トップへ

佳人炎舞indexへ

炎煌の舞姫(2)へ


第三章・破砕の楽舞



 羽依は思わず目を覆いたくなった。
 あからさまに秋波と取れる眼差しを、陶嬪が佳羅に送っている。
 佳羅はそれに気付いてそつなく視線を躱し、逃げるように羽依の席に近寄った。
 陶嬪の険しい眼が羽依に注がれる。
 毎日がこれの繰り返しなので、羽依はため息しか出なかった。
 陶嬪が佳羅に対して馴々しい態度を取り初めたのは晩夏であった。
 今は秋たけなわである。
 陶嬪が羽依に突き刺す視線は嫉妬を含んでいた。
 佳羅は陶嬪が瑞鴬殿に来るとき、わざと羽依ばかり凝視するのだ。陶嬪が羽依に嫉視を浴びせても致し方ない。
 いっそのこと、佳羅を陶嬪に譲ってやろうかと羽依は考えた。が、打ち消さずにはおれなかった。
 今や羽依にとって、佳羅は無くてはならない友であった。
 皇帝・牽櫂は稀に瑞鴬殿に現われ、羽依を寵愛する。日頃は恵夫人・仙葉が皇帝の寵を受けているが、飽き足らず羽依を強引に抱き締め、羽依が悲鳴をあげたくなるほど愛撫を何度も注ぐ。
 思う存分羽依の躰を堪能した牽櫂が閨房から去ると、佳羅は羽依を慰めてくれる。佳羅の優しさに癒されて羽依は次の朝、笑顔を見せることができる。
 ゆえに、羽依は佳羅を陶嬪に譲り渡すことが出来なかった。
 が、羽依は陶嬪の変貌ぶりにも胸を痛めていた。
 羽依の脳裏にある陶嬪は清楚でなよやかで、人好きする女人だった。羽依はそんな陶嬪が心から好きだった。
 羽依は佳羅に陶嬪の変化の原因を尋ねたことがあった。
 佳羅はにべもなく、
「さあ……舞を会得されるたびに野心を燃やされるのでしょうか」
 とだけ言った。
 羽依はそうではない、と思う。
 陶嬪が佳羅に向ける視線は、女が男に向けるそれであった。同性相手の眼差しではない。
 佳羅は陶嬪の舞の指南と称して毎夜瑞鴬殿を抜ける。後宮にある陶嬪の房で一夜を明かしている。牽櫂が羽依を抱きにくる夜だけ羽依の側にいた。
 羽依はそれで十分だと思うが、毎夜主人の側を離れ、主人の敵にあたる嬪のもとに通うのは、他の侍女や宦官の目にどう移るのだろう。やはり嫌悪の情があるのだろうか。
 羽依はそう思って侍女達を観察していたが、陶嬪が佳羅の側に張りついていても難色を示さなかった。陶嬪が佳羅に心酔している様を理解しているようだった。
 複雑な心で、佳羅と陶嬪が寄り添うのを羽依は眺めた。
 いつか陶嬪が佳羅を奪っていく予感がしていた。

 予感は、実感となって羽依の上に落ちてきた。
 羽依が亭で紅葉を観賞していた昼間、陶嬪が侍女を連れずに尋ねてきた。
 思い詰めた表情で跪き、陶嬪は羽依の手を取る。
「どうか、佳羅をわたくしに下さいませ」
 予期していたことだが、羽依は秘かに狼狽した。
 うしろに控えていた佳羅を振り返ると、少し鋭い面差しで佳羅は陶嬪を見ている。
「陶嬪様、何をおっしゃるのですか。
 わたくしは舞をお教えするとは約しましたが、あなた様に仕えることまでは考えてもおりませんでした」
 笑顔さえ浮かべて、佳羅はそう言い切る。
 陶嬪の面が引きつり、蒼白になった。戦慄く口元を両の手で覆って、陶嬪はしゃくり上げる。
「そんな――佳羅、わたくしは愛するあなたとずっと一緒にいたいから、こうして羽依様に願いでたのに……。もうわたくしのことを嫌いになったの?」
 狂乱が見え隠れする陶嬪の双眸が、佳羅を見据え、さまよう上肢が佳羅の両腕を揺すった。
「滅相もございません。わたくしがどうやって陶嬪様を嫌うことなどできましょう。
 ですが、わたくしにとって羽依様は主人であり、一番慕わしい方なのです。
 あまり羽依様を困らせるようなことをおっしゃられては、わたくし、哀しくなります」
 佳羅は陶嬪の手を腕から引き離し、陶嬪の胸に返した。
「いや――いやよ、わたくしよりも羽依様を好きだというの!? あんなに優しくしてくれたじゃない!」
 陶嬪は佳羅を叩いた。拳を握り、佳羅の胸を殴った。佳羅は黙ってそれに耐える。狂乱が収まると、陶嬪は佳羅の胸で泣き崩れた。
 羽依は有様を凝視していた。陶嬪の脳乱ぶりが、羽依の心を締め付ける。
「佳羅……そんな、冷たいことを言ってはだめよ。陶嬪様がお可哀相だわ」
 羽依は取り成しの言葉をかけたが、佳羅の冷たい眼差しを受け口を閉ざす。
「さあ……侍女達が心配しておりましょう。
 はようお戻りになってあげてくださいませ」
 言い聞かせるようにゆっくりと語りかけ、佳羅は陶嬪を離す。
 絶望の涙を流して、陶嬪は駆け去った。後ろ姿を引き止めようとした羽依だったが、佳羅に止められた。
「中途半端な情は相手をつけあがらせるだけです」
 温度のない声に、羽依は佳羅を詰った。
「そなたが撒いた種です。そなたが陶嬪様に心をかけたからこそ、陶嬪様は患わなくともよいお悩みで苦しんでおられるのですよ」
「陶嬪様がひとりで陶酔しておられるだけです」
 佳羅は心の端にも掛けなかった。
 ――佳羅と陶嬪様の、この心の温度の違いは、何なのだろう。
 間違いなく佳羅が播いた種だ。が、佳羅はそんな意識さえないのか。羽依は陶嬪が心底痛ましかった。
「わたくしはそなたが陶嬪様のもとで仕えたいと言ったならば、許すつもりでした。もしかすると、わたくしよりも陶嬪様の方が、そなたを求める度合いが強いのかもしれません。そなたも、より多く求めてくれる人の側にいた方が幸せだと思いますよ」
 羽依の科白を、佳羅は鼻で笑う。
「皇帝に愛された次の朝、わたくしがいなければ困るのはどこのどなたですか。
 わたくしが陶嬪様のところへ行ってしまえば、今までのようにあなた様をお慰めすることが叶わなくなるのですよ」
 佳羅の言葉が、きりきりと羽依の胸を刺した。人の急所を佳羅は的確に突いてくる。
「それでも……それでも、わたくしはその選択が一番良いことだと思います。わたくしはそなたに甘えすぎているのです。独りで苦しみを乗り越えるのも、必要なこと――」
 羽依がむきになって言うと、佳羅はくすり、と声を発てた。
「な、何が可笑しいの!?」
「まるで偽善者の言い草ですわね、羽依様。あなた様も陶嬪様と同じぐらいわたくしを必要としているのに、陶嬪様に同情する仕草をしたくて無理をしているように見えますわ」
 羽依は言葉に詰まる。
 佳羅の瞳に、燃えあがる怒りがあった。炎は、羽依がそれ以上何かを言うのを拒んでいた。
「わたくしは、そなたを見損なっていたようです。
 人の心を弄んで気にもしない人間を、友などと、わたくしが愚かでした」
 佳羅は羽依を睨み付ける。
 そして、眼を見張った。
 羽依は目を潤ませていた。黒い瞳を光らせていた水気が、筋となって頬を伝った。
「わたくしはそなたを大事に思っていました。ですが、陶嬪様もそれと同じぐらい大事な方です」
 羽依を席を立ち、佳羅を置き去りにして亭をあとにする。
 何もかも虚しかった。二人のために気を揉んだ自らが情けなかった。佳羅しか見えなくなってしまった陶嬪が哀しかった。陶嬪の心を引き裂いて良心の呵責も感じない佳羅が憎かった。
 黙って遠ざかる羽依の後ろ姿を見送りながら、佳羅は唇を噛んだ。


 その夜、羽依は眠れなかった。
 昼間の佳羅と陶嬪が脳裏にこびり付いて、羽依をまんじりともさせなかった。
 ひんやりとした夜気が羽依の肌を覚醒させ、眠りの扉を開けさせない。羽依は起き上がると、寝衣の上に上衣を羽織った。
 眠れない夜は星を数えて過ごすのが羽依のやり方だ。
 物音をさせないように閨の帷をくぐると、宿直番をしている揚樹が卓子に顔を埋めて寝入っているのが見えた。他の者はそれぞれの房に入って眠りに落ちているはずだ。
 回廊を渡る羽依を、満ちた月が照らしていた。
 夏の満月は嫌いだった。
 牽櫂に犯される自らを、月は助けてくれなかった。ただ自らと牽櫂が絡み合う姿を曝け出し、自らを惨めにさせた。
 秋の望月は澄み切って、美しい。
 切れてしまいそうな空気の冴えが羽依には好ましく思えた。
 佳羅の透徹とした美しさは、秋と冬のあわいにある空気と似ているように感じられた。人肌には冷たい空気が、何も求めない羽依にとって心地よい。
 だが、冷たさは冷たさでしかないと、昼の佳羅は教えていた。
 ――わたくしは佳羅を嫌いになりたくない。
 羽依の本音だ。
 冷たさゆえに心惹かれるものがあったし、佳羅のなかには正反対の炎も宿っていることを知っていた。気付いてはいるが、炎の正体が何なのか羽依は知らない。
 ――少し、佳羅に言い過ぎたかもしれない。明日、謝ってみようか。
 佳羅のことだから、それはそれで揶揄されてしまいそうな気がするが、かまわない。己がそうしたいからそうするのだ。
 羽依は庭苑に続く階を降りた。
 秋の盛りのこと、楓の大木が一際見事に紅葉していた。羽依は楓に近付き、ごつごつした幹を撫でる。
 無明の闇が羽依を自由にしてくれた。昼の明かりの中で羽依は自由さを感じたことがなかった。闇はそこにいるのが己だけと感じさせ、羽依にやすらぎをもたらせた。
 そこには静寂があるはずだった。
 ふと、水の跳ねる音が羽依の耳朶を突く。
 羽依が何気なく苑池を見ると、あるはずのない影があった。
 木立の陰になってはっきりと姿を浮かび上がらせてはいないが、どうも人影のようだった。人影は苑池の中に半身を沈めている。しなやかに延びた躰に長い髪がまとわり付き、指先から雫が流れた。
 その肢体は、女のものではないようだ。柔らかなまろさはなく、張り詰めた膂力を漲らせているが、筋肉は付いていない。鋭角な躰付き……まるで男の躰のようだ。
 が、ここは後宮の一部であり、皇帝と宦官以外の男は入れない。
 ――この瑞鶯殿に男が侵入している!?
 羽依は息を飲み、後退りする。焦って定まらない足は枯れ枝を踏み、大きな音を発てた。
「誰だっ!?」
 影が羽依の気配に気付き、鋭い声音で呼ばわる。
 羽依の躰に震えが走った。足の底から怖じ気がはい上がってきた。恐怖に足が竦み、その場から離れられなくなった。
 人影は苑池から出ると、傍らにある細長い一物を取り上げた。長さや形からすると、短剣のようだ。
 ――殺される!
 羽依は強くそう感じた。
 人影は躰から水を滴らせながら羽依がいる楓の大木に歩み寄ってきた。羽依は逃げたかったが、縫い付けられたように動けず、汗だけが躰から吹き出る。
 近付いてくるにつれ、相手の輪郭がはっきりとしてきた。
 相手が月明かりに照らされると、羽依は眼を剥いた。
「……佳羅……?」
 普段刷かれた化粧は無いが、あきらかに燐佳羅と同じ目鼻立ちをしていた。が、その躰はやはり女ではなかった。
 佳羅も驚きを隠さずに羽依を凝視している。
「佳羅……あなた……男?」
 とぎれとぎれに羽依はそれだけを言う。動転して頭が回らなかった。
 佳羅は一瞬にして状況を悟り、余裕の笑みを浮かべる。
「どうやら、あなたにわたしの正体がばれてしまったようだ。されば、わたしはあなたの口を封じなければならないが――」
 佳羅は短剣の鞘を抜いた。白刃が羽依の目前で輝く。
 やはり、殺される――羽依は実感したが、逃げ場が無かった。背には楓に幹があり、逃げ出そうにも捕まえられる距離に佳羅がいた。
 殺されるのなら、殺されてもいい……。羽依は覚悟を決めた。
 もともと、死ぬことを望んで今日まで生きてきたのだ。命の幕引きをするのが佳羅なだけで、死なせてくれるのならそれでよかった。
「……いいわ、殺したければ殺しなさい。生きることに比べれば、死ぬことは易いはず」
 何故これ程冷静に言えたのか羽依は不思議だった。信じられないほど薙いだ心で羽依は目蓋を閉じる。
 佳羅の気配を躰すれすれのところで感じられたとき、首筋にひやりとした金属が触れた。頸動脈に刃を当てられ、羽依は死の瞬間を待った。
「あなたはそれでいいのか?」
 羽依の頭上に佳羅の問いが落ちてきた。羽依は頷き、呼吸を静める。
 何を後悔することがあろうか。
 冥府には父母や弟妹が待っているのだ。遅れて愛しい人々とまみえるのだから、羽依にとって死は至福でしかなかった。生にあっては得られない至福だった。
 刃は半刻ほど首筋に宛がわれたままだった。
 羽依が焦れて薄く目蓋を開けたその時、唇に柔らかな温もりが覆い被さった。羽依は眼を見開く。
 短剣が地面に転がされる音がし、佳羅の両手は羽依の躰を強く抱き締める。羽依は息苦しくなって藻掻く。が、佳羅の舌が羽依の歯列を割って口内に入りこみ、羽依の舌を絡めとった。
 羽依は思わず眼を閉じる。
 佳羅の口づけは執拗で熱かった。羽依の吐息まで貪り、呼吸をさせなかった。羽依の力が抜けたのを見計らって、佳羅の手の平が袷のなかに滑り込み、羽依の豊かな胸を包み込む。
 確かな意志をもった手の感触に、羽依は逃れたくなった。足掻いて躰を捩り、佳羅の腕から抜け出そうとする。
 佳羅の口づけから開放された羽依は細い悲鳴をあげた。
「いや……っ!」
 佳羅の脛を蹴り、腕を引っ掻きながら羽依は佳羅の力を緩めようとした。しかし、佳羅は易々と羽依の躰を持ち上げ、四阿の中に運び入れる。
 逃げる隙はなかった。
 またも唇で唇を塞がれ、帯を解かれた羽依は絶望のなかにいた。堅く眼を塞ぎ、一切の感覚から耐えようとした。
 佳羅の愛撫は嵐のようだった。
 羽依の肢体は木の葉のように翻弄され、押し寄せる快楽の波に理性は押し飛ばされた。
 躰の一部に異質な熱さを感じたとき、羽依は四肢を弓なりに反らせた。
 ――わたくしが、わたくしでなくなってしまう!
 牽櫂に抱かれたときには感じたことのない恐怖だ。
 牽櫂の愛撫にいつも羽依は醒めていた。情熱のかけらもなかった。ただ、牽櫂の情熱が醒めるのを待っていた。
 が、佳羅は違う。
 羽依の知らない羽依を引きずりだし、嫌というほど見せ付けてくる。ときには優しく、ときには激しく羽依を責める。
 羽依は己の変化に惑乱した。

「羽依、羽依」
 耳元に語りかけてくる佳羅の声に、羽依は我に帰る。
 佳羅の腕に抱かれたまま、羽依は気を失っていたようだ。
 鳶色の瞳が、惑う羽依の瞳を捉える。
「わたくし……」
 羽依の呟きを、佳羅の唇が吸い取る。
 ついばむように口づけると、佳羅は羽依を覗き込んで言った。
「あなたはわたしの正体を誰にも話してはならない。でないと、あなたの不貞も日に曝されることになる」
「不貞……」
 羽依は何気なく言って、躰を強ばらせた。
 今、佳羅と行なったいとなみは、不貞といわれるものだ。牽櫂に操を捧げた覚えはないが、事実的には罪をひとつ作ってしまった。
 佳羅は正体をひた隠すために、羽依をも巻き込んだのだ。
「離して――離して!」
 羽依は佳羅の腕から逃れるため抗う。
 佳羅はすんなり羽依を開放した。
 脱ぎ捨てられていた夜着を纏うと、羽依は佳羅に背を向ける。
「……心配しなくとも、わたくしは他言しません。今宵のことは、夢です」
 そう言い捨てて羽依は駆け出した。
 佳羅の視線が背中に突きささる。羽依は振り向けなかった。振り向くのが怖かった。
 もう佳羅を友とは呼べない。
 羽依が信じていた佳羅は女の佳羅だ。先程己を抱いた佳羅は、己が見知っている佳羅ではない。
 羽依のなかで何かが崩れた。
 猜疑の海に放り出され、羽依は溺れ沈んでいった。
 何も、誰も頼れない。優しい顔をしながら内ではどす黒い気が充満しているのだ。一体何をよりどころとすればいいというのか。
 房に戻った羽依は寝台に倒れ伏し、人知れず泣いた。


このページ先頭へ



 翌日、佳羅は至って変わらない表情で羽依の前に侍った。
 普通の女よりも艶やかでたおやかに女を演じている佳羅は、どう見ても男には見えなかった。挙動は優雅で気品に満ち溢れ、女の目からしても気恥ずかしくなってしまう女ぶりだ。
 羽依は知らず知らず佳羅を見つめていた。
 出来るだけ佳羅を無視しようとしたが、気が付くと佳羅を目で追っていた。
 佳羅も羽依の視線に気付き、羽依にだけ解る眼差しを送ってきた。
 羽依は目を反らし、俯く。
 意中から除こうとすれば、余計に佳羅の存在を意識してしまう。忘れようとすればするほど、昨夜の佳羅の腕の強さを生々しく思い出してしまう。
 素顔の佳羅は息を飲むほど美しかった。あれほど美麗な男がこの世にいることが羽依にとって意外だった。
 男にしては細い躰つきだが、漲る力は羽依を抱き潰してしまうほどだった。
 佳羅の唇が羽依の肌をなぞり、指が甘美の頂に連れ去る――。昨夜の一部始終は半日がたった今でも、脳裏にまざまざと甦らせることができた。
 羽依は焦燥した。
 佳羅の術中に見事にはまってしまったような気がした。ついに佳羅は己に枷をつけてしまった。
 羽依は居たたまれなかった。我が身をこの世から消してしまえるのなら、今すぐに消去したかった。
「羽依様」
 羽依は、はっと顔をあげる。
 揚樹が様子を気にかけて羽依の側にいた。
「何かお悩みでも?」
 羽依はじっと揚樹を見つめた。
 揚樹は羽依が稚いころから側にいて、羽依が心の内を何でも打ち明ける相手だ。
 羽依は揚樹に一言も話せなかった。
 佳羅の鋭利な視線が自らと揚樹に注がれているのに羽依は気付いていた。
 羽依は静かに頭を振る。
 話せないのは、佳羅に口止めされている理由からだけではなかった。
 胸の内が煩雑としすぎて、羽依は容易に口にすることが出来そうにないと思えた。
「そうね――少しもの淋しくなっただけ」
 羽依は赤く色付く景色に目を向けた。
「そういえば羽依様。
 昨日、上掛けとして用意した上衣が無くなっているのですが」
 揚樹の問い掛けに、羽依は息を止めかけた。
 昨夜、佳羅から逃げたとき、上衣だけ忘れてきてしまったのだ。
「あ――汚してしまって、捨てたのよ」
「捨てられられたのですか、どこに?」
 羽依は言葉に窮した。
 咄嗟の口から出任せ、ぼろが出ても仕方がない。
 佳羅が二人の間を割って入った。
「あの、わたくしが頂戴したのですが」
「そなたが?」
「ええ。あの繻子の上衣が余りにも美しかったので、無理に羽依様におねだりして……」
 佳羅は恥じらって頬を染めてみせた。艶であり可憐な風情は、とても演技とは思えない。
 揚樹は仕方なく吐息した。
「まあ、羽依様が下されたというのなら……。ですが、次からはちゃんとわたくしに相談してからにしてくださいませ、羽依様」
 揚樹は念を押す。
 羽依は秘かに佳羅の様子を伺う。と、佳羅の視線とかち合い、佳羅が不敵なほほ笑みを浮かべた。佳羅がいつも浮かべる笑いはこのほほ笑みだった。心に余裕があるからだろう。
 羽依は薄ら寒くなった。
 男である佳羅が、何故後宮に潜むのか――何の目的で危険極まりない真似をするのか、羽依には底知れぬ恐怖だった。

 羽依は憂欝だった。
 夜が更け、牽櫂の訪れもないので、羽依ひとり分の閨の支度が調えられはじめた頃である。
 佳羅が唐突に揚樹に申し出た。
「今宵から、わたくしが羽依様に舞をお教えいたしますので、わたくしに宿直をお任せ下さいませんか」
「舞をですか、この夜更けに?」
「ええ、その方が上達しやすいのです」
 抜けぬけと佳羅は言い切った。
 羽依には佳羅の目論みが何となく解った。出来るなら、揚樹に否と言ってほしかった。
「そうですね。そなたならば安心して任せることができるでしょう。頼みますよ」
 揚樹はあっさりと承諾してしまう。
 羽依は目を瞑りたくなった。
 揚樹が侍女達を引き連れ閨から下がったあと、佳羅は羽依に近付き、耳元に囁いた。
「亭で待っている」
 熱波が耳に入りこんだのかと思った。羽依は躰を硬直させ、佳羅が出ていくのを眺めていた。
 あれから半分ほど時を刻み、静謐とした空気があたりに漂っている。
 羽依は牀に腰掛けたまま、茫然としていた。亭に行く気は無い。
 羽依がため息を吐いたとき、衣擦れの音が聞こえた。
「どれだけ待たせる気か?」
 羽依は顔を挙げた。
 佳羅が冷めた面持ちで、羽依を見下ろしていた。
「そなたは、わたくしに何を望んでいるのです?」
「そなた? ――すでに、主従の関係は崩れたはずだが?」
 佳羅は悠然と羽依の隣に腰を降ろす。
 羽依は無意識に身体をずらそうとした。が、佳羅の素早い手によって引き寄せられる。
「わたくしは秘密を守ります。
 だから、これ以上あなたに抱かれる筋合いはありません」
 羽依は佳羅の腕の中で身じろぎする。
「これは心外な。
 あなたはわたしを求めているものだと思っていた。
 あなたが昼間、わたしをずっと意識していたのを、わたしが知らなかったと思っていたのか?」
 羽依はかっとし、手を振り上げる。
 羽依の手が頬を叩く寸前、佳羅は羽依の手首を掴み止めた。そのまま羽依の手を自らの唇に持っていく。
「や――やめて!
 わたくしに罪を作らせるのなら、一度で十分でしょう!」
 羽依は声を荒げた。
 上目遣いで羽依の紅潮した面を見、佳羅は羽依の指先を口に含む。
 羽依の全身に痺れが走った。痺れが、羽依の強固な鎧を引き剥がそうとした。
「一度でも何度でも、同じだ」
 呟きは羽依の胸元に落ちた。
 羽依を寝台の上に押し倒し、佳羅は羽依の夜着を剥がす。
 佳羅の為すがままにされながら、羽依は無性に哀しかった。
 畢竟、佳羅も牽櫂と同種の男だったのだ。己の躰を弄び、汚したかったのだ。
 激しく密着させてくる佳羅の肌の熱さに、羽依は翻弄された。
 羽依の躰は疼き、佳羅を易々と受け入れる。狂乱する肢体と精神が、羽依の中で分裂して悲痛な声をあげていた。
 牽櫂に凌辱され悲嘆にくれている自らを慰めた佳羅は、幻だったのだ。
 羽依を優しく包み込んでくれた佳羅の暖かさは、泡沫の夢だったのだ。
 佳羅が離れると、羽依は佳羅に背を向ける。
「羽依……」
 引き剥がすように離れた羽依に佳羅は声をかけ、凝結した。
 羽依は泣くのを堪えていた。
 佳羅の前で泣きたくなかった。涙を見せたくなかった。羽依は躰を震わせ嗚咽を堪えた。
 佳羅の手が羽依の肩に触れた。羽依の腕を取り、自らの胸に抱き込んだ。
「いや……いや! 触らないでッ!」
 羽依は堪えきれなかった涙を流し、佳羅を押し退けようとする。
「結局は、あなたも陛下と同じだったのよ! わたくしを弄ぶのが目的だったのだわ!」
「違うッ!」
 激しい声音に、羽依は声を飲む。
「違う――弄びたかったわけではない。
 戯れでもない。心からおまえを慈しみたかったのだ」
「――口では何とでも言えるわ。
 わたくしはあなたを信じていたのよ。あなたを友だと本気で思っていたわ。なのに、どうしてこんなことをしたの」
 羽依は詰問した。
 佳羅のしたことは到底、許せないことだ。が、羽依は佳羅の苦しげな表情を目のあたりにして、声をなくす。
 佳羅の鳶色の瞳が悲しみで揺れ、美しい眉を陰らせる。
 羽依の胸に痛みが走った。羽依は佳羅の頬に手を差し延ばした。
「確かに、わたしはあなたの心を裏切った。だが、元々わたしは男であって、女の心であなたの心に添うことが出来なかった」
 自嘲して佳羅は呟く。
 羽依は言葉もなく佳羅に見惚れていた。
 整った眉目に薄い唇が涼しげな面に見せていた。鳶色の瞳は優しい温かみを与え、ちらつく炎さえ羽依の心を暖める。
 羽依は涙を拭うのさえ忘れた。佳羅の唇が涙を吸い取るのに任せた。
 佳羅の唇が額に、頬に、耳朶に、目蓋に温もりを与えた。やがて唇は自然に羽依の唇に重なる。羽依は目を閉じ、佳羅の口づけに応えた。
 羽依は佳羅の胸に頭を抱きとられる。
「泣きたければ、泣けばいい」
 佳羅の言葉に吊られて、止まりかけた涙がまたも溢れてくる。羽依は佳羅の裸の胸に顔を埋め、泣きじゃくった。
 悲しみの涙ではなかった。羽依にはこの涙がいかなる涙が解らなかった。
 佳羅は涙する羽依を黙って抱き締めている。思い出したように羽依の滑らかな黒髪に触れたり、背を撫でたりした。
 その温もりは佳羅が女だと信じていたころのものと、寸分変わらなかった。お互い素肌を接していても、まったく違うものではなかった。暖かさは、甘露のような快さを羽依のなかに注ぎこんだ。
 誘われるがまま、羽依は微睡みに落ちる。
 目覚めたのは、頬に優しい感触を感じたからだった。
 佳羅が羽依の頬を撫で、羽依が目覚めたのに気付くと、佳羅は白い額に口づける。
「空が白みかけている。
 間もなく侍女達が起きだすだろう」
 そう言うと、佳羅は寝台から抜け出す。
 虚ろな眼をしばたかせる羽依の前で、佳羅は女物の衣装を着付けはじめる。
 羽依がはっきりと覚醒した頃には、長い髪をひとつに纏め上げ、紐で結びつけていた。
 美しい青年は姿を消し、見慣れた舞姫が出来上がった。
 寝台の側に落ちていた羽依の夜着を拾うと、佳羅は半身を起こした羽依の肩に掛ける。
 羽依はまごついた手つきで夜着を着込んだ。佳羅はその仕草を見てほほ笑んだ。いつもとは違う、自然なほほ笑みだった。
 羽依は男の腕の中で休んだのは初めてだった。牽櫂は自己本位に羽依を抱き、ことが済めばさっさと躰を離して閨から姿を消す。
 羽依は肌と肌を接して眠るのがこれほど暖かだとは思わなかった。佳羅の寝息が、ほんのりとした汗の匂いが羽依を包み込み、深い安らぎのなかで眠ることができた。
 不快感や嫌悪感はまったくなかった。
 驚きと戸惑いが心を締めていた。
 今、自らを見下ろす佳羅の眼差しは優しく、羽依の心をさざめかせた。
 佳羅は寝台の傍らに屈みこみ、羽依の上半身を寝かせた。
「まだ起きるのには早い。
 わたしはここで宿直をしているから、もう少し眠ればいい」
 佳羅は羽依に夜具を被せた。
「佳羅……わたくしは夜枯れているとはいえ、皇帝の妃なのよ。わたくしと通じることを危険だと思わないの?」
 羽依はためらいながら聞く。
 佳羅は羽依をじっと見つめた。
 羽依は目を伏せる。
「わたくし――あなたの気が済むまで、あなたに応えるわ。それで、わたくしが口外しないと解ってもらえるのなら。
 あなたが言ったとおり、一度抱かれるのも何度抱かれるのも罪を作るという意味では同じだわ。
 それでも、正体を隠すあなたとわたくしが情を交わすのは、身を滅ぼすほどの危険を伴う恐れがあるはずよ」
 羽依は佳羅が意を翻すことを秘かに願った。が、それを聞いても佳羅の表情は変わらなかった。
「覚悟の上だ。
 あなたとわたしは共犯者であり、あなたはわたしの協力者となるだろう。
 あなたに危機が及ぶときは、わたしの危機だ。わたしがそれを防ぐ」
 羽依も佳羅の面を見つめ返す。
 どうして、こうはっきりと言い切れるのか。羽依はいまさらながら佳羅という存在を不思議に思った。
 佳羅が自らに仕え初めて数か月経ったが、佳羅は誰にも正体を悟られることなく女を演じきっていた。胆力も、そうとうなものだ。
 佳羅を怖れているのは変わらない。が、己が完全に佳羅の手に絡めとられてしまったのも事実だ。佳羅の恣意でいくらでも己の運命を変えられてしまう。逃げようがなかった。
 それでも、羽依の心は佳羅の瞳に吸い寄せられた。温かみのある鳶色の瞳が、羽依を引き付ける。
「わたしとあなたは同じ罪の上で理解者にもなれる。この世の誰よりも一番近しい場所にいるのがわたしだ」
「あなたがわたくしを巻き込んだのに、よくそんなことを――」
 羽依は皮肉を口走る。
 佳羅が言っていることは真実だろう。この罪を知っているのはこの世のなかで互いしかいない。互いにしか解りあうことができない。
 羽依は佳羅の不敵が乗り移ったようなほほ笑みを浮かべた。
「あなたは共犯者。
 恋人でも情人でも、夫でもないわ。
 わたくしは余儀なくあなたに抱かれるけれど、それだけは理解して」
 きっぱりと言い切る。
 佳羅は一瞬目を大きく開き、羽依と同じ笑みを刷いた。
「なるほど、それも面白い」
 愉快そうに言うと、佳羅は羽依の唇に唇を寄せる。
 佳羅と初めて逢った宴の夜、契約だと称して口づけを交わした。
 あの夜の契約は牽櫂によって妙な形で破られた。
 今、交わす口づけは新たな契約であり、絶対に破られてはならない秘密の口づけだった。
 羽依は佳羅の背に腕を廻した。


このページ先頭へ



 羽依が佳羅と秘密の逢瀬を重ねるようになって、三月経った。
 木々はすべて落葉し、殺風景で凍てつく冬がやってきた。
 北宇は大陸の中でもっとも冷込みが厳しい土地柄だ。雪がちらつき始め、苑池に氷の膜が貼った。
 瑞鶯殿の各部屋の至る所に火鉢が置かれた。木炭の爆ぜる音がせわしなく響く。
 羽依は暖かい部屋の内よりも、庭苑に出ることを好んだ。
 地面には雪が敷き詰められ、冬枯れてしまった木々の枝に、柔らかな雪が飾りを添えられる。
 回廊の内に小さな席をつくらせ、羽依は飽きることなく雪を眺めた。
 佳羅は寒さが苦手なようだった。
「羽依様、お風邪を召します。
 はよう屋内に入りましょう」
 佳羅は何度も羽依の袖を引く。
 羽依は沈着冷静な佳羅にも苦手なものがあったのかと、面白がった。佳羅の意外な一面だった。
「どうして、わたくしもう少し雪景色を観ていたいわ。こんなに綺麗なのに、佳羅は雪が嫌いなのね」
 くすくす声を発てて笑う羽依に気を損ねて、佳羅は拗ねた面持ちをする。
 ――この人にも、こんな可愛い一面があったのね。
 羽依は心の中が、ほのぼのと暖かくなった。
 女を演じている時の佳羅は艶冶であり、夜、羽依の前でだけ戻る男の素顔は怜悧だった。そんな佳羅のもうひとつの顔だった。十八歳という年齢を思わせた。
「雪は、嫌いではありません。
 むしろ、好きなほうです」
「あら、でも早く部屋に入りたいのでしょう?」
 羽依は少し意地悪をする。
「寒さが苦手なのです。
 わたくしは南方に生まれたので――」
「そうなの?」
 初耳だった。
 少し苛めるつもりで言ったのだが、思わぬところで佳羅の秘密を知ることができた。
 佳羅はやっと平生の面相に改め、しみじみと告げる。
「初めて雪を観たとき、それはそれは物珍しくて――、一日中、雪と戯れていましたわ。
 そうしたら、指に霜焼けをたくさん造ってしまって……次の日、痛みを堪えるのに必死でしたわ」
 佳羅は天に視線を泳がせる。
 先には、風に乗って粉雪が降り注いでいた。羽依も同じ所に目線を飛ばす。
「……もうよろしいですか?
 わたくし、一刻も早く中に入りたいのですが」
 佳羅の苦言に、羽依は優雅にほほ笑むと腰を上げる。侍女が小椅子と火鉢を持ち上げた。
 侍女達は二人が醸す和やかな空気に、ほうと息を吐いた。
 昭妃・羽依と燐佳羅は互いに美麗であり、並ぶと絵になった。二人の呼吸はひとつのずれもないほど一致していて、見るものに笑みを与えた。
 が、さすがの侍女達も佳羅と羽依の秘密の交わりを知らない。まして、燐佳羅が男だとは、さらさら察知していなかった。
 牽櫂の訪れがない夜、決まって二人は逢瀬を重ねる。
 始め、佳羅の要求に泣く泣く応えていた羽依だったが、牽櫂に抱かれるときに感じるような嫌悪感を佳羅に対してはまったく感じず、押し寄せる快楽に惑い、溺れた。
 佳羅は羽依を優しく慈しんだ。
 羽依の肢体を丹念に愛撫し、羽依のかたくなな躰をゆるゆると解いた。
 次第に羽依が堅く鎧っていた心も、分厚い氷が春の日差しに解けるように溶けていった。
 羽依は躰のすべてで佳羅に応えるようになった。心もやがて付随するようになった。
 ――わたくしは佳羅に抱かれるのが嫌ではない。嫌ではないけれども、この感情が何なのかも解らない。
 行為が終わったあと、羽依はいつも考え込む。
 羽依は互いに共犯者だと初めに佳羅と誓った。あの誓約は今も生きている。
 さすがに牽櫂が閨に訪れた夜は、肝が凍り付くかと思われるほど恐怖するが。
 牽櫂に抱かれたとき、無感情で嫌悪感があるのは変わり無かった。ただただ、牽櫂が為す一切のいとなみがおぞましかった。
 佳羅がそのあと羽依を慰めてくれるのも、以前と変化がない。が、羽依を抱く腕に、何故か強い力が籠もっている。羽依が悲鳴をあげたほど苦しいときもあった。
 今や羽依にとって佳羅は一番近しい人だった。心だけがお互い解りあえないものだった。
 佳羅は何故、女の身形をして後宮に潜むのか、教えてはくれない。うまい言葉で適当に羽依の注目を躱し、飄々と逃げる。
 初めて抱かれた夜、何故己を殺さなかったのかと聞いても、はかばかしい返事は得られなかった。
 その質問をすると、佳羅は沈黙してしまう。自分でも、何故だか解らないと毎回言う。それは本当のことかもしれない。羽依も、何故佳羅に抱かれるのを嫌がらないのか解らなかった。
 嫌悪がない今、佳羅が羽依に為す行為は凌辱ではない。だからといって、愛し合っているわけでもない。躰と躰で契約を交わしているといったところか。思えば、変わった関係だった。
 佳羅は昼間、そつなく女をこなし、羽依との妖しい関係をおくびにも出さない。羽依も我ながら鉄面皮と思えるほど平気でみなに嘘をついていた。
 ただひとり、揚樹を除いてはだれも二人を疑った者はいなかった。
 揚樹はいまや二人の大事な協力者である。
 佳羅を羽依の閨に手引きするのも、揚樹の役割だ。
 揚樹にことが知れたとき、羽依は進退極まり、血の気が引いた。
 秋が逝ってしまう頃であった。


 稚い頃から羽依に仕えていた揚樹は、敏感に主人の変化を察知した。
 羽依が甘く溶けてしまうような雰囲気を匂わせ、天性の美しさに拍車がかかったように見えたのだ。
 よく観察してみれば、付かず離れずのところに佳羅がいた。微妙な距離に二人はいた。
 佳羅の様子もおかしかった。
 艶麗な仕草はいつもと変わらないが、時折羽依を見つめる瞳が、婀娜さを払拭した玲瓏さをたたえている。穏やかで熱く、深い眼差しが、羽依の肢体に絡み付く。
 羽依も佳羅の視線に気付いているのか、暫時、瞳に艶が籠もる。本人は己がそんな目をしているとは、まるで気が付いていないようだったが。この瞳を、羽依は誰にも見せたことがなかった。夫である牽櫂にさえ見せていない。たゆたう色香が、揚樹の胸を突いた。
 ――まさか、羽依様は佳羅に想いを?
 とても信じられない仮想である。
 第一、女同士でありえないだろう。倫理的には人の道を外れる想いだ。
 揚樹は蒼白になった。もし、自らの仮定が正しければ、羽依は人の道を外している。
 確かに、佳羅は中性的な魅力を放ち、それに惑わされる侍女や宦官も多かった。
 羽依に邪道を走ってほしくなかった。
 揚樹はこんな羽依を見るために長い間仕えていたはずではなかった。
 毎夜、舞の指南と称して佳羅と羽依が二人だけで逢っているのも危ういことだ。もしかすると、すでに二人は禁断の果実を味わったあとかもしれない。
 ――確かめなければ、今宵にでも。
 揚樹は決意した。
 宵闇が天に立ち篭めると、いつものように侍女達と協力して羽依の閨の支度をした。
 侍女達を部屋の外に追い立て、羽依を寝衣に着替えさせると、揚樹自らも房を辞した。
 佳羅は羽依の身仕度を替えるとき、すでに姿を消していた。どこに行ったのかは、見当がつかなかった。
 揚樹は羽依の閨房の隣にある小部屋から、主人の様子を探る。
 しばらく、羽依は物音ひとつ発てなかった。揚樹が耳を峙てるのに疲れた頃、長く流した裾を引きずるさやかな音が耳に入った。
 足音をさせずに羽依が廊下を渡る。揚樹はそろりとあとを追う。
 羽依が向かったのは庭苑だった。回廊を過り、階を降りて亭に入った。
 揚樹は亭からすこし隔たった木陰に身を潜め、のぞき見た。
 亭には、思ったとおり佳羅がいた。化粧を落とした面はいつもと違う印象を揚樹に与えた。
 ためらいながら羽依が佳羅に寄り添う。
「ここで逢うのは危険ではないかしら。
 場所を変えたほうがよくない?」
 音量を落とした声だった。
「そうだな――。近いうちに場所を移す」
 佳羅の声は、普段の声帯より低く、よく徹っていた。
 とても、女の声とは思えなかった。
 揚樹の目が光っているのを知らずに、二人はい抱き合い、接吻を交わした。
 我が目を疑う揚樹の前で、佳羅の唇が羽依のうなじを這い、羽依はかすれた吐息を漏らす。
 疑いようがなかった。揚樹の仮定は肯定に変わった。
 揚樹は動けなかった。瞠目して閉じることができない揚樹に、羽依の白い肌膚が映った。寝衣の前をはだけさせ、佳羅は羽依の胸元にも唇を押しあてた。
 羽依のあえかな喘ぎが揚樹の耳を汚した。
 揚樹は聞きたくなかった。
 羽依が佳羅の上衣の袷に手をかけ、くつろげた。そこには、柔らかな乳房が――なかった。平らかで、すべらかな胸があった。
 ――男!
 佳羅の正体に、揚樹の脳裏から言葉が抜け落ちる。愕然として、隔てにしている木の幹に縋った。絹が擦れる音がし、四阿の二人が顔を上げた。
「揚樹!?」
 咄嗟に羽依は袷をかき寄せる。
 佳羅の針のように尖った瞳が、揚樹に突きささった。
 ゆらり、と自らの躰から離れた佳羅に、羽依は危惧を覚える。
 佳羅を隠し持っていた短剣を持ち出し、鞘を払った。
 揚樹の身が危険だった。
「か、佳羅、止めて!
 揚樹を殺さないでッ!」
 羽依は揚樹に駆け寄り、侍女を背に庇う。
「どけ、羽依!
 知られたからには、口を封じねばならぬ!」
 羅刹を思わせる佳羅の面相に、揚樹は震えあがった。
 羽依は一歩も引かなかった。
「揚樹を殺すなら、わたくしを殺してからにして!
 わたくしのせいで、揚樹を犠牲にはできないわ!」
 羽依は精一杯の気迫を込めて叫ぶ。
 揚樹は羽依にとって誰よりも大事な人だった。稚い頃から側にいて、自らの上に不幸が降りかかってきたあと慰めてくれたのは揚樹だった。揚樹は母に等しかった。
 揚樹を守るためには、自らの命を盾にしてでも佳羅の殺意を拒まねばならなかった。
 佳羅がどれだけ睨み付けても、羽依はびくともしなかった。女の意地で羽依は睨み返してきた。
 低く唸ると、佳羅は突き付けた短剣を降ろした。
「……あなたは、揚樹の口を封じることができるか?」
「ええ、絶対に」
 羽依の額に汗が伝った。
 無言で主従を見つめていた佳羅は、不意に踵を返した。羽依に背を向け、回廊に続く階を登った。
 佳羅を見送った羽依は力が抜け、その場にへたりこむ。
「……羽依様、どういうことなのです?
 佳羅は男なのですね?
 いつから佳羅と契られるようになられたのですか?」
 羽依を抱き起こしながら、揚樹はひっきりなしに聞いてきた。
 揚樹の手のひらに委ねられた羽依の手が震えていた。恐ろしく緊張する一瞬だった。羽依は先程の佳羅が、本気で恐かった。
 呼吸を落ち着かせ、羽依は揚樹の質問を止める。
「……揚樹、部屋に戻ったら、お茶を入れてくれない? 順を追って説明するから……」
 羽依はそれだけ言って先に回廊に向かった。揚樹もあとに続いた。






破砕の楽舞(2)へ


このページ先頭へ