Part1・ウエルトゥムヌス


 これは、遠い遠い神々の時代の物語――

 ウエルトゥムヌスは四季を司る神。
 草木や風の匂いの移ろいを見守る者。
 そんな彼の胸にある日、鋭い痛みが襲い掛かってきた。痛みはしばらく、全身に甘い痺れをもたらし、消えていった。


「今年も、色良く、綺麗に実ったねぇ」
 ポモナは振り返る。
 彼女は森に住む二ンフ(妖精)のひとり。小柄で愛くるしく、可憐である。
 他の二ンフのように神々や人々と遊ぶこともなく、花々や果実を愛でて過ごす。
 そんな彼女のもとへ、毎年林檎が穣る頃合いに、彼女が丹精した果実を取引しにくる中背の刈り入れ人がいた。人の良さそうな相好を崩している。
「ありがとうございます。そう言ってもらえて、嬉しいです」
 見目麗しい少女が、はにかんで笑った。
「これ、一個食べてみてください」
 ポモナが林檎を渡すと、男は愛しそうに林檎に頬摺りして、一口齧った。
「……とても甘い」
 男の優しい笑顔に、乙女も笑い返した。
「じゃあ、いつものように、籠にいっぱい入れますね」
 ポモナはもいだ林檎を籠に充たした。
「この林檎、売られているんですか?」
「……うん、そうだよ」
「いっぱい、売れます?」
「もちろん」
 ふたりとも、何気なく話す。
『……ふたりとも、恥ずかしがりなのね』
 不意に、柔らかな女性の声が。
 男は天空を仰ぐ。
 が、何もなかった。
「−−どうしたの?」
 ポモナには聞こえていない。
「うー…ん、何でもないよ」
 彼女から籠を受け取り、刈り入れ人は果樹園の囲いから出た。


 人気がない神殿のなか。
 盛りの冬の花々が咲き乱れ、張り詰めた寒気が漂う。
 その中でウエルトゥムヌスはエンタシスの柱にもたれ、溜め息を吐いている。傍には無造作に籠一杯の林檎が置かれてある。彼は手にした林檎を眺めながら、果実を愛撫していた。
「ポモナ……」
 呟く彼のまなじりに、涙が浮かぶ。
 と、目先を掠めるものが。
 ウエルトゥムヌスは目を疑う。
「何故……今の季節に蝶が?」
 それだけではない。
 その蝶は虹色に輝いて、煌めく鱗粉を落としていた。
 そればかりか、
『恥ずかしがりやのウエルトゥムヌスさん。
 恋にばかり溺れて四季を巡らせるのを忘れてしまったら、ゼウスさまやアプロディテさま、デメテルさまに叱られてしまうわ。
 そうならないうちに、何とかしなくちゃ』
 まごうことない、先程の声である。
 オリュンポスの大神ゼウスや花を好む美の女神アプロディテ、大地の実りを司る女神デメテルは、ウエルトゥムヌスなどとは比べものにならぬ、恐ろしい神である。
 奇異な現象に驚きたじろいでいる彼の耳に優しげな声が響く。
『ただ見守っているだけで、あなたはいいの?』
 はっと我に返ると、ウエルトゥムヌスは叫ぶ。
 「わたしにだって訳が分からないんだ! どうしてこんなことになったのか!
 愛の神エロスが気紛れにわたしに金の矢を打ち込んだとしか……」
 語尾が小さくなる。
 アプロディテの愛息、愛の神エロスは射こまれたら恋に捕われる金の矢と、反対に射こんだ者を恋愛嫌いにする鉛の矢をもっている。非常に悪戯好きで、神であろうと人であろうと、見境無く的にする。
 虹色の蝶は無言で聞いている。
 ウエルトゥムヌスは寂しげに嗤う。
「……すまない。
 解っているつもりだ。
 何と言おうと、今は恋に捕われているんだって」
 言って、彼はまたも林檎に頬摺りした。
『ならどうして、彼女に想いを伝えようとしないの?
 人が結ばれるためには、まず行動しなくちゃいけないのよ。
 あんな風に別人を装うのではなく、素のままのあなたでなくちゃ』
 ウエルトゥムヌスは首を振る。
「彼女は恐がりなんだ。
 人を避け、森の最奥に引き込んで、花や果樹を友としている。
 他にも彼女を欲しがっている神々がいるけれど、彼女は近付こうともしない」
『よく見ているのね』
 蝶は感心している。
「彼女はどんな季節の花も愛している。あれほどに花々や果樹を美しくする娘だから、自然に目に入っていた。
 この物思いに取りつかれたのは、あの日、胸の痛みを感じてからだが……」
 彼は黙り込む。
 蝶は思いついたように羽をはばたかせた。
『でも、彼女、あなたに対したはそんなに警戒していなかったわ。
 一度、思い切って、彼女に想いを伝えてみればいいわ』
「無理だよ、そんなの。
わたしの姿を見てしまえば、きっと警戒する」
 ウエルトゥムヌスはにべもない。
『あら、あなたの姿でなくてもいいでしょ。
 どんな姿でもいいから、あなたのことを好印象に見えるように、他人の振りをして伝えたらいいのよ』
 心無しか、蝶が必死で説得しているように見える。
『少しづつ、少しづつでいいから……』
「いやに必死だね」
 蝶が揺れ動く。夢幻のような鱗粉が散った。
『あら、そうかしら』
 はぐらかそうとしているようだ。
『そうよ、いまからでも行ってみたらいいわ!』
「えっ!?」
 虹色の煌めきが彼の目線にまで近付き、ひらひらと舞う。
『そうよ、なんでもいいから、はやく変化して!』
「どうして、嫌だ!」
 血相を変えて抵抗する。
 蝶の声のトーンが低く変わる。
『……あら、ただ臆病なだけなの?
 彼女が他の求婚者と結ばれてしまってもいいのね』
 冷たさを匂わせ、蝶はふわふわ浮かぶ。
『臆病で、ただ言葉をかわすだけでいい情けないウエルトゥムヌスさん。
 あなたがそれでいいなら、そうすればいいわ。
 エロスさまは本当に気紛れだから、あなたが思い悩んでいるうちに、彼女にもきっと金の矢を射こんで、他の男のかたを愛するようになるわよ。
 それでよければ、どうぞご勝手に』
 蝶はそう言うと翻り、暗闇に光の軌跡を残し、消えようとした。
「ま、待ってくれ!」
 ウエルトゥムヌスの言葉に、蝶は動きを止めた。


 星だけが照らす夜。
 ポモナが佇む果樹園に、ひとりの老婆の姿が。
《やっと行く気になってくれたのはいいけれど、どうしてお婆さんの姿なんだろう》
 森の闇のなかに輝く蝶は、皺くちゃの気難しそうな老婆に変化したウエルトゥムヌスを眺めていた。
 どうせ変わるのなら、女が安心する同世代の女のほうがいいだろうに、と思いながら。
 ……と、蝶のうしろから延びてくる白い二本の腕が。
 何も気付かない蝶を大きな手が包み込んだ。
『きゃっ!』
 捕らえられた蝶は悲鳴を上げ、藻掻く。
『な、何をするの!?』
「そっちこそ、何をしているんだよ」
 明るい男性の声だ。
 闇に浮かぶ姿は、この世の者ならぬ美しい青年だった。蜂蜜色の金髪は闇に映え、真白の翼が輝く。背には金と鉛の矢が入った矢筒に金色の弓が。
 愛と美の女神アプロディテの息子・愛の神エロスである。
『エロスさま……!』
 エロスは手のなかから蝶を解放する。
 蝶は虹彩を放ちながら輪郭を崩し、光は人の形を形成した。
 やがて、光が収まり、蝶の羽を持つ華やかな娘が立っていた。赤の交じった緩やかな金色の長い巻毛、円らな瞳に濡れたような朱の唇の、女とも乙女ともつかない清らかな姿だ。
 彼女は少し拗ねたような面持ちだ。
「プシュケ、ここで何をしてるんだ?
 ヴォルプタスを残し、僕にも何も言わないで」
 エロスは神経質に片眉を上げている。
彼女−−プシュケはエロスの妻で、幼い娘・ヴォルプタスを神殿に残し、夫・エロスに無断で出てきていたのだ。
 仕方なくプシュケは唇を開く。
「この前、あなたが思い付きで的を定めずに射られた金の矢、あれが彼−−ウエルトゥムヌスに突き刺さったの。
 だから、あまりに可哀想だと思ってこちらに来てみたのよ。
 そうしたら、とても奥手で……今やっと、彼女に告白するところまでこぎつけたの」
 そう言いつつ、夫をちらりと見る。
 エロスは複雑な笑い顔を作っていた。
「−−で、上手くいきそうなの?」
 エロスもふたりを覗き込む。
「それが、彼女−−ポモナも奥手なの。恋などに興味がない、といった感じ」
 プシュケは肩を竦める。
「じゃあ、僕が金の矢を彼女に打ち込めば丸く納まる、ということになるじゃないか」
 笑って言って、エロスは弓と矢を取り出す。
 が、プシュケが彼の羽を掴んだ。
「−−何」
「折角、自分で恋を手にしようとしているのだから、邪魔しないであげて!」
「邪魔って……」
 恋愛の神に随分な言い様である。
「あなたの矢の威力は有無を言わせないものがあるわ。
 それじゃ、彼が自分で手に入れたことにならない」
「言ってくれるね……」
 エロスは憮然とした。
「とにかく、見ていてあげるわ、わたくし」
 プシュケは再度、視線をウエルトゥムヌスに戻す。エロスが肩を並べた。
「あなた……?」
「僕にも責任があるんだろう?」
 エロスは咳払いをひとつした。
 プシュケは微笑んだ。


「お婆さん、誰……?」
 あどけない表情で、ポモナは老婆に尋ねる。
「なに、ちぃと森のなかで迷うてしもうてのぅ。
 それにしても、よくこれほどまでに林檎を実らせなすったのぅ」
 言いつつ、老婆はポモナに近付き、ぽってりと柔らかな唇に吸い付いた。
「んっ……」
 ただ唇を重ねたのではない、老婆としては似付かわしくない濃厚な接吻だった。

「おいおい……本末転倒しているんじゃないか?
 プシュケ、煽りすぎたんだろう。あれはかなり焦ってるぞ」
 エロスはウエルトゥムヌスの行動に、彼には聞こえないように一言文句をつける。
 しっ、とプシュケは夫を遮った。

「それはそうと、お嬢さん、お前さんには沢山の求婚者がいるそうだね? 牧神のパーンなど。
 けれども、誰とも結ばれようとしない。何故かね?」
 ポモナは頬を染める。未だ、口付けの余韻が残っていた。
「わたしは……恋などより、果実や花を育てているほうが性に合うんです」
 彼女は言い淀んだ。
「そのようなこと、おいそれと言ってはいけないよ。
 愛の神アプロディテの恵みを受けられないどころか、恐ろしい罰をあてられてしまうかもしれない」
「でも……いたずらに浮き名を流される御方とは、結ばれたくはありません」
 以外としっかりした言葉だった。完全に恋を否定しているわけではないらしい。
「おぉ……それなら、わたしの知り合い、四季の神ウエルトゥムヌスはどうかね?
 あれは、かねてからお前さんに恋い焦がれておった。
 あの者も花や木々、果実を愛する者。優しく、力強い者。
 お前さんとはぴったりじゃよ」
「わたしと会ったことのある御方なんですか?」
 少しばかり興味をひかれ、ポモナは聞く。
 老婆は乗じて語る。
「ウエルトゥムヌスは変身を得意としておる。
 お前さんも会ったことがきっとあるぞ」
「変身した姿なんですか。では解らないわ」
「正身は輝かしい美貌の神じゃ。夜のように艶やかな髪に切れ長の目元。柔らかな風貌をしておる」
 老婆は熱心に説く。事実、彼はそのような姿をしていたから。
「姿形は関係ありませんわ。優しい人ならいいのですけれど。
 でも、花々や芳しい果実のほうが優しいはず」
 ポモナは傍らにあった楡の木に手を伸ばす。木には葡萄の蔓が絡み付いていた。
「また、そのようなことを……。
 ほれ、その楡の木も葡萄の蔓と仲良く絡み合っている。男と女もそのようなものなのだよ。
 そのように抗うのてはなく、自然に任せてしまいなさい
 そうでないと、不幸なことが身に降り掛かる」
 老婆のただならぬ物言いに、ポモナは震えた。
「どんな……?」
「これはウエルトゥムヌスから聞いたことなのじゃがな、キュプロス島にイピスという若者がいて、アナクサレテという大家の姫に恋い焦がれておった……」
 厳かに老婆は語りだした。

 エロスは何かを思いついて、妻の腕を引いた。
「……思い出したよ。
 イピスは母上の熱心な信者だった。
 彼はアナクサレテを愛したけれど応えてもらえず、自ら命を断ったんだ−−」
 プシュケは息を呑む。

「貧しい生まれのイピスと姫では、身分の差が大きく開いていた。じゃから、長い間恋に悶えておったが、思い切れず、ついに姫の屋敷の戸を叩いたのじゃ。
 幸い、姫の乳母と知り合いだったので、イピスは泣いて縋りついた。
 乳母は姫の家の者に説得し、姫に花輪などの贈り物をしたのじゃ。
 勿論、叶うはずのない恋じゃ。
 が……それだけではなかった。
 姫には暖かなこころが欠けていた」
「……!」
 ポモナは目を見開く。
「凍てついたこころを抱えて、花輪に涙を残すイピスを嘲笑い、軽蔑しておった」
 老婆は彼女を見つめて言う。

「イピスは母上の祭りのときにはいつも花を欠かさず、供え物も怠りなかった。だから当然、母上は彼を愛でていたのさ」
 エロスは老婆−−ウエルトゥムヌスを見やりながら呟く。
「ある日、母上はそんな彼の悲痛な叫びを聞いたのさ。
『アナクサレテ、あなたはわたしの恋に勝利されたのだ。
 だからわたしは死ぬほかない。
 わたしが死ねば、あなたは満足なのだろう。
 だが、わたしが愛したこころは絶対に死なない。
 きっと、このわたしの死は、わたしの恋は語り継がれていく。
 あなたは、わたしの死の様を見て楽しまれればよい』
 イピスはそう言って、姫の屋敷の門の柱に縄を掛けてくびり死んだのさ。
 母上は彼の叫びを聞き逃さなかった。
 彼の死を面白ろ可笑しく見つめていたアナクサレテに、母上は罰を与えた。
 彼女の身体は石になってしまい、その像は、キュプロスの母上の神殿に今でもある」
 エロスは目を瞑る。かつて母から聞いた出来事を思い返すように。
 が、やおら背から弓を引き出すと、金の矢をつがえた。
「あ、あなた!?」
 プシュケが顔色を変える。
「やっぱり、こうするのが一番いいんだよ。
 彼女に金の矢を射こめば、誰も苦しまずにすむ」
 エロスは矢を引き絞る。
 プシュケは夫を凝視し、ウエルトゥムヌスを見つめた。

 ポモナは老婆からひとしきり悲しい恋の話を聞いていた。
「お嬢さん。
 ウエルトゥムヌスも思い詰めておる。
 イピスのように死んでしまうかもしれん。
 お前さんにこころがあるのなら、どうかウエルトゥムヌスを救ってやっとくれ。
 それとも、お前さんもアナクサレテのように、ひとを想うこころがないのかね?」
 老婆の深い眼差しに、ポモナは大きくかぶりを振った。
「いいえ、そんなことありません。
 ただ、ウエルトゥムヌスさまに会ってみないと……」
「ここにいるよ」
 俄かに、老婆の声の質が変わった。
 否、老婆の声ではなかった。
 ポモナの目の前にいるのは、神々しい相貌の、黒髪の青年だった。
「……あ……」
 ポモナが瞬く。
「ごめんよ、姿を偽って現われて。
 でも、こころに偽りはないんだ」
 青年−−ウエルトゥムヌスはポモナを掻き口説く。
 が、ポモナは彼の言葉を手で止めた。
「いいえ−−それ以上仰らないで」
「ポモナ?」


 変わってきた様相に、エロスは矢を下ろした。
「結局、僕の出る幕はなかったな」
 エロスは吐息する。
 目の前で、ふたりの男女が抱き合っていた。
「……よかった……」
 プシュケは美しい笑みを見せる。
 弓を背の後ろに戻すと、エロスは肩を竦めた。
「さ、戻ろうか」
「もぅ、あなたがいい加減なことをなさるから、わたくしが尻拭いする羽目になるのよ」
 妻のぼやきに、エロスはニッと笑った。
「愛してるから、そうしてくれるんだろう?」
 まっ……! と漏らし、呆れるプシュケ。
 エロスは妻の腰に腕を廻す。
「本当は、君が他の男のもとに行ったんで、心配だったんだ」
 そう言って、プシュケの唇に己の唇を重ねる。
 甘やかな感触を楽しんで、柔らかな巻き毛を撫でた。
「僕だって、あんなきっかけがなかったら、君を愛することもなく、アナクサレテのように、愛するこころを知らず、いたずらに魔法の矢を放っていただろう」
 顔を話して密やかに妻に語る。
「あなた……」
「まぁ、アナクサレテに関しては、僕にも責任があるんだけれどね」
「えっ?」
 プシュケは呆気にとられる。
 そして、はっとした。
「まさか−−!」
 エロスは頭を掻いた。
「そう、僕が昔、悪戯で的を定めずに、鉛の矢を射たのさ。
 あとで、母上にこっぴどく叱られたけれどね」
 しだいにプシュケの柳眉が逆立ってくる。
 エロスは苦笑いした。
「信じられない!」
 そう言い置いて、プシュケは蝶に変化し、夫を置いて飛び立つ。
「おい、待てよ!」
 エロスもまた、蝶を追って白い翼をはばたかせた。


 あとにはふたつの煌めきが軌跡を残していた。


 fin

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