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其の一・小野篁



 小野篁(おののたかむら)という青年は、兎角都の貴族の型に嵌まらぬ男だった。
 八尺を優に超す背丈を持つ者は滅多におらず、それだけで彼の特異さを現している。貴族特有の気取りというものを全く持たず、何ごとも開け広げで感情の起伏が激しい。
 それだけに、優雅さに欠けるきらいがあるが、粗野ではなく、人々に憎まれず愛着されている男なのである。

 彼の感情の起伏の激しさは、すなわち詩人としての感性の鋭さであった。篁の父・小野岑守(おののみねもり)は文人で勅撰漢詩集の撰定に携わった人である。彼は父の才を引き継いで漢詩や和歌をよくした。
 が、元々が天衣無縫であったため、十を半ばに超した頃は学よりも、父の赴任先である陸奥の国で慣れ親しんだ乗馬に明け暮れる毎日であった。
 それを当時の主上(天皇)であった嵯峨天皇に嘆かれたため、慚愧して学に励むようになる。一旦芽吹いた才は長じるほどに勝り、大学寮の試験に合格して文章生となるほどに至った。

 篁には妹がいた。
 母違いの妹なので、それぞれの母親のもとで育てられるのが当然であったため、彼は妹の顔を知らない。ただ、父が『妹は稀に見る美貌』と自慢げに語っていたことが心の中に残っていた。
 そして、乙女となり美しく成長した妹を、父は妹を宮中に仕えさせる、と言い出した。ために、父は篁に妹の家庭教師をさせる、と彼に言い渡す。
「どうして、このわたしが?」
 篁には解らない。家庭教師なら、何も己がせずとももっと学のある有名な学士にさせればよいではないか、と思っている。
「そなたは比子(ならぶこ)の兄、どうせなら、他人ではなく一族の者が勉学を教えた方がようだろう」
「どうしてです?」
 妹は、比子というのか――篁は心に留めながらも、聞き返す。
「比子は美貌だからの。これから宮中に入れるというのに、傷が付いてしまっては困る。
 そなたならば、妹であるし、徒し心を抱くまい」
 父・岑守は篁を一心に信頼して妹を託す。
 そのことが後々の悲劇に繋がるとは、全く気付かずに。

 小野氏は古代豪族・和珥氏(わにし)の枝分かれである。
 和珥氏はいにしえに后妃を排出した家柄で、そのことを誇りに思っていた。主上を補佐する藤原氏の力が強く、今でこそ廟堂の上席には居ないが、いまに、返り咲いてみせる、と心願を抱いていた。
 夢は和珥の支族同士の連結を深めさせ、世代同士を通婚させる。
 篁は小野氏である岑守と大宅氏の女性とのあいだに生を受けた。篁は母の生家である山科で育った。
 父・岑守は他に坂上氏の女性と結婚して、後に彼女を正妻にした。彼女からは弟の千株、そして妹の比子が生まれている。岑守は正妻と子供達を父祖からの住まいである二条西大宮の屋敷に迎え入れている。
 いよいよ妹のもとに家庭教師として行く日、母・梓が不安げな面持ちで篁の袖を掴んだ。
「良子(ながこ)さまは自尊心の強いお方。きっと、そなたにも辛く当たってこられます。それでも、よいのですか?」
 良子とは岑守の正妻の名である。自尊心が強い良子は嫉妬心も強かった。岑守と梓の間は正妻を憚って間遠になっている。
 篁と梓は二人で支えあって生きてきたため、とても絆が強い。彼は母が思い悩む姿を見たくはなかった。
「大丈夫ですよ、このわたしが、負けるとお思いですか?」
「それは、そうだけれど……」
 篁は義侠心が強く、曲がったことは梃でも許さない。完全な負けず嫌いである。
「わたしも、異母妹がどんな少女なのか、会ってみたいんです」
 それでも渋る母を宥め、篁は屋敷を出た。

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「お母さま、今日は兄上様がわたくしに漢籍を教えにきて下さいます。兄上様はどのようなお方なのかしら」
 比子は父から手渡されていた漢学の本を文机に並べ、手づから墨を摺る。
「そんなもの、言うほどのものではありません。きっと、母親に似て粗野な者に決まっています」
 母・良子は女房達に几帳の指図をしながら、苛立たしげに言う。
「でも、お父様のお子ですもの。きっと賢いお方ですわ」
 比子は弁護するが、母親は不快そうに言いつのる。
「そなたや千株とは違います。そなたたちは坂上の血を引いています。
 わたくしのお祖父さまの田村麻呂(たむらまろ)さまはとても立派なお方で、わたくしの叔母や従姉妹は主上の妃にもなっているのですよ。
 大宅など、わたくしたちの血には及びませぬ」
 くどくどと並べ立てる母の言葉を聞き流し、比子は窓辺に寄る。
 比子にとって、家柄のことなどどうでもよかった。父は、彼女を宮仕えに出そうとしている。幾度か父に、
「比子や、そなたは参議である父の娘。主上の妃になり東宮を生むことも夢ではないのだぞ。そなたが皇后になってくれれば、今一度、小野の家も大成することができる」
と言われていた。
 が、比子は心細くて仕方がない。
 ――皇后など、畏れ多くて……。お父様には申し訳ないけれど、わたくしではその他大勢のお妃方と争うことなど耐えられそうにない。
 心弱いと言われると辛いが、それが比子の偽らざる本心だ。
「比子! そんなに端近に寄ってはなりませぬ! 浮ついた男子にその姿を見られれば、どうなるか……!」
 母が慌てて駆け寄ってきて、彼女の腕を引く。と、屋敷の門から騎乗した人物が見えた。
「どなたかしら、馬に乗ってこられた方がいらっしゃるわ」
 御簾越しから見るに、大きな体躯を持つ男だと解る。
 ――あの方が、兄上様ではないかしら――?
 父・岑守が、兄・篁は普通の男子よりも大柄だと言っていた。父の言っていた印象と、馬で駆けてくる人物の姿が重なる。
 母も、同じく思い当たったらしい。
「んまぁっ、馬でこちらに参るとはなんと野蛮な!
 こんなことでなければ、この屋敷には一歩も入れぬというに……!」
 言って、母は比子を強引に几帳の内に押し込める。比子は放り出されるようにして円座の上に座り込んだ。
「比子、たとえ異母兄とはいえ気を抜いてはなりませぬ。絶対に、顔を見せてはなりませぬぞ!」
 戸惑う比子を後目に、女房は几帳の前に御簾を下ろし、向かい合うように文机を置く。
「風花(かざはな)、そなたが口伝えをして、あの者と比子を対話させてはなりませぬ。よいですね」
 そなたが、万事監視をし続けるのですよ」
 比子付きの女房・風花は頷き、御簾を隔てて比子の斜め前に座る。
 その様子に安心して、良子は部屋を出ていった。
「風花、お母様はどうしてあんなに兄上様を嫌われるのかしら?
 わたくしと兄上様は母が違えども兄妹です。そんなに危ぶまれることはないわ」
 御簾の内からの弱々しい抗議に、風花は密かに笑う。
 今年十四才になる比子より三つ年上の風花は、年相応に落ち着いて、物を知っている。良子が篁を嫌い、警戒する理由がよく解る。
「恐れながら、姫様は世間知らずでいらっしゃいます。
 いまではそう余りありませんけれど、一昔前まで異母兄妹の結婚は普通に行われていたのですよ。姫様はこれから内裏に上がられる身。いつ何時主上のお手がつくか解らないお方なのですから、できるだけ徒なる虫は近付けたくないと思われているのですわ。
 それに、篁様はお方様からすれば、生さぬ仲のお子。愛おしく思われるはずがありませぬ」
 すらすらと続ける風花に、比子は肩を竦める。
「……解ったわ。でも、少しだけでもお話してはいけないの?
 初めて会う兄上様ですもの。千株お兄様とは違う考えをお持ちかもしれないでしょう? 折角お会いできるのだから、色々なことをお話ししてみたかったの」
 無邪気な言葉に溜め息を吐くと、風花は否、と答える。
「姫様……深窓の姫君は、滅多に男子と口をきいたりせぬものなのですよ。それでなくとも、姫様は後宮に上がられる身。もう少し謹みをお持ちにならないと……」
「……ごめんなさい」
 比子は深々と俯く。
 素直な比子の仕種に安堵すると、風花は人々が近付く音に耳を澄ませた。

 篁が妹の部屋に入ってきたとき目にしたものは、前方の視覚を遮る御簾と、澄ました顔をした若い女房だった。
 ――えらく警戒されたものだな。
 篁が絶句していると、女房が薄く笑い、口を開いた。
「篁様のお席は御簾の前に据えられた文机の円座(わろうだ)ですわ。お座りになって下さいませ。姫様がお待ちになっていらっしゃいます」
「……うむ」
 指定された場所に座り文机を見ると、今の御代ではまだ貴重な白く漉いた紙と墨に筆、角一(字指し棒)、何冊かの唐の書物がある。
 御簾に隔てられて様子が解らないが、目の前には妹がいるのだろう。息遣いなどが何も感じられないところをみると、他に几帳も立て掛けてあるらしい。桃の薫がふくよかに聞こえ、貴な若い女が側にいることだけ感じられる。
 剛胆な性格の篁だが、これ程までに警戒されていると、勝手が違い気詰まりになる。
 何気なく女房を横目で眺めると、女はまたも薄笑いを浮かべた。
「――始めたいのだが、この有り様では妹の様子が掴めぬ。机だけでもこちらに出してはいただけないか?」
 篁は切り出す。が、女房はにべもなかった。
「姫様の進み具合はわたくしがお伝えいたしますので、このままでお進め下さいませ」
「――そうか、では始める」
 女房の冷淡な応答に打破は無理とみて、篁は議論を諦める。
 机上の本を何冊か手に取って、詩集と史書に分けると、比子に向かって問いかける。
「姫は詩か唐の歴史か、どちらを学びたいのでしょう?」
 心得たように、女房は御簾の内に入り、答えを聞きにいく。
「篁様が詩の上手だということで、詩を学びたいとおっしゃっておられます」
 感情のまったくない声で、女房は告げる。
 ――これは、俺と妹に会話をさせないつもりか。
 篁は女房の意図を読む。目の前を完全に遮絶した御簾や表情のない女房を見れば一瞬にして理解できることであるが。
「では、取りあえず詩を読んでいって、内容を味わっていきましょうか。詩集を開いて下さい」
 言いながら自分でも本を開く。御簾の内からぱらり、と書物を捲る音が密やかに聞こえた。

 上邪 我欲與君相知 長命無絶衰 山無陵 江水為竭 冬雷震震 夏雨雪 天地合 乃敢與君絶
(おお神よ。わたしはあの人と出会い、命が続く限りこの想いが衰え絶えることがないよう、わたしはあなたに誓います。山が高さを失い、川の水が枯れてしまって、冬の雷がとどろき夏の雨が雪に変わり、天と地が合わさった時ならば、わたしはあの人への想いを断ちましょう)

 朗々とした声で篁が詩を詠む。耳に心地よく、低く空気に通る声音に、風花はほぅ、と吐息する。
「これは、唐が漢であった時代に詠まれた流行歌なのです。天変地異がない限り、決して恋心を絶えさせないと天帝に誓う詩なのです。士大夫が作った詩ではなく、当時の流行歌であったようです」
 簡単に篁は詩の説明をする。相手は若い娘、機智に冴えたものより胸を疼かせる詩のほうが食いつくと読んでの選択であった。
 思ったとおり、御簾の奥から可憐な声が篁に届く
「まぁ、素敵な詩ですね。わたくしもこのように想われたら、しあわせですわ。堅苦しくなくて、こころに馴染みやすいですね」
 ひ、姫さまっ! と小声で風花が嗜める。が、時遅く、篁は少女の声を聞き取っていた。
 ――まだ熟れていない果実のような瑞々しい声。明るく柔和な響き。なるほど、麗人を連想させる。
 はっと、比子は息を呑む。女房に叱られ気落ちする娘の気配を感じ、篁は和やかに仲介した。
「比子殿も、人に介されては煩わしいでしょうな。独り言もおちおち言えない。
 どうです、あなたが発される言葉はすべて独り言。わたしは聞いていないことにする。わたしは何も見ていない、聞いていない、感じていない。
 だから、こころ置きなく話されればよい」
 笑み含みな言に、ほっとしたように比子は衣を揺らした。
「そう言っていただければ、ありがたいですわ。何しろ、お母さまや風花がうるさいのですもの」
「姫さまッ! なりませぬ!」
 鬼のような剣幕で風花が怒鳴る。主は太子の閨に侍る官女となる予定の身。他の男と迂闊に会話をしてはならぬ。兄といえど、母親が違うので間違いを犯す事がありうる。風花は気が気でない。
 現在の太子は、主上の異母弟である。太子は主上と仲が良く、弟に位を譲ることを兄は本意としていた。主上の后である橘嘉智子(たちばなのかちこ)の思惑はまた違う。后は実子・正良親王(まさよししんのう)が愛おしく、彼を即位させたいと考えている。が、皇后は己が願望を内に秘め主上の意を尊重し、主上は先頃正良親王の同母妹・正子内親王と太子の婚約を内定した。行く行くは正子内親王が天皇の正妃となるはずである。主は主上の姫が君臨する後宮に入り、他の氏の姫達と競い、家刀自として千株や篁とともに小野氏を盛り立てていかねばならない。それなのに、この無邪気と無自覚。風花は焦りと不安を抱いていた。
 剛毅な容貌に似合わぬ穏やかな面持ちで、篁は風花を見る。
「女房殿は、北の方に厳しくいわれているのでしょう。大丈夫、気づかれぬようにわたしも工夫します」
 ぎりり、と女房は唇を噛み締める。警戒したように、風花は篁を睨みつけた。御簾の奥にいる比子の憂慮する気配が篁に伝わる。
 ――これは、なかなかに障害が多いな。
 風花は比子よりも北の方・良子に忠実な様子である。これ以上自身が妹に関心を示そうものなら、この女はなんとしても阻害しようとするだろう。すれば、険悪な空気が漂い学問どころではなくなる。
 溜め息を吐き、篁は軽く角一で己の首の後ろを叩いた。
「解りました。女房殿、姫との橋渡しをお願いする」
 厳しい眼差しを解かない女房をちらりと伺い、篁は書物の頁を捲った。

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 本来、篁という男は直情傾向にして気持ちに押さえが効かない質である。二十二年間の人生で通った女は数人いる。親しく付き合い正式な妻に決めようと思った女もいた。が、何故かそう思い定めた女に限って違う男を夫に選んでいる。思うに、女のこころをくすぐるような巧い言葉を吐かないことからか。女の扱いは苦手で回りくどい口説きをしたとしても、成功したためしがない。どうしてか、「俺には似合わぬ」と言葉を引っ込めてしまう。ために、女は篁に失望し他の男に乗り換える。
 山科の邸に帰った篁は、階に座り込み、冴え冴えとした満月の光を浴びながら嘆息を漏らした。梅が咲くにはまだ早い睦月の中頃、外に出て物思いに耽るには寒すぎる。篁は火鉢もなく、上衣を引き掛けもせずに素足のまま冷たい板敷に腰掛ける。
 可憐で鮮やかな声だった。梅香のくゆりは乙女の華やかさを思わせながら、それでいて艶であった。妹を思わせるすべてのものが、篁の胸を疼かせる。妹の醸す風情は、まさしく篁の理想のものだった。艶憐で護りたくなる手弱女のものだった。
「今宵はよい月ね、篁殿」
 ふさり、と肩に狸の皮衣を掛けられる。
 篁が顔をあげると、酒肴を傍らに据えようとしている母・梓がいた。
「まさしく、美しい月夜です。あまりに美しい月は人に焦慮を与える。妙にそわそわしてたまらないものですよ」
 片膝に頬杖をついて、篁は円月を眺める。
 息子に酒杯を手渡すと、梓は燗した濁り酒を注ぐ。同じように月を見て唇を開いた。
「物思わしいのは、他にも理由があるのでしょうに。
 良子さまの姫君は、美しかったのですか?」
 口に含んだ酒を吹き出しそうになり、篁は手で必死に止める。男にしては大きい眼をさらに見開いた息子の姿に、梓は微笑んだ。
「近頃、岑守さまはあちらの姫君を入侍させることばかり考えていらっしゃとか。たまに届く文も、姫君に対する自慢ばかり。宮のどの女人方に比べても引けをとらぬと……」
 梓は何気なく裙の襞を畳み直す。篁は目を泳がせた。
 ――そうだ、母上は北の方に酷い目にあったので、あちらにいい心象を抱いていらっしゃらないのだ。
 ぐびり、と酒を一気に飲み干し、篁は母に杯を押し付ける。小首を傾げてそれを受け取る梓に、かれは有無を言わせず酒を注いだ。
「ほら、母上もお飲み下さい。このままだと冷えきってしまいます」
「――そうね」
 衰微を滲ませた母が笑む。この頃の風習では、男は数多の女に通う。妻といえる女を幾人も抱え、違う家で子を生す。女は自身の家で子を育て、子は父の家の姓を名乗る。家を護るのは女で、男にはない霊力で家運を隆盛させる。当時は男より女が生まれることを欲されていた。男は他家に胤を齎すものであり、実家の女達のために働く。
 また、豪族は天皇家に家刀自となる姫を入侍させることを常々としていた。豪族は娘に天皇の子を生ませ、天皇家との結びつきを深める。そうやって氏を大きくする。天皇家は各氏の女の霊力を自身に取り込むため女達を侍らせる。現在、藤原氏の力の増幅で後宮の女達は藤原氏の者が多いが、昔はそうやって氏族の連携をとってきた。その形が崩れ始めている今、篁の小野氏や紀氏、多治比(たぢひ)氏などは天皇家との綻びを直すために娘を入内または官女として後宮にあげようとしている。妹・比子もまたそんな家に悲願を受けるものなのだ。
 梅の固い蕾みを睨むように凝視する篁に、梓はふふ、と笑った。篁は母の朗らかな顔を見入る。
「でも、わたくしも負けてはおりませんよ。
 岑守さまはそなたのことを大層誉めていらっしゃいましたもの。小野氏を盛り立ててゆく男手は、篁しかおらぬと」
 嬉しそうに告げる梓に、篁は気恥ずかしく俯く。
 確かに、父・岑守は篁のことを大っぴらに誉める。主上に父に似ぬ子と嘆かれ、発憤した篁は勉学に励み、早々に文章生となれた。父はそのことを誇りに思い、他の学者を押しのけて比子の漢籍の師としたのだ。主上の覚えも目出たく、その才能を愛でられている。それをかさにきて悪戯をしてのけたこともあったが、厳しい沙汰はなく今まできている。
 母にとっても、そんな篁は矜持の的だろう。一粒種である篁は、母の期待を一身に受けている。それだけに、母の坂上良子に対する意地は大きい。比子に対してはいかんともしがたい。が、比子の兄・千株と篁の優劣を比して、ひとり納得している。
 男を巡る女同士の啀み合いは恐ろしい――篁は心底そう思う。女は好きだ、こころの芯を奪われるものがある。が、煩わしさもある。
 ――俺は妻はたくさんはいらん。面倒ごとには巻き込まれたくない。
 こころのなかで、篁は嘆息とともにひとりごちた。

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 篁が比子に漢籍を教えるのは、日が暮れてからである。文章院(大学寮紀伝道の講堂)での学問を終え、二条西大宮の邸に行く。幾日か比子の前で学を教えているが、相変わらずきっちりと下ろされた御簾がつれなくふたりの間を遮っている。女房の風花は監視の目を怠らず、険しい眼差しで篁を見つめている。

「土地平曠。屋舍儼然。有良田美池桑竹之屬。阡陌相連。鶏犬相聞。其中往來種作。男女衣着悉如外人。黄髮垂髫。並怡然自樂――」

 篁は角一を指しながら漢文を読んでいく。と、慌てた足取りで女童が駆けて来、簀子縁に座り込んだ。
「本日は、篁さまにお残りいただきますようにとの、殿の仰せでございます」
「殿が?!」
 風花が女童を見、慌てて御簾の内と篁を顧みた。
「父上の仰せなら、仕方がないでしょう。なにか大事なお話があるのやもしれぬ」
 篁は顎に手を当てて考え込んだ。文では言えない用件なのかもしれない。
 風花は女童に言いつける。
「女房達に、殿様と篁殿の座を設けるように伝えなさい。酒肴の支度も忘れないように」
 はっ、はい! と緊張して叫び、女童はそそくさと下がっていった。
 中断されて続けることができず、篁は角一を弄ぶ。ちらりと風花を見るが、澄ましたまま取りつく島もない。時間を持て余しているうちに、違う女房が準備が整ったことを告げ、篁は渡廊に出る。
 西山の端が茜に染まり、白い桜が涼風に揺れる。春たけなわである。季節の麗しさに感じ入り、篁は歌のひとつでもひねり出したい欲求にかられる。が、他所の邸で筆と墨、紙を貸して下さいとはいえず、すごすごと釣殿に通される。
 寝殿から離れたここなら、密事も話しやすい。篁が入ってから廊下に簾を立てかけられた。滞りなく流れる遣り水の清かさに、篁は目を閉じる。衣擦れが聞こえ瞼を薄く開けると、風花が酒瓶と杯、鹿肉の干物を盆に乗せ運んできた。意外に思いまじまじと見入っていると、風花は何も言わず杯を差し出した。
「――比子を放っておいていいのか?」
 からかうように篁は言う。無表情に風花は答える。
「姫さまは他の女房に任せました。わたくしはあなたさまを放っておくほうが気がかりなので」
「俺を?」
 面白そうに破顔して、篁は風花を眺める。篁の視線に嫌な顔をし、風花はぶっきらぼうに告げる。
「長い時間同じ邸にいらっしゃるのですもの。なにかの隙をついてわたくしの姫さまによからぬことをなされるといけませんわ」
「まったく俺を信用していないのだな」
 篁は呆れる。風花は複雑に表情を崩し、杯に清酒を満たした。
 酒を飲み酒肴を摘む。それを何度繰り返したか。父はまだ帰ってきていない。風花はなにも話さない。いささか息詰り、篁は水面に浮かぶ桜の花びらを見る。

「――花の色は雪にまじりてみえずとも 香をだににほへ人のしるべく」

 唐突に風花が詠う。え? と篁は彼女を見た。風花はますます複雑な面相をする。
「その歌――俺が詠んだ歌じゃないか」
「そうですわね。漢籍のご教授に参られたときに、邸に残していかれた歌ですわ」
 あぁ、と篁は呟く。如月の頃、白梅に白い雪がかすかに積もっているのを見て書き付けた歌だ。残していこうと思っていたのだが、どこかに忘れてしまったのだ。
 それを、いつもつんけんとしているこの女が暗記していた。ますます慮外なことで、篁は驚く。彼の目線に風花は憮然とした。
「変な物を見るような目で見ないで下さい。わたくしだって、歌を好みますわ」
 目を丸くして篁は女を見る。やがて唇を歪め、にやにやと笑った。
「そうか、俺の歌は風花殿のお好みにあったか」
「そういう言い方はよして下さい! 歌の美醜や技巧の巧みさは、人の善し悪しに関わらず賛美するものですわ。だから、素直に言っただけです!」
 拗ねて目を背けた風花に、篁は吹き出す。
 ――この女、思ったほど取っ付きが悪いわけではないのだな。
 密かに篁は感心する。
「なんだ、楽しそうではないか」
 奇妙な空気を打ち破ったのは、父・岑守の朗らかな言葉だった。すでにあたりはとっぷりと暮れている。それさえも解らず、ふたりは話し込んでいたのだ。
 篁は居住まいを正す。池を背に岑守は座す。篁と風花は頭を下げ礼をとった。
 ゆったりと脇息に凭れ、岑守は篁に切り出す。
「――近く、主上が譲位なされる」
「主上が?」
 篁は杯をくちもとに運ぶ手を止めた。
「右大臣には内々にお話をされているらしい。右大臣は反対なされたが、主上は断固として譲られぬらしい。右大臣もついには折れてしまった」
 風花に酌をされ、岑守は酒をすする。
 右大臣とは、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)のことである。主上の信任厚い藤原北家の長で、篁誕生の八年後(810年)に起きた政変の直前に蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢され、廟堂の地歩を固めた。
 当時、主上の兄が上皇として平城の都にあった。病弱であった上皇は即位後三年で弟である現・主上に位を譲り、都を退く。彼に付き従っていたのが、藤原式家出身の尚侍・薬子(くすこ)。彼女の父は政変に巻き込まれ暗殺された藤原種継(ふじわらのたねつぐ)であり、薬子は父の無念を晴らし式家の隆盛を果たそうと画策、上皇とともに虎視眈々と天皇復位を狙っていた。ために、「二所朝廷」と呼び慣わされるなど混乱を招いた。ついには、上皇の権により平安京を廃し平城に遷都すると宣り、物々しい騒動となる。そこで主上は近臣の者であった藤原内麻呂やその子冬嗣、将軍坂上田村麻呂に命じ、電光石火の行いで薬子の兄・仲成を射殺、薬子は毒をあおいで自害し上皇は剃髪した。太子であった上皇の子・高岳親王は廃太子となり、現在の皇太子・大伴親王が立太子した。後世に薬子の変と呼ばれる政争である。
 それからというもの、冬嗣は主上の侍臣として寵偶され、彼の息子・良房(よしふさ)は主上の姫を貰い受けている。
「では、いよいよなのですね」
「うむ、比子の入内、急がねば。
 本来皇后となられるはずの柏原御門(桓武天皇)の皇女・高志内親王(こしないしんのう)さまはすでに身罷られていらっしゃる。今の太子の妃嬪は、太子が登極なされたあと入内される主上の皇女・正子さまと海部直(あまべのあたい)の厳子(いつこ)姫、殊寵を受けておられる内命婦・緒継女王(おつぐのおおきみ)がいらっしゃるだけだ。
 太子が即位なされたら、どの氏もこぞって姫を差し出すだろう。わしらも遅れてはならぬ」
 篁は腕を組み、うなる。
「しかしながら、太子は濃艶な緒継女王に夢中と伺っておりますが。あの幼い比子が、妖媚の匂う女人と張り合えるかどうか……」
 朝堂から離れた文章院にも、なまめいた緒継女王の噂はそこはかとなく聞こえてくる。勝ち気で才気優れた美貌の皇后・橘嘉智子と、春宮の大輪の花・緒継女王は学生の憧憬の的になっている。緒継女王は齢三十七歳、円熟した豊麗さにあどけなさの残る佇まいを醸す比子が勝てるとは思えない。
 傍らを見れば、風花も気遣わしげに眉を寄せている。
「たしかに、太子からすれば年相応の緒継女王にこころが傾くのは仕方がない。が、緒継女王は身分が低い。女御や更衣にはなれぬ。
 正子さまは未だに幼気なところがあるお方に見受けられる。
 問題は海部厳子殿だ――。閑雅な美しさを有し、清憐で聡明、その上猿女の質を持つお方と聞く」
「猿女の質とは……巫女気のあるお方なのですか」
 篁は反復する。
 猿女とは、天照大神を天岩戸から誘い出した巫女神・天鈿女(あめのうずめ)命の系譜である。天鈿女命は天孫降臨のとき、八街に立ちふさがる異形の神・猿田彦に面勝ち、その妻になっている。猿田彦は伝えによれば天神の太陽神・天照大神が伊勢に祀られる前から葦原瑞穂国を海照らしていた太陽神で、豪族や神の社に細々と語り継がれている主神である。天鈿女命の末裔は猿田彦の名をもらい「猿女君」と名乗っている。
 また、海部直は丹波の旧き神・彦火明(ひこほあかり)神を祭祀する一族である。この神も、もとはといえば海照らす太陽神である。
 ――彦火明神は、わが小野氏の祖でもあるはず。なんの因果か。
 篁は遠い血脈を思い起こす。
 小野氏を辿れば和珥氏の祖・天足彦国押人(あめのたらしひこくにおしひと)命に行き当たる。この神は海部氏の女を母に持つ第五代・孝昭天皇の御子である。海部直は彦火明神の直系の子孫であり、小野氏は間接的に彦火明神と血が繋がっている。
 巫女気のある女は氏や男児に霊力を与える。かつて、彦火明神を祖とする別流・物部氏や葛城氏、和珥氏はそのような女を天皇家に与えてきた。藤原氏の妃を端近に置くようになってからは、天皇のまわりに猿女の姿を探すことは出来ない。
「女子の魅力を武器にする女と、猿女の霊力を持つ女ですか――いささかやっかいですな」
 篁の言葉に、岑守は酒杯を高杯に置いた。
「良子にはすでに申し付けてあるが、立ち居振る舞いと教養が大事なのだ。篁、よろしく頼むぞ。
 風花は比子の行儀作法を叩き込むよう、肝に銘じておいてくれ」
「かしこまりまして」
 篁と風花は深く叩頭した。


「――とはいったものの、急なことで戸惑うな」
 邸を出るため厩に向かう篁の足下を、風花は灯明で照らす。
 風花はちら、と目の前を過る西の対屋に目をやる。暗がりに輪郭をなくし、冷たい風が木々を揺する音だけがする。
「わたくしの姫さまは、誰にも劣りはしません。
 が、東宮さまの女君たちの見事さに少しばかり気圧されます。姫さまは、まだまさ幼いところがございます。既に女として出来上がってしまっている方々と比すれば、姫さまはいかにもお気の毒で……」
 先ほどの会話が衝撃だったのか、篁に向けていた警戒を忘れ、風花は細々と呟く。
 何も言えず、篁は黙り込むみ、御簾が揺れるのを何気なしに見る。と、御簾ではない透明な衣がはためくのを目にした。
 限りなく薄い羅だ。細長いそれは錦糸を複雑に縫い込まれ、きらきらと輝いている。比礼(ひれ)のようだった。
 篁は目を上げ、たなびく比礼を追いかける。
 月と星の光だけのなか、淡木賊の背子(からぎぬ)に薄紅の衣、纐纈染(きょうけちぞめ)で造られた薄萌黄の裙を纏った麗しい乙女が、御簾に隠れて篁を見つめていた。円な黒曜石の瞳は濡れたように輝いていた。
 ――比子?
 我を忘れたように、篁は娘だけを見入る。匂い立つような若さ、衣を透かして輝きそうな真白い肌、諸手を覆って余りあるほどに豊かな射干玉の髪、桃色に色づく唇――。春をもたらす佐保姫とも、月に帰ってしまうかぐや姫とも篁の目に映った。
「姫さまっ!」
 風花も比子の姿に気付き、叫び声をあげる。びくり、と比子は肩を峙たせ鹿のような身動きで屋内に入った。
 ――あっ……。
 一瞬の出来事だった。不意に篁の眼に飛び込んできた女神が、行ってしまった。呆然と、彼は比子が消えた御簾の奥を食い入るように見つめる。
「――見なかったことにして下さいませ。あなた様は、なにも見なかった」
 低く押さえた風花の声に、篁は正気に戻る。
「こころに留めてはなりませぬ。あのお方は、主上の寵者となられるのですから」
 言って、風花は篁を見据える。厳しい眼差しに篁は息をのみ、何度も頷いた。
 唇を噛み締めると、風花は篁に背を向け前を歩き出す。篁は無言で後をついていく。
 風花の目の端に憐憫が漂っていたのを、篁は何一つ気付かなかった。


(2)に続く


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