呟く。驚いている様子だった。
「なんだか、眠れなくて。――あなたも?」
 羽依は叱られるかと思ったが、玲琳は笑みを浮かべた。
「月夜の下でこの桜を見るのも、何年ぶりかだ。やはり、この桜の風情は変わらぬ」
「妖しくて、美しい?」
 相槌を打つように問うと、自嘲ぎみに玲琳は告げる。
「そう、傍にいても触れられぬ……」
 そして、熱い瞳を充てられ、羽依はどきり、とする。玲琳も、傍に羽依がいないので寂しいのだろうか。
 手を延ばすと、玲琳は桜の花枝に触れた。玲琳の白い指先と桜の淡さが溶けるような錯覚がする。
「幼い頃も、こうやって桜の花に触れた。だが、そうやっても胸の疼きが消えることはない。永遠に、手の届かない甘美さなのだ」
 先程の言葉も、桜のことを言っているのだと解り、羽依は内心がっかりしていた。桜に嫉妬するなど、馬鹿みたいだと思いながらも。
「桜は、咲く期間が短いから、盛りを知って何よりも美しく咲くのね」
 うっとりと桜を見上げ、羽依は呟く。と、不意に玲琳が羽依の髪に触れた。なにかと思い振り向くと、玲琳は桜の花弁を弄んでいた。どうやら、羽依の髪についていた桜の花弁を取ってくれたようだ。いつもよりも、玲琳が隣にいることを意識してしまい、羽依の鼓動は跳ね踊っている。
「……今のおまえは、あの桜と同じだ。傍にあっても触れられぬ」
 細く呟く玲琳の声に、羽依は目を見開く。
「いままで生きてきて、こんなに心が騒ぐのは初めてだ。触れるだけならば、いくらでも容易い。だが、おまえは清浄の身を保たねばならぬ。桜と同じく、触れるだけだ」
 羽依から目を放し、玲琳は視線を落とす。羽依はくすり、と笑った。
「いまの間だけよ。一週間が過ぎればずっとあなたの傍にいられるようになるわ。
 わたくしはあの桜と違って、はやく散ってしまったりなどしないわ。ずっとあなたの傍にいるわ」
「本当に?」
 いつもより真摯に、玲琳が尋ねる。
「おまえは、他の誰よりも儚い印象がする。いつか、わたしの目の前から消えてしまいそうな気がする。あの桜のように、咲き急いでしまいそうだ」
「どうしたの? わたくしは消えたりなどしないわ」
 必死な面持ちで告げる玲琳を羽依は宥めようとする。しっかりとした羽依の視線に、玲琳は息をつくと、恋人の柔らかな頬に触れた。ただ見つめあうだけ、それ以上はなにもない。だというのに、思いは通うように伝わってくる。玲琳の焦りと不安も、羽依の慕情も――。
 ふたりは、身じろぎすることなく視線を混じり合わせていた。桜の木だけがそれを見守っていた。

 その夜から羽依は、女たち以外は誰とも顔を合わせなかった。もちろん、玲琳とも。どんなに寂しくとも、これから玲琳と一緒にいるためにはどんなことでも耐えられた。
 女たちだけとの徒然を、羽依は縫い物をして紛らわせた。いま、玲琳が借りている空家を、婚礼が済んでからも貸してもらえることとなった。何事もなければここに逗留するつもりなので、いままで足りなかった衣料などを補充しなければならない。縫い物ぐらいなら、幼い頃から母や揚樹に教えられていたのでこなせる。器用な針運びに、ときどき手並みを見ていた春伽が賞賛した。
「すごいすごい。あたしはお針仕事がからきし駄目でねぇ。まぁ、下手でもしなくちゃならないからしてるけど」
 そう言って、そうだ、と奥の間に駆け込んで大きな包みを持ってきた。
「あなたとあたしは、ちょっと躯付きが違うんだよね。あと、うちの旦那と王子も」
 包みを開けてみると、黒地の絹が眩しい光沢を放った。花嫁衣装だった。
「一応、あたしが縫ったんだ。ちょっと、見苦しいところもあるけれど」
 羽依は衣装を広げてみる。短い丈の上衣に房飾りのついた帯、襞を畳んだ下裳――。鴛鴦や蓮の刺繍が至る所に施されてある。春伽が言っているのは謙遜で、充分に丈夫に造られてあった。
「どう、これなら式までに直せそう?」
 春伽の問いかけに羽依は頷く。
 黙々と針を動かす羽依を眺めて、春伽はにやにやと笑みを浮かべた。彼女の視線に顔を挙げ、羽依は小首を傾げる。
「……なにか?」
 春伽の表情は崩れない。
「……うん、幸せそうだなって」
 え、と面映く漏らす羽依。
「この世の幸せを一身に受けてるっていう顔。いままでは不幸の連続だったかもしれないけど、やっと、愛しあう実感が湧いてきたっていう……」
 俄然、頬を染め、羽依は俯いた。面白そうに春伽は吹き出す。
「嫌だわ、からかわないで」
 ひとしきり吹き出していたが、真面目な顔に戻ると、春伽はしみじみと呟いた。
「……大事にしなさいよ。あの人」
 心からの祝福に、羽依はあどけない仕種で頷いた。

 婚礼の前日、ふたりが住むことになる空家を、玲琳と朴宏・春伽の夫婦が掃き清めた。朴宏と春伽は媒妁人の役も買っており、どちらかというと春伽が積極的に勤めていた。
「ほら、上等のお酒も譲ってもらえたわ。それに、盃と、雁が手に入らなかったから家鴨と……」
 婚儀に必要なものを、春伽は知人から細々と分けてもらって揃えた。気がついたように、春伽は玲琳を見る。
「南遼の人だから、手筈は分かっているわよね」
 玲琳は頷いた。
 いよいよ婚礼の日、隣家の人々と数人がかりで支度が行われた。めまぐるしく働く人々に、玲琳は少々気押されていた。
「なんだい、人にかしずかれるのは初めてじゃないだろう?」
 中年の婦人が言いながら玲琳の上衣の帯を締める。もともと、出自の高い玲琳は人々にかしずかれるのを何とも思っていなかった。が、南遼が滅び、燐佳羅となってからはどちらかというと人にかしずく立場だった。長い間の習慣がなかなか抜けなくて、玲琳は苦笑いする。
 黒色の緇衣を着せられると、次に髪結いをされる。ひとつに髷を造って纏めてしまい、冠を被せられた。すべての衣装を纏い終わった玲琳は生来の気高さを現わし泰然として、凛々しかった。介添えをしていた婦人達が揃って溜め息を吐く。
「やっぱり、男前が盛装をすると映えるねぇ。花嫁さんもとても綺麗なひとだったし、並ぶと御人形みたいに絵になるよ」
 素直に喜んでよいのか解らず戸惑う玲琳の背を、婦人がふざけて叩く。そのとき、春伽が顔を出し、羽依の支度が整ったと告げた。あとは、日が沈むのを待つのみだ。
 ふたつほど時を刻んだ。
 示し合わせた通り、朴宏が盆に杯を乗せて運んでくる。杯を渡された玲琳は満たされた清酒を飲み、返す。それが婚儀の始まりだった。
 おもむろに腰をあげると、玲琳は戸口に向かう。既に空は茜に染まり、入り口には華燭が焚かれている。同じく灯火が燃える隣家のきわに、ふたつの人影が見える。春伽に手を添えられ、花嫁が待っていた。
 赤々とした松の火が花嫁の髪巾を照らし、面に陰を落とす。疼く胸を押さえながら、玲琳は春伽の手から新妻の手を取った。夫に導かれて、羽依は新居の戸を潜る。
 居室の入り、向かい合って座ると、媒妁人が杯事の所作を行う。が、肝心のふたりは上の空だった。しきたり通り杯を交わし、鳥を食しても、よく分かっていない。お互い、妙に意識してしまい、見つめあうこともかなわなかった。
 しきたり事が終わると、羽依が先に寝所に入ってしまう。玲琳もあとを追って入ってしまうと、春伽はくすり、と笑った。朴宏が問うと、
「ねえ、ふたりの手、震えてたよね。あたし、自分のときのこと、思い出しちゃった」
 春伽の初夜もまた、同じだったようだ。

 小さな灯火だけの部屋で、ふたりの言葉はなかった。
 寝台に座る羽依は震える息を押し殺す。玲琳はそんな羽依を緊張の面持ちで見下ろしていた。
 暫くの間、沈黙が寝所を支配する。やがて、強く拳を握ると、玲琳が一歩を踏み出した。跪くと、恭しく新婦の髪巾を外す。久方ぶりに化粧を施し、高く髪を結わえ挙げた羽依がいた。ふくよかに閉じられた瞼が粛然とした様を帯び、仄白い肌に浮いてみえる朱唇が、あでやかさを添える。やはり、きっちりと化粧した羽依はたおやかに美しい。素顔でいたときとは比べものにならない。
 上気した頬に、玲琳の手が触れる。羽依は思わず目を閉じた。かすかに、玲琳の指先が震えている。意外に思っていると、突然、玲琳が羽依の帯を解き始めた。唖然として羽依は目を開ける。
 いつも、玲琳は馴れた手付きで女体を扱う。巧みに甘い雰囲気をつくり出し、女を酔わせ、悠然と境を超えてしまう。というのに、いまの玲琳はまるで始めて女と交わる男のような態を示した。堅い手付きで羽依を全裸にしてしまい、おもむろに自分も脱いだ。
 幾度となく躯を交わした間柄だというのに、ぎくしゃくとして、余裕の欠片もない。その夜の玲琳はまったく、彼らしくなかった。
 羽依も、躯を堅くしていた。清潔に整えられた寝台が違和感を与え、灯火だけの薄暗い部屋にところどころ付けられた飾りがいまの状況を示している。慣れない空気が、ふたりを縛っていた。
 早い鼓動と、競り上がる吐息のなか、羽依は玲琳と結ばれた。お互い知っているはずなのに、行為のいちいちに緊張を伴う。頭の隅で、初めて嫁ぐ乙女の心境は、こういうものなのかと感じた。
 思えば、羽依ははじめての交わりの瞬間に、乙女の恥じらいや緊張を覚えたことがなかった。普通に嫁ぐ娘はみな、この瞬間を一々に味わうものだろう。が、羽依は皇帝・牽櫂に攫われるように純潔を奪われた。羽依は一抹の哀しみでもって、己の心のうちを眺めた。
 最初から最後までやはり、玲琳は余裕がなかった。荒く肩で息をする玲琳を、羽依はそっと抱き締める。複雑な笑みを浮かべ、玲琳は顔を上げた。
「いままで幾度も人と躯を交えてきたのに、こんなに緊張したのは、生まれて初めてだ」
 素直な言葉に、羽依は微笑みを浮かべた。
「まるで、はじめて結ばれるようだったわ」
「おまえも?」
 ええ、と羽依は応える。
「当然よね。今夜がわたくし達の初夜ですもの」
 暫時、ふたりは目を見交わす。そして、合わせたように笑い声を起てた。ようやく、ふたりの中で夫婦になった実感ができる。安堵とともに一日の疲れがどっと押し寄せ、ふたりは寄り添いあった。時を置かずに、ふたりは夢に落ちた。


 玲琳と羽依は、南遼で秋を見送った。
 季節でいえば、いまは冬である。以前、玲琳は南遼に雪は振らないと言っていたが、初冬になっても秋の盛りの緩さであった。北宇ならば、いまごろ雪が振っているだろうが、正しく、南遼に雪は振らない。過ごしやすい気候に、羽依は親しんだ。
 どういうわけか、李允の刺客も義族達も現われない。双方とも、諦めてくれたのかと羽依は安慮した。このまま災難が現われないでくれればと、切に願わずにいられない。
 いままでの出来事からして、羽依は今ある幸せを信じられないでいた。また、何者かが己と玲琳を苛みにくるのではないかと内心怯えている。が、いま側に幸せを脅かすものは誰もいない。隣に住んでいる朴宏と春伽の夫婦はとてもいい人であるし、近隣の人々も人好きする者ばかりである。ぬるま湯に似た幸せが、心地よすぎて、羽依はそれを無くすことなど考えられないでいた。
 現在、春伽と朴宏に畑を分けてもらい、食物などを全部賄って生活している。慣れないことであるのに、玲琳は土に塗れて働いていた。羽依にはそれが少々痛々しく見えるが、そういう己も、最近は土いじりを楽しんでいたりする。いまから野菜や穀物ができるのを愉しみにしている羽依を見て、玲琳も笑っていたりする。
 羽依はいつか、いまの生活を振り返ってしみじみと玲琳に語った。
「わたくし、いまの生活は苦しくないわ。でも、時々考えてみたりするの。
 本来、あなたは南遼の王子で、何事もなければ南遼の政にあたっていた立場にあるのよね。父上や、兄上を助けて、きらびやかな生活をしていたはずなのよ。それで、わたくしも託宣どおりに嫁いで、もしかするといまごろあなたの子を生んでいたかもしれない。苦労もない、溢れるばかりの幸せに浸っているはずなのよ。
 でも、当然のように与えられる幸せの中で、わたくしはいまのように激しくあなたを愛せることができたかしら」
 そして、こう続けた。
「いままでのわたくし達には不幸なことが多すぎたわ。託宣を果たす間もなく南遼は滅ぼされ、わたくしも両親を殺されたことはおろか、抗うこともできずに陛下の妃になった。あなたも、したくもない女の姿に擬態して、男や女といわず躯を交わす生活を送ってきた。これ以上の苦しみはないというほどわたくし達は苦しんだわ。
 でもいまは、それさえもわたくし達が巡り会い、命をかけるほどの愛を燃えさせた仕掛けのような気がするの。もちろん、あなたがわたくしを殺したいほど憎んだことも」
 玲琳は無言で羽依の言葉を受け入れる。
「その上で味わういまの幸せが、わたくしはとても有り難いの。わたくし達のせいで死んだ人々には、心から懺悔しているわ。それでも、この感謝の気持ちは止められないの。この幸せを味わえないなんてもう、考えられない。
 そう考えると、託宣どおりに嫁いで、何もなく順風満帆に生きて、幸せを有り難くも思わずにいて本当にこれほどに愛しあうことが可能かと思って……。きっと、いまのように身を焦がす程に愛しあうことなんてできなかった。わたくしいまやっと、生きることが素晴らしいと言えるわ」
 羽依の言葉は迸るがままの、愛の讃歌だった。
 ふたりは平穏な日々のなか、生活するために働き、人々と交際し、やっと普通の人間らしい幸せに浸っていた。誰にも邪魔されることなく愛を確かめあうことができた。いままでの生で受けた業を忘れたことはない。それでも、安らぎに満ちた日々に幾許か心を癒された。
 愛しあい、求めあう時間が繰り返され、そろそろ冬も終わりかけかという時期ー。
 隣の春伽とたわいない話をしながら春物の衣装を繕っていた羽依の身体に異変が見え始めた。不意に競り上がってくる吐気に、羽依は口元を押さえる。苦しげに身体を曲げる羽依の背を春伽は摩り、ふと口を開いた。
「……もしかして、子供が……」


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 春伽の唐突な声に、羽依は硬直したまま動かない。
 ――嘘……まさか、本当に?
 脳裏に、疑問符が渦巻く。
 十三の歳から性を知っているのに、一切、懐妊の徴候はなかった。玲琳と身体の関係ができたのも一年くらい前である。子の授かりにくい身体ではと思ってきたのに、いまごろになって身籠ったかもしれないという。驚きと当惑が羽依を混乱させた。
 手から衣を取り落としているのを見て、春伽は羽依が動揺していることに気付く。
「月のものは、最近ちゃんとあるの?」
 羽依はかすかに首を振った。
「……二ヶ月ほど、なくて……」
「だったら、なおさら身籠ってる可能性が高いわよ。自覚がなかったの?」
「もともと、月のものが乱れがちで……一週間くらい前から、すこし身体の調子はおかしかったけれど……」
「やっぱり、赤ちゃんができたんだよ! 旦那さん、呼んでこようか?」
 椅子から立ち上がった春伽を、羽依は咄嗟に止める。
「待って、言わないで、お願い」
 縋ってくる羽依に、春伽は眉を寄せる。
「どうして、子供ができちゃいけなかったの?」
「いまは……」
 羽依はかいつまんで説明する。
 現状では、刺客や義族が現われないが、これから絶対に襲われないと断言はできない。この状況で子供を作っても、無事に育てられるか解らない。婚儀を終えてから、改めて玲琳とそう話をつけていたのだ。
「そう――確かに、いまの段階では難しいよね」
 春伽も一緒になって頭を抱え込む。
「でも、それ、絶対妊娠してるよ。あたしのときもそうだったから間違いないって」
 言われて、羽依は深く俯く。
 当座は諦めていたが、羽依は玲琳の子が欲しかった。人は一旦幸せを掴むと、欲張りになって次の幸せを望むようになる。羽依も例に漏れなかった。
 先の見えない状態で子を生むのは危険だと解る。が、いま、己の身体に命が宿ったというのなら、羽依にはその命を消すことなど、到底できない。
 暗い表情で春伽が聞いてくる。
「――どうするの。生むことができないなら、決断するのはいまだよ。いまなら、何もないことにすることができるよ」
 羽依は目を見開く。
 春伽は、子を始末するかどうかを聞いているのだ。羽依は激しく首を振る。
「そうだよね、せっかく宿った愛するひとの子だもの。女なら、殺すことなんて考えられないよね……」
 春伽の言葉に、羽依の目から涙が溢れた。
「ねぇ、つわりは重いほうなの? いつも苦しい?」
 ここ数日を振り返って、羽依は否と言った。しばらく考え込んで、春伽は断を下した。
「こうなったら、黙っておくしかないよ。旦那さんに気付かれないようにして、なんとかして五ヶ月目にまで持ち込むんだ。そうしたら、堕ろすことなんてできなくなるから、旦那さんになに言われても産むことができる」
 羽依は大きく頷く。
 子の父親である玲琳に子の存在を黙っておくなど心苦しい。が、それしか子を護る方法がないのならそうするしかない。
 そっと、羽依は自分の腹部に手を当てる。
 ――本当に、いま、ここにあの人の子がいるの……?
 予感が胸に広がり、喜びが熱く点る。
 ――護りたい、この子を。
 喜びは羽依にとって、強い決意となった。


 三月、四月と経って、羽依の妊娠は疑いようがなくなった。月経は来ず、つわりも酷くはないが続いている。徐々に変わりゆく己の身体に戸惑いながらも、羽依のなかに母親になる自覚ができてきた。
 玲琳にはずっと黙り続けている。つい、うっかりと言いそうになったこともあったが、羽依は懸命に堪えた。言いたい、という欲求もあったが、無事に子を産むためには我慢している。
 が、玲琳の目には、羽依のなかで何かが変わりゆくのが見え始めていた。身体の調子が思わしくないのが解るのに、羽依は大丈夫だと言い張る。胃の中身を戻したり、食が進まなかったりするのを見ると、さすがに玲琳にも薄々合点がいく。
 晩春の昼下がり、春伽が顔色を変えて羽依に耳打ちした。
「あのね、旦那さん、妊娠していることに気が付いてるみたいよ。あなたが妊娠しているんじゃないかって聞いてきたから、違うんじゃないかって言っておいたけど――」
 胸を突かれて、羽依は言葉を忘れた。玲琳に、知られてしまったかもしれない。その事実が羽依を打ちのめす。自然と、羽依は腹を押さえた。いまは然程に目立っていない。が、これから月日が経てば、もっと腹部も目立ってくる。潮時だと、羽依は感じた。
「ね、自分から言ったほうがいいよ。あなたはこの子を護りたくてずっと黙ってきたけど、こういうことは男も女も、同じじゃないかな。子供が欲しいのは、きっと、あなただけじゃないよ。話したら、解ってもらえるよ」
 春伽の励ましに、羽依は心を決めた。
 夕刻、汗に塗れた衣服を着替えている玲琳に乾いた布を渡しながら、言い出す間合いを見計らう。
「春伽さんが瓜の塩漬けをくれたの。夕食のときに切って出すわね」
 言いたいことは他にあるのに、どうでもよいことを言ってしまう。己の勇気のなさに、羽依は情けなくなる。
 上衣の帯を締めながら、玲琳が振り返った。こちらも何か言いたそうにしているが、言葉が出ない。
「あ……」
 どちらともなく声が漏れた、その時。
 焦げ臭い匂いに気が付いたのは、玲琳のほうが先だった。不審に思い家の外に出てみると、近隣から火の手があがっていた。春伽達の家の六つ隣が炎上し、勢いをあげて燃え移ろうとしている。板葺きの屋根と、乾いた土の煉瓦でできた家は、火の回りが速い。廻りの並木も巻き込み、火炎の惨劇が繰り広げられていた。
 日が沈み、人々が労働から帰り始めた時刻である。火に巻かれているかもしれない。
「う……そ、どうして――!」
 春伽の顔が、他の優しくしてくれた人々の顔が羽依の頭に浮かんでくる。震えて立ち竦んでいる羽依を抱き上げると、玲琳は火勢のない方向に走り出した。錯乱して、羽依は玲琳を止めようとする。
「待って、春伽さんが、皆がッ!」
「おまえを安全な場所に置くほうが先だッ!」
 もがく羽依を腕に、玲琳は城跡に向かって駆ける。そんなふたりの姿を見かけて、声をかける人がいた。
「春伽さんッ!」
 春伽が朴宏や知人達といた。ただならぬ羽依達の様子に大きく驚いている。
「――羽依を頼む!」
 羽依を春伽に預けると、玲琳は火に向かっていく。羽依は血相を変えて玲琳を見送った。何も知らない春伽達が羽依に詰問する。
「家々が、火事に――!」
「なんですって!」
 春伽の驚愕の声と同時に朴宏も炎を消しに走る。他の男手も同様に。女達だけが取り残された。
「城跡の方にね、大根の畑があって、皆と掘ってたんだ。ほとんどの人が、そっちに行ってたから、皆、無事だと思うけど……」
 その言葉に少なからず胸を撫で下ろすが、人は無事でも家屋は無事ではない。せっかく皆が全力を尽くして復興した南遼の土地が、またも災厄に見舞われる――。羽依にとって、心臓を鷲掴みにするがごとき有り様である。
「と、とにかく、危険のないところに行こうよ」
 春伽が羽依の手を引く。
 女達が落ち着かない足取りで城跡の高台に来ると、黒煙がもうもうと盛り上がっている。鎮火させようとする男達の人だかりも見えるが、一向に埒が明かない。
 不安が喉元まで競り上がる。羽依は辛うじてそれも飲み込んだ。はらはらと春伽が周辺を見回す。と、城壁跡の瓦礫の陰に黒いものが過った。
「な、なに……ッ!」
 春伽の頓狂な声。羽依も驚愕して振り返る。
 黒いものが、羽依を見てにいっと無気味な笑みを浮かべた。少なくとも、羽依にはそれが判別できた。黒いもの――全身を黒一色に纏めた人間は、羽依の驚倒する有り様を認めると素早く跳躍し、一瞬にして姿を消した。
 がくがくと震える羽依の形相に、春伽がただならぬものを感じる。
「ど、どうしたの……!?」
 春伽には黒い陰がなんだったのか解っていないようだ。が、羽依はそれが刺客だと受け止め、血が逆流する程の恐怖を味わった。
 ――李允殿の放った刺客!
 手で口を被って、羽依は戦慄く。恐怖が、その眼から見て取れる。
 羽依は腹部を強く押さえた。
「羽依さん、羽依さんッ?!」
 勢いよく燃え上がる住居の有り様に、へなへなと崩れ落ち手で地を掻く羽依の様子に危険を感じ、春伽は羽依の両腕を強く掴み揺すった。
「だめ! 心を強く持って!
 負けないで! でないと子供が――!」
 現状の息苦しさに、羽依の意識を遠くなりかける。
 様々なものの犠牲を強いる己が、本当に子を生めるのだろうか。
 子を、護りきることができるのか――。
 強烈な不安に苛まれ、羽依は呻く。
「――本当に? 子が?! 羽依!」
 萎みかけた心のなかに差し込んでくる声に、はっとして羽依は顔を上げる。
 何か用があって戻ってきたのか、ありありと瞠視の眼差しを見せる玲琳が、目の前にいた。
「え、あ、火はどうなったの?!」
 動転した春伽はあたふたとそう言う。
 が、玲琳は羽依の前に膝を付き、羽依の目をじっと見つめた。
 ――隠せない……。
 見透かされている。玲琳は、羽依の変化に気付き始めていた。どう誤摩化そうと、通用しないだろう。
 燃える材木の爆ぜる音が、羽依の耳朶に入って来る。未だに、他の男達は火を消すのに躍起になっている。が、玲琳にとっては今この事態が急。
 羽依は息を吸い込むと、訥々と口を開いた。
「……もう、六月になるわ。
 わたくし、あなたに相談できなかった。相談すれば……この子の生命がどうなるか解らなかったから」
 玲琳は目を見張る。
 抱いていた予感。それが、現実になった。
 羽依は玲琳の腕に取りすがる。涙ながらに掻き口説く。
「もう堕ろすことはできないわ。だから、生ませて。この子を生きさせて!
 あなたの子なの! あなたの、南遼の血を受けた子なの!
 お願いだから、殺さないで――!」
 ――どくん!
 羽依は腹部に何かを感じた。何かが、勢いよく蠢く。
 それは、生命の脈動だった。母の心に呼応して、芽生えた生命が激しく己を主張した。
 羽依はゆるりと手を動かし、腹に触れる。
「――動いた……動いたの、玲琳!」
 喜びに、羽依は嗚咽する。
 玲琳は唇を震わせ、おずおずと緊張に強張る手を羽依の手に重ねる。
 羽依は聖母の面持ちで玲琳の手を取り、直に己の腹に――息づく生命に触れさせた。
「これが……わたしの子?」
「そうよ、あなたの子なの。あなたの生命を受け継ぐ子よ」
 確かな強さをもって、羽依は玲琳に応えた。
 屈み込むと、玲琳は子の宿る腹に耳を付けた。とくん、とくん……と生命の響きが耳目に届く。
「わたしの子……わたしと、おまえの……」
「――ええ、そうよ。あなたとわたくし子よ」
 羽依は囁く。
 が、玲琳の耳には入っていなかった。
 脳裏に、南遼最期の夜が甦っていた。
『王子だけでもご存命であられたなら、南遼の命運は尽きぬ』
 父が、母が、乳母が託した想い――。
 南遼の命が、今ここに脈づいている。ずっと諦めていた、見ようとしなかった亡き人々の願い。
 それが、愛する人の胎内で根を下ろしている。
 ――これが、わたしの存在した理由だったのか?
 復讐ではなく、新たなる南遼の命を存続させる――。ひとり生き残って、ここまで長らえてきた理由。死の覚悟を、羽依との出会いによって翻し、どのような汚辱にも耐えて生きてきた。絶望の生の意味が、はじめて明らかにされたような心地がした。
 玲琳はくぐもった小さな笑いを洩す。
 羽依は不安気に玲琳を見下ろす。
 玲琳は羽依の腹を優しく愛撫していた。あたかも、腹の子に伝えようとするかのように――。
「――李允に、負ける訳にはいかぬな」
 言って、玲琳は面を挙げた。
 確固とした眼で、玲琳は羽依を見ていた。
 羽依は玲琳の意思を感じ取り、その胸に縋り付いた。


 幸いにも、延焼は少なく、一夜のうちに火災を消し止められた。
 皆、疲労の色が濃いが、意気消沈した様子はなかった。
「すまない、わたしたちのせいでこんなことになって――」
 項垂れて、玲琳は春伽たちに告げる。
 春伽は笑顔で手を振る。
「気にしないで、また建てればいいんだから。
 それより、本当に行ってしまうの? あなたたちのせいではないのに」
 少し寂しそうに春伽は羽依を見る。
 羽依も寂寞を滲ませて春伽に返す。
「あの刺客は、わたくしたちを狙っている者なの。
 その人は、わたくし達を手に入れるためには、手段を選ばない。あなた達にも、危害が及んでしまうわ」
 玲琳と羽依は、焼け焦げた大地を見つめる。
 またも災厄に見舞われた南遼。が、ここにいる人達なら任せて大丈夫だろう。彼らは、希望に満ち溢れている。どんな苦難でも、越えていける漲る生命力がある。
 災害に見舞われたものの、羽依の面には憔悴は見えない。腹の子が、羽依に力を与えていた。
 その様子に、春伽は安堵する。
「解ったわ。あたしは止めない。
 どうか、身体を労って、無事に子を生んでね――」
 春伽は羽依の手を握る。暖かな情が流れ込んでくる。
 羽依は無言で頷いた。
 朴宏が玲琳にひた、と目を当て、力強く言った。
「必ず、復興した南遼をあなた方にお還しします。
 あなたに、そして生まれてくるあなたの御子に――」
 玲琳も感に絶えず、目許を緩ませた。
「ありがたい、恩にきる」
 ふたりは、人々から馬車を借りて南遼をあとにした。
 いつか、きっと緑に萌える大地が甦る。在りし日のように、麗らかに穏やかな空気を讃えて。その中心にはあの桜がある。四季が移ろうごとに様々な花が咲き乱れ、人々が笑い、子が遊ぶ土地になるだろう。
 馭者をしながら、玲琳は遠くなっていく故郷にしばしの別れの念を送った。






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