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炎煌の舞姫(1)へ



 佳羅の言葉は、羽依の心を真正面から貫いた。
 羽依の深層を見事に抉りだし、曝け出した。結局、羽依は佳羅との口づけをずっと意識していたのだ。もうすでに、佳羅に引き付けられていた。
 陶嬪のうっとりとした表情、侍女達が佳羅に寄せる好意――。確かに、危険さゆえに、佳羅は人を魅了する。
 そこまで理解して、羽依は確信する。
 ――でも、わたくしは佳羅にときめいてはいない。
 殿舎の中、人々に囲まれながら羽依はそう思い込もうとしていた。
 ――わたくしは、まだわたくしだけのもの。
 まだ己は、佳羅に反発する気持ちを持っている。即ち、佳羅に捕われているわけではない。
 羽依は静かに笑みを浮かべた。
「何が可笑しいのですか?」
 側にいた侍女が訝しんで羽依に尋ねた。
「いえ、何でもないわ」
 口を濁して、羽依は団扇を玩んだ。
 主人の機嫌が良いと、殿舎の雰囲気も朗らかになる。
 朗らかな雰囲気は、室内に入ってきた侍女によって壊された。侍女は薄用紙の書簡を携えていた。
 侍女は羽依の席に走りよって、跪く。
「昭妃様、今宵、皇帝陛下がお見えになられるそうです」
 羽依の顔色が変わった。
 侍女から書簡を受け取って静かに開く。
 癖のある字で、来訪の意が書き留めてあった。
 羽依はため息を団扇で隠す。
「陛下の食膳の支度を厨房に報せなさい」
 待機していた侍女にそれだけ告げた。
 羽依は席を立つと、扉の前にいる佳羅を呼んだ。
「今宵、陛下が参られますので、そなたの舞を奉じてもらいます。そのつもりで」
 抑揚の無い声でそれだけ語ると、羽依は身仕度を替えるために帷の中に入った。
「お心のままに……」
 恭しく佳羅は頭を垂れた。
 それより半刻のち。
 乱れかけていた髪を直し、華奢な衣装に改めた羽依の面は表情という表情、すべてを無くしていた。
 衝立ての陰に控えていた佳羅は、羽依の盛装を目のあたりにして、目を細めた。
 ――あれは、蝋人形か?
 青白くさえある透明な肌や浮き立った印象を与える紅梅色の口紅が、情感のない面相を際立って美しくしている。
 呼吸のため上下する胸や、しばしば繰り返されるまばたきが、かろうじて生きた女だと教えていた。
 最前、己の頬を叩いた女と同じだとは思えない。
 房内に白檀の香が薫かれ、甘美でまろやかな薫りが、皇帝の来訪を待っていた。
 侍女達が慌ただしく酒膳を運んできて卓子の上に行儀よく並べた。
 漆塗りの小椅子に腰掛けた羽依は、整然と調えられていく宴席を虚白の念で眺めている。
 佳羅が瑞鴬殿に入ったことによって、楽女等もともに後宮に仕えることになった。笛や笙、琴や琵琶が試楽を始めた。
 陰欝な様の羽依の傍に寄ると、佳羅は跪く。
「羽依様、羽依様がいつも用いておられる団扇を貸していただけませんか」
 羽依は漂う眼差しを佳羅に向け、何も言わずに団扇を差し出した。
 団扇を受け取ると、一礼して佳羅は房室から下がった。


 皇帝・牽櫂は斜陽を負って羽依の前に現われた。
 羽依は腰を上げ、皇帝に黙礼した。
 牽櫂は羽依を見ないまま、深衣を侍女に手渡す。
 あからさまに険しい表情で、牽櫂は上座に座り込んだ。
 牽櫂が杯を手に取ると、心得たように羽依は清酒を注いだ。牽櫂はそれを一息で乾す。その間、二人とも一言も口を聞かないままである。
 牽櫂は酒肴を黙々と口に運び、羽依は瓶子を傾けた。
 ふたりが同じ動作を繰り返している内に、日が沈んで房内に華燭が灯った。
 牽櫂は瞬時、箸を使う手を止める。
「羽依、そなた……」
 羽依が目線を上げたその時、である。
「燐佳羅殿の支度が調った模様でございます」
 皇帝の声を遮って侍女が告げた。
 牽櫂は続きを言わず、手を挙げて肯定の合図をした。
 拍板の拍子が舞の始まりを告げ、待機していた侍女達の甘い吐息を誘った。
 琴や笛が哀調を帯びた音を奏で、笙が清澄な響きを添えた。
 宴の舞とは違う、緩慢とした調子。ゆるゆると優しい調べがそこにいる人々の感傷を呼び起こした。
 羽依は怏々と晴れない心が払拭されていくのを感じていた。
 今宵の佳羅の装いは簡素ながら気品のあるものだった。寒色系にまとめられた単衣と下裙に、色とりどりの飾り紐を絡ませ括り付けてある。長く引いた筒型の袖を楽にあわせて振り上げ、ゆらゆらと舞わせていた。
 羽依は、あっ、と声を洩らした。
 先程、己が貸した団扇を片手でくるくると回していた。
 緩やかな奏楽に合わせて、ことさらゆっくり佳羅は肢体を動かす。
 伴奏から少しも外れる事無く、片足を爪先立たせて旋回した。たゆたうように四肢を反らし、袖を操った。
 宴の舞は火炎を連想させた。
 だが、今宵の舞は異なった印象を与えた。
 ――今度は、水だ……。
 羽依は背筋が痺れたような感触を覚えた。痺れは優しく羽依の躰の中に染み込んだ。
 さざめく水面さながらに、佳羅を穏やかな面をしていた。舞の中で、佳羅は美しさを際立たせていた。平生も美麗だが、舞神が乗り移って幽遠な美しさを醸している。
 羽依はしばしの間、惚けていたようだった。我に帰ったときには、佳羅は目の前にいて団扇を掲げていた。
「お預かりしていた団扇をお返しいたします」
 恭しく差し出された団扇を手に取り、羽依は頬笑んだ。
「見事であったぞ、燐佳羅よ。
 杯をとらそうぞ、こちらに来よ」
 牽櫂は軽快に言うと、杯を佳羅に突き出す。佳羅は杯を受け取り、口を付けた。
 佳羅は杯を皇帝に返した。
「わたくしの名を覚えていただき、光栄に存じます」
「うむ、宴の夜のそなたとの口づけ、忘れられなんだぞ」
 羽依は、ひやりとした。
 牽櫂と佳羅を見渡すと、ふたりとも余裕の態である。
「今宵ここに参ったのは他でもない、そなたの躰を味わってみたかったのよ」
 佳羅は悠然と頬笑んだ。
「まあ……昭妃様を差し置いてでございますか?
 これでは、わたくしは昭妃様に顔向けできませぬ」
 牽櫂は佳羅の頤をとった。
「宴の夜はもう少しでそなたを落とせそうなところであったのに、恵夫人に邪魔されて思うようにいかなんだ。
 あの夜から、そなたのまだ見ぬ躰が脳にちらついていかぬわ」
 やはり、牽櫂は今宵、佳羅を閨に召すつもりなのだ。あの夜、あれほど佳羅は牽櫂に抱かれるのを嫌がっていた。しかし、もう逃れられない。羽依は額に伝う冷汗を拭うことも忘れていた。
 羽依は、知っていた。牽櫂の佳羅に対する興味を逸らす唯一の方法を。
 佳羅の方に身を乗り出している牽櫂の袖を取って、羽依は囁いた。
「陛下……今宵は、わたくしを愛されるためにここに参られたのではないのですか」
 牽櫂は振り向きざまに羽依を睨む。
「邪魔をするか、羽依!」
 牽櫂が、羽依のどの表情を好んでいるのか、羽依は解っていた。
 羽依は俯いて、潤んだ瞳で上目遣いに牽櫂を見た。羽依の瞳が眩く光った。
「陛下……わたくしは淋しゅうございました……」
「羽依……?」
 信じられないように牽櫂を羽依を見た。
「そなたは、おれに触れられるのが嫌だったはずだろう」
 羽依は頭を振った。
「わたくしにとって、縋れる方は陛下しかおりません。わたくしは、陛下の情愛なくしてどのように生きていけばよろしいのでしょう」
 羽依は、嘘をついた。父母を裏切る嘘を、である。
 そうでもしなければ、牽櫂を佳羅から引き離すことができなかった。
 牽櫂は羽依に向き直り、侍女達の前で羽依に接吻した。唇をついばみ、羽依の口腔の中に舌を侵入させた。羽依は黙ってそれに耐える。
 佳羅は、羽依のとった行動が信じられなかった。羽依は、牽櫂の執着を嫌悪していたはずだ。
 揚樹が佳羅の袖を引いた。
「はよう、この部屋から退出しましょう。
 皇帝陛下はこと夢中になられると、衆目など意に介されぬ。
 そなたは、羽依様のお心に感謝するべきですよ」
 房から出て、揚樹は佳羅を諭した。
 佳羅は暗然とした。
 羽依は己を庇って牽櫂に身を投げ出した。愚かな事、と言い捨ててしまえばそれまでだが、己のためにここまでしてくれた人間が今までいたろうか?
 羽依は今、己の身代わりとなって、牽櫂に凌辱されている。
 佳羅は心が重かった。羽依という存在の重さが、頭からのしかかってきそうな予感がした。


 牽櫂が羽依の閨房から去ったのは、黎明を見た頃合であった。
 夜通し華奢な肢体を抱きすくめ、満たされなかった渇きを女人の躰にぶつけた牽櫂は、晴れ晴れとした面持ちで侍女たちに告げた。
「今宵もまた尋ねると、羽依に伝えておけ」
 嬉々として余韻に浸る牽櫂に、侍女は黙礼をした。
 佳羅にとっては延々と永い一夜だった。
「羽依様とお話をしたいのですが」
 期を侍して佳羅は羽依の閨に待機していた揚樹に尋ねる。
 揚樹は逡巡したが、佳羅の真摯な眼に頷いた。
「羽依様に目どおりしてもかまわぬのと思いますが……はたして、羽依様が御返事を下されるかどうかまでは量れません。それでもよろしいのなら」
 揚樹は閨門の帷を開けた。
 帷を潜ったとたん、甘い白檀の薫りが佳羅の躰にまとわり付く。
 燭台一本の灯りが房の内をほんのりと明るくしていた。奥まった一角に、羅の帷で覆われた寝台が置かれている。
 寝台の上に昨夜の嬌態の名残があった。錯乱した衣装が寝台の周辺に散らばっている。
 乱れた夜具に埋もれるようにして、俯せの格好で羽依は横たわっていた。
 滑らかな背中が皎然と闇のなかに浮かび上がっていた。乱れかかった黒髪が白い玉膚に絡み付き、なまめいて見える。
 佳羅は密やかに寝台に近付き、羽依のまろい肩に掌を置く。
 羽依の躰が竦慄した。寝台の端に飛びすさり、羽依は寝具で裸の胸を覆った。
 恐怖で顔を引きつらせ、顕になった肩を震わせた羽依の姿態が、佳羅の胸を突いた。
「羽依様――」
 相手が佳羅だと認めて、羽依は表情を緩める。
 羽依の呼吸が落ち着くまで、佳羅は辛抱強く待った。
「羽依様……昨夜は、わたくしを庇って下さって恐縮の極みです――」
 鬱屈とした面持ちで佳羅が告げたのを見て、羽依は無理に笑った。
「そんなこと……それより、そなたが哀しみを味わわずにすんで、良かったと……」
 これが、羽依の限界だった。
 羽依は面を両の手で覆って突っ伏し、躰を震わせた。
「羽依様……」
 羽依は嫋々と呟いた。
「もう……よいでしょう。わたくしをひとりにして……」
 嗚咽に塗れて羽依は声を出せなかった。
 佳羅は躊躇いがちに羽依の髪に触れた。砧で打ったあとの絹のような肌触が掌に心地よい。
 佳羅は羽依の細い肩を抱き起こすと、胸元に抱き寄せた。
 羽依の怯えが、躰を通して佳羅の心に伝わってくる。
「羽依様――ひとりになっては、いけません。
 ひとりは淋しい。ひとりになると、闇に心を喰われてしまいます――」
 羽依の緊張が佳羅の躰の温みで癒され、解けていった。暖かさの中で羽依が出来ることは、泣くことのみだった。
 羽依は佳羅の胸に顔を埋めて、嗚咽しはじめる。佳羅は幼子にするように、羽依の背中を優しくあやした。
 佳羅の暖かさの前では、憎しみや哀しみ、怒りも軽く解けてしまう。
 羽依は人の暖かさ、優しさを遠い過去の思い出から呼び起こしていた。


 羽依は心地よい微睡みのなかでたゆたっていた。
 波に揺られるように、微風に吹かれるように、水鳥の羽根にくるまれるように羽依は心を休めた。
 はなはだ、めずらしいことだった。
 牽櫂に抱かれたあとだというのに、深淵の淵に堕ちていく悪夢に羽依は魘されなかった。
 羽依は眠りがこれほど心地よいことを初めて知った。


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「羽依様、羽依様――」
 呼ばれて、羽依は薄く目蓋をしばたいた。
「もう、昼近くなってしまいました。
 揚樹殿が心配なさっておいでですが――」
 爽やかで心持ち低い声音が、羽依の耳に入ってきた。
 羽依は、ぱっちりと目蓋を開ける。
 見上げると、佳羅が頬笑んでいた。
「佳羅……?」
「羽依様、よい微睡みを得られましたか?」
 しばらく考え込んで、羽依は、はっといた。羽依を優しく包み込んでいるものは、佳羅の腕だった。
「か、佳羅……わたくし、眠り込んでしまっていたの?」
「はい」
「起こしてはくれなかったの?」
「あまりにも心地よさそうな寝顔だったので、お起こしするに忍びなかったのです」
 羽依は真っ赤になって佳羅から離れ、さらに顔を紅潮させる。
 一糸纏わぬ姿、である。
 生まれたままの姿で、佳羅に抱かれて眠っていたのだ。慌てて羽依は寝衣を羽織った。
 佳羅は羽依の焦った仕草を見て、朗らかに笑った。
 夜着を纏いつけて、羽依は沈思し、佳羅を見つめた。
「羽依様?」
「どうやら――わたくしはそなたに慰められていたようですね」
 頬を染めて、羽依は顔を伏せる。
「何をおっしゃいます。わたくしは昨夜、羽依様に助けていただきました。
 下世話な言い方で失礼ですが、貸し借り無し、といったところでしょうか」
 澱みなく佳羅は言う。
 羽依はますます深く俯き、弱々しい声質で呟いた。
「あ……ありがとう……」
 佳羅は一瞬、目を見開いた。目を見開き、面白そうに破顔した。
「な――何が可笑しいの?」
 羽依は当惑した。
「いえ……その、あまりにも真面目におっしゃるので……。
 それに、損得勘定でまたまた失礼ですが、そのお言葉では、わたくしは得をしすぎます」
 羽依は怪訝な顔をした。
「わたくしは、朝方羽依様と過ごさせていただいて、滅多に見られぬものを見させていただきました。
 新入り侍女のわたくしごときが、素裸の羽依様を抱く光栄をいただき、その上、あどけない羽依様の寝顔を見させていただきました」
「か……佳羅ッ!」
 羽依は噴火しそうなほど赤い顔をした。またぞろ、佳羅は声を発てて笑う。
「女といえども、羽依様の柔らかい肌はそそられるものがありましたわ。さすがは、北宇の名花だと、感心いたしました。
 なかなか、甘美な一時でしたわ」
 羽依が佳羅の頬をまたも叩こうと手を挙げ、佳羅は身を捩って逃れた。
「か……佳羅、そなたに身を預けたのが間違いでした! わたくしは何故こんな愚かで馬鹿なことをしたのかと……」
 子供のように怒る羽依を眺めて、佳羅は一息吐いた。
「やっと、昨日の昼の元気が戻りましたわね。鬱々とした羽依様を見るのは、こちらも辛うございました」
 羽依は、振り上げた腕を悄然と下げた。
「佳羅――」
「羽依様は、笑っておられるほうが魅力的です。
 皇帝は暗い羽依様しかお知りにならないで、何故に羽依は我がものよ、と叫ぶことが出来るのでしょうね」
 羽依はうな垂れた。
 腕を交わしながら、牽櫂が今夜も来ると言っていたことを思い出す。羽依は気が重かった。
 羽依の様子を見て、佳羅は羽依の両肩を掴んだ。
「羽依様、そんな顔をなさいますな。
 羽依様が辛い時も、悲しい時も佳羅はいつも傍におります。羽依様がいつでも縋れるように傍におります」
 佳羅は羽依の黒々とした双眸を覗き込んだ。佳羅の鳶色の瞳が、強い光を映す。
 羽依はしばし佳羅の瞳から目を反らせなかった。
 羽依を昨夜の佳羅の舞に水を見た。
 だが、佳羅の本質はやはり炎だった。激しく燃え上がる火炎だった。爆ぜる炎が、佳羅の瞳の奥でちらついていた。
 羽依は、稚い仕草で頷いた。


 しかし、その夜、牽櫂は瑞鴬殿に現われなかった。
 羽依のもとに出掛けようと支度していた牽櫂の前で、恵夫人が悋気を起こしたのだ。
 覚悟をしていた羽依は、牽櫂の来訪の沙汰止みの報せを受け取って、安堵した。
 午餐のあと、侍女達に囲まれて囲碁で遊んだ。
 今朝目覚めてから、羽依の心は驚くほど凪いでいる。これほど穏やかで心安らいだのは幾久しかった。
 おそらく、佳羅の温もりに癒されたからだろうと羽依は考えていた。
 揚樹も、佳羅の存在がこれほど羽依にとって効果的だとは思ってもみなかったので、浮き立つ足取りで舞のお浚いをする佳羅のもとに向かう。
 呆気にとられる佳羅を捕まえ、揚樹はいきなりこう切り出した。
「佳羅殿、是非にも羽依様の側付き侍女となってもらえませんか」
 佳羅は多分に意外だった。
「揚樹殿――されど、わたくしは羽依様にお仕えしてまだ間もないのですよ。
 わたくしが先達侍女達より先に筆頭侍女となってしまえば、嫉みや嫌悪感を抱かれることにはなりませんか」
 揚樹は明るい顔をした。
「羽依様には、やはりそなたが必要です。
 いつもならば、羽依様は牽櫂さまの訪れのあった次の朝にはお心を閉ざしてしまわれて、お言葉も出されなかったのです。
 ですが、そなたがずっと羽依様の傍にいてくれたおかげで、今日の羽依様は笑うておられる――。
 羽依様に必要なのはわたくしではなく、侍女達でもない。まして皇帝ではまったくない。そなたひとりのようです」
 佳羅は眉を顰めた。
「佳羅殿――そなたは、嫌なのですか?」
 陰を帯びた佳羅の顔に、揚樹は不安になった。が、佳羅はにっこりと微笑み、否、と言った。
「わたくしごときがお役にたつのなら、喜んで」
 揚樹は喜色を面に浮かべた。
「ならば――そなたに聞いてもらいたいことがあります。
 羽依様のお生れとその運命の道行き、そして市井の悪意に満ちた噂を……」


 昭妃・羽依は稀代の妖女と市井で囁かれていた。
 皇帝・牽櫂は昭妃・羽依に拘泥するあまり、国の財をほとんど使い果した。
 北宇は貧窮し、民人は飢えた。
 頽廃しきった皇帝と廷臣が対策法としたのは、労働力である民人から小作物や金子を搾り取ることだった。
 揚樹は羽依の両親、昭基演と宝扇公主の末路、皇帝の羽依に対する非道と度を逸した惑溺、羽依にまつわる民人の怨恨を佳羅にとくとくと聞かせた。
「皇帝陛下は……羽依様のお心を握り潰してまで、羽依様を我がものとなさった。それこそ、羽依様の血の繋がった肉親まで殺して。
 だから、そなたには解ってほしいのです。羽依様も運命に弄ばれておいでだということを。羽依様は市井で言われているような妖女ではないということを」
 揚樹の科白に、佳羅は黙り込んだ。綺羅とした瞳を陰らせ、表情が掻き消える。
「そなたは舞姫、貧困のために躰を売ったこともあるのでしょう。そなたも羽依様に恨みを抱いたことがあったかもしれません。
 ですが羽依様はご自身の意志と関係の無いところで運命を決められ、歩まされておられるのです。非情な運命という意味では、きっとそなたと羽依様は似通っているのです」
 強く目を瞑ると、佳羅は唇の端を釣り上げる。
「佳羅殿?」
 不自然な佳羅の笑みに、揚樹は顔色を曇らせた。
「不幸な運命――たしかに、そうかもしれません。
 ですが、羽依様ご自身がひとつの運命の紡ぎ手だとは、どうして思われないのですか」
「佳羅……わたくしの不必要な一言が、辛い記憶を呼び起こしてしまいましたか」
 佳羅は頭を振った。
「そうではありません。わたくしはむしろ羽依様に好意を抱いております。
 わたくしが言いたいのは、羽依様はご家族を滅ぼされ、その敵のものとなられた、その悲劇しかどうして見られないのかということです。民人の不満なども問題にしてはおりません」
「佳羅……?」
「羽依様のご両親がお亡くなりになられた年、羽依様に関わるある悲劇が起こったことを、揚樹殿は覚えてはおられませんか」
 揚樹は考え込んだ。あの年は色々なことが起こりすぎて、それも思いだしたくもない事柄が多すぎて今まで思い出すことさえなかった。
「南遼が何故滅ぼされたのか……これが羽依様のせいではないと、あなたは言い切ることが出来るのですか?
 羽依様が南遼の第二王子と婚約されていたせいで、何の罪もない人々がすべて殺められました。南遼の地には塩が撒かれ、今では雑草ひとつ生えないそうではありませんか。
 羽依様はたしかにお可哀相なお方。でも、羽依様のお命と量りにかけて、どれだけの人々の命が散らされたのでしょう」
 揚樹は言葉を無くす。
「そなたは――羽依様にも罪がある、と言いたいのですか」
 それだけをやっとのことで言い、揚樹は佳羅を見つめた。
「羽依様には、確かに罪はありません。
 直接あのお方が南遼滅亡の手を下されたわけではありませんもの。
 それでも、やはり羽依様の存在がなければ南遼は滅びなかった。そう考えると、羽依様の存在が罪深く思えてまいります」
 絶望的な言葉だった。
 羽依の存在自体が罪――薄らと思い至っていた答えである。揚樹も、それに気付かないほど主人の不幸に溺れ切っていたわけではない。
 揚樹の眼が涙でこごってきたのに気付き、佳羅は言葉を繋げた。
「だからこそ、わたくしは羽依様のお側にいたいと思います。
 きっと、そのことに一番傷ついているのは羽依様のはずですから」
「では……佳羅殿……」
 佳羅はゆっくり頷いた。
 揚樹の眼に希望が灯った。感極まった揚樹は佳羅の手を握り締めた。
「どうか……どうか、羽依様を救けてください」
 握り締めた二人の手の上に、揚樹の涙が降り掛かる。
 佳羅は目を細めて複雑な表情を隠した。


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 揚樹から佳羅を羽依付きの侍女にすると告げられ、羽依は戸惑った。
「何ですか、羽依様はわたくしがお側に侍るのがお嫌なのですか?」
 いつものように、挑むようなほほ笑みを浮かべて佳羅は言った。
「嫌……というわけではありません」
「ならば、よろしいのですね」
 にこやかな佳羅に返答の催促をされて、羽依は小さく頷く。
 羽依は昨夜、何故佳羅を庇ったのか、どう考えてみても首を捻らざるをえなかった。
 確かに、佳羅に怖れと不安を感じていた。主人である己を平気で揶揄する佳羅に、苛立ちを抱いてもいた。
 宴の夜の佳羅との約束を思い出した。そのため佳羅の代わりに牽櫂に抱かれたのだという結論もできた。
 それでも、佳羅との約束より牽櫂に抱かれる嫌悪の方が羽依には大きい。
 だからこそ、まんざら嫌そうでもない様子だった佳羅を庇って牽櫂に抱かれたことが、疑問だった。
 さらに、佳羅の腕の中で切って捨てたい程の汚辱感が、拭き清められたようになくなった、そのことも不思議だった。
 ――わたくしは、わたくし自身のことも解っていない。まるで、分裂しているようだ。
 煩瑣な感情に攻められている羽依だった。が、佳羅に対する怒りや懸念、焦慮がまったく消えたことに羽依はまったく気付きもしなかった。


 ――なぜ、あんなことを口走ってしまったのか。
 佳羅は苑池に架かる橋の上に佇んでいた。
 青みを帯びた夜空に明るく輝く望月が、水鏡に反映して輪郭をなくしている。
 昭妃・羽依は美しい。悔しいが、佳羅もそう認めている。
 が、昭妃・羽依の美しさは体貌の麗しさより、内面の白さの方が勝っていることに佳羅は気付いてしまった。気付きたくはなかった。
 挙措動作はおしなべて穏和で、侍女、宦官の類いにも心から気を使っている。
 佳羅が気を引くためにわざと挑発すれば、たやすく手の内にかかってくる。と思えば柔和な日頃とはうって変わって強気な姿勢も見せる。
 昭妃・羽依は天衣無縫の麗人であり、芯の通った人格の持ち主であった。
 皇帝・牽櫂の外道な仕打ちによって精神がかたくなになってしまっただけで、昭妃・羽依の本質は至って普通の女人なのだろう。
 昭妃・羽依の不幸は、天下無双の外貌を有していたことだ。昭妃・羽依が罪深いのではなく、昭妃・羽依の美貌が罪深いのだ。
 佳羅は苛立ち、拳で丹塗りの欄干を殴り付ける。振動が水面に伝わり、ただでさえ歪んでいた月があるかないかの形に変化する。
 背後で、息を飲む呼吸が聞こえた。
 佳羅が振り向くと、小さな陰が強ばる。
 陰は躑躅の木のうしろにあった。
 佳羅が躑躅に歩み寄ると、陰は逃げようとした。しかし、敏捷な瞬発力をもつ佳羅の手にかかっては、陰も逃げ切れなかった。
 陰は小柄な女だった。袖で面を覆おうとした。佳羅は女の細い手首を掴みあげた。
 女の白い顔が、月光に浮かび上がった。
「……陶嬪様?」
 相手が陶嬪・硝珠だと判り、佳羅は手を放す。
 後宮と瑞鶯殿は回廊で繋がっているとはいえ、日が沈むと見張りの宦官がふたつの殿舎の門に立ち、時刻が過ぎてからどちらかからどちらかへ渡るのは至難の業のはずだった。
「こんな夜更けに、どうなされたのですか。
 どうやってこちらにいらしたのか判りませんが、誰ぞに見つかれば、陶嬪様といえどもただでは済みますまい」
 佳羅は皇帝の嬪に諭した。
 陶嬪はしばし佳羅の顔を見つめていた。やがて、円らな瞳に涙が浮かんだのを見て、佳羅は眉を寄せる。
「陶嬪様?」
 佳羅が陶嬪の様子を伺っていると、突然、陶嬪は佳羅の胸に飛び込んできた。
「人倫にもとる想いだと、わたくしも解っております。されど、わたくしにはこうするしか心を押さえる術がなかったのです」
 思い詰めて、陶嬪は涙に咽んだ。
「陶嬪様……一体、何をおっしゃりたいのですか?
 話してもらわねば、わたくしには見当が付きませぬ」
 陶嬪の双眸に甘い波が寄せた。
「わたくし……そなた、いいえ、あなたのことをお慕い申しております。
 あなたが女だということを十分承知しております。けれどもわたくしの心はあなたを求めて止みません」
 一息に言って、陶嬪は佳羅に躰をすり寄せた。
 初め驚愕していた佳羅も、陶嬪が胸で戦慄いている現実を凝視して唇を歪ませた。
 佳羅は陶嬪の顎をあげると、涙塗れになった陶嬪の唇に口づけた。
 軽く重ねただけの口づけだった。
 陶嬪は双眸をあらんかぎりに開けて佳羅を見た。
「いじらしいことをおっしゃってくださいますね。
 真のわたしの姿を知らないというのに、わたしに恋焦がれてくださるのですか」
 佳羅は陶嬪の耳朶に囁き、頬を伝う涙を吸い取った。
「いいでしょう。
 あなたにだけ、わたしの真の姿を教えてさしあげましょう。
 ただし、わたしの真の姿を知っても、他言無用ですよ」
 陶嬪の頬を両の掌で挟んで、佳羅は陶嬪に深く口づける。
 皇帝の寵愛をさほど受けてはいない陶嬪だったが、佳羅の巧みな口づけに一所懸命に応えた。
 口腔の中で激しく蠢く佳羅の舌に息をあがらせ、陶嬪は佳羅に縋り付く。
 陶嬪の小柄な肢体をい抱き上げると、佳羅は亭に運び、横たえた。

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 羽依は、佳羅がいつも愛用していた珊瑚のかんざしが無くなっていることに気付いた。
 細い造りの銀細工で、柄の部分に珊瑚の玉がひとつ付いている愛らしい一品だった。
「今日は、珊瑚のかんざしを挿していないのね」
 何の気なしに羽依が尋ねると、佳羅は、
「飽きたのです」
 と言った。
「今、挿しているかんざしが似合わぬのでございますか?」
 佳羅が今日挿しているものは鼈甲細工に瑪瑙の梅花の飾りを施したかんざしである。
 羽依はそう返されて、返答に窮した。
「そ……そういうわけではないわ。
 少し、気になっただけよ」
 羽依の反応を面白そうに佳羅は見つめた。
「毎日あのかんざしを挿していたでしょう。てっきり、大事な方からの下されものだと思っていたのよ」
「大事な方? そのような人間など、わたくしにはいませんわ。
 いえ、そうでもございませんわね」
 思い当って、佳羅は付け加えた。
 思わせ振りな言い方なので、羽依は次の言葉を追求した。
「もちろん、羽依様に決まっているでしょう。わたくしにとって大事な方とは羽依様、あなた様しかおりません」
 羽依の顔を見てぬけぬけと告げた佳羅は、そうだ、と手を打った。
 おもむろに羽依の髷に手を延ばし、佳羅はかんざしを一本抜き取った。
 突如として抜き取られた己のかんざしを見ると、銀細工に桜貝で桜花を象った飾りに赤糸の房がついたものだった。
「これ、いただいてよろしいでしょうか。
 このかんざし、以前から欲しかったのですよ」
 佳羅は鼈甲のかんざしを抜くと、桜花のかんざしを髪に挿した。鏡を覗き込み、満足そうに頷いた。
 羽依は呆気にとられてなにも話せなかった。
「まあっ、佳羅殿はいいものを昭妃様に頂戴いたしましたわね」
「佳羅殿、そのかんざし本当にお似合いですわ」
 口々に侍女どもが喧しく告げた。明るく華やかな笑いのなか、羽依だけが置き去りにされていた。
 それに気付いた佳羅が羽依を覗き込み、
「もしや、このかんざしは羽依様のお気にいりでしたか?」
 と聞くと、羽依は頭を振った。
 かんざしの一本や二本、くれてやる度量のよさを見せ付けなければ、主人としての器量が問われる。
「いいわ。そなたにあげます」
 取られてからなんだが、羽依は許可した。
「よかった」
 佳羅の嬉しい声とともに、侍女の黄色い嬌声が房内に木霊した。
 それで、珊瑚のかんざしの一件は羽依の脳裏から忘れられるはずだった。
 羽依の眼に再度あのかんざしが飛び込んできたのは、陶嬪の髷に珊瑚が飾られていたからだった。
 陶嬪は瑞鶯殿にやってくるなり、しなを造って佳羅のもとににじり寄った。
 甘い声音で佳羅の気を引こうとし、羽依や侍女達の目もかまわず佳羅の腕に己の腕を絡み付けた。
「佳羅……わたくし、逢いたくていてもたってもいられなかったの。だからここに来たわ」
 嫣然とそう言って佳羅の髪に目を止めた。言うまでもなく、佳羅が羽依から奪った桜貝のかんざしが挿されている。
「これ……羽依様のかんざしね。
 わたくし見たことがあるわ。
 わざわざ羽依様から頂かなくても、言ってくれればわたくしのかんざしをあげたのに」
「いえ、これは以前から羽依様に請い願っていたかんざしですので……」
 陶嬪は恨めしそうに佳羅の腕を抓り、卓子の真向いに座っている羽依を見た。
 粘着性のある眼差しが、羽依にまとわり付いてきた。
 ――この陶嬪は、わたくしの知っている陶嬪ではない。
 羽依の直感だった。
 以前の陶嬪は大人しやかで殆ど口を開かない女人だった。羽依と目を合わせると、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
 だが、目の前にいる陶嬪は匂うような色香を纏い、想う相手を蕩そうとしている婀娜な女に見えた。
 今の陶嬪は羽依と隔てられた存在だった。
 羽依は顔を伏せる。
「わたくし……余計なことをしましたかしら。陶嬪様がよきものを下されるというのなら、わたくしごときのものなど価値のないものですわね……」
「羽依様!」
 自嘲気味に呟く羽依の言葉を佳羅が遮った。
 それを見た陶嬪の顔色が変わった。
「羽依様のかんざしを欲しがったのはわたくしです。あのかんざしだからこそ欲しかったのです。
 羽依様がその様に思われるのはわたくし悲しゅうございます」
 佳羅は羽依の席の前に膝を着き、羽依の白い手を取った。
「佳羅、その言葉は陶嬪様に失礼ですよ」
 慌てて羽依は佳羅をたしなめる。
 が、時すでに遅かった。
 陶嬪は力なく腰を上げ、羽依に一礼した。
「羽依様、用を思い出しましたのでこれにて失礼いたします」
 淀みなく陶嬪は言った。語調に反して面は暗かったが。
「いえ、なんのお構いもしませんで……」
 羽依も立ち上がり、陶嬪とその侍女の見送りに戸口まで出た。
 回廊まで足を差し向けたとき、陶嬪は振り返った。
「佳羅、今宵もわたくしに舞を教えてくれますか」
 縋る瞳だった。熱い色が羽依の目を焼いた。
「御心のままに」
 佳羅がそう返すと、陶嬪は胸を撫で下ろし、回廊を渡っていった。
 羽依は意外だった。
 いつのまに佳羅は陶嬪に舞を教授しはじめたというのだろう。それに、いつあのかんざしを手渡したというのだろう。
「いつのまにか、そなたと陶嬪様は親しくなっていたようですね」
 責めるでもなく羽依は問うた。
「気になりますか?
 羽依様には関係のないことですが」
 佳羅は当て擦りとも取れる言葉を吐いたが、羽依はその手口に乗ってこなかった。
「そうですね。確かにわたくしには関係の無いこと。
 そなたはわたくしの側付きである前に、後宮に仕える舞姫ですもの。
 妃嬪が望めば舞を教授することも当然ありうることですね」
 羽依はほほ笑みを浮かべる。
 近ごろ羽依は大分かたくなな心を開いてきた。笑みもちらほらと見せるようになった。
 しかし、佳羅はこんなところで笑みなどみせて欲しくなかった。
 房内に戻ろうとする羽依の袖を掴み、佳羅は強引に向き直らせる。
「佳羅……!?」
 驚いて羽依は声を洩らす。羽依の胸が沸き立つ。
 佳羅は瞳に炎を宿していた。時折見せる本性を、この時佳羅は曝け出していた。
「わたくしが、あなたの側にいることを望んでいるのです。それでいいではありませんか」
「佳羅……どうしたというの。
 わたくしはそなたが離れるなど、ひとつも考えてはいないわ。
 そなたは牽櫂様の命によってわたくしに仕えているのだもの」
 羽依は必死で言った。
 佳羅はいつもの冷静さを欠いている。そのように羽依には見えた。
「それに、わたくしは感謝しているのよ。
 わたくしの病的な陰りを晴らしたのは、そなたなのだから」
「羽依様……」
 羽依は房内に入らずに回廊に足を向けた。振り返って、佳羅に付いてくるように促した。
 回廊を渡っている間、二人とも無言だった。話が途中で途切れたような不自然さであった。羽依は語っている途中に移動しはじめた。人目に晒したくはない話だから、他所で話そうというのだろうか。佳羅には羽依の真意が掴みがたかった。
 羽依が向かったのは庭園だった。百日紅は散ってしまい、秋の気配が訪れていた。
「もうすぐ萩が咲くわね。
 あの花は可憐だからわたくしは好きよ」
 庭園を見て歩きながら羽依は呟いた。所々立ち止まって、芙蓉の花弁に触れたりした。
「わたくしは小さな頃から花が好きだったわ。陛下にはお恨みすることが多すぎるけれど、この庭苑を造ってくださったことだけには感謝しなくては」
 呟いて、羽依はまたも微笑んだ。
 秘かに、佳羅の胸が痛んだ。
「わたくしは誰かに救けてもらうのを本当は待っていたの。
 暗くて重い澱がまともにわたくしに被さってきて息も出来なかった。
 毎日毎日辛くて死にたかった」
「死ななかったのですか、何故?
 両親を殺した男に辱められ、死にたいほど辛かったはずでしょう」
 思わず佳羅は聞いた。
 羽依は緩く笑みを掃いた。
「死にたかったけれど、死なせてもらえなかったの。
 瑞鶯殿には侍女や宦官が多いでしょう。あのほとんどがわたしくに対する見張り役なの。
 わたくし、一度自ら我が身を傷付けてしまったことがあるの。思えば、あの時確実に死ねていれば今こんなに苦しんではいないのでしょうけれど。
 あの時は揚樹をとても悲しませてしまったわ。何度も揚樹を置いていかないでくださいませって掻き口説くのよ。
 陛下もわたくしがいつ同じようなことをするかと警戒されて……結局、わたくしは自ら死ぬ、という選択を奪われてしまったの。
 あれでわたくしが自由になる方法が何一つ無くなってしまったわ」
 二人は太鼓橋の上に立ち止まっていた。
 夕焼けの橙と天の青が混じり、一種言われぬ光景が苑池に差し込んできた。
 羽依は范々とした眼差しを佳羅に向ける。
「わたくしには心を閉ざすしか自らを護る方法がなかった。そうでないと、わたくしは確実に発狂していたわ。それとも、発狂したほうが少しは救われたかしら?」
 格段、意見を求めるためでもなく羽依は佳羅に尋ねた。佳羅は静かに否、と言う。
「狂ってしまうのは、余りにも哀しすぎます」
 佳羅は言って、口に手を当てる。
 狂いたい、といつも望んでいたのは自らではなかったか?
「ありがとう。そう言ってもらえて素直に嬉しいわ。
 そんなわたくしが、何かに心を奪われたのは初めてだったのよ。
 あなたの舞が、わたくしの心を開くきっかけだったの。
 あなたがわたくしに口づけたこと、本当に意外だった。けれど、あれからわたくしは闇に取りつかれなくなった。可笑しいわね」
 くすり、と笑みを浮かべた。
「あれぐらいで羽依様のお心が治るのなら、幾らでも口づけいたしますが?」
 佳羅も冗談めかして言った。
「もう、だからといって二度はないわ。
 戯れは一度だから戯れなのよ」
「では、二度目は本気?」
 佳羅が口を挟んだ。
 羽依は戸惑った。心が騒ついて潰れそうになった。
「その言葉も、戯れとして取っておくわ」
 辛うじて羽依はそれだけ告げた。
 この妖しい胸の騒めき、おかしくはないか? 羽依は自らそう懸念した。
「わたくしにとってそなたの存在が大きいと確信したのは、陛下に抱かれた次の朝だった。そなたの腕のなかで眠ってしまったのは不覚だったけれど、あそこまで安眠できたのは久しいことだったもの。
 そう思えば、わたくしの一生の中でこれほど心が穏やかなのは、初めてかもしれないわ。幸福、という言葉に一番近い状態なのかもしれない」
 幸福という言葉に一番近い状態――なんと、哀しい表現だろう。
 つまりは、昭妃・羽依は幸せではないのだ。幸せになったことがないのだ。今も、幸せではないのだ。
 佳羅はその事実に胸を突かれた。
 だから、言わずにはおれなかった。
「もしも、ですよ。
 今、北宇の皇帝が別の方で、あなた様が託宣どおりに南遼に嫁いでいたら幸せだったと思いますか?」
 羽依はきょとん、とする。
「託宣……そういえば、わたくしにはそんなものが下されていたのね」
「忘れていらしたのですか?」
 羽依は目を伏せる。
「もう今では意味がないと、考えないようにしていたのよ。
 わたくしが南遼の第二王子と時を間違わずに結ばれていたら、こんな運命に逢わずに済んだ、ということね。
 でも、結果は託宣の不履行でしょう。時を間違ったわけではなく、第三者が簡単に捻り潰してしまった。
 わたくしは託宣が夢のような気がするの。少しばかり、夢見の良い。
 確かに、陛下がいらっしゃらなければわたくしは南遼に嫁ぎ、夫となる方に愛されて幸せな家庭を築いていたかもしれないわ。
 もしかすると、わたくしも夫となる方を愛していたかもしれない。でも所詮、夢物語ね。南遼の第二王子は陛下が殺められ、この世には存在されていないわ。そして、わたくしは何の因果か皇帝陛下の妃……。
 あの託宣は、別の意味があったのではとも思えるの」
「別の意味?」
「託宣の最後ーー嫁ぐ時期を違えれば、不幸に見舞われるというあれよ。あれが、本当の託宣ではないかと思うの。わたくしの運命の相手とかは神のささやかな悪意であったのではないかと。
 それより、そなた託宣の内容に詳しいわね。みな、わたくしが南遼の第二王子に嫁ぐという部分は知っていても、後の下りは知らないと言うわ。そなたはどこでそれを知ったの?」
「揚樹殿から」
 羽依は揚樹の顔を思い浮べた。おせっかいで世話焼きで、羽依の心を一番解ってくれる……。羽依はため息を吐いた。
「ほんとに、口が軽いのだから。
 わたくしにとっては、あの託宣も枷だったわ。わたくしも後の下りを知ったのは十を過ぎてからよ。
 どうして、生まれてすぐに結婚する相手が決められ、十になってすぐに嫁がなければいけなかったのか。考えてみれば暴力的な話だわ。十じゃ実質的な結婚は無理よ。だってわたくし、女のしるしをみたのは十三になってから……」
 そう言って、はっと羽依は口を塞ぎ、佳羅を盗み見た。
 そして、愕然とする。
 佳羅の双眸が、驚くほど暗かったからだ。
「か、佳羅……どうしたの?
 どうしてそなたがそんなに暗くなるの?」
 羽依の心配そうな眼差しに佳羅は我に帰った。急いでいつもの調子で取り繕った。
「いえ、あまりにも羽依様がお可哀相なので……」
 佳羅は羽依から目を反らした。
 瞬時、羽依は不審に思ったが、一息吐いて、佳羅の手を取る。
「余計なことを話しすぎたわね。
 わたくしが言いたかったのは、そなたのいうことをわたくしは出来るだけ叶えてあげたいの。そなたはわたくしの恩人だもの。
 そなたが陶嬪様と仲良くするのを望むのなら、わたくしは嬉々として許しましょう。
 そなたがわたくしのかんざしを欲しいというのなら、幾らでもあげます。
 こんなことを侍女達の前で言えば、そなたは嫉妬されてしまうものね」
 羽依は明るく笑った。
 佳羅は目を細めると、羽依に手を差し延ばした。羽依の腕を捉え、華奢な躰を胸に閉じこめた。
「……佳羅?」
 羽依は抗わなかった。
 佳羅には一度、裸で抱き締められたことがある。二度目だから責める気もない。
「ねえ、佳羅。わたくし、そなたのことを友だと思っていいわよね……」
 佳羅は応えなかった。ただ、腕に抱き締めていた。
 ――きっと、佳羅は裏切らない。
 羽依の確信だった。
 以前に稚い思い込みで手酷い裏切りにあった。が、佳羅は羽依を助け、羽依の心に明かりを灯してくれた。
 羽依は自らも佳羅の背に腕を回した。お互いにい抱き合って、心を確かめられればと思った。


 が、佳羅という存在自体が手酷い裏切りだと、羽依は知る由もなかった。






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