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愛は浮雲の彼方にindexへ

第一章・瞼の面影人


 夏の初め、水無月の頃、足取り確かな青年がどこまでも広がる平野を一歩一歩進んでいた。うだる暑さは、男の額を汗で濡らし、手元の手拭いは汗になっていた。刺すような日差しが男の渇きをいやます。だんだんと、男は山手に向かって歩んでいった。
 男はため息を吐くと、ぐいっと手拭いで額の汗を拭い、後ろを振り返った。
 彼が大和の都を発ったのは、四日も前の事だった。初め、倭から斑鳩に出る、筋違い道を通り、さらに竜田を過ぎて生駒の谷に到った。そこで標の人に教えられてこの地、当麻に辿り着いた。
 男は懐から一枚の木簡を取り出した。木簡に認められた墨の濃さが、その文書が記されて間もないことを教えている。
「…もうすぐだ。もうすぐ、彼の人に辿り着ける…」
 目的のものがすぐ目の前にあることに勇気付けられ、男はまた歩きだした。
 男はある人の生涯を探索していた。その人の生涯は咲く花が散るがごとく終焉した。それは彼の時代より十年程、昔のことだったが、今でも口伝に語られる悲劇の断片が、手に技持つ彼の心を刺激した。
 是非ともその人の姿を、我が手で甦らせたい…男は野心に駆られた。逸るがまま、手に取るものもそこそこに都を発ち、その人、縁の土地を尋ね歩き、その人をよく見知っている人の消息を識り、疲れる足を気にせずここまで来た。
 目を上げると、太陽が二上の山に大分差し迫ってきている。あと半刻で彼の後方を夕焼けに染めることだろう。日がくれる前に、目的の場所に辿り着きたい。
 男の探している人は、今は当麻で薬師をしているという。もっぱら民人のために働き、多くの見料を採らない良識のある人と聞いた。しかし、薬師は貴族を相手にしないらしい。なるべく避けるためにこの当麻に住まいしているとも聞いた。まるで隠者のようだ。おあつらえ向きに、彼方に西方浄土のある二上の山の麓にいるというのも、彼の想像力を豊かにさせる。
 ふと耳に入るせせらぎに、男は強い喉の渇きを覚えた。音のするほうに足を向ける。畔道を数歩入ったところに小川があった。男は躊躇いなく川の水に口をつけた。
 その時…
「その水、飲まないほうがいいわ」
 男はぎょっとして顔を上げるが、すでに水は喉をすべり落ちていた。慌てて吐こうとするが、胃液さえあがってこなかった。
「飲まないほうがいいとは、どういう…」
 どういうつもりでそんなことを言うのかと男は声の主に詰問するが、相手が年端もゆかない小娘なので更に驚いた。
 少女は顔色一つ変えずに、目の前の川を指差した。男の視線も細い指の先を追う。
 川の上流のほうから、使い古した布が流れてきた、否、布だけではない、腐った魚や竹の皮の包みも流れてくる。
「みんな、何を考えているのかしら。この川に何でも捨てるのよ。小用する子供もいるわ」
 少女がいともなげに語った言葉は、男の臓腑を不快にさせた。込み上げてくる嘔吐感に我慢が出来なくなった。その場に突っ伏すると、一頻り胃の中身を吐き続けた。少女が男の背を擦ったので、数刻もしないうちに楽になった。
 男は脂汗を拭うと、改めて少女の容貌を眺めた。
 黒々とした髪に縁取られた顔は雪のように白く、束ねられた髪からこぼれる額髪が涼しげに印象を与える。何より、その容姿を涼しげに見せているのは、切れ長に上がった瞳だった。その瞳に愛らしさを添えているのは二重の目蓋に澄んだ鳶色の瞳だ。その上に整った鼻梁に薄い唇と、美形と言える条件を揃えていた。
「少しは楽になった?
 薬と汲みたての清水をあげるから家に来なさい」
 少女は自分よりも年下に見える。が、まるで目下のものに言うように男に言ったので、男の燗に触った。
「急いでいかなくてはならない所があるんだ。寄り道している暇はない」
 男は厳しい声音でそう言ったのだが、少女は男をじっと見ていた。
「どこにいるのか解っているの?」
 これには、男も言葉が詰まった。正直なところ、尋ね人が当麻のどこに住んでいるのかは皆目、見当がつかなかった。
「解らないなら、教えてあげるわ」
 少女の真っすぐな瞳が、男の瞳を捕らえた。物怖じしない、りんとした瞳が、男の胸に突きささった。
「薬師の、日下部彩女殿はどちらに住まいしておられるのか?」
「日下部彩女?」
 少女が鸚鵡返しに聞き返す。男は頷くと、少女は不敵なほほ笑みを浮かべた。
「日下部彩女は、あたしの母よ」


 日下部彩女… 彼の尋ね人は、偶然にまみえた少女の母だった。案内されるがままの男は、信じられない面持ちでいた。
「あなたの名は?」
 道端で摘んだ芒の穂を振りながら、少女は尋ねた。
「俺は仏師の…李尚容」
 男の名乗りに、少女は唇を笑ませた。
「大陸の人?」
「三歳まで大陸で育った。父がこちらに帰化したので、俺も大和の人間になった」
「だから、大和の言葉が巧いのね」
 納得したように少女が呟く
「あたしは毬野。実は、あたしも大陸の血を引いているの。ただ、あたしは帰化四世だけど」
「では…彩女殿も?」
「あたしのひいお爺さんの代に大和に移ってきたらしいわ」
 毬野は芒をひらひらと舞わせる。茜色の中に黄緑が乱れ舞う。
「それは、そうと…」
 尚容は少し気を悪くしたように言った。だが、毬野は何も気付かなかった。
「いや、いい」
 彼は先程の言葉を打ち消す。理解していない人間にその気持ちを言うことは、自分を惨めにする。毬野は彼の袖を引くと、二上の山を指差した。
「見て、今が一番当麻が美しい刻よ」
 尚容は影を装った山が紅に染められていく風情に見惚れた。太陽が、二上山という褥に休む…あるいは、二上山という棺に隠れたように感ぜられた。まさしく、二上山の向こうに浄土があるのかもしれない、そう思えてくる日没だった。

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 日下部彩女と毬野の親子がすむ家は、粗末ともいえる屋敷だった。あまり広くない空間に部屋が四つしつらえられている。一番大きな部屋が仕事場のようだ。尚容が通されたのは一番奥の部屋だった。大きく切り取られた窓から入ってくる光に照らされ、床に就いている女性の姿が鮮明に浮かび上がった。尚容はどきり、とする
「誰…?」
 女性は部屋に現われた気配に身を起こす。毬野は無言で女性の傍に付き従い、介抱した。
「母さん、お客さまよ」
「お客さま…?」
 毬野の言葉に女性…日下部彩女が尚容に目を当てる。尚容は姿勢を正して額突いた。
「あなたが、日下部彩女どのでしょうか?」
「ええ…。どうか、お顔をお上げください」
 目の前の青年に平伏されて彩女は戸惑い、顔を上げさせた。尚容も、視線を直に彩女に向けた。
 日下部彩女は、白い麻の寝衣を纏っていた。漆黒の髪は結わずに垂らしてある。乱れの見える髪と、冴えない顔色が、その人が病に冒されていると教えていた。病みやれているが、輝く瞳が気品を備えていた。綺羅と輝く瞳は、しかしながら娘とは似ていない。娘の眼が切れ長の涼やかなものなら、母親のものは円らで暖かい印象を与える。若さという有利を除いても、娘の容姿のほうが美貌といえた。
 尚容は改めて自らを名乗った。
「わたくしは李尚容と垂オます。
 元は新羅の生まれでございますが、今は倭宮で仏師として仕えております」
「まあ…仏師さま?仏師さまがわたくしに、一体何の御用で…」
 少なからず興味引かれる様で、彩女は先を促した。
 母が尚容の相手をしているので、毬野は静かに席を立った。
「毬野?」
「この人、お腹の調子が悪いようなの。井戸の水を汲んでくるわ」
「ああ、それならあの薬を出してさしあげればいいわ」
 彩女は仕事場の棚を指差す。心得ているように、毬野は沢山並んだ小さな壷の中から、琥珀色の小瓶を取り上げた。
 毬野の足音が屋内から完全に消えた後、尚容は身を乗り出した。
「わたくしは、是非にも我が手であなたがお仕えしていた方を作りたいのです。
 わたくしのもっている総ての業を以て、必ずや美麗な御仏となしてみせましょう。
 お願いです。あなたのかつてのご主君を…有間皇子さまのお人柄をお教えくださいませ!!」
 またもや身を臥す形で尚容は彩女に懇願した。
 彩女の表情が凍り付いたように固まった。先程まで浮かべていた笑みさえ崩れてしまった。部屋に差し込む光が黒い闇に変わったことも、彩女は気が付いていなかった。
 やがて、ゆっくりと口の端を歪めると、唇を釣り上げた。微かに目が細められるが、和やかとはいえない笑みだった。どう形容していいのかさえ解らないような、とらえどころのない笑みだ。
「…わたくしの前に、どちらの方の所に参られました?」
 何の声音さえ篭もらない、彩女の抑揚の無い話し方に、尚容は血液が凝固するような緊張を憶えた。
「まず、平群の谷に、館女の頭をしておられた柾菜どののところを尋ね、竜田に住まいしておられる桑菜どのからあなたのことをお聞きしました。当時、皇子さまの一番お近くにお仕えしておられたとお聞きしました。あと、散り散りになっている舎人にも…」
「わたくしの所に尋ねられなくとも、それらの方々から幾分かお教えしてもらいましたでしょう。わたくしの答えも、さほど変わらぬと思いますよ」
 その言葉と凍り付いたほほ笑みが、それ以上の問いを拒んでいた。だが、それ位の事で引き下がるような仏師ではなかった。
「しかしながら、一番近くでお仕えされていたあなたなら、他の方々の記憶にない皇子さまを識っておられましょう」
 なおも食い下がる尚容を、彩女は穏やかながら冷めた眼差しで眺めていた。
「あなた様は…何故、皇子さまを模した御仏を造りたいのでしょう?
 天皇にお仕えしておられる仏師さまなら、皇子さまを模さずとも、幾らでも良き御仏をお造りになれるはずでしょうに…」
 ここぞとばかりに、尚容は力を込めて語り始めた。
「都から遠く離れた当麻にお住まいなら、お分りではないでしょうが…先の天皇・淡海帝の御世とは違い、今の世間は有間皇子さまに同情的なのです。皇子さまは謀反人として敢えない最期を遂げられましたが、今はもう誰も皇子さまを謀反人とは思うておりませぬ。皇子さまが、淡海帝の政に支障を来す存在と見做されての、謀略による処刑と考えられております」
 意気込んで話す尚容とは正反対に、彩女は目を伏せた。陰りを帯びた眼が、尚容を黙らせた。
「今は…今はそうかもしれませぬ。されど、皇子さまが死を賜わったのは事実です。皇子さまは今も紀伊の国で永きの眠りについておられます…。今更無実と言われようと、皇子さまの御無念が晴れるとは到底思えませぬ」
「だからこそ…だからこそ、皇子さまを模した御仏を造ろうと思うのではありませぬか」
 一押しするように、尚容は彩女の瞳を真っすぐに見つめた。
 それでも、彩女の頑なさは溶けようとはしなかった。頑是なく頭を振ると、溜息交じりに呟いた。
「皇子さまは…誰よりも…誰よりも、自由を望んでおられました。それこそ、縋る思いで病の振りもなさいました。ですが、皇子さまの運命はあなた様もご存じの結末になりました。
 慈悲あるべき御仏が、何故に皇子さまにご慈悲をお与えにならなかったのでしょう?
 何故に皇子さまに酷い運命をお与えになられたのでしょう…。
 尚容さま。わたくしは、御仏のお力で皇子さまが救われるとは到底思えぬのですよ。皇子さまのお姿を模すなど、尚更、皇子さまの本意ではありますまい」
 彩女は毅然として言い放った。
 目の前の女性は、御仏にも、世間にも、何物にも絶望している…尚容はその事実にすぐには二の句を告げられなかった。
 彩女は俯いて、込み上げてくる何かを必死で耐えているようだった。それは、尚容が彼女の中から呼び覚ました追憶だった。尚容は、彼の望む人に確実に近付きつつあった。だが、彼の信念で持てしては打ち破れない壁があった。
 やがて、やっとのことで顔をあげると、先程の和やかなほほ笑みで彩女は尚容に語りかけた。
「遠いところから来られたのでしょう。泊まるところはありますか?
 もし、よろしければ、汚い所ですが、わたくしの家にお泊りくださいませ」
 すでに何の苦しみさえ感じられない表情に、尚容は複雑な思いで頷いた。

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 当麻からは黎明が遠いー。
 一番目の朝日は当麻の東、三輪から上がる。三輪から尚容の住まいしている倭はさほど遠くはない。御仏を造って夜を撤したとき、疲れた目で見る日の出が例えようなく美しかった。
 尚容が泊まったのは、彩女の家の隣にある納戸だった。納戸とはいえ、こざっぱりとしてかなりの広さがあり、容易に寝具を置けた。いつもとは違う空間に、尚容の脳は眠るを許さず、浅い眠りで目覚めた。連子窓を見ると、空が白み始めていたので、起きだして屋外に出る。眠い目を辺りに向ければ、未だ真白い三日月が天空に存在し、薄闇が彩っていた。
 有間皇子の生涯の手がかりになる、日下部彩女という女性は、人を、御仏さえ信じられぬと言った。尚容の目には御仏は慈悲に溢れ、美しく見える。御仏の秀でた額に、柔らかく纏いつく天衣、豊かな胸元を飾る宝玉は例え様もなく美麗で尊い。柔和で清らかなほほ笑みは貴さを讃える。というのに、あの女性は御仏を信じられないという。彼は自分が造る御仏に誇りを持っている。彼の父を含め、倭随一の仏師と言われているのだ。愛顧されても、拒絶されたのが心外で、彼の矜持を傷つけた。
 それでも、尚容の仏師としての矜持が有間皇子の生涯の探索をあきらめさせなかった。まだ、何か策があるはずだ。彼が東の空を振り返った時、家から毬野が現われた。
 毬野は既に衣服を調えていた。後頭部に髷を作り、放たれた髪は、まだ未婚の印だ。女人は夫を迎えると改めて髪上げをする。しかしながら、毬野はどうみても童女には見えない。とうに成人していてもおかしくない姿態だ。
 そういえば、彼女の生まれた年代と、彼女の母が有間皇子に仕えていた年代が重なっている。幾ら何でも、生まれた頃の事なら彼女も聞いていようし、そうでなくとも人から教えられているかもしれない。何も日下部彩女、本人から聞き出さなくても、娘から聞き出せばよいではないか。そう思い付いた尚容は逸った。
「お早いわね、尚容さま」
 涼やかな笑みを浮かべて毬野は尚容に近付いた。
「母さんに、何の御用だったの?」
 尚容が聞き出すまでもなく、毬野は自ら話題に入ってきた。尚容は心の中でほくそ笑みながら、毬野に落胆した様子を見せた。
「俺は、君の母上に、お館勤めしていた頃のことを聞きたかったんだ。君の母上が有間皇子さまにお仕えしておられた頃のことを…。
 俺は今度、有間皇子さまのお姿を模した仏像を造ろうと思っている。だから、彩女殿にお教えしてもらおうと尋ねたのだが…無理だった」
「そう…」
「君は、母上から有間皇子さまのことを聞いていないか?」
 毬野は暫時、首を傾げた。
「有間皇子さま…って、誰?」
 率直な返答だった。瞬時に尚容の肩から力が抜ける。彼が、明らかに失望してしまったのを見て取った毬野は、慰めにかかった。
「そんなにがっかりしないで。あたしも、母さんからその頃の事、何度も聞こうとしたのよ。その頃に、母さんはあたしを身籠もったんだもの。あたしのだって父親のこと知りたいのに、母さんは教えてくれないのよ」
「ほう…」
 それはそれで興味深い事実だった。もっと知りたい尚容は毬野を誘導した。
「君には父親がいないのかい?」
「死んでるのか、生きてるのかさえ解らないわ。
 母さん、このことに関しては頑として、口を割ろうとしないの。考えたくないけど…あたしを身籠もった頃、嫌なことでもあったのかしら」
「有間皇子さまが丁度その頃、処刑されているんだ」
「処刑…!?
 母さんのお仕えしていた人が、処刑されたの!?
 だから、かな…あたしがお腹にいた頃のことを思い出すと、その事も思い出すから…」
 「君の母上は皇子さまの一番近くにお仕えされていたらしいんだ。
 当然、皇子さまに情も移ってしまうだろうし…」
 しばらく、沈黙が流れる。
 無言で毬野は東の空を見た。もうすでに天は明けに染まり、薄い雲がたなびいていた。
 「母さんがお館勤めしていた頃ってことは…あたしの父親は舎人の誰かじゃないかな、って思ってるんだ。そう考えるのが一番自然でしょ?」
「多分、な…」
 お互いを見合うことなく、二人は呟いた。その目は、神秘色に輝く空に釘づけになっていた。

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 結局、娘の毬野も有間皇子に関しては、何も知らなかった。尚容は仕方なしに、日下部彩女の体調が落ち着いているときに当たってみることにした。
 日が高く昇っても、彩女の調子はすぐれなかった。彼女の肌の色は異様に白い。何ヵ月も太陽に当たっていないようだ。数か月も前から床についたままなのだろう。尚容は彩女の許しを得て、二日間彼女達の家に滞在したが、彼の思惑のように事はすすまなかった。
 目的を果たせない尚容は毎日の徒然を持て余した。それを見た毬野が気を使って彼を市に誘った。
「尚容さん…お暇?」
 毬野が納戸に入ってきた丁度その時、尚容は手遊びに観音菩薩の絵像を描いていた。彼の懐紙の上に雅びやかな観音菩薩が屹立している。
「わあ…綺麗」
「これは、以前にわたしが造った観音菩薩の像だ」
「へ…え」
 しばらく、毬野は観音菩薩像に見入る。
「ところで、わたしに何の用だ?」
 その言葉で毬野はやっと顔を上げた。
 間近に見る毬野の顔は、眩く、更に美しい。一瞬、尚容は我を忘れて、毬野を見つめた。
 「まだ、当麻の他の場所に行ってないでしょう?案内してあげるわ」
 毬野は半ば強引に尚容の腕を引っ張る。吊られて尚容も立ち上がった。
 長い時間、屋内にいた尚容も目に日の光が痛かった。彼が瞬きして、目を慣らしているうちに、毬野はずんずん歩みだす。彼女は二上山の方角に添って南下していく。
 当麻の集落に、倭と難波をつなぐ峠がある。竹内峠といわれているその道ぞいに、市が立ち並んでいた。
「倭から見れば、当麻は田舎だと思われているんでしょうが、全然、そんなことないわよ。山から貴重な石が取れるから、とっても栄えているの。それに、あの峠があるでしょう。旅人達が一杯通るので珍しいものを手に入れることができるの」
 無邪気な物言いで毬野は案内する。
 確かに、彼女から聞かずとも、当麻の活気は見て取れる。倭の海石榴市は倭一と言えるほどの流通を誇るが、当麻もさるもの、倭と難波、両方の特産物を揃えている。人々の表情もゆえに明るい。
 当麻の総てを見通して、なるほど…と尚容を理解した。
 毬野の明るさと当麻の明るさは同質なのだ。何物にも縛られる事無く、伸びやかで健康的だ。それが彼女を容姿以上に魅力的に見せている。
 尚容はこの様に毬野を育て上げた、彩女という女人を改めて見つめ直した。それまでは有間皇子縁の人物としてしか捉えていなかったが、毬野という人格の基になった人として、違う魅力が出てきた。
 尚容は日下部彩女という人を詳しく識りたくなった。
「ねえ、そういえば、尚容さまって…お坊様じゃないのね。
 仏師さまって、みんなお坊様だと思ってたけれど」
 唐突に毬野は思っていたことを口にした。
 毬野の言うとおり、尚容は俗体である。聖い御仏を造る身だが、どこかしら洒脱で、俗に染まった雰囲気を醸していた。
「いずれは、出家するつもりでいるが、今はまだ色々とやりたいことがある」
 取り澄ましてそういう尚容だが、毬野は面白がった。
「遊びたいの?」
「ば…馬鹿なことを」
 尚容は焦ったが、毬野は意にも介さない。楽しそうに彼女は笑った。
「そうよねえ、遊びたいよねえ。尚容さまってまだ若いもの。
 お酒だって飲みたいし、こうやって市にも歩き回りたいし…女の人も抱きたい」
 毬野の言葉は冗談めかしているが、十分に尚容のこころを抉る。
 彼女よりも六歳は年上な尚容は、彼女のこの物言いが気に入らない。
 軽やかに歩く毬野に追い付きながら、尚容は彼女の鼻をへこますような台詞を口にした。
「そういう君も、その年で通うものがいないだろう。もっと他の男と寝てみたいのか?」
 尚容は彼女の歯に衣着せぬ口調をどうにかしよう、という心積もりで言ったまでだったが、早足だった彼女の歩調がだんだんと緩くなってきたのに戸惑った。
「…違うよ。あたしは、母さんを一人にしておけないの。
 母さん、一人であたしを育てて、夫も迎えなかった上に、今じゃ病に冒されている…。あたし、放っておけないの」
 少しばかり、寂寥を帯びた毬野の顔がそこにはあった。彼女らしくない表情に、尚容の胸は不意に痛くなった。自らの、思いもよらぬ心の動きに、尚容は動揺した。
 毬野が淋しそうな面持ちでいたのは束の間のことだった。尚容が息を吐く間もなく彼女は明るさを取り戻していた。
「でもね、本当は結婚してもいいって思える人にまだ出会っていないからかも。母さんに内緒で男の人と付き合ったことはあるのよ。でも…結婚…までは、考えられなかった」
 今までの異性関係を、毬野は明け透けに語る。そういうところも、何物にも捕われない自由さからなのだ。
「ねえ、母さんがあたしの父以外の男の人を受け入れなかったのって、何故だろうね。
 母さんに求愛していた男の人が何人かいたの、あたしは知ってるけど、母さん誰とも結婚しなかった。あたしは、母さんがあたしの父親を本気で愛したからだと思いたいんだけど」
「…だろうな」
 尚容は頷いた。
 毬野は嬉々としたが、別段、彼女を喜ばそうとしてそう言ったわけではない。彼にとって、日下部彩女が毬野の父を本気で愛していたかどうかというのは、大した問題ではないからだ。彼にとっての興味は、あくまで日下部彩女の仕えた主人、有間皇子の生涯なのである。毬野がそう思い込みたいというのなら、思い込めばいいではないか、という冷たい考えから出た言葉だった。
「それでね、お願いがあるんだけれど…」
「何だ」
 毬野の頼みを、尚容は上の空で聞く。
「有間皇子さまのこと、あたしに教えて」
 思いがけない頼みに、尚容は立ち止まった。
「あたし、母さんがお仕えしていた人のこと、何にも知らないの。
 その上、その人にお仕えしていた頃に、母さんはあたしの父と出会って恋に落ちて、あたしを身篭もったんだもの」
 夢見心地で毬野は呟く。
 毬野の台詞は、歯が浮く寸劇のようなものだった。人に夢を見せる御仏を造る者にしては尚容は現実主義者だったから、内心、彼女の思考に辟易していた。それにしても、彼女に有間皇子の生涯を語るのは悪くはない、と思う。どれだけ自分が熱心か、娘を通じて日下部彩女に伝われば、垂オ分ない。
 尚容が請け合うと、毬野は木陰に誘った。丁度、座るのに程よい切り株があり、尚容は腰掛けた。その場所から遠見に倭の向こう、三輪山が見える。
 脳裏にある記憶を整理すると、静かに尚容は語りだした。

第一章続く

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