スピリチュアル系の人は、よく「無条件の愛」といいますが、そもそも、「愛」って何? って深く考えて語っているのでしょうか。
「愛」
(1)いとしく思う(心)。(対義語)憎。
(2)かわいがる。いつくしむ。かわいい。「なんじの敵を愛せよ」「愛憎・愛児・博愛・寵愛ちょうあい・母性愛」
(3)異性を恋しく思う。「愛する人」「恋愛・求愛」
(4)めでる。すきこのむ。「酒を愛する」「愛好・愛唱歌・愛読」
(5)大切に思う。おしむ。「祖国を愛する」「愛郷心・愛護・愛惜・自愛・割愛」
(6)〔仏〕執着する。「愛着・愛染あいぜん・渇愛」
(広辞苑より)
「無償の愛」
代価を伴わない愛。
「無辜の愛」
罪を伴わない愛。
「無条件の愛」
何の条件も伴わない愛。
「博愛」
広く愛すること。平等に愛すること。
「汎愛」
差別無く広く愛する事。
(広辞苑より)
ざっと書き出してみましたが、「愛」って、こんなにも意味が多く、かつ無限の広がりを持つものなんです。
愛を語るほど、難しいものはないんじゃないか、とわたしは思います。
さて、スピリチュアル系の人が語る「無条件の愛」。
これ、本当に無条件なんでしょうか?
例えば、スピリチュアル商売、ヒーリング商売、霊感商売をしている人が「無条件の愛」というと、ちょっと嘘臭く聞こえます。
「何の条件も伴わない愛」なのに、「お金を払ってくれた人にだけ、無条件の愛のヒーリングをします♪」って、矛盾していませんか。
現在流行りのスピリチュアル・ヒーリングは、どんなにすごい神様や天使様の名前を出していても、「お金を払って受ける有償の愛と光」なんです。
お金って……欲に繋がるものじゃないのですか?
寡欲に効果のあるヒーリングする人は素晴らしいと思いますが、高いお代をもらってヒーリングしているんじゃ、「欲をかいている」のと同じです。
――で、わたしが思う究極の「無条件の愛」。
- 自己犠牲の愛。
- 相手を第一に考える愛。
- 貧しき者、困っている者に手を差し伸べる愛。
- 自分を介在させない愛。無私の愛(=利他の愛)。
って感じです。要するに、
「アガペー」ですね。
ある掲示板で「純愛」について議論したとき、わたしは
「性関係のないプラトニックな愛が純愛ではない。
純愛とは、片思いでも両思いでも、何かの時に相手を思いやって身を引くことのできる、場合によっては自らの命を奉げられる愛のこと。
それは、相手のためなら自らが汚れても構わない愛である」
と書きました。
めーっちゃくちゃ難しいでしょ?
普通の人ならまず無理で、そんなこと出来る人は大した人だよ! とわたしは尊敬します。
当然、わたしも無理です(し、精進します。大汗)。
でも、極限の状態になったとき、そういうことって、本当にありうるんですよね。
戦時中の惨劇のなかや、阪神大震災、アメリカ同時多発テロのときに見かけられた光景・伝聞に現われています。
それで、スピリチュアル系の人に問いかけたい事は、
- どうして、「人々をアセンションさせたいんだ!」と連呼しているのに、精神科に掛かっている人はヒーリングを受けちゃいけないの? ヒーリングを受けて体内・体外の環境を整えるから、アセンションできるんでしょ?
- どうして、アセンション出来ない組を見下げるの?
- 「無条件の愛」を語るなら、何で「わたしは地球がフォトンベルトに突入したとき、死んでいく人々と運命を供にします」という、愛に溢れ仁義立てしたことを言う人がいないの?
- 助からない人がいる状態で、自分たちだけアセンションして助かろうっていうのは、つまり自分たちだけ助かったらそれでいい、ってことじゃないの? 助からない人は知らないよ〜〜ってこと?
の項目です。
精神科に掛かっている人は、自閉症や人格障害を持っていたり、脳障害を持っている人だったりするわけでしょう。
自分でヒーリングを受けに行く判断も出来ない弱者は、切捨てなんですか?
また、「精神科受診者お断り」は、つまり
「うつやパニック、ヒステリーなど、いつ自傷してもおかしくない人に来て欲しくないから。
自分がそれのとばっちりを受けたくないから。
クライアントが自傷行為をして、それを見たご家族の人に法的に訴えられたくないから」
じゃないですか?
それって、ヒーラー側がクライアントの納得できるようなヒーリング・カウンセリングを提供できなかった、ということに他ならないですよね。
それなのに、そういう人に限って「無条件の愛と光」だのなんだの言っていて、わたしからしたら
「ちゃんちゃらおかしいわ! 何が愛と光や、ただのエゴやろ!!」
って感じです。
逆に言ったら、そういう誰からも嫌がられる人にでも、痛い目に遭い汚れ役させられようが、根気よく最後まで付き合っていく人は、「根性」と「無条件の愛と光」の備わったスゴイ人なんですが。
「無条件の愛と光」は、誰かから注がれるものでなく、受ける側からしたら、そこいらにただよっている空気のように、見えず、聞こえず、ただそこにあるだけのものではないでしょうか。
だってそれは、気が付きにくいもので、さりげなく示されるものですもん(例えば、出来た親の愛など)。
語っている間は、本当の愛ではない。愛は行動で示されるもんです。
光も、誰かに貰うものではない、自分の中にあるものなんです。
たとえ現在闇に覆われようと、光と闇は表裏一体、紙一重なんです。
闇を真っ直ぐ見据え、自分がどういう状況にあるか知る、そしてそれが終わり無いものではない、と知った時点で、闇は光に変わります。
頭のなかが光ばっかり、ずっとワクワク幸せっていうのも、病的なもんですよ?(それを、医学用語で
「多幸症(ユーフォリア)」っていうんです)
お金を払って「無条件の愛と光」を貰っている人は、考えてください。
それが、本当に「無条件の愛と光」なのか。
高額なお金が介在しているからには、もう「無条件の愛と光」とはいえないんですよ。
貧しい人、精神的に病んでいる人、誰にでも与えられるからこそ、「無条件の愛と光」なんです。
(嘘話かほんと話かわかりませんが、
「光明皇后施浴伝説」が、「無条件の愛と光」の実態の参考になります)
わたしは、スピリチュアル系の予言に言われているが如く、2012年12月にアセンションしない人々が死に絶えるというのなら、わたしは死ぬ側を選びます。
他の人が死ぬのに、わたしだけ生き残りたいとは思わない。
生きるか死ぬかなら、潔い死を選びます。
な〜〜んてかっこよく言ってみたところで、本当に2012年12月に地球がえらいことになるかは、解りませんけどね(わたしは、「2012年版・ノストラダムスの大予言」だと思っています。w)。