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陽狂の皇子(2)へ
彩女が有間皇子の館に侍女として上がって一週間と少し経った日。
今まで静かだった小さな館が俄に騒然とした。
真っ黒に日に焼けた彼との初めての出会いだった。
彼は有間皇子に心を寄せる男・塩屋連小才の供をして、紀の国まで行っていたらしい。大きなざる三杯に干した魚を沢山盛って、廚の下女のもとに担ぎ込んでいた。
「米麻呂さん、お疲れさま。
今回も、一杯魚持って帰ってきてくれたんだね」
彼ーー新田部連米麻呂は口元にえくぼをつくり、人なつこそうに笑う。
「おうよ。紀の国の鯛に鮪、鰹に鮑や海藻類。ちゃんと塩して帰ってきたよ。
これなら皇子さまも、口にして下さるから」
快活で精気に溢れた、長身で逞しく、大柄な青年。明るく大らかで、館内の者の誰にでも好かれている。いつの間にか彼の廻りには人垣ができていた。
彩女は桑菜に連れられて、廚に駆け付けた。
「米麻呂さん、お帰り」
親しそうに桑菜は米麻呂の手を取る。
「桑菜も、元気そうだ。ちっとも変わらない」
「そりゃ、変わらないよ。三週間くらいだもの」
朗らかに談笑する。
と、米麻呂はふたりの様子をじっと見る彩女に気が付いた。
「新しく来た子?」
「そ。日下部小麻呂殿の娘さん。彩女っていうんだ。
小麻呂殿がこちらに来られない代わりに、この子が薬師として上がったの。
まだ半人前だけどね」
この言葉に、ぷうっと頬を膨らませて拗ねる彩女に、米麻呂は片手を差し伸べた。
「俺は新田部米麻呂。小さい頃から皇子さまに仕えてる。これからよろしく」
にこやかな米麻呂に、彩女も微笑んで握手する。
それから、彼は桑菜を振り返った。
「塩屋小才殿は? もう館に上がっておられる?」
「うん。柾菜が相手してるよ」
桑菜は緩く笑う。
「そうか、じゃ、俺も行くよ。皇子さまにもお会いしたいし」
米麻呂は気負いなくそう言う。
『あ……この人、皇子さまのこと怖くないんだ』
彩女も、最近は有間皇子に慣れてきた。皇子が何もしないから、怖がる必要がなくなったのだ。それでも、身構えているところがある。
が、米麻呂は有間皇子が怖くはないのだ。
「じゃ、あたしも行く。彩女も行くよね?」
桑菜の言葉に、彩女は頷く。
館内に上がり、回廊を歩く最中も、米麻呂は彩女に興味を示した。
「彩女殿はとても初々しいけれど、これが初めてのお館勤めなんだよね?」
「そうなの、父さまがやっぱり辛いらしくて。だから、あたしが来たの。まだまだ頼りないけれど」
えへへ、と彩女は照れて笑う。
「この子はね、今、ずっと皇子さまの宿直役をしてるんだ。だから、皇子さまのことも慣れっこなんだよ。
最初の頃はあたしも色々気を使っていたんだけれどさ、最近は全然ひとりでも平気みたい。
ほんと、気が強くて、初心者にしちゃ可愛くないったら」
笑顔できつい一言。けれど、嫌みさはない。桑菜自身、彩女の勝ち気さを買っていた。
「そうか、始めから皇子さまにお仕えしていたわけじゃないのに、皇子さまの病に耐えられるんだ」
感心して、米麻呂は言う。
「うーん、怖くないわけじゃないけれど、そんなにびっくりするようなことをされるわけじゃないから」
彩女は肩を竦める。
が、米麻呂はひどく驚いているらしい。
「……そうなの? 皇子さまの病は、少しはよくなってきたんだ」
「……それはどうか、解らないけれど。一応、お薬も服用されているし。どうよくなってきているのか解らないの」
考えもって、彩女は言葉を紡ぐ。
米麻呂は顎に手をあてて考え込む。
「あのね、皇子さまって、あんたが来る前は結構暴れられたんだ。几帳や灯台を倒したり、壷や瓶を割ったり、壁代や御簾を破ったり。それはもうひどい有り様だったんだ」
桑菜が以前の有間皇子の様子を説明する。
それは、彩女の前では見せたことのない有間皇子の姿だった。彼女が見る有間皇子はいつも惚けていて、あらぬ方を見ている。たまに、首飾りや釧を弄んでいるが、それほど酷い有り様ではない。
「皇子さまも一応男だから、館内に年の近い女の子が来て、少しは落ち着いたのかもね」
桑菜が茶化す。
「さぁ、それはーー。心の病だから、普通の男みたいにそわそわしないだろう。
それに、俺としては、皇子さまのそんな姿は見たくないよ」
「ーー?」
彩女の訝しむ顔に、頬をかいて、桑菜を口を開く。
「米麻呂さんはね、有間皇子さまの信奉者なんだ。それをいうなら、米麻呂さんが供をした塩屋小才さまもそうだけれど。
病になられる前の皇子さまは、それは清廉な方だったらしいんだ。お優しく、潔く。貴い身分にある方なのに、欲に塗れることのないお方だったんだそうよ」
桑菜の言葉に、米麻呂が言葉を継ぐ。
「皇子さまは、俺のような下々の者にも、心を分けて下さるような方だったんだ。
厩番の俺に、『おまえは優しいから、馬にも人にも好かれるのだな』という勿体ない御言葉を下されたんだ。馬を宥められずに困っているときにも、手伝って下さるような方だったんだ」
米麻呂の言葉に、彩女の内から懐かしい声が過る。
『重そうだね、僕が持ってあげる』
あれは、どこで聞いた言葉だったか。いつのことだったかーー。
余りに遠い記憶で、思い出せない。
「ーーそうだったんだ。皇子さまって、そういう方だったんだ」
桑菜が苦笑する。
「あたしもね、米麻呂さんほど古くから皇子さまにお仕えしたわけじゃないから、ちょっと惜しいと思ってるのよね。
まだ病じゃなかったときの皇子さまにお会いしたかったわ」
心底残念そうに桑菜は言う。
三人が話しながら歩くと、時を掛けずに皇子の部屋に付くことが出来た。
既に、柾菜と見たことのない中年の男ーー塩屋連小才が首座に着いている有間皇子に向き合っている。
彩女は先程の話で吊られて、有間皇子の姿をまじまじと見てしまう。
有間皇子は、相も変わらず窓を見つめている。
米麻呂が語った有間皇子は、今の彼からは考えられない姿。
彼女が見る皇子は惚けているのが多い。それでも、目鼻立ちに秀で、米麻呂ほど体格はよくないが華奢ではない、心の病でなければどんな乙女でも惹かれる姿をしている。
そんな彼の在りし日の姿を思うと、彩女でも勿体ないような気がした。
それから、彩女は塩屋小才を見る。
背は低いが筋肉質な身体をしている、髭の濃い男だ。四角張った顔は、少し窶れを潜ませていた。
彩女は何気なく小才を見回す。と、彼の右腕の手首に、大きく引き攣れた傷の跡を見つけた。
「小才さま……腕、大きな傷がある」
ついつい、彩女の口を吐いて出る言葉。
違わず、柾菜に咎められる。
「彩女殿、まず皇子さまにご挨拶なさい」
厳しい眼差しで睨まれ、彩女はすごすごと頭を下げる。
『皇子さまに頭を下げろって……今さらのような気がするんだけれど』
皇子の宿直役をし、その続きで皇子の朝の診たてをして配膳などをする。それ以外にもほとんど皇子の側にいる。四六時中皇子の側にいるのだから、今さら皇子に挨拶するのも、という気が本当にしていた。
「それに、塩屋殿にも初対面のご挨拶もせずにお言葉を掛けるとは、非礼にもほどがありますよ」
それは、いえている。
彩女は小さく首を竦める。
「いや、よいよい。元気そうな娘御だ」
気を悪くせず、塩屋小才は相好を崩した。
改めて、彩女は塩屋小才に向き直り、頭を下げる。
「日下部小麻呂の娘、彩女と申します。
父に代わってこちらに上がらせていただきました」
「そうか、小麻呂殿の娘か。小麻呂殿はよい薬師だな」
父のことを褒められ、彩女は破顔した。
「あ……ありがとうございます」
喜ぶ彩女に、柾菜が口を開く。
「彩女殿、小才さまの御酒と酒肴をご用意なさい。早く」
冷たい目で言い付けられ、彩女は作り笑いをし、皇子の部屋から下がった。
柾菜は何かというと、彩女に用を言い付ける。特に、面倒なことほど。
『そういえば、桑菜さんが言っていたっけーー?
柾菜さまはあたしの父さまが好きだって。
だからあたしに意地悪するって』
桑菜が言っていた。小麻呂が有間皇子の館に訪れると、柾菜はいつも機嫌がよく、館内の者は仕事がやりやすくなると。
が、彩女が来てから小麻呂が来なくなったので、柾菜の機嫌は最悪で、仕え人に当り散らしているらしい。特に、彩女には八つ当たりが酷い。
『桑菜さん、こうも言っていたっけーー父さまが、母さまとあたしが最近よく似てきていると言っていたって。ようするに、あたしは柾菜さまにとって、母さまの代わりなんだ』
廚で清酒を熱燗してもらい、鹿肉の膾と干し鮎、塩を酒肴として受け取る。
その間も、彩女の考えは止まらない。
父は、母が亡くなってから、女人の影を漂わせたことはなかった。彩女だけを慈しみ、彼女が成長していくのを喜びにしていた。
『父さまは、母さま以外の人を好きにならなかった。ということは、ずっと母さまだけが好きなのかな……』
考え込んでいるうちに、皇子の部屋まで来た。
中では、小才と柾菜が話し込んでいる。
構わず、彩女は小才の前に膳を据え、一礼する。
「お待たせ致しました。粗末なものですが、どうぞお召し上がり下さいませ」
彩女の言葉に小才は平瓶の酒を盃に移し替え、須恵器の小皿と箸を取る。
「いや、なかなかに豪華なもの。流石に皇子さまは食されるものが違います。
小才は膾を皿に取り、酒を飲む。
彩女は有間皇子を見ていた。
あれからも、皇子は余り食事を取らない。食材で遊ぶこともある。が、皆それに動じず、てきぱきと散らかったものを片づけた。よくあることで、慣れきっているらしい。
『そんなことで、いいのかなぁ……』
一度口に出して怒られたので、何も言ってはいないが、病の皇子の身体には良くまい。彩女は吐息した。
「小才さまはほんに、皇子さまのことを思って下さる。皇子さまのために領地で魚を捕らせ、わたくしたちに下さる。
皇子さまも小才さまの魚なら食されて下さいますから」
先程、米麻呂が行ったことそのまま柾菜が言う。
「なんの、わたしが皇子さまに出来ることは、これしかありませぬ。
わたしの命の恩人、軽大王の御子のためなら、わたしはなんでもします」
軽大王が恩人ーー? 彩女は片眉を上げる。
そんな彩女の様子に気付いた小才は、笑いながら彩女に向き直る。
とたん、柾菜の機嫌は悪くなる。が、彩女は気にしなかった。
「わたしは細工物が得意で、よく大王に献上して、お褒めに預かっていた。
が、それを妬んだ者がわたしの利き腕を傷付けた。これがそれだよ」
言って、小才は右腕を見せる。見るも酷い傷がそこにあった。小才は何度か右の手のひらを握ろうとする。が、力が籠らず微かに開いたままだった。
「……酷い。ちゃんと手当てされました?」
小才は微笑む。
「いや、わたしはすぐに腕を傷つけた者を殺してしまってね。牢にぶち込まれ、ろくに手当ても受けられなかったんだ。
人を殺してしまったのだ。死罪も覚悟していた。だが、大赦のおりに、わたしは解放された」
大化二年三月、軽大王は大赦令を発し、諸国の流人・囚人は放免された。特に大王に恭順の意を示した者の中に、塩屋連小才がいた。軽大王は彼等を褒めた。
「あの時から、わたしは軽大王に命を捧げたんだ。
わたしはもう、細工をすることはできず、何も奉ることができない。それでも、軽大王はわたしを目にかけて下さった。
それなのにーー皇太子のやりよう。軽大王を難波の都に残し、皇后や姉上まで連れ去ってしまった。
勿論、わたしは難波に残って軽大王にお仕えし、軽大王が亡き今、引き続き有間皇子さまにお仕えしておるんだ」
最後に、小才は堅く目を瞑った。
「本当に、小才さまのお心、いたく心に沁みます」
柾菜が小才の言葉を引き取る。
彩女は言葉にならなかった。
父が診てきた軽大王。心の病を患い、食も細くなって力尽きた。そして、遺児・有間皇子も精神に異常を来している。
彩女は有間皇子を見る。全く先程と変わらず、あらぬ方を眺めている。
彩女は無性に、哀しかった。
しばらくしみじみと飲んでいた小才は、席を辞した。
見送りには柾菜と米麻呂が立つ。彩女は酒肴の後片付けを言い渡された。
しぶしぶ膳を纏めると、皇子の部屋を出、回廊を渡る。
と、待ち構えていたような桑菜に行き当たった。
桑菜はひょい、と膳を取り上げ、先を行く。彩女は黙って付いていく。
「小才さまもいい人でしょ。皇子さまのこと見るに見兼ねて、紀の国から遠い生駒まで来て下さる。
こういう方がいるから、あたしたちもやっていけるのよ」
前から、小さな声で聞こえてくる。
「……そうね」
彩女は頷いた。
小才と米麻呂が取ってきた紀の国の魚は、有間皇子も食した。
塩漬けにされているも鮮度がよく、脂も乗っている。滋養によい。数日は出された皿もほとんど平らげられているので、彩女も安心した。
米麻呂は厩にいるが、何度も彩女に話しかけてきた。
桑菜から聞いたのか、彩女の度胸のよさ、優しさ、そそっかしい可愛さなど、色々言ってくる。彩女はその度恥ずかしくてたまらないのだが、桑菜とよく似ているのか、米麻呂もからかっていることが多い。
「ーーにしても、米麻呂さんって、桑菜さんと仲がいいよね」
ある日、ふとそう言うと、米麻呂の顔が複雑さを帯びた。実際に、ふたりが一緒にいるところを幾度か見たことがある。
「ああーーうん、まぁね。確かに仲がいいよ」
奥歯に物を挟んだような言い様に、彩女は眉を上げる。
「……なにか、あたしに隠してる? そうよね」
ぎくり、と米麻呂は顔色を変えた。
「隠すとか……そういうのじゃないよ」
彩女はすかさず付け込む。いつもからかわれてばかりで、癪に触っていたのだ。
「何〜〜? あたしに内緒で、ふたりして廚でつまみ食いしていたりとか。ふたりにしか解らないいい所に行っていたりとか。それだったら、あたしにも教えてよ。
あたしも、宿直中に出られないことはないんだから」
「だから、そういうのじゃないって」
米麻呂は必死で何かを隠そうとする。
こうされると、彩女はムキになる質だった。
『見てなさいよ〜〜。何を隠しているのか知らないけれど、絶対に暴いてみせるんだから』
人は暴かれてもいい秘密と、暴かれてはならない秘密がある。
彩女はその区別がつかない子供だった。
怪しいのは、夜。
昼間の米麻呂と桑菜は、仲のいい仕え人という雰囲気しか醸し出していない。
柾菜という目の上の瘤もあるので、締め付けも厳しいが。
やはり、ふたりが色々なことを語り合っているのは夜しかない、と彩女は思う。
『よーーし、夜に抜け出して、ふたりのこと、探ってやる!』
彩女は心の中で決め込むと、皇子の就寝の見守りをすませ、早々に抜け出すことにした。
皇子のいる御簾の内は静まりかえっている。寝息も余り聞こえない。すっかり眠りこんでいるのだろう。
音を発てないようにして、彩女は部屋の外に出る。
本当は、してはいけないこと。
彩女は皇子の宿直役である。彼女が優先しなければいけないことは、薬師としての仕事と、宿直役。
が、好奇心と悪戯心が、軽く頭の中から仕事のことを弾き飛ばした。
『ふたりとも、あたしだけのけ者なんて、ひどいじゃない。
だから、あたしも仕返ししてやるんだ』
幼い思いつきである。
冒険しているような、わくわくした気持ちで、彩女は抜き足差し足で簀の子の渡り廊下を歩く。
『そういえば、夜中にあたしに衣を掛けてくれているの、誰かしら』
このことも、気掛かりのひとつだった。
彩女は毎夜、針仕事や薬師としての勉強をそこそこに寝入ってしまう。眠っている間のことは解らない。
朝、起きて気が付くと、決まって衣が引き掛けられているのだ。
一度、桑菜に聞いてみたことがあるが、彼女ではない、と言っていた。米麻呂にも同じことを聞くが、違うという。
じゃ、誰なのーー? 彩女には不思議でならない。
『ま、気にしたってしょうがないか』
彩女は吹っ切って、忍びやかに館の中を見てまわる。
侍女の部屋のうちでは、仲間達が寄り固まって眠っている。仕切りとして衝立てが施されているが、同じ部屋で眠る。柾菜も、この部屋で眠っている。
皆、昼の仕事でへとへとになっているのか、彩女の気配では起きない。
舎人の部屋でも、同様だった。
『皆、結構仕事に真面目なのね。熟睡しちゃってる』
まぁ、わたしも、不真面目なわけじゃないけれど、と彩女は心の中で付け加えた。
侍女の部屋にも、舎人の部屋にも米麻呂と桑菜はいなかった。
じゃ、どこにいるのかなーー? 彩女は館から出、庫や生け垣を歩いてまわる。
と、館を囲む塀の角の茂みで、密やかな物音が聞こえた。
『ーーあそこだ!』
彩女はしてやったり、とほくそ笑み、声のする木陰に近寄り、隠れて見るのに丁度よい隙間を見つける。音をさせないようにして、彩女は隙間から覗き込む。
『えーーえ?』
彩女には全く理解できない光景だった。
皎々とした月の光に照らされて、男と女は彩女から背を向け、そこにいる。
確かに、米麻呂と桑菜はいた。抱き合ってーーいた。
ふたりはぴたり、と顔を寄せ合い、唇を触れあわせている。その上、桑菜の肩は剥き出しになっていて、薄らと日に焼けた肌がのぞいていた。
『な、何ーー何ーー何ーー!?』
ふたりが、何をしているのか、彩女の知識のなかにはない。
ただ、見てはならないものを見てしまった、という勘だけは閃いている。
『や、やだ……あたしって、見てははいけないものを見ているのか……な?』
そう思うと、彩女はその場から逃げ出したくなった。
そろりそろり、と後ろに歩を拾う。
が、彩女の思いを裏切って、強く踏んでしまった枝が音を発てた。
「だ、誰だ!?」
米麻呂が上擦った声を上げて、振り返る。
「あ、彩女っ!?」
心底びっくりしているらしい、桑菜の声。
今さら逃げることも出来ず、彩女は引きつった笑い顔を見せる。
覗き見をしていたのだ。居たたまれない。
「あ……ご、ごめんなさい……」
そう言って、彩女は猛烈な勢いでその場から走り出した。
がむしゃらに走り、こんもりと茂る草むらを見つけると、彩女はその中に飛び込む。
湯に浸かったように顔が火照り、汗が次から次へと出て来る。
『馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だーー! あたしって馬鹿だーー!』
のけ者にされたからとムキになって、探険気分になって。
他の人には見せられないものだってあるのに。
それにも気付けない子供だったんだーー彩女はそう思った。
男と女、互いにしか近付けぬ一線がある。他の者はうかつにそれに近付くことができない。
そういうものもあるということを、彩女は初めて知った。
「彩女、そこにいるんでしょーー?」
背後から、桑菜の声。
彩女は慌てて振り返る。
桑菜は、何も気にしていない様子だった。手の掛かる妹を見るように、眼差しは暖かい。
立ち上がると、彩女はぺこり、と頭を下げる。
「く、桑菜さんーーごめんなさい!」
しばらくの、間。彩女の不安が募る。
「あーーもう、髪の毛がぐちゃぐちゃになってるよ」
優しい桑菜の手が、彩女の髪に触れ、そこここに刺さった葉を取る。
「桑菜さんーー」
「あれ、あんた、泣いてるの?」
桑菜の言葉にはっとし、彩女は頬に触れる。泣いていたらしい。
「い、いつのまにーー!」
焦って、袖で涙を拭うが、桑菜に止められる。
「ほら、袖、汚れてるよ。これ使いな」
桑菜は手斤を差し出す。彩女は受け取ると、顔を拭いた。
「身体中汚しちゃって、そんなに焦った?」
面白そうな桑菜の質問に、彩女は頷く。
少し落ち着いてきた彩女の手を引いて、桑菜は座るのに手頃な岩に腰掛ける。
「そりゃそうだよねーーああいう現場を見ちゃうと、あたしだって驚くよ。あたしも見てみたいけれど、残念ながら、そういう現場に行き当たったことないねぇ。
でも、よかったよ。一番あぶない所を見られなくて」
「あぶない所ーー?」
心当たりのない彩女の返答に、桑菜は唖然、とする。
「ーー何、不思議そうな顔してんの。あぶないでしょうが」
「だから、何があぶないの?」
呆然としている桑菜に、彩女は胡乱な顔をする。
はぁ、と桑菜は溜め息を吐いた。
「あんたって、薬師の娘だからさ、こういうことも、もう知っているもんだと思っていたんだけれど……。それとも、小麻呂殿は余計な知識を植え付けることによって、娘が暴走するのが怖かったのかな……」
「だから、何!?」
じれったくなって、彩女は問いつめる。
「……だから、さ。子供を作る方法だよ」
「……え? 子供?」
彩女はきょとん、とする。
桑菜は肩を竦める。
「あたしの『一夜を供にする』っていう冗談を解っていなかったから、知らないのかもな〜〜とは思っていたんだ。
じゃあ、さ。あんた、『恋』、は知ってる?」
「それくらい知ってるよ、あたしはまだだけれど。
父さまが母さまに対してこだわっている気持ちのことでしょ?」
彩女は唇を尖らせる。
桑菜はうーん、と唸って、口を開く。
「あんたの父さんの気持ちに関しては、複雑すぎてあたしは何も言えないね。
子供を作るためにはさ、女は男と共寝をしなきゃいけないの。共寝っていうのが、その、具体的な行為をすることなんだけどさ。
それをする相手の男を選ぶために『恋』はある……って言ったら、どきどきもしないよね。単刀直入すぎて。
『恋』っていうのは、女と男を深く繋ぎあわせてくれるための、心の不思議、ってとこかな」
「心の……不思議」
彩女は呟く。
「お互いの相手にかける呪い、とも言えるよね」
桑菜はにっこりとして、言い換える。
「ま、子供を作るための具体的な行為は、あんたの相手が現れたら、その男に教えてもらったらいいよ。あたしの口からはとても言えないね。
薬師として緊急を要する場合は別として」
「うー……ん、解った」
そう言いながらも、彩女の表情はいまいちすっきりしていない。無理もない、と桑菜は思った。
「そうだ、恋の呪いで、すごくうっとりできるのがあるんだ。
恋に落ちて、共寝をしてもいいと思ったら、互いの手で下紐を解きあうの。そして、朝、別れるときに、また下紐を結び合うんだ。
お互いの心の呪いが解けないように、ってね」
その言葉に、彩女の顔は少し明るくなった。
「なんだか、すごく『恋』って楽しそうね」
そう言って、女ふたりは、笑い合った。
彩女は心から納得することができた。
まだ、夜更けである。宿直の途中なので、有間皇子の部屋に戻ることにする。
桑菜から背を向け、ふと、彩女は思い付く。
「ねぇ、桑菜さんって、米麻呂さんと心の呪いを掛け合っているの?」
彩女の問いに、桑菜は微笑む。その微笑みは、寂しさを滲ませていた。
「そうだねぇ……心の呪いの、掛け違いをしているかも、ねーー」
「?」
彩女には、意味が解らない。
心の中の呪いは、当人にしか解らない。彩女には解けない謎だった。が、それでもいいと思った。
そう、人には解けない謎がある。人の関係にしても、然り。
彩女はひとつ成長したような気がしている。
月光の刺すなか、軽い足取りで、彩女は皇子の部屋に入る。
ーーと、暗い部屋に人影が、ひとつ。ぬっと伸び上がって、無気味に存在感を示している。
彩女は息を飲む。
『皇子さまの部屋にーー闖入者!!』
時を刻む間もなく、彩女は悲鳴を上げようとした。
「ーー大声を出してはならない!」
若い男の声。
相手に口を手のひらで覆われ、彩女は声を出すことが出来ない。彩女は恐怖で身体を縮ませる。
「誰かに、わたしのこの姿を知られては、ならない」
音量を押さえた声。低く、彩女の耳許に響く。
『だ、誰ーー誰!?』
男は彩女の身体を抱き竦めたまま、室外に出る。
彩女は、目を見開く。
信じられなかった。こんなことがあっていいはずがなかった。
発狂してしまった有間皇子その人ーーだったから。
彩女がその人を認めると、皇子は彼女を放す。
「み……皇子、さま?」
狂った様子もなく、すっきりと月明かりに照らされている。眼差しは、いつも見る静かで、澄んだものだった。口許は堅く引き結ばれている。
間違いなく、有間皇子の面には、知性が漲っていた。
「……解ったのなら、部屋に入ろう」
皇子に腕を掴まれ、彩女は部屋に入る。
有間皇子は寝間に入らず、いつも彩女がいる出口の側に座る。
促され、彩女も仕方がなく腰を下ろした。
「あ……あの、皇子さまは……病では、ないのですか?」
震える声で、彩女は問う。
皇子は細く息を吐き、唇を開く。
「……誑(たぶれ)ていた」
彩女のなかで、一瞬言葉が見付からなかった。
誑る……偽っている……騙している!?
そこまで言葉が頭を過ったとき、彩女は叫びだしていた。
「み、皇子さまは、ここにいる全ての人を、騙していたんですか!?」
「だから、大きな声を出すなと言っただろう」
有間は小さな声で咎める。
彩女は慌てて口を押さえ、廻りを見回す。
「……仕方がない。わたしは、軽大王の皇子だから。……中大兄の地位を脅かす者だから」
そう言って、有間は目を伏せた。
「あー……」
彩女も皇子の立場を理解し、俯く。
「狂人の真似でもせねば、わたしはいつか殺される。
わたしには、皇位を狙う野心はない。だが、廻りは放っておかない。
それだけ、中大兄に反発する豪族は多いし、わたしは皇位に近いのだから」
中大兄皇子の強引な政策は、廷臣や豪族達の反感を買っていた。
皇太子は力で治世を押し進め、立ち塞がるものに対しては流血も辞さない。恐怖と怒りが渦巻く中で、臣達は中大兄に替わる身分の者を探し出そうとする。
その標的として最適なのが、亡き軽大王の遺児・有間皇子だった。
「そして、叛意を示す者の象徴となってしまえば、わたしも古人大兄皇子と同じ運命を辿ってしまうことになるだろう。
わたしは、無駄に命を捨てたくはなかった」
有間が語る重い事情に、彩女は告げる言葉もない。
が、どうしても出てくる疑問があった。
「あの……どうして、皇子さまはこうしてわたしに正体を見せられ、お心の内を話されるのですか? 皇子さまは、わたしのことなど放っておかれてもいいと思うのですが。
それとも、もう、偽って日々を送られるのが辛くなられたのですか?」
素朴な疑問。
が、有間は反発した。
「そんなことは、ない!
わたしは、中大兄に憤る者に勝手に使われたくはない!
あの者らに担がれるのなら、狂人の真似のほうが、どれほどましか……!」
「あの、皇子さま……押さえて下さい。皆が起きます」
今度は、彩女が嗜める番だった。
「でも、わたしの前に出られたましたでしょう? どうしてもそれが、解せないのですが。
やはり……皇子さまは疲れていらっしゃるのではないですか?
毎日、この館にいる者達に対しても、少しも隙を見せないで、神経を張り詰めていらっしゃるんでしょう。皆、信じているくらいだから、皇子さまの気の遣い様、解ります。
皇子さまは、息抜きがしたいのではないですか?」
「……彩女」
有間は黙り込む。
その面は、苦渋に塗れている。如何ばかり無理をしているのか、微かに知られる。
彩女はにっこりと笑った。
「だったら、こうすればいいんですね。
どちらにしても、宿直役はわたしだけなんだから、今宵みたいに、ひっそりとお話すれば、誰にも気付かれませんよ」
「それでは、そなたが眠れぬではないか」
有間の言葉に、彩女はあはは、と照れ笑いする。
皇子には、彼女が宿直中に熟睡していることがばれていたのだ。
「大丈夫です。あたしって、頑丈だけが取り柄ですから!
薬師であるあたしにとっては、皇子さまのお話相手をするほうが重要なことなんですよ。
皇子さまのお心が壊れてしまわないように」
元気よく、彩女はそう言い切る。
「……勝手にしろ」
彼女の活気に当てられたように、有間は横を向いた。
「勝手にさせてもらいます。
皇子さまって、あたしが宿直中に眠っていたことを知っていらしたくらいだから、毎夜起きていらしたのだろうし。
だからもう、勝手にお相手させてもらいます」
どこまでも陽気で、明るい。
目を爛々と輝かせ、胸を叩いた彩女に、有間は噴き出した。
はっ、と彩女は合点がいく。
「あっ、やっぱり、皇子さまが笑われていたんですか!?
皇子さまがお膳で遊ばれたあとに、あたしが発憤して、そのあとここから笑い声が聞こえていたんです!
あたしの失敗を見て、笑われていたんですか!」
「だから……大きな声を出すなと……」
有間の言葉は、込み上げてくる笑いに掻き消えた。
彩女は拗ねて膨れる。
自然に発してくる笑いを止められない有間皇子は、普通の青年だった。
彩女は、心からの安堵の微笑みを浮かべた。