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愛は浮雲の彼方にindexへ

陽狂の皇子(3)へ

 春麗らかな昼下がり。
 軒下でひとり、彩女は薬師としての仕事をしていた。
 彩女は、今でも信じられなかったりする。
 昼最中の有間皇子は、惚けて、口をだらしなく開けていたりする。時折、訳の解らないことを洩したりもしている。
 が、彼女が夜に目にする彼は、至ってまともだ。理知的で、端正な姿の高貴な皇子そのものだ。
 だから、彩女には昼の皇子と夜の皇子は違うのではないか、という気さえしてくる。
 そうでなければ、皇子は余程演技が巧い、ということになるか。
『皇子さまのお立場を考えれば、確かに誑れでもしなければやっていけないと思うけれど』
 有間皇子は言っていた。
 皇太子・中大兄皇子を欺くには、まず、身近なところから攻めていかなければならない。
 そのためには、心苦しいが、米麻呂や柾菜達をも偽らねばならぬ――と。
 目下のところ、米麻呂も桑菜も、有間皇子が誑れていることに、気付いた様子はない。
 知っているのは、彩女しかいない。
『――何だかよく解らないけれど、あたしって、信用されたのかしら。
 でも、それなら、皇子さまは、米麻呂さんや桑菜さんの方があたしよりもよく知っているはずなのに、どうして、あたしなんかに話されたんだろう』
 心の中にある疑問。
 彩女が、薬師だからか。
 が、彩女は自分でもまだ半人前であることを自覚しているし、心に渦巻く重い悩みなら、己より父・小麻呂を頼ったほうがいいのではないか、と思う。
「――彩女、彩女!」
 後ろから呼ばれ、彩女は我にかえる。
 振り向くと、桑菜がいた。
「あんた、何やってるの。薬、溢れてるよ」
「あっ……」
 石の擂り鉢を斜めに傾けていたため、擂り粉木ですり潰していた薬草が、床に落ちていた。
 彩女は笑って誤摩化す。
「最近、よくぼうっとしてるよね。考え事してる?」
「えー……、まぁ、そうね」
 何を言われるのかと、彩女は焦る。
「……もしかして、皇子さまの調子、悪くなってきてる?」
 桑菜の問いに、彩女は呆気にとられる。
「――そんなことないみたいだけれど」
「だって、さ。あんた、このごろよく皇子さまのこと見てるし」
 ぎくり、と彩女はたじろぐ。
「そ、そう?」
「だから、皇子さまの心の病が、酷くなったのかな、と思ってさ。
 というより、これを言い出したの、米麻呂なんだけどさ」
「あ……米麻呂さんが?」
 米麻呂とは、あの晩から口をきいていない。
 桑菜とは和解したが、米麻呂は、どうなのだろうか。桑菜との間を途中で邪魔されて、怒りを抱いているのだろうか。
 彩女はそのことも、気にかかっていた。
 桑菜から言わせれば、米麻呂はまったく気にしていない、とのことだが。
「桑菜さん、皇子さまのご病気は酷くなっていないから、安心して。
 米麻呂さんにも言っておいてね」
 そう言い置いて、彩女は侍女の大部屋にある薬用の小壷を取りに逃げた。
『――あたしって、正直だからなぁ。桑菜さんとか勘がいいから、気をつけなくちゃ』
 考えもって、彩女はすり潰した薬草を小壷に収めた。

 小才と米麻呂が取ってきた魚もそこを尽き、有間皇子はまたも食が細くなった。
 冷めた大根の醤煮を、侍女の顔に投げ付ける。侍女が悲鳴を上げるが、廻りの者は片づけの用意をし始めた。
『皇子さまの少食は、演技なのかな。それとも、本当に少食なのかな』
 彩女は注意深く観察する。
 その日の夕餉も、有間皇子は殆ど受け付けなかった。
『――それなら、あたしにも考えがある』
 夜更け、褥の支度をし終り、手伝いをしてくれた舎人が下がると、彩女は皆が寝静まるのを待つ。
 この前の夜の冒険で、皆がどれくらいの時間に就寝するのか解った。
 時間を見計らうと、彩女は皇子の部屋から滑り出した。

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 どうして、己はあの娘に本性を曝け出してしまったのだろう。
 有間は、未だに自問する。
 余りにも遠い記憶が、突然目の前に飛び込んできた。ただ、それだけのこと。
 彼にとっては、そのころはとても懐かしく、彼の人生で一番優しい時だった。だから、懐かしさに惹かれて、あの娘に真実を話してしまったのか。
 己の中にあった緊張が、ふっと緩んでしまったような気がする。一度綻んでしまえば、元には戻れないかもしれない。
 仄暗い闇のなかで、有間は目を瞑り、外の気配を探る。
 が、息吹きの音もなく、しんと静まりかえっていた。
 有間は寝間を区切る御簾をはね除け、部屋の外に出ようとする。
 と、目前に膳を持った彩女がいた。
「み、皇子さま――? どうかなさったのですか?」
 唖然とする彩女に、皇子はすぐさま顔を背け、部屋の中に入る。
 首を傾げつつも、彩女は膳を掲げてみせた。
「皇子さま、ほとんど御飯、食べていらっしゃらないでしょう?
 だから、おにぎり、作ってきました」
 笥には雑穀のにぎり飯が三つ、盛ってあった。その他に、昆布の醤煮や塩干した浅蜊が付けてある。
「いつも皇子さまにお出しする白い御飯は残ってないので、あたしたちが食べる麦・粟や稗などが入っているものですが。でも、頑張ってにぎったんですよ」
「……欲しくない」
 そう言って、有間は脇息に凭れ吐息する。
 彩女はむっとした。
「ど、どうしてですか」
「食欲など、ない」
 その言葉に、彩女は胸を突かれる。
 皇子は、心労から食を採る元気もなくなってしまったのだろうか……。
 が、彩女はそれくらいのことで引き下がる性格ではなかった。
「――そうですか、皇子さまは、あたしの作ったものなど、食べられないんですか。
 わかりましたよ。これ、下げさしてもらいます!」
 つん、と澄まして、彩女は戸口に向かおうとする。
 その手を、有間が捕らえた。
 振り返った彩女は、喜色を浮かべていた。
「そうですか、食べて下さいます!?」
 はめられた、と、有間は臍を噛んだ。

 雑穀のにぎり飯は、軽い苦味と塩味がした。
 白米のそれとは違い、粒が揃わないのでぽろぽろと溢れやすい。有間は食するのに苦労した。
 が、有間は全て食した。
 彩女はにこにこしている。
「何だ、食べようとすれば、食べられるんですね」
 彼女の手に乗ってしまったのが悔しいのか、有間はそっぽを向く。
「もともとは、狂人の振りをするために食を採らなかっただけだ。
 だが……ずっと狂人の振りをしていると、これが振りなのだか、解らなくなる」
 か細い呟きに、彩女の心が痛くなる。
『やっぱり、振り、というのは、続けていると、当人の身に付いていくものなのかな……。そうすると、本当に狂人なのだと、錯覚するものなのかも……』
 皇子は、健常者と狂者のぎりぎりの瀬戸際にいたのかもしれない。
 彩女は、言わずにはいられなかった。
「あの……皇子さまは、その状況でも耐えられたんですか?
 もし、本当に狂ってしまったとしても、よかったんですか?」
 有間は薄い笑みを浮かべる。
「それならそれで、わたしは生きていけるのだからな。
 気を保っているより、そのほうが長生きできる確率がある」
 彩女は俯く。
 そして、小さな小さな声が。
「……それって、生きているとはいえません」
 皇子ははは、と自嘲の笑いを見せる。
「そうかもな」
 有間の言葉に、彩女は顔を上げる。その瞳には、涙が浮かべられていた。
「そうかもな、じゃありません! 皇子さまは、生きていたいからこそ、誑れられたのでしょう!?
 死にたいなら、死ぬ方法など、いくらでもあるじゃないですか!
 それをしないのは、何故なのです!?
 死にたくないのなら、生きられたらいいのですっ!」
 有間は気圧される。
「彩女……」
 彩女がそこまで言うとは思わなかった。
 それは、有間の中に凝っていた念い。
 狂うくらいなら、死んだほうがましだ――そう思っていた。
 今のままに、狂人の振りをし続けたら、確実に狂ってしまうかもしれない。だが、それからも逃げようとはしない。
 ましてや、狂人の振りをしながらも、確実に中大兄の裏を掻くことを望んでいたわけでもない。
 なら、何のために? 何のために狂った振りをする?
 有間は、念い続けていた。
 そんなときに現れたのが、彩女だった。
 有間は、またも吐息した。それは、暖かかった。
「だから、今、そなたに全て打ち明けた。そなた、わたしの抱えているものを受け入れてくれるのだろう?」
 言われ、ぎこちなく彩女は頷く。
 夜の密やかな間だけ、素の顔に戻る。それで、本当の己の顔を確認することができる。
 有間は、己の生きていく術を見つけることが出来たような気がした。

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 それからは、毎夜、有間と彩女は静かに語らう。
 日々のこと、この国のことなど――。
 特に有間は、彩女の過ごしてきた年月のことを聞きたがった。
「あたしのことなんか聞いても、面白くもなんともないですよ」
 照れながら、彩女は打ち明ける。
 その中から得られた彼女の像は、どうしようもなく幼い、ということだった。これは、彼が何時か彼女を観察していたときも解るのだが、仕種や表情が、子供っぽいのだ。
「そういえば、わたしがそなたにすべてを明かしたとき、そなたは酷く汚れていたな。何かあったのか?」
 努めて何気なく、皇子は聞く。
 彩女はいつになく赤くなって、黙り込む。
「何か、あるのか?」
 有間は訝しむ。
「これって、あたしの一番の失敗なんですけれど、言っていいものかどうか……。
 皇子さまは、ふたりの主人だから、知ってもいいかもしれないけれど」
 思わせぶりな口をきく。
「だから、何だ? ふたりとは?」
 ついつい、詰問するように有間は言う。
「……誰にも言わないで下さいよ」
 一言断って、彩女は口を開く。
「米麻呂さんと桑菜さんって、何かあるみたいなんですよね。
 あたしって、ふたりと仲良くしてもらっているから、ちょっと増長していたみたいなんです。ふたりだけ秘密で話をしているみたいって解って、我慢が出来なくなったんです。
 それで、あの夜、探険気分でふたりを捜して……どうも、見てはいけないものを見てしまったみたいなんです。
 あたしには、何が何だか解らないんですけれど、桑菜さんに言わせれば、あぶないことらしいんですね。
 ただ、あたしは見てはいけないものを見てしまったことだけは解って、焦って走って、草むらに飛び込んだんです。だからどろどろになっちゃって。
 ……後で、桑菜さんが追い掛けてきてくれて、許してくれたんですけれど。
 それで、あたしが何のことか解らなかったので、子供の作り方とか、恋がどうとか、という話になりました。あたし、それもどういうことなのか、いまいち解らないんですけれど」
 そう言って、彩女は唸る。
 ふと、皇子を見ると、彼は噴き出していた。
「な、何が可笑しいんですか!?」
 彩女は憤り、拗ねる。
「い、いや……。
 そなた、意味がわからぬのか?」
「……解りませんけれど。皇子さまは解るんですか?」
「ああ、解るが? その年になって解らないそなたに問題があるのだと思うが」
「えっ、そうなんですか!?
 どういうことなのか、教えて下さいよ!」
 瞬時、有間が押し黙る。彩女を値踏みするように眺めている。
「な、なんですか?」
「いや、どういうつもりで言っているのかと思ったのでな」
「どういうつもりもありませんけれど?」
 彩女が不審そうな顔をする。
「……全く、そなたは子供だな。それに、わたしが教えることでもあるまい」
「……どうしてですか?」
 本当に、彩女は解っていない。
 皇子は、謎めいた微笑みを浮かべるのみだった。
「ただ言えるのは、確かに、そなたは割って入ってはいけなかったのだ」
「……」
 彩女は、急に不安になった。
 皇子の話を聞き、改めて米麻呂のことが気になったのだ。一度、謝ったほうがいいのではないか。
 彩女は、小さく溜め息を吐いた。

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 有間皇子の館に上がって一月あまり経ち、薬が底をついてきた。
 然るに、彩女は当麻の家に薬を取りに行かねばならなくなった。
「皇子さま、二日位あたしが居なくても大丈夫ですよね?」
 夜更け、皇子に事情を話す。
 有間は少し呆れて言った。
「当たり前だろう。何も、本当に気が狂っているわけではないのだから」
「でも、あたしがお話し相手を出来ないと、気持ちが苦しくなってくるんじゃないですか?」
 尚も言う彩女。
「二夜三夜くらい、何ということもない。
 わたしが誑るためにも、薬がなくては困るではないか。それも、考えのうちだ」
「……そうですか、じゃあ、行かせてもらいます」
 有間の許しを得、彩女は朝早くに館を出ることにした。
 薬を入れていた中小の壷や袋を一枚の大きな布に包み、抱え込むようにして持つ。彩女は眉を潜める。包みは、かなりの重さになっていた。
『行きのこれでも重いのに、帰りはもっと大変なことになるんだぁ……』
 彩女は内心、辟易していた。
 鈍重な足取りで厩の前を通りかかったその時、
「彩女殿――?」
 背後から声を掛けられた。
 振り向くと、精悍な顔が微笑んでいた。
「米麻呂さん――」
 呆然と呟く彩女に、米麻呂は悪戯そうな眉を上げた。
「なんだよ、狐に摘まれたような顔をして」
「え、あっ、そういうわけじゃないけれど――」
 嘘である。
 有間皇子に指摘されてから、ずっと米麻呂のことが気になっていたのだ。ずっと頭の中から離れなかったといっていい。
「重そうな荷物を持って、どこに行くんだよ」
「皇子さまの薬がなくなったから、当麻まで取りにいくの」
 米麻呂のにこやかな顔は変わらない。もしかすると、この前のことを、気にしていないかもしれない。
 彩女は密かに安堵していた。
 米麻呂はひとしきり彩女と荷物を見回すと、荷物を取り上げる。
 彩女は吃驚した。
「それじゃ、当麻まで送るよ」
「よ、米麻呂さん!?
 いいよ、米麻呂さんにも仕事があるだろうし……」
「ないない。いいから、ちょっと待ってて」
 言いながら、米麻呂は素早く葦毛の馬を引き出す。力強く引き締まった若い馬だ。
 彼は馬を撫でると、手早く鞍を付け、荷物を結びつけると馬に跨がって彩女に手を差し出す。
 彩女は戸惑った。
「あ、あの……あたし、馬に乗ったことないから、乗り方解らない」
 しどろもどろに言うと、米麻呂は軽く吐息する。
「そうか、じゃ――」
 え、と彩女が言う間もなく、米麻呂は彼女を馬の上に引き上げた。
「き、きゃあっ!」
 気が付けば、米麻呂に背を支えられ、馬上にいた。
 彩女の表情は、引き攣っている。
「はは、元気のいい彩女殿も、馬は初めてなんだね。それなら――」
 言うなり、米麻呂は馬に鞭をくれる。
 馬は嘶くと疾走しだした。
 目を止めることも出来ず、光景が目まぐるしく変わり、頭がくらくらしてくる。
 彩女には始めての馬の早さだ。米麻呂に肩を抱かれながらも、勢いよく揺れる馬が怖い。
「やだぁっ――! と、止めてっ――!」
 彩女は悲鳴を挙げる。
 と、馬の速度は下がり、廻りの景色が定まりだした。
 彼女はしばらく、がくがくと震えている。背中を叩かれ、彩女はやっと顔を上げた。
 子供のような無邪気な面で、米麻呂が見下ろしている。
「怖かった? 彩女殿でも怖いものがあるんだね。必死でしがみついて」
 はっとして、彩女は見る。己が必死で米麻呂に抱き着いていることを。
『あっ……』
 慌てて彼から離れる。米麻呂は面白そうに笑っていた。
「米麻呂さんの……意地悪。
 なによ、この前のこと、根に持ってるの?」
「この前のこと?」
 米麻呂は片眉を上げる。
「あの……桑菜さんと逢ってるのを、覗いたことよ」
「あぁ、あれか――」
「あれか、って――!」
 むっとして振り向くと、以前として米麻呂のにこにこした顔があった。
「ずっと気にしている、と思ってたんだ」
 心底楽しそうに笑う米麻呂に、彩女は膨れる。
「米麻呂さんは、あたしを苛めて楽しいんだ。悪趣味!」
 憎まれ口をきく彼女の背中を、米麻呂はぽんぽん、と叩く。
 完全に子供扱いしていた。
 それでも、
『確かに――米麻呂さんと桑菜さんの間のことを解らなかったあたしは、子供かもしれないけれど』
 己が子供だということは、不承不承でも認めている。
 馬はゆったりと歩を進める。
 竜田川沿いに咲く梅の花の香気が、艶やかに鼻孔に忍び寄る。
 草深い生駒・平群の谷は、春の緑に彩られ、鮮やかな新鮮さを齎す。
 だから、己は落ち着かないのか――と彩女は思う。
 己を支える米麻呂の逞しい腕や、暖かに包み込んでくる彼の目に、彩女は何故か居たたまれない。しかし、嫌な心持ちではない。
 米麻呂は優しいし、兄のようなところがある。だから、安心したいのに、安心しきれない――。
 有間皇子と共にいる時とは、また違った感慨だった。
 皇子は眉目秀麗で彩女はいつも目が奪われそうになる。
 理知的で高貴な身のこなしは、彼女を憧れさせる。それは、貴種の人に対する一種の憧憬だった。
 有間皇子の館に上がって、何かが変わってきているような気が、彩女はしていた。

 歩いていくのなら、太陽がかなり傾いた頃合いに着くだろうが、流石に、馬は早かった。まだ、強い光が辺りに満ちている。
 久々に見えた娘に顔を綻ばせつつ心配する小麻呂は、
「大丈夫か、粗相はしていないか?」
 と何度も繰り返した。
「大丈夫よ、へまなことなんてしてないし」
 彩女は笑って手を振り、父を見つめる。
『父さまは、知っているのかな……』
 有間皇子が誑れていることを。
 初めて皇子の館に上がったとき、父に皇子の様子の不自然さを聞いたことがあった。
 が、父は彩女の言葉を止めた。
 結果は、彩女が睨んでいたとおりだった。
 そのことに関して、彩女は父に何も言わないが、知っていて知らぬ振りをしているのか、本当に知らないのか……彩女には解らない。
 彩女は皇子の秘密をおくびにも出さずに父に対する。
 小麻呂は娘を送って来てくれた米麻呂を家に通し、薬湯を渡す。
「忝ないです。薄荷ですか? 清々しい香りが心地いいですね」
 米麻呂は非常にゆったりとした佇まいで、湯を啜る。
「米麻呂さん、もうそろそろお館に戻らないとまずいんじゃないの?」
 家に備え付けられている薬草を小瓶に移しながら、彩女は米麻呂に訪ねる。
 が、彼はにこやかに輝く歯を見せた。
「そんなことより、早く薬を持って帰る仕度をして。日が落ちる前に出れば、夜にはお館に着くよ」
 彩女は目を丸くする。
「……え、そんな、悪いよ! きっと、皆、米麻呂さんを待ってるから……!」
「大丈夫大丈夫、俺も少し気分転換がしたかったんだ」
 そう言って、米麻呂は彼女を薬師の仕事場に追い立てる。
 まったく、発つつもりはないらしい。すっかりくつろいで、父の世間話を楽しんでいる。
『い……いいのかな』
 何度も何度も気にしながら、彩女は用意し終えた薬瓶をすべて白麻の布に包み込んだ。
「終わったよ」
 荷物を抱えた彩女に、米麻呂は立ち上がる。
 帰ろうか、という彼に、彩女はぎこちなく頷いた。

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 日付を越した深夜、彩女たちは有間の屋敷に戻ってきた。
「彩女、早かったじゃない」
 いち早く彩女の帰還に気付いた桑菜は、廚からこっそりと彩女と米麻呂の食事を調達し、休息する二人に手渡す。
「米麻呂、ありがとね。あんたのおかげで、彩女が無事に帰って来れた」
 恋人の傍らに座り、桑菜は微かに甘さを含んだ声音で言う。
「あたし、別に頼んだわけじゃないよ。生駒と当麻の間くらい、あたしひとりでもちゃんと行って帰ってこれるもの」
 お邪魔かな? と彩女は場の空気に照れ、言葉を濁す。
 が、米麻呂は至極真面目に返した。
「彩女殿、生駒の谷をなめちゃいけないよ。
 生駒から平群の間には、質のよくない盗賊がいるんだ。奴らは、女子供といわず斬ってかかるらしいよ」
「へ…へぇ……」
 彩女は引き攣る。米麻呂からすれば、ひ弱い女の身でひとりのこのこ当麻まで帰ろうとする己は、無謀そのものだったのだろう。自分でも向こう見ずで無鉄砲だとは思っていたが、かなり恥ずかしい。
「ねぇ桑菜さん、今日は誰が皇子さまの宿直をしているの?」
 この場から退散するため、彩女は尋ねる。
「え……と、実はね、誰も宿直していないよ。一回宿直の役から離れると、皆戻るのになかなか勇気がいるから」
 彩女は笥を持ってすっくりと座を立つ。
「じゃあ、あたし皇子さまの宿直をしてくるね」
「え、でも、今日は戻ってくる予定がなかったんだから、一回くらい休んでも罰は当たらないよ」
 米麻呂が引き止める。
「そうそう! 柾菜はもう寝てるから、気付いていないし!」
 桑菜も同意する。
 そんなふたりに苦笑いしながらも、彩女は回廊に出た。
「……何だか彩女殿、俺たちに気を使ってない?」
 そそくさと足を進める彩女の後ろ姿に、米麻呂は訝しむ。
「……もぅ、似合わないことしちゃって」
 米麻呂に聞こえないように、桑菜は呟いた。


 彩女が有間の部屋に顔を出したとき、彼は未だに起きていた。書物を手に考え込んでいたのだが、彩女の面を見て驚きを露にした。
 目を見開き口元を半開きにしたとても有間らしくない表情に、彩女にまで驚愕が移ってしまう。
「……今日は帰ってこないはずではなかったのか」
「え、あ、米麻呂さんに馬で送ってもらったから、今日のうちに帰ってこれたんです。
 帰ってきちゃ駄目でしたか?」
「い、いや、そんなことはないが……」
 有間の顔に、妙な焦りが見える。不思議に思い彩女は首を傾げた。
『皇子さま……たまに、あたしと話しているとき様子がおかしいときがある』
 夜毎楽しく談笑するが、有間は奇妙な眼差しで己を見ることがある。彩女は今まで特にその理由を聞きたいとは思わなかった。が、彼のこの動揺ぶりは、何かがあるとしか考えられない。
『……あたし、お節介が過ぎるのかな。本当は皇子さま、自分のこと放っておいてほしいのかな』
 不自然な沈黙に食物に手を付けることもできず、彩女は黙り込む。有間も、何も言わない。
「……あのっ!」
 静けさに耐えられなくなった彩女は思い切って端正な横顔に切り出す。堅い動きで有間は彼女を見る。
「あたしが邪魔ならそう仰って下さい。皇子さま、あたしとおしゃべりしたくないんでしょう?」
 真剣な彩女の眼差しにたじろぎ、有間は空気を噛み首を振る。
「じ、邪魔なわけではない! どう接したらいいのか、解らないだけだ……」
 緊張した挙動を見せる有間に、彩女はきょとんとする。
「どう接したらいいかって……あたしは、皇子さまにお仕えする者です。皇子さまのなさりたいようになさればいいのです」
「それくらい、解っている!」
 彩女の目には有間が切れ長に眼を吊り上げ、彼女を睨んだような気がした。
『な、何をそんなに怒ってるんだろう……』
 己が邪魔でないといいつつ、怒っている。彩女には訳がわからない。
「じゃあ、なんであたしが今日に帰ってきてそんなに驚いたんですか? 自分ひとりでしたいことがあったわけじゃないんですか?
 それに、皇子さま、よく何かを言いたげにあたしを見てます。そういう目で見られると、あたし、居心地が悪いんです」
「……っ………」
 彩女は相手が主だということを忘れ、生意気に言葉を出す。
 有間は追いつめられた表情をし、やがて諦めたように溜め息を吐いた。
「――おまえは憶えていないだろうが、わたし達は十三年前に逢ったことがあるのだ」
 思いもかけない言葉に、彩女は目をぱちくりさせる。
「え、えっ?! 嘘っ、逢ったことあったんですか?!」
 彩女の狼狽えぶりに、有間は苦笑する。
「あの頃、父はまだ一介の王族で、母は存命していた。茅渟の屋敷で、おまえは我が父の脚気の治療に来ていた小麻呂に伴われていた」
「あっ……」
 彩女は口を手で押さえた。
 確かに、記憶にある。輝かしく香しい宮で、貴な幼子に接したことを。その子は彩女が父に託された荷物をその手から奪った。
「まさか、皇子さまがあたしの手から父さまの荷物を奪った子なんですか……?」
 呆然と呟く彩女に、有間は頷く。
「あの頃は、わたしにとって一番幸せな頃だった。父はいつもわたしの側におり、母の優しい腕を独り占めできた。
 が、それから時を待たずに乙巳の政変が起こり、父は王位に即いた。母は父の妃の座を退き……義母上・間人太后が父の傍らを占めるようになった。母はわたしと会おうとはせずに亡くなり、父はわたしより皇太后に心を奪われていた。――わたしは、あの頃からひとりになった」
 有間の脳裏に、渦のように記憶が甦る。
 ――わたくしはもう皇子さまと会えるような身ではなくなりました。わたくしは臣下の女……これからは、皇子さまには母があったことをお忘れ下さいませ。
 ――おぉ、間人、そなただけが朕の宝じゃ。だから、朕だけを頼りにせよ。有間、小足姫を忘れ、間人だけを母と思え。
 ――ごめんなさい、皇子さま。これからは皇子さまをあまりかまって差し上げることができなくなりました。わたくしは、皇太子(ひつぎのみこ)の子を身籠ってしまったのです。
 ――有間……あなたは本当にお兄さまに似ているわね。お願い、わたくしが義母であることを忘れ、あなたの愛しい女と思って抱きしめて頂戴。
 有間は強く眼を瞑る。
 彼が今の状況に陥ってしまったのは、なにも難波大王のたった独りの皇子だということだけが理由であるわけではない。それも一つの引き金に違いないが、彼は自身を取り巻く全てに絶望していた。
 有間は目を開ける。薄い明かりの中で、心配そうな彩女の白い面輪が浮き上がっていた。
 苦悩の現況を飛び越え、幸福だった過去の象徴がいま目の前にいる。彼には、それが不思議だった。
 不幸の直中に突き落とされなければ、己は彩女を忘れていただろう。己は、暗い心象のなかにいながら、常に茅渟の時代を懐かしがっていた。幸せの時代の最後の記憶が、彩女だった。それが、どういう運命の巡り合わせか、立ち現われた。暗い坩堝のなかだけで生きているのなら、感覚が麻痺しようとも己を騙していられた。が、明るい光を伴って現われた幸福の記憶が、彼の擬態を突き崩していく。
 ――もう、わたしは誑れるふりをすることが出来なくなるかもしれない。
 有間のうちに湧き出てきた予感。幸福の記憶は擬態の殻を打ち壊して彼の本性を引っ張り出してきた。戻ろうにも、本性が戻らせてくれない。
 彩女は有間の眼差しに軟らかさが含まれていくのを、眼を逸らさずに見ていた。彼のなかで、覚悟が定まったのを感じた。
「わたしは、とうに自らのことを諦めていた。
 が、忘れようとしていた記憶が形を伴って出てきて、動揺していたのだ。そなたが邪魔なわけではない。
 元気なそなたを見ると、生きる欲求が大きくなってきたようだ。もう、前のように諦めて生きることは出来なくなった」
 彩女も、こぞばゆい感傷を覚えていた。
 どういう巡り合わせなのだろうか――己の存在で、墜落していく人の運命が変わったのだ。運命の掛け合わせで、人は変わっていくのだ。
 今、何かを言おうにも、何も出てこない。感慨だけが、泉のように止めどなく溢れてくる。多分、有間も同じだろう。言葉はなくとも、互いに理解出来る。
 柔らかな笑顔を湛える有間に、彩女は微笑み、頷いた。

艱難の追憶(1)へ続く


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